今日の画像は、米IMSAウェザーテック・スポーツカー選手権のワトキンスグレン6時間レースで、追いすがるアキュラチームを引き離しワンツーフィニッシュで優勝した『マツダレーシング』と、五日市造幣局の八重桜『市原虎の尾』と『萬里香』です。
某傲慢自動車評論家が『マツダはカーレースに一銭も投じていない。自動車メーカーとしてどうなのか』と激しく批判を展開していましが、問題はこの評論家の頭の中の狭さですね。マツダはこのレースへの出場の他に、ロードスターのワンメーク世界選手権なども開催しており、スポーツマインドたっぷりの施策を進めています。なにより、ル・マンに日本車メーカーで最初に優勝したのが『マツダ』であり、痛快です。面白い。
★★★日本でも本格的に欧州流のプレミアムブランド戦略に取り組み、成果を出し始めているブランドがある。それが『マツダ』だ。
マツダはもともと東洋コルク工業というコルクを作る会社だったが、1931年に三輪トラックで自動車の領域に進出した。その後、世界で唯一ロータリーエンジンの実用化に成功するなど、優れた技術を持っていたものの、オイルショック以降そのロータリーエンジンの燃費の悪さが仇となって経営不振に陥り、1979年にフォードの資本を受け入れることになった。1996年にはフォードが資本比率を33.4%にまで引き上げ、社長もフォードから送り込まれた。
マツダはフォードグループの一員として、その戦略に基づいて車台やエンジン、部品等の共通化を進めていったのだが、2008年になって、フォードはマツダから手を引き始める。2010年にはフォードの資本比率は3.5%にまで低下。そして2015年には、フォードは全てのマツダ株を手放すことになったのである。
フォードとの関係がなくなった以上、マツダは単独で生きていかねばならなくなった。生産台数百数十万台は、独立した量産自動車メーカーとしては最も小さい部類に入る。この規模で利益を出せるようにしなければならなくなったのである。
当然技術開発に割ける予算は限られ、生産出来る製品数も制限される。大手に対抗するようなコストでは製造出来ない。それまではフォードと車台、エンジンや部品の共通化でコストを抑え、ディーラーが大幅値引きのチラシを撒いて、割安感で数をさばくという方法をとっていたが、それも出来なくなった。
当時のマツダ経営陣は、ここで大きな決断を下すことになる。小さい規模で生き延びて行くにはどうすれば良いか。大きな会社とは異なる存在を意義を見出し、市場においてユニークなポジションを築き上げるしかない。それは、マツダという会社を一新すると言っても過言ではない決断である。
この挑戦を明確なリーダーシップを持って主導したのは2008年から社長に就任していた山内孝氏である。山内氏はこのような言葉を残している。『誰も助けてくれない。だからこそ、マツダはアイデンティティを確立する。生き様は自分たちが決める。そして、その戦略を実行することに尽きる』と。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)
★★<『玉置宏の「曲ナレーション集」 村田英雄、石川さゆり、奥村チヨ』>
<『花と竜』 村田英雄>
行くも嵐 もどるも嵐
男一匹 くもりはないが
冴えた月さえ 義理に泣く
広い世間を 一人で渡る
男の意地は 腹にきけ
玄界灘のしぶきを あびた
九州男児は 『花と竜』
<『人生峠』 村田英雄>
これが縁か 運命の糸が
かたく結んだ 二人の絆
苦労 山坂 幾つも越えて
やっと見つけた 幸せを
明日につむぐ 真心ふたつ
『人生峠』村田英雄さんです
<『風の盆恋歌』 石川さゆり>
三國一と 自慢なのは
駿河の富士と 加賀白山
越中 立山 八尾の町は
胡弓に合わせて 桑をつみ
越中小原で 糸をとる
忍び逢う身に 秋の風
い笠でかくす 風の盆
<『終着駅』 奥村チヨ>
あなた一人を 信じて生きて
なんで 今更 泣かされる
愛と云う名の 心の鍵を
はずして こわした人なのに
恨む気持に なれない私
過去から逃げたい ひとり旅
『終着駅』に 舞い散る 落葉
★★<民泊は増えていないが、『簡易宿所』が激増した>『民泊新法(住宅宿泊事業法)』が施行されてから、この6月でちょうど1年が経過した。新法の下で届出された民泊数は1万7301件。施行時点と比べて7.8倍増加したことで『民泊急増』だ。
◇実は『民泊』はそれほど増えていない
都道府県別にみると1位が東京都で5879件、続いて大阪府の2789件、北海道2499件の順。上位3自治体で全体の約6割。民泊のねらいは外国人宿泊であることから訪日外国人観光客の多い自治体での届出が顕著であることがみてとれる。
この1年間で届け出数が1万7000件に及んだことが『急増』と言えるかというと、それほどでもなかったというのが業界筋の見方である。民泊は新法施行前、訪日外国人観光客の急増に伴う宿泊施設の不足から脚光を浴び始めたものだが、不審な外国人によるマナー違反や夜中の騒音問題など、どちらかといえばかなりネガティブな社会問題として取り上げられてきた。また顧客を取られることを心配したホテル旅館業界が、旅館業法などによる制約がない民泊に対してこぞって反対を唱えた。
一方で政府は2020年訪日外国人数4000万人、30年6000万人の目標を掲げる中で宿泊施設数の拡大、充実が喫緊の課題だった。そこで民泊を法的にも整備したうえでの活用を図ったのだ。不動産業界も空き家などの新たな活用策になるだけでなく、賃貸マンションやホテルに代わる新しい事業形態として民泊が「新たな選択肢」となることを、当初は期待していたのだ。
◇ホテル旅館業界の意向を汲んで作られた民泊新法
だが、民泊新法で定められたのはたぶんにホテル旅館業界の意向に沿う形になった。その最大のポイントは営業日数を年間最大180日としたことだ。1年間で半年間しか営業できないということは不動産投資で考えれば利回り半減である。この規制で新たな不動産投資メニューの策定を目論んでいた事業者の多くが興味を失った。さらに最大180日規制には、各自治体が屋上屋を重ねることを許容した。その結果、国の示した基準以上の厳しい規制を施す自治体が急増したのだ。
日本国中で一番外国人観光客に人気がある京都市がその典型だ。民泊は住居専用地域内でも宿泊を認めるというものだったが、京都市が別途条例で定めたのは『住居専用地域内における民泊は毎年1月15日から3月15日までの60日間に限って認める』というものだった。つまり、京都市は180日規制を60日に絞っただけでなく、期間まで限定したのだ。京都に住む人ならおわかりになるだろうが、毎年1月15日から3月15日までの京都市内は一番寒さが厳しい季節だ。市内をウロチョロ観光するなどできれば避けたい頃。そんな期間中のみ『やってよろし』というのが、京都市が民泊に対して言い放った規制だったのだ。
◇民泊新法は『規正法』の色合いを強めた
同様の趣旨の規制は、他県でもある。長野県の軽井沢町では大型連休のある5月や7月から9月の夏季期間中の民泊禁止をうたうなど、民泊を行おうとする事業者ばかりでなく、民泊を利用しようとする宿泊客に対してもあからさまにNOを突き付けるといった内容のものである。つまり民泊新法は当初目指していた民泊という新しい宿泊形態を法的にしっかり位置づけ発展させようという考えとは裏腹に、限りなく『規制法』としての色合いを強める代物になったのだ。
こうして民泊を排除、封じ込めることに成功したホテル旅館やマンション管理組合だが、次なる脅威がすでに忍び寄っていることに気づいているだろうか。
◇『簡易宿所』がビジネスホテルの需要を奪いつつある
民泊を封じて一息ついているホテル旅館業界にも暗雲が漂い始めた。『簡易宿所』である。簡易宿所とは旅館業法で位置づけられた宿泊形態で、ホテルや旅館よりも規制が緩い。以前は日雇い労働者が宿泊する宿という印象が強かったが、最近では『ホステル』などといった名称で東京や大阪、京都などで急増している。内容はカプセルホテルと同様、トイレやシャワーを共用にして1部屋に複数の客が滞在するタイプのものが主流だ。
簡易宿所は住居専用地域では建設できないが、訪日外国人観光客を目当てにマンションデベロッパーや他業種、新興系企業が相次いで参入している。規制が緩いために宿泊のノウハウに乏しい業者でも容易に始めることができるからだ。厚生労働省の調査によれば2018年3月末の簡易宿所数は3万2451軒となり、対前年比2892軒の増加。対前年比で867軒減少して3万8622軒となった旅館数に匹敵するに至っている。
さらに簡易宿所の勢いを増幅させそうなのが6月25日施行の建築基準法の一部改正だ。今回の改正ではこれまで延床面積100平米を超える建物をホテルや旅館、簡易宿所に用途変更する場合には確認申請が必要だったのが、基準が200平米を超える場合に緩和される。小規模建物で簡易宿所などへの変更がさらに増えることが容易に想像される。
民泊は思い切り規制を強めて事実上、封じ込めることに成功したホテル旅館業界やマンション管理組合だが時代の流れは速い。足元はすでに老朽化した住戸の空き家問題や簡易宿所という強烈な波にもまれ始めているのだ。(参考: 牧野 知弘筆)
私は、10年くらい前にスペインの『サンチャゴ巡礼』で、ピレネーの北サンジャンの町から、800キロ西のサンチャゴまで歩いた。その後、マドリード、グラナダ、セビリア、バルサなどスペイン国内を周遊し、帰路にスイストレッキングを楽しみ、合計80日の放浪旅を送った。この時の巡礼宿こそこの簡易宿所『アルベルゲ』で、2段式のベッドがドーンと並んでいるもの。そしてこれに順応し、他のマドリードなどでも、『ホステル』なるものを利用した。料金はせいぜい2,000円。中には、コルドバのユースホステルのように、立派な神学校跡を利用したものもあり、大きな部屋にベッドが2つ、つまりツインというものもあった。
帰国後、京都や東京へ旅する時、最近日本でも盛んになったこの簡易宿所=ホステルを使っている。しかも『外国人用のホステル』を。とにかく立派。2段ベッドと部屋の共用は同じだが、ベッドが外人用で広い。リビングも広くゆうに50畳は超える。そしてシャワー、トイレは共用なれど清潔で、料金は2000円強。山歩き旅などでは、山小屋に泊まるが、それらよりずっと清潔であり、立派だ。使い慣れれば、なんとも便利な存在になっている。今夏は、北アルプスに登るが、宿泊は五竜岳の麓のこのホステルのチェーンに4連泊する。代金は税込みでたったのl11,600円也。時代は変わる。
★★<大分がサポ違反行為の浦和に猛抗議『マナー徹底を』>J1大分トリニータは1日、浦和レッズのサポーターが違反行為をやめなかったとして、同クラブに強く抗議したと公式サイトなどで発表した。6月30日に浦和をホームに迎えた一戦で、浦和サポーターが横断幕を掲出不可エリアに出していたことを注意したが、試合終了まで横断幕が下ろされることはなかったという。
『明治安田生命J1リーグ第17節浦和レッズ戦において、横断幕掲出不可エリア(緩衝帯エリア)に浦和レッズの横断幕を掲出する等の違反行為がありました。両クラブの運営を通じ、サポーターへ掲出ルールの順守を求めてまいりましたが、試合終了後まで改善することが出来ませんでした』と、今回の行為を説明した。
また『クラブの運営不備もあり、混乱を生じたことについては謝罪いたします。双方が定められたルールを守るという姿勢が快適なスタジアム運営の第一だと考えます』と、謝罪とともに運営のあり方を説明した。それを踏まえて『この事案に対して浦和レッズに強く抗議するとともに、該当サポーターの特定、公式HPでの対応策の発表、応援ルール・マナー順守の徹底を図るよう申し入れを行います』と、浦和側に抗議を入れたことを明かした。
最後に『クラブとしては、今後同様の事態が起きないよう横断幕掲出等に関するルール順守の徹底及び、禁止行為発覚時の対処方法の明確化を行い、クラブHPで公表いたします。今後とも、安心・安全で楽しいスタジアムづくりに向けて、最大限の努力・準備をしてまいる所存であり、皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます』と声明を発表した。
浦和ファンの無軌道ぶりは、今に始まったことではなく、伝説的に悪名が高い。浦和自身がファンの永久追放を行った事例も複数回記憶にある。サンフレも浦和ファンから理不尽な行動を取られて、抗議したと聞いている。困った浦和だなあ。
試合は、大分が2-0で浦和を下し、快勝。順位も第4位と、大分の歴史上最高の走りをしている。勝点は29と、J1残留と言われる34に限りなく近づいている。嬉しいねえ、監督片野坂さんの名采配ぶりには。
★★<マツダ米IMSAで初勝利。FCYでリードを失うも、アキュラを打倒>マツダ・チーム・ヨーストの55号車が、ワトキンスグレン6時間レースで優勝。米IMSAウェザーテック・スポーツカー選手権での初勝利を記録した。
6月30日、IMSAウェザーテック・スポーツカー選手権のワトキンスグレン6時間レースが行われ、ジョナサン・ボマリート、ハリー・ティンクネル、オリビエ・プラ組のマツダ・チーム・ヨースト55号車が優勝。2位にも同じマツダ・チーム・ヨーストの77号車(オリバー・ジャービス、トリスタン・ヌネス、ティモ・ベルンハルト組)も2位に入り、1-2フィニッシュを決めた。
この勝利はマツダにとって、現行のIMSAウェザーテック・スポーツカー選手権での最初の勝利ということになる。 ポールポジションからスタートしたのは77号車の方だった。ジャービスがマシンに乗り込みレースをリードするが、1回目のピットストップの際にティンクネルがドライブする55号車に先行されてしまう。
ティンクネルからドライブを引き継いだボマリートも良い仕事を続け、ベルンハルトがドライブする77号車の2秒先を走っていた。この2台は、ウェイン・テイラー・レーシングのキャデラックに対し、約1分半の差をつけていた。
しかし、度重なるフルコース・イエローによってそのリードが失われ、後続の接近を許すことになった。そんな中、マツダ勢の脅威となったのは、デーン・キャメロンとファン-パブロ・モントーヤの6号車アキュラ・チーム・ペンスキーのARX-05 DPiだった。
6号車はフォーメーションラップでタイヤのダメージが見つかったため、ピットレーンからのスタートだった。しかしレースで追い上げ、さらにピット戦略も功を奏して、残り約1時間という段階では首位に立っていたのだ。55号車マツダのティンクネルは、モントーヤにプレッシャーをかけ、残り45分というところでオーバーテイクを完了。77号車マツダのジャービスもこれに続き、ティンクネルの数分後にモントーヤをオーバーテイク。マツダ2台が後続を引き離していった。
しかしこれでドラマは終わらなかった。レース終了まで残り20分を切ったところで、55号車の左側のカウルが外れてしまい、サイドポッドの上に引っかかってしまった。このトラブルにより55号車の空力特性が損なわれてしまい、77号車に勝利の可能性が見え始めた。
しかし後続のライバルからのプレッシャーはほとんどなかったため、マツダは隊列を維持することを選択。55号車がトップでチェッカーを受け、77号車が2位となった。
広島の自動車メーカーマツダの快挙だねえ。ル・マンで日本メーカー初の優勝を飾り、以後、REがル・マンから実質除外されたため、モータースポーツでは今一歩だったが、このIMSAの勝利で、マツダレーシングの健在ぶりが確認できた。オタフク、ダイソー、カープ、サンフレともども、広島の世界でのアクティビティーを広げているなあ。いいことだ。