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Channel: Freeman 雑記帳・広島
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『破天荒、奇跡の成功ニトリビジネス④ 「ヤミ屋の子」と罵られ』

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今日の画像は、昨夜の中日戦でさよならヒットを打ってカープ5連勝、借金を3に減す貢献をした『小窪哲也』と、同じく昨夜ACLアウエー大邱(韓国)戦でヘッドで得点しF組首位に貢献した『荒木隼人』。そして美しくも麗しい『太陽に輝くポピー』です。逆光のポピーはとても幻想的で好きです。カープが勝ち、サンフレが勝ち、今日の中国スポーツ新聞はよく売れるでしょうねえ。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


■■中学、高校、大学で、勉学の結果が思わしくなくいわゆる『劣等生意識』を持っているキミ、心配するな、あなた以上の劣等生が世の中に出れば大成功した例もあるのだ。その筆頭に『ニトリの創業者似鳥昭雄さん(76)』がいるのだ。本当、似鳥さんは劣等生で高校大学と卒業さえ危ぶまれた人物。が、今や年間1兆円の売上を目指す大家具チェーンの親分になっている。

内紛と話題をばらまく老舗『大塚家具』の対角線上にあり、大塚は年間売上はたったの300億円、ニトリの20分の1にしか値しない。諸君の人生の参考のため、そのニトリをここまで成長させた『破天荒な似鳥昭雄』の実像を追う。


★★★ヤミ米の配達、鶏の世話などに加えて、田舎の祖母が持ってくるフキやワラビを売りに行くのも私の仕事だ。全ての仕事は『出来高払い』。お金の管理は母がやる。私が使う机や椅子、文房具は全て仕事の報酬で購入していた。うまくこき使われたものだ。

家では殴られながらこき使われ、学校でも悲惨な目に遭っていた。小学生時代はまさにいじめられっ子。ヤミ米屋だったものだから、『ヤミ屋、ヤミ屋』としょっちゅう罵られた。クラスでも有数の貧乏一家で、着ている衣服はつぎはぎだらけ。体も小さく、トイレに呼びつけられてやはり殴られる。

沢山のいじめを受けたが、その一つが私のつぎはぎだらけのズボンを使った遊びだ。『お前はキャッチャーだからな。逃げるなよ』。同級生は私を後ろ向きに立たせて、おしりのつぎはぎを的にしてボールをぶつけるのだ。ボールは軟球で、これが痛い。逃げるとぼこぼこにされる。登校時は学校へ着くまで、長い竹竿でつつかれまくる。

いじめられてもニタニタしているので『ニタリくん』と呼ばれていた。当時北海道新聞に連載していた4こま漫画の登場人物と同じ名前だ。親にいじめられる理由を話すと、『つぎはぎで何が悪い。ヤミ米屋で生きているのだから堂々としろ』と逆に怒られる始末。逃げ場はない。当然勉強は出来ない。飲み込みが悪く、先生が何を言っているのか分からない。だから通信簿も5段階の1か2ばかり。母には『1が一番良くて、5が最低』とウソをついていた。それがなぜか長い間ばれなかった。


何も知らない母は井戸端会議で『うちの子は1と2ばかりで優秀なんだよ』と自慢していた。周囲も『昭雄ちゃん、またたたかれるから』と黙っていたらしいが、さすがに誰かが『1が最も成績が悪いの』と教えた。私の話を信じていた母は驚き、学校の先生の所まで聞きに行ったらしい。それでばれちゃった。勿論家に帰ったら叩かれ、『勉強しろ』と言う。そのくせ手伝いばかり。成績が伸びることはなかった。

この頃の担任だったのがあの熊坂先生だ。優しい方で、自宅にも度々遊びに行った。先生の存在だけが救いだった。

4年生の時、新設の白楊小学校へ移ることになった。学校が変わっても『いじめられっ子』であることは変わらない。ただこの頃から『面白い』ということへの関心が非常に高まった。先生の言葉尻をつかまえて、面白いことを言うとみんなが大笑いする。そんなことに快感を覚えるようになった。

月1回の大掃除をする日のこと。同級生の1人が『天井にあるボタンを押すと、面白いことが起きるぞ』と言う。面白いの一言に興奮した。押してみたらけたたましい音が学校中に鳴り響く。非常ボタンだった。沢山の先生が慌ててバケツを持って教室にやってくる。

同級生達は蜘蛛の子を散らすように逃げ、私だけが取り残される。みんなを集めて『誰が押した』と激怒する先生の一言に、『似鳥君でーす』と声を揃える。言うまでもなく、ぶん殴られた。それでも周囲を驚かせる快感は忘れられず、いたずらを止めることはなかった。(参考:似鳥昭雄筆『私の履歴書』)


■■日本代表監督『森保一』、U-17日本代表監督『森山佳郎』、J1名古屋監督『風間八宏』、J1大分監督『片野坂知宏』、J2大宮監督『高木琢』、昇格請負人J3北九州監督『小林伸二』、FC今治監督『小野剛』、福岡などの監督をした『松田浩』・・・・・。この人達は全員サンフレッチェの出身である。前身のマツダサッカークラブの時代からの人達もいる。この人材を見出した人こそマツダサッカークラブ総監督、サンフレチェGMを務めた『今西和男さん(77)』。

集英社が、今西さんの足跡、育成した人材を追った『育将』を2016年に発刊している。ただ、今西さんは最後の時期に『FC岐阜』の社長に就任された。まさに泥にまみれた時代だった。なぜこんなクラブを引き受けたのか、詳細はつまびらかになっていない。心配は過去からの累損を個人で引き受けた総額3億円の負債。この処理がどうなったか、不明である。その『育将』の実像の証言を綴る。いずれも肩書は2016年の『育将』発刊当時のもの。


★★★『育将・今西和男ぁ/絞欅2』  
森保 一監督が継承する『サッカー哲学』。門徒たちが語る師の教え サンフレッチェ広島監督 森保 一(2)

森保はマツダの入団テストの際、5人の採用枠から漏れた6番目の選手という評価であったが、『遠くが見られて一列先にパスが出せる』という特性を見抜いた今西の計らいで、子会社のマツダ運輸に入社が叶い、サッカー部に入部することが出来た。しかし、チームで最も下にランクされた選手であることに変わりはなかった。当時の身長は170センチで体重は58キロ。プレー以前に身体作りから始めねばならず、最初の2年は試合に出場するどころか、二軍にあたる『マツダサッカークラブ東洋』の練習に食らいついていくことで精一杯であった。

マツダ本社と子会社のマツダ運輸では、職場も給与体系も手当も異なる。基本給にしても1万円ほどの差があり、まだ18歳の少年にすれば、ひとりだけ取り残されたような境遇に不安と不満を覚えて自暴自棄になってもおかしくはない。それでも今西は『お前が活躍してレギュラーの選手として認められたら、本社採用に切り替えるように動くけえ、絶対にがんばれ』と励まし続けた。具体的なアドバイスも必ず付け加えた。『他の選手に比べて、お前には速さも高さも無い。ただ、チームの戦いの中でハードワークをすることは出来るじゃろ。それを続けて行くんじゃ』。要は自分の出来ることをしっかりやれ、ということだった。森保もそれに応えた。時折、トップチームの全体練習に入れてもらえたときは、持っているものはすべて出し切るつもりで力の限りを尽くした。試合の翌日のリカバリーの日も自分は出場していないからと、動けなくなるまで走り続けた。

紅白戦に出場出来たときは、とにかく走り回ってボールを持っている相手選手をつぶすこと、一緒に倒れても必ず先に立ち上がることを心がけた。オフザピッチで今西は『サッカー選手である前に良き社会人であれ』と言い続けた。これは指導したすべての選手に対して言い続けた座右の銘でもある。


『必ず一日に一度、周囲だけじゃのうて自分に目を向けるんじゃ。そのためにはのう、生活のこと、サッカーのこと、今日は何が出来てできなかったのか、どこを改善してどこを伸ばせばええんかを日誌に毎日つけるんじゃ』と命じた。

反省と課題がしたためられた手書きの日誌は毎朝、河内勝幸コーチに提出することになった。その都度、『この漢字は違う』『言いまわしがおかしい』と赤ペンで指導を受けたがこれが習慣化されると練習に取り組む上で自分の長所と短所が整理された。

オフトは長崎日大高時代の森保をほとんど気にかけなかったが、練習を観察するうちに評価を変えてトップチームに帯同させるようになった。それでも、まだ日本リーグの試合には出場させてもらえなかった。遠征に行っても、水やネットを運ぶ雑用ばかりであった。辛抱強く我慢していたが、帯同しているだけに、フラストレーションは溜まる。2年目のある日、耐えかねて今西に『なぜ、僕はまだ使ってもらえないのですか?』と言いにいったことがあった。ところが、間の悪いことに前日、森保は自分の練習が終わると別の用事があって、次のトップチームの練習試合を待たずに練習場をあとにしていた。

『お前、昨日のトップの試合も観もせんで、何を言うとるんじゃ! そんなら、どういうプレーをすればチームに貢献できるか、分からんじゃろうが!』。間の悪いことが重なってめちゃくちゃ叱られた。同様のことが韓国遠征のときもあった。ソウルのチームとの試合が終わって、後片付けを終えてバスに戻って来ると誰もいない。先に乗り込んでポツンと座っていたら、今西が選手たちと一緒に戻って来た。『試合で疲れとる選手がおるのに、何で先に座っとるんじゃ! お前が席につくんは、それを見届けてからじゃろうが』。エゴイストどころか、他人に人一倍気を遣う森保である。礼儀をわきまえぬはずがなかったが、失態は失態である。先輩たちを前にスパッと叱ってくれたことをありがたく思い、素直に謝った。


オフトは1987年にマツダに天皇杯優勝をもたらすも、この年のシーズンに二部リーグ落ちの責任を取って監督を退任する。離日の際に『このチームには将来プロの指導者に成れるやつが3人いる』と今西に漏らした。それは前川(和也/現バイエルンツネイシ監督)、横内(昭展/現サンフレッチェ広島ヘッドコーチ)、そしてまだ1試合も出場していない森保だった。

今西はポスト・オフトの監督にイングランド人のビル・フォルケスを招聘する。フォルケスは元マンチェスター・ユナイテッドのキャプテンで、23名の死者を出した1958年の飛行機事故『ミュンヘンの悲劇』から奇跡的に生還したバスビー・ベイブス(バスビーの息子たち)の一人である。このフォルケスが森保の資質に目をつけた。当時のフォルケスのサッカーは、まさにイングランドスタイルで、パスワークで崩すというよりも肉弾戦でボールを奪い合ってゴールにねじ込むというトレーニングだった。ボールを運んで、蹴って、走って、相手とぶつかって、ぶっ倒れて、そこから立ち上がってまた蹴る、という当時の森保にぴったりの役回りだった。

フォルケスはグラウンドで選手を集めるとよくアドバイスを送った。『いいか、ショルダーチャージというのはこうやって…』語るや否や、そばにいた森保を必ず肩から吹っ飛ばした。『当たるんだ』。いじられキャラとなったが、大阪ガスとの試合で、ついに公式戦デビューを果たした。そして風間八宏(現川崎フロンターレ監督)のアシストでゴールを決めた。実はこの間、今西はフォルケスと一緒にどのタイミングで森保を使うのかをじっくりと見極めていたのである。高校時代は無名、マツダに来ても2年間試合に出ておらずキャリアが浅いので、成功体験が伴える相手のときということで周到に準備されていた。

森保の戦う姿勢はこのマンUの伝説のキャプテンから学んだ。ほんの少しでも球際で激しく行かなかったり、セカンドボールに走らなかったりすれば、フォルケスは座っていたパイプ椅子を投げつけて怒鳴りまくった。視野の広さは、やがて危機管理能力に繋がり、労を厭わない運動量とタックルは、相手の決定的なパスやサイドチェンジを遮断するスキルとなって開花する。マツダにおいて不動のレギュラーの座を獲得した。


1990年、今西はフォルケスのツテをたどって、マンUに森保を含む4人の若い選手を1ヶ月の短期留学をさせた。サッカーの母国でプロとはどういうものであるかを実際に体験させたのである。帰国後、全員にレポートを書かせ、部員の前でのスピーチをやらせた。試合中に声のコーチングはしても、人前で話をするのは苦痛とするサッカー選手は少なくない。チームメイトがしり込みをする中、森保は真っ先に手を上げて堂々と20分、マンチェスターで体験してきたことを話しきった。

『これで一人前になったな』と今西は感じた。体験を言語化することで学んだことが再び認識出来る。直後、森保は結婚式を挙げる。主賓としてあいさつをした今西は冒頭で新郎に向かい、『お前はプロになる気があるのか?』と問うた。Jリーグの開幕を控え、マツダもプロ契約を選手と続々と結んでいた。親類縁者が集まる晴れの挙式の場でその決意を質したのである。かつて漠然とどこかの会社で、働きながらサッカーを続けられればよいなと考えていた男は『あります!』と大きな声で答えた。

その後の森保の活躍は、多くのサポーターの知るところである。一度マツダを去ったオフトが1992年に日本代表監督に就任すると、いきなり日の丸を背負わせて先発に大抜擢する。デビューとなった同年のキリンカップのアルゼンチン戦(0-1で敗戦)では、緊張しながらも持ち前の泥臭いプレーで際立った存在感を発揮し、敵将のバシーレ監督から高い評価を受けた。日本に守備的MFが生まれた瞬間であった。17年にわたる現役の引退後は指導者の道を選び、2012年に古巣のサンフレッチェ広島の監督に就任。即座にJリーグ2連覇を成し遂げた。オフトの予言が見事に当たった。

今、森保はその成果を振り返って言う。『2012年から2年続けての優勝も嬉しいのですが、同時にフェアプレー賞、高円宮杯を一緒に取れたのはサンフレッチェだけなんです。その精神は今西さんに教わったものなので、恩返しが少し出来たかなと思います。実はこれを今日、持って来ました』。最後に自分のポケットからひとつの小冊子を取り出した。『私たちの目指すもの』と記されている。『創成期に今西さんが関わって作ったチームスローガンです。フェアプレー精神や社会人として、どう行動するのかが書かれているのですが、ずっとこれを僕は机に入れているんです。この思想、哲学はしっかりと守っていきたいと思っています』。

そこには、常日頃今西が言っていた『サッカー事業を通じて夢と感動を共有し、地域に貢献すること』が理念として掲げられている。生え抜きの監督がJリーグ開幕時に作られた冊子を20年以上経っても、しっかりと保持している。“育将”から連綿と続く意志の継続と結実を見る思いだった。(参考: 集英社刊『育将』)


★★<映画、『グリーンブック』を観る>久し振りに映画館で映画を観た。題名は『グリーンブック』。実話。人種差別が色濃く残る1960年代のアメリカ南部を舞台に、黒人有名ジャズピアニストとイタリア系白人運転手の2人が旅を続けるなかで友情を深めていく姿を、実話をもとに描き、第91回アカデミー作品賞を受賞したドラマ。

1962年、ニューヨークの高級クラブで用心棒として働くトニー・リップは、粗野で無教養だが口が達者で、何かと周囲から頼りにされていた。クラブが改装のため閉鎖になり、しばらくの間、無職になってしまったトニーは、南部でコンサートツアーを計画する黒人ジャズピアニストのドクター・シャーリーに運転手として雇われる。黒人差別が色濃い南部へ、あえてツアーにでかけようとするドクター・シャーリーと、黒人用旅行ガイド『グリーンブック』を頼りに、その旅に同行することになったトニー。

出自も性格も全く異なる2人は、当初は衝突を繰り返すものの、次第に友情を築いていく。トニーは旅先でこまめに妻にレターを書く。その様子を見て、ドクター・シャーリーが添削指導する。『Deerは鹿だよ。Dearに直せ・・・』とか。詞のようなレターを書かせ、かみさんは受け取ってうっとりする。傑作なのは、最後のシーン。ドクター・シャーリーがトニーの家を訪れ、この妻とハグする。耳元で妻がささやく。『レターを書いていただいて、ありがとう』と。かみさん、旦那の文章力のなさをしっかり認知していたのだ。


傑作なのは、南部の地で黒人にいわれのない差別があったことから起こった事件。夜車で走っていると、パトカーが停止を命じ、『黒人は夜間外出禁止だ』と。頭にきたトニーが警官を殴り、二人とも留置場へ。ドクター・シャーリーが『弁護士に電話させてくれ』と懇願。電話をした後、間を置かずに州知事から留置場へ電話がかかり、2人を釈放するよう命令が下る。トニーは誰に電話をかけたのか聞くと、ドクター・シャーリーは『ロバート・ケネディ(司法長官)だ』と、しらっと答える。政府の高官とも親交があるドクター・シャーリーではあったのだ。

トニー役に『イースタン・プロミス』のビゴ・モーテンセン、ドクター・シャーリー役に『ムーンライト』のマハーシャラ・アリ。トニー・リップ(本名トニー・バレロンガ)の実の息子であるニック・バレロンガが製作・脚本を手がけ、父とドクター・シャーリーの友情の物語を映画化した。監督は、『メリーに首ったけ』などコメディ映画を得意としてきたファレリー兄弟の兄ピーター・ファレリー。アカデミー賞では全5部門でノミネートされ、作品賞のほか脚本賞、助演男優賞を受賞した。とにかくとっても楽しい、心温まる映画だった。2013年に二人ともあの世へ旅立った。

この映画を観る気になったのは、映画館の上映予定をチェックし、題名をクリックすると正式予告HP動画にジャンプし、予告編を観たことからだ。その内容がとても面白そうだった。連休中に上映されるイギリス映画『マイ・ブックショップ』もとてもよさそうなので、出かける予定だ。映画って、やっぱり映画館で鑑賞するといいねえ。最近の映画館はシートは立派、足元もゆったり、前には小さなテーブルまであるのだから。


★★<スーダン前大統領宅から現金、3通貨で126億円相当>政変のあった国であるスーダン当局は、『オマル・ハッサン・アハメド・バシル前大統領』の邸宅から3種類の通貨で総額約126億円に相当する現金を押収したと発表した。クーデター後に発足した暫定軍事評議会のアブデル・ファタハ・ブルハン・アブドルラフマン議長が明らかにした。
 
ブルハン氏は、警察、軍、治安当局の要員らで構成するチームがバシル前大統領の自宅の家宅捜索を行い、700万ユーロ(約8億8000万円)、35万ドル(約3900万円)、50億スーダン・ポンド(約117億円)の現金を発見したと述べた。
 
一方、国営スーダン通信は、アルワリード・サイード・アハメド検事総長代理が当局に対し、前政権の公職者が保有していたすべての私有財産の登記と、前政権の公職者およびその親族が所有する財産の所有権移転手続きの停止を命じたという。

まさに『This is the Africa』だなあ。恐れ入りました。ところで、Chinaからの懐金はどれほどだったのかねえ、関心があるねえ。カネで国を買う、新しい殖民地主義の中国だからなあ、相当ばらまいているだろうなあ。


★★<三菱UFJ、男子行員に育休1ヵ月>三菱UFJ銀行は5月、2歳未満の子供を持つ国内全ての男性行員に、毎年1ヵ月の育児休業の取得を強く促す制度を導入する。夫婦で作った育児計画を直属の上司に提出させ、仕事の配分などを管理する。実質的に長期の育児休暇取得を義務づける方針で、3メガバンクでは初めての取り組みとなる。

現時点で対象となる男性行員は1,200人程度。子供が生まれる6週間前に、育休取得に関わる計画書を直属の上司に提出。育休を取得するタイミングや期間、家事の分担の仕方などを示す。上司は部下が計画通り休めるよう仕事の配分などを管理する。適切に育休を取得させているかを人事評価に反映させる。

三菱UFJは16年度から短期の育休―最大10日取得を推進してきた。取得率は8割超となったが、平均取得日数は2日に止まる。育児や家事を夫婦で分担するには男性が有給休暇と合わせて長期の休暇を取ることが不可欠と見て新たな制度を入れる。

こんな制度って、官公庁が率先してやるべきものだと思うがねえ。もう国や自治体ではこの程度の育休制度は実施、浸透しているのかしら。よくわかんない。それ以上に、マスメディア、新聞社、記者達はこれらを見習うべきだろうなあ。


★★<サンフレ ACL3連勝でグループ首位浮上!ルーキー荒木が値千金ヘッド>ACL1次リーグ第4節 サンフレッチェ1―0大邱 ( 2019年4月23日 大邱 )

サッカーのアジア・チャンピオンズ・リーグACLは23日、1次リーグ第4節が行われ、F組のサンフレはアウェーで大邱(韓国)に1―0で勝利。3連勝で勝ち点を9に伸ばし、グループ首位に浮上した。

10日の第3戦では、ホームで大邱に2―0の快勝を収めたサンフレ。この日はアウェーで序盤から劣勢を強いられたが、前半34分にセットプレーから先制。MF森島の左CKを、ニアに飛び込んだ大卒ルーキーの荒木がダイビングヘッドで合わせた。

1点リードで折り返し、後半は防戦一方の展開に。それでもディフェンス陣が体を張ってシュートブロック。荒木の値千金の得点をチーム一丸で守り切り、アウェーの地で勝ち点3を手にした。1次リーグ初戦は広州恒大(中国)に敗れたが、第2節から3連勝。勝ち点6で並んでいた広州恒大がメルボルン(オーストラリア)と引き分けたため、広島が首位に浮上した。

リーグ戦では、先日FC東京と対戦し、0-1で惜敗したが、まだまだサンフレの力は余力を蓄えているんだねえ。大それた希望だが、アジア首位を取り、クラブW杯に出場してほしいねえ。そして、バルサと対決とか。夢がある、世界一を目指せるサッカーではあるなあ。

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