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『プレミアブランド小話⑥ フォルクスワーゲンとベントレー』

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今日の画像は、レースクイーン・オブ・ザ・イヤー'18-'19を受賞した北海道出身の『林ゆめさん(23)』、カープ巨人戦で10連勝を導いく同点ホームランを打った『鈴木誠也』。そして気持をなごませてくれる花『スイセン検戮任后N咾気鵑蓮IT起業に勤務しているときにスカウトされたとのこと。やっぱ東京に出なくっちゃだめなだねえ。田舎では芽が出ない。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★何故、VWトゥアレグとポルシェ・カイエンのようなことが起こるのであろうか。ブランドにはそのブランドが歴史的に築いてきた価格帯のイメージ、即ち『クラス感のポジショニング=縦軸』というものが存在するからである。

たとえば、セイコーと言えば普通は3万円くらいからせいぜい30万円くらいまで、というイメージではないだろうか。50万円のセイコーといったらかなり高く感じるはずだ。オメガなら20万円から100万円といったところか。ロレックスなら60万円から300万円くらいで、いくらロレックスとはいえ、500万円を超えたら買う人はばったり少なくなるだろう。パティクフィリップスやブレゲなら最低でも200万円。1,000万円以上でもそれほど驚かない。

この前述べたセイコーとロレックスの事例もこれで説明がつくと思う。この『価格帯イメージ』を超えると、どんなに良いものであっても選ばれにくくなる。車で言えば、フォルクスワーゲンVWならせいぜい400万円くらいまで、という印象だろう。ところが、ポルシェなら1,000万円以上で当たり前だ。だからカイエンとトゥアレグのケースでは、中身が同じでも、VWで700万円だと高く感じるが、ポルシェで850万円なら割安感を感じるのである。最も、多くの人は中身が同じとは気付いていないのだが。

VWは2002年、フェートンという1,000万円級の大型高級車を発売した。上級モデルには技術の粋を集めたW12気筒エンジンを搭載した力作であった。このフェートン、日本市場には導入されなかったが、発売時のジュネーブ・モーターショーで実車を見ることが出来た。丁寧に細部まで良く作られており、メルセデス・ベンツやBMW7シリーズと比較すると見るからに質感が高く、ハードウエアの優位性は明らかであった。

ところが、これが全く売れなかったのである。年間2万台の生産計画に対してわずか6,000台という低調ぶりだった。競合のメルセデス・ベンツSクラスの当時の販売台数は年6万台余りなので、その10分の1。売れない理由はブランドイメージ以外に見当たらない。製品の出来云々より、1,000万円を超えるVWなどあり得ない、とマーケットが判断したと言うことだ。


面白いことに、話はこれで終わりではない。VWはこのフェートンの台車やエンジンを利用して、1998年に買収した『ベントレー』ブランドの新型車を開発したのだ。ベントレーは戦前から名声のある超高級車ブランドである。価格的にはフェートンより大幅に高く設定されたにもかかわらず、大ヒットモデルとなった。これが2003年に発売された2ドアクーペ『コンチネンタルGT』である。2005年には4ドア版の『フライング・スパー』も発売され、これも大ヒットとなってイギリスのベントレー工場だけでは需要を賄いきれなくなり、一時はドイツのドレスデンにあるフェートン工場でも生産を行ったほどである。

アメリカでのベントレーの販売台数は、2003年の437台から2004年は2,394台と、5倍以上に跳ね上がった。翌2005年にはさらに1,000台以上増えて3,654台を販売している。ヨーロッパでも、2003年の376台から2004年は3013台と、8倍に跳ね上がった。2005年にはアメリカとヨーロッパの販売台数だけで、フェートンの販売台数を凌駕するほどのヒットぶりである。

日本での価格は1,990万円で、2,000万円超が当たり前のベントレーとしてはとても割安感のあるモデルだった。日本でもベントレーの販売台数は10倍余りに跳ね上がった。さらに100%VWの技術で作られた初めてのベントレーでもあったので、それまでのベントレーに比べ信頼性が高く、実用に耐えるモデルだったこともポジティブに受け止められた。日本でも、プロ野球選手や芸能人の間で一時大ブームになった。当時巨人の現役だった清原選手が買ったことで一気に流行したと言われる。

これも1,000万円のVWならとんでもなく高いが、2,000万円のベントレーならかなり安く感じるという、製品そのものの出来とは全く違ったところの判断が売れ行きを決めてしまったのである。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■『玉置宏の「昔の話で、ございます」Α.蹈ビリー時代、ジョージ川口さんの鞄は札で溢れた』
昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★昭和33年(1958)には日劇で初めてロカビリー・ショー『ウエスタン・カーニバル』も2月に開催された。渡辺プロダクション、渡辺晋プロデューサーとマダム・ロカビリーと呼ばれた渡辺美佐子夫人の仕切で、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、寺本圭一、柳家金語楼を父に持つ山下敬二郎などが中心になったこのカーニバルは、若者達に熱狂的な支持を得て、記録的な入場者数を打ち出すなど大盛況だった。当時、巷のジャズ喫茶には若い女の子が群がり、明け方までロカビリーのリズムに酔いしれるという状況を反映し、ジャズ喫茶の人気者を勢揃いさせたこの公演が、新しい世代の音楽としてのロックの存在を、一躍世間にも知らしめた。

思い異起こせばそれから遡ること5年前、昭和28年(1953)には同じ日劇で、後に坂本九の『上を向いて歩こう』などのヒット曲で知られる作曲家でピアニストの中村八大、中村と共に以前『渡辺晋とシックス・ジョーズ』で演奏していたテナーサックスの松本英彦、ドラムのジョージ川口、その後美空ひばりの専属となるベースの小野満の4人で結成された『ビッグ・フォー』の旗揚げ公演が行われ、日本のジャズ界に一大旋風を巻き起こした時代があった。

途中熱狂したファンでステージが壊れ、中村さんの弾くピアノが横倒しになるほどの過熱ぶりや、ギャラも破格でかけそば1杯20円の時代に10日間で400万円。現金払いの100円札を足で押し込んでボストンバッグに入れたなどの伝説も出来たが、彼らの公演はジャズを単なるダンスホールの音楽から大衆の音楽へと飛躍させ、後に続く多くのジャズメンにも大きな影響を与えた。

後にジョージ川口と対談した時に改めて聞くと『玉置さん、100円札を足で押し込んだのは伝説ではなく事実ですよ。運ぶ途中ファスナーが張り裂けたらどうしようかと、気が気じゃなかった』と、笑っていた。

この昭和20年代後半のジャズブームから、30年代後半のロックブームへと時代が揺れ動く中で、まさにこの新星の如く現れたのが若き『坂本九ちゃん』だった。九ちゃんの実家は私と同じ川崎で、玉置米穀店の上得意でもあり、九ちゃんのお母さんとも面識があった。その母親が『ロッテ歌のアルバム』が始まって間もない7月頃、私に直接聞きたいことがあると訪ねてこられた。九という名前は本名の大島九からとったもので、9人兄弟の9番目ということで名付けられたそうだが、母親には末っ子として目に入れても痛くないほどの可愛がりようだった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<『誰かが動くだろう』に指揮官激怒、大分片野坂監督>『何となく試合をこなすのでは負ける。自分に矢印を向けなければいけない』。18日、明治安田生命J1リーグ12節・清水戦を1―1で引き分けた後の大分トリニータの片野坂知宏監督の言葉だ。『今日の試合は見せるに値しない。油断があった。試合の入り方が悪く、自らピンチを招いた。判断が悪かった』と悔しさをあらわにし、『こういう試合をしているとJ2に落ちる』と選手に伝えたという。

チームは7試合負けなしで3位。申し分ない結果であるが、片野坂監督にとっては試合内容、選手のパフォーマンスに納得いかなかったのだろう。今季もGKを含めた最終ラインから攻撃を組み立てる大分だが、そのパスワークを支えているのは選手のポジショニングだ。誰かがボールを持てば、何人もの選手が顔を出してくる。

例えば、ボランチがさばけるパスが横パスだけだと、相手が横ズレして追い込んでくれば、徐々にパスコースがなくなってしまう。だが、トップ下の選手が、相手が追い込んできたときにDFとDFの間に顔を出すことで、ボランチや最終ラインの選手から相手の狙いの逆をつくパスを引き出せる。さらに、前の選手を追い越して、途切れずにパスコースを作れる。


ただ、清水戦のように相手が最終ラインやボランチへの圧力を強めてきた時に、少しでもポジショニングが悪くなると、選手が顔を出してもパスコースがなく、結局センターバックやGKに戻して大きく蹴る形になってしまう。失点はGKに戻すパスをカットされたものだった。清水戦では、選手全員に言えたことなのだが、もう少し味方を気遣って動けば苦しい状況は減っただろうし、バランスを見ながらパスを引き出し、リズムを作れていたはずだ。

片野坂監督の目指すスタイルは、ポジションを取り直し続け、ボールをつなぎ、相手ゴールに運ぶ。各自が『ここに動けばこうなる』という予測を怠らないことで成り立つものだが、『誰かが動いてくれるだろう』という空気がチームに蔓延したことに指揮官は激怒したのだ。快進撃により、サポーターや伝える側にも『勝てるだろう』が伝染した。低迷する清水だから当然勝つだろう……。そこに隙ができ、あぐらをかいてしまったのかもしれない。

『もっとシンプルにテンポよく回す必要があった。反省しかない』(島川俊郎)、『相手がどうこうではなく自分たちの出来が悪かった』(岩田智輝)、『今日みたいな試合をしないように気持ちを切り替えたい』(藤本憲明)。片野坂監督の叱咤激励を受け、選手たちは起こった事象に対し、全ての原因の矢印を自分に向けていた。現状に甘えず、さらなる努力の先に勝利がある。プロとは厳しい世界だと改めて痛感した。

この事は、大分より、よりサンフレに言える言葉ではなかろうか。前々節の仙台戦で、80分過ぎからだらしないディフェンスで2失点し、」逆転負けしたサンフレは、より大分のスピリットを学ぶ必要がある。


★★<身勝手が過ぎるトランプ政権『国連パレスチナ機関は解体すべき』、>米国は22日、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)について、解体すべきだとの見方を示した。

米政府で中東和平を担当するジェイソン・グリーンブラット外交交渉特別代表が、国連安全保障理事会で『UNRWAの事業モデルは、パレスチナ人の役に立っていない』と指摘。UNRWAは『一時しのぎ』であり、事業をパレスチナ難民の受け入れ国や非政府組織(NGO)に移行する時が来たと述べた。

UNRWAは1949年に国連総会によって設置された機関で、パレスチナ自治区とヨルダン、レバノン、シリアに暮らすパレスチナ人約500万人に教育と医療サービスを提供している。だが、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相はかねて、UNRWAがイスラエルを敵視していると批判。難民問題を永続化させているとして、事業停止を要求していた。

トランプ米政権は昨年、UNRWAには欠陥があると主張し、支援金の拠出を全額停止。イスラエルとパレスチナの新たな和平案の準備を進めてきた。米国は来月25、26日にバーレーンで中東和平構想に関する経済会合を開く。グリーンブラット氏は、米国の新和平案について「パレスチナ人の豊かな未来を開く可能性」があると主張しているが、パレスチナ側はこれまで米国案を拒否し、エルサレムをイスラエルの首都と認定したトランプ政権との接触を断っている。

2000年以上前に国を無くしたユダヤ人のために、無理矢理パレスチナ人を追い出し、イスラエルを建国した英米政権は一体世界倫理を何と考えるのか。ユダヤ人の建国を許すなら、世界の多くの少数民族、とりわけチベット属などは独立させるべきである。またクルド人の国を建国しなかったのは、英仏の戦時後政策のミスである。英米中の野放図なやり方が世界の平和を乱している。


★★<首相になれば『日本変革』=自民・小泉進次郎氏> 自民党の小泉進次郎厚生労働部会長は、東京都内で講演し、『この国に必要なのはスピード感を持った変革だ』と語った。出席者から、将来首相に就任した場合に目指す国づくりについて問われ、答えた。

ただし、自身が首相に就任する可能性に関しては、『なんとかこのまま行きたいという人が本当に多い中、大胆に変えることに血道を上げ、スピードも伴って変えたいと訴える男には出番がないのではないか』と述べた。 

次世代を担う首相として、是非進次郎さんにはトップを取ってもらいたいねえ。もう次世代には生きていない輩は、引退、引退だ。60歳以上、国会議員立候補厳禁だね。本当に。日本丸をどうしてくかについて、マクロから舵取りする人間は今の閣僚達にはないな。特に麻生ぼっちゃんなど、麻生ボケして、福岡の乱など起こすんだから。あの鳩山由紀夫ぼっちゃんと何ら変わらないボケ老人だ。


★★<大阪人気じわり、本社転入の企業数 23年ぶり高水準>大阪から本社を転出する企業は減り、転入する企業は増えている

2018年に大阪府へ本社を移転した企業は174社で、23年ぶりの高水準だったことが帝国データバンク大阪支社の調査でわかった。逆に府から転出した企業は191社で、過去26年間で最も少なかった。25年大阪・関西万博の決定や、カジノを含む統合型リゾートの誘致計画などで、大阪経済の盛り上がりに期待する企業が増えたためとみられる。

帝国データによると、首都圏への一極集中が進むなか、大阪から出て行った企業は02年には312社にのぼり、ピークとなった。1982年以降、大阪から転出する企業の数が、転入する企業を上回る『転出超』の状態が続いているが、18年はその差が最も縮まり、17社だった。

業種別では、ビルメンテナンスやコンサルティング、福祉などの「サービス業」が転出、転入ともに3割以上を占め、最も多かった。工場や店舗などを持たないケースが目立ち、移転しやすかったとされる。年商規模別では、転出、転入ともに10億円未満の比較的小さな企業が全体の7~8割を占めた。100億円以上の企業も転出で7社、転入で11社あった。

転入元の都道府県としては1位が兵庫(68社)、2位東京(29社)、3位京都(19社)、4位奈良(11社)、5位愛知(6社)で近畿5府県からの移転が6割を占めた。転出先でも1位が兵庫(56社)、17年に最多だった東京は2位(47社)。3位奈良(21社)、4位京都(19社)、5位福岡(6社)と続いた。

帝国データバンクは「近年は大阪で訪日外国人客が大きく伸び、ビジネスチャンスが増えたことも背景にある」とみている。

いいねえ、大阪人気は。やっぱり、太閤さんのお陰かな。


★★<カープ 2年ぶり10連勝で2桁貯金へ王手>
セ・リーグ 広島8―3巨人 ( 2019年5月24日 東京D )

カープが2位・巨人との首位攻防3連戦初戦に8―3で勝利を収め、2017年4月以来2年ぶりとなる10連勝。2桁貯金に王手をかけた。 初回に1点先制された広島は直後の2回、主砲・鈴木がバックスクリーン右に14号ソロを放って同点。4回には先頭のバティスタが左中間スタンドへ特大の10号ソロを放って勝ち越すと、死球出塁の鈴木が二盗を決め、会沢の左中間二塁打で生還。さらに2死三塁から暴投でこの回3点をもぎ取った。

4―3と1点差に迫られて迎えた7回には2死から代打・坂倉が右中間へ二塁打を放ち、捕逸で三進。続く野間のセーフティースクイズが決まって貴重な追加点が入ると、8回にはバティスタのこの試合2発目となる11号ソロに西川も2号ソロで続いて4点リード。9回にも1点を加えた。特にバティスタの2本目は、左中間スタンド後方の『KIRIN』看板を直撃し、賞金100万円とビール1年分をゲットした。100万円の使い道を聞かれると『お母さんにプレゼント…する』と答えてスタンドのボルテージは頂点まで高まった。

7回には3番手一岡が危険球により退場になるアクシデントもあったが、九里、フランスアがパーフェクトリリーフ。最後はセーブの付かない5点リードながら守護神・中崎を投入して逃げ切った。とにかく、誠也、バティ、西川の3、4、5のそり踏みホームランが見事だった。

巨人は初回、坂本勇の14号ソロで先制。1―4で迎えた5回には炭谷の2号ソロと坂本勇の1試合2発となる15号ソロで一度は1点差まで詰め寄ったが、そこまでだった。


床田は、ここのところホームラン病だねえ。5回までに、ソロを3本。うち坂本に2本。ホームランなど打った記憶のない炭谷にも打たれた。どれも甘い真ん中辺りのボール。しっかり薬を飲んで、ホームラン病を直して欲しいなあ。この試合、カープのパーフェクトリレーに対し、巨人のリリーフ陣は出てくる投手がみな失点するという、カープにとっては嬉しいリリーフ達であったなあ。今日は、ジョンソンとメルセデス・ベンツの投げあいだなあ。カープはメルセデスを打つと思うよ、本当に。

カープの10連勝は今季最長で、2桁連勝は2017年4月以来、2年ぶり7度目。過去、2桁連勝した年は1984年(12連勝)優勝&日本一、16年(11連勝)優勝、71年4位、89年2位、94年3位、17年優勝。Aクラスを外したのは71年のみ。期待するねえ、巨人以外未達成のリーグ4連覇を。

10連勝は、やっぱり嬉しいねえ。DAZNの見逃し配信で、ポイントを2回ほど見返したねえ。見事なりカープのチーム力ではあるな。長野がドームでヒットを打ったのも良かった。ほほえましい。

今日も、中国スポーツ新聞は売れるだろうなあ。

『プレミアブランド小話⑦ マセラティの辛い過去』

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★明日から、六甲、湖東醒ヶ井方面に旅をします。2日ばかり更新が止まります。よろしくお願いします。第一目的は、六甲高山植物園のブルーの花『1500株のヒマラヤンポピー』を愛でて、少し六甲を縦走、そして幕末に建設され途中で挫折した『徳川道』を伝い、灘に下りること。そして翌日には、再度訪問したかった『安土城址』や、湖東醒ヶ井などの町々を巡ること。安土城址を最初に訪問した時には、この大手門道を信長も家康も秀吉も利家も登ったのだと思うと感無量でした。もう一度この感激を味わいたいと再度のトライです。


★今日の画像は、悪天候の中、登山日和で長蛇の列が続き、事故死者も急増する『エベレスト』と、広島の自動車メーカーマツダが国内販売を開始した『新世代マツダ3』。そして、かわいい花『スイセン后戮任后

エベレストに登るには、入山料をネパール政府に納めねばならない。その代金、お一人120万円也。財政が厳しいネパールにとっては貴重な財源だそうです。


★★★イタリアのマセラティは、1970年代まではフェラーリと比較的イメージの近い高級ブランドだった。1914年設立で、1947年設立のフェラーリより長い歴史を誇るマセラティは、1960年まではF1でも活躍していた。しかし、第2次オイルショックで高性能スポーツカーが売りにくくなった1981年、マセラティは大量生産・大量販売を狙って『ビトゥルボ』という車種を開発したのである。BMW3シリーズと同じくらいの2000ccのコンパクトな車体で、オーソドックスなスリーボックススタイルのクーペで4人乗り、トランクも実用的という車種だった。価格も従来のマセラティ車の半額程度であった。

これは狙い通りヒット作となったが、それがかえって仇となってそれからしばらくの間、マセラティ車のほぼ全てはこのビトゥルボをベースとしたモデルとなってしまった。そのため、マセラティの価格イメージは下がり、フェラーリとの差はあまりにも明確になった。その後マセラティはフェラーリと同じフィアット傘下となり、フェラーリとエンジンを共有するモデルを出すなど商品も上級シフトしたが、ブランドイメージ的には明確に格下であり、カバーする価格帯もフェラーリが2500万円程度なのに対し、親会社フィアットの戦略のせいもあるにせよ900~1500万円程度と大きな差がある。

このように、高いブランドイメージを持つブランドが、売れるからといって安いラインアップを出し、それがイメージの中心に来てしまうと、結果的にそのブランドの価格帯イメージを下げることになってしまうのだ。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■『玉置宏の「昔の話で、ございます」А.丱鵐疋棔璽いら始まった坂本九』昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


坂本九は当時、日大横浜学園高等科に通っていたが、話の内容は『学校から、欠席が多いので問い合わせの電話がかかってきた。九に聞くと、バンドボーイとやらをしていて忙しくて学校に行く暇がないと言う。玉置さんならテレビに出ていらっしゃるし、バンドボーイがどういうものかご存じでしょうから是非教えて欲しい』というものだった。

当時、ジャズ・ポピュラー音楽のジャンルでは、歌手志望でも、演奏家志望でも、既成バンドのバンドボーイから始まるのだった。九ちゃんは井上ひろしのバンドボーイをしていて、雑用をしながら楽器の練習や歌を勉強させてもらっていた。ここで認められればデビューのチャンスもある、という仕組みだ。ということを説明すると、お母さんはようやく安心されたのか『末っ子ですし、好きなことをさせてみます。これからも力になってやって下さい』と言われた。

私もその後すぐ、関係者に九ちゃんのことでさぐりを入れたところ、なんと8月に開催される第3回日劇ウエスタン・カーニバルに新人でデビューが決まっているとのこと。それじゃ時間もないし、当然練習で忙しくて学校には行けない訳だ。そのことを早速お母さんに報告すると、もう喜んで、学校には正式に休学届けを出した後、一番いい指定席を大量に買い込んだそうだ。

あとで私の実家に聞くと、お母さんがいろんな所で『九を応援してやって下さい』と一枚一枚券を私ながら、頭を下げて配り回っていたと言っていた。

そして8月、九ちゃんは、ついに日劇ウエスタン・カーニバルの大舞台で、1週間計6万4千人という大観客を前に、16歳という若さで華々しくデビューを飾ったのだ。九ちゃんお得意のプレスリーのアクションはもとより、手、足、お尻まで激しくグルグル回して踊ったり、舞台の上をところ狭しと跳び回ったり、最後は新品のギターを叩き壊すなどの過激なパフォーマンスは、観客を大興奮の渦に巻き込み、『坂本九』の存在を強烈にアピールすることになった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<インド発ベンチャー『OYO』日本上陸、目指すはアマゾン>日本の賃貸の常識を覆すサービスが始まった。部屋を借りる契約はスマホのタップ4回で終了。孫正義さんも認めた『OYOオヨ』が狙うのは、新しい価値観を持つミレニアム世代だ。

サービスの詳細を知って、『ああ、あと数ヶ月早く、OYOがあったら良かったのに・・・』。そう悔しがるのは今年1月にシェアハウスに引っ越したばかりという27歳の男性だ。ホテルのように部屋を選ぶだけ、を売り文句に3月末にスタートした『OYO LIFE』は、敷金、礼金、仲介手数料が一切なし。スマホやPCで写真を見ながら物件を比較し、気に入れば『予約』ボタンをクリック。後は携帯電話番号や名前、クレジットカードの番号を入れるだけ。たった4回のタップやクリックで契約が完了する。

契約期間は1カ月単位。家具・家電も揃っているから、部屋が空いていれば手ぶらで翌日から住むことも可能だ。家賃にはWi‐Fiや公共料金も含まれているので、電気や水道、ガス会社と個別に契約する必要もない。『OYOは最初から月々の家賃だけ払えばいいし、家具・家電付きという点にも引かれる。家具っていざ要らなくなっても処分が面倒だし、環境のことを考えるとむやみに捨てることも出来ない』と男性は話す。

『OYO LIFE』を展開するのは、世界6位のホテルチェーンを運営するインドのベンチャー企業『OYO Hotels & Homes』とヤフーの合弁会社だ。本格始動に先立ち、3月初めには『いきなり東京0円ライフ』と銘打ったキャンペーンを展開。くじに当たれば、六本木や銀座など超一等地の家賃数十万~100万円超という物件に1カ月住めると話題になり、サービス開始前に1万3千人超が事前登録した。契約室も3月末時点で1,008件に達しているという。

部屋はシェアハウス、マンション、戸建ての3タイプで、賃料の目安はそれぞれ5~8万円、10~100万円、30~100万円。そのからくりは、こうだ。


一般的に、引っ越しには敷金や礼金などの諸費用がかかる。例えば、賃料が10万円なら、敷金、礼金に仲介手数料や鍵の交換代などで52万円超程度かかる。さらに家具・家電を買い揃えるのに20万円、月々の家賃は管理費込みで11万円と想定。退去の際の引っ越し費用などで12万円かかり、2年間済むと仮定すると、合計で348万円かかる。実質的には毎月、14万5千円を負担しているのと同じことになるのだと言う。

OYOが狙うターゲットは、ずばり、1980年代から2000年代に生まれたミレニアム世代。モノの所有にこだわらない世代とも言われる。そのため、OYO物件の入居者は、家事代行や、車や服のシェアリングサービスを定額で利用出来る『OYO PASSPORT』もオプションで利用できる。しかも最初の1カ月は無料という特典付き。

『我々はアマゾンと同じだ。アマゾンで売っているものはほとんど、近所でも買える。それでも皆さんは何故アマゾンで買うのか。それは、便利で快適だからだ。いろんな種類の商品を比較出来たり、自宅まで届けてくれたり、トラブルがあっても対処してくれる。そういうサービスにプラスアルファのお金を払ってもいいという価値観を持つ人が増えているのだ』と。

アマゾンの台頭によりリアル書店が苦戦を強いられたのと同様なことが不動産会社にも起こるのか。『いえ、ウィンウィンの関係になれる』と断言する。オーナーにとってリスクの少ないビジネス内容になると。つまり、オーナーや仲介会社から賃貸しマンションや一軒家をまとめて借り上げる。さらにOYOの負担で家具などを揃え、内装をおしゃれにしたリノベーションして利用者に貸し出す。オーナーにとっては空室のリスクがなくなるし、物件の価値も上がる。

となると、OYOはいったいどこで儲けるのか。『我々の収益は例えば14万5千円の物件だったら、5千円くらいで大したことはない。でも流通量が増えれば全く問題ない。日本の賃貸マーケットの市場規模は12兆円。その1%を取れるだけでも十分ペイする』と。大量に借り上げるだけの資金力があるのがOYOの強みだ。今は都心部だけだが、今後は空き家問題を抱える地方でも物件を増や予定だ、と話す。ITによる、新規ビジネスのネタをこのような形で育てるんだねえ。見事、だ。


★★<王者・カープ 連日G倒で首位固め11連勝 35年ぶり球団記録に王手>
セ・リーグ 広島7―5巨人 ( 2019年5月25日 東京D )

カープが巨人との首位攻防3連戦第2ラウンドに7―5で逃げ切り勝ちを収め、2016年6月以来3年ぶりとなる11連勝。1984年4月にマークした球団記録の12連勝に王手をかけるとともに7カード連続勝ち越しを決め、貯金を今季初めて2桁の『10』にのせた。直接対決で連敗した巨人は広島とのゲーム差が3に広がった。

2回に鈴木、西川の連打から安部の併殺打の間に1点を先制した広島は、3回には菊池涼が25試合ぶりとなる第4号ソロを左中間スタンド中段に叩き込んで追加点。4回には先発投手ジョンソンが自ら今季初安打初打点となるタイムリーを中前に放ち、敵失と野間の左中間二塁打もあってこの回計3点を追加した。

6回には2死走者なしからバティスタ、鈴木、西川の3連打で1点、8回にはバティスタの2試合連発3本目となる12号ソロで1点を加える盤石の試合運び。

8回には今季最長イニングとなった先発投手のジョンソンが山本に1号ソロを打たれた後でさらに無死二、三塁として降板し、2番手・レグナルトも坂本勇に16号ソロを被弾するなど一挙4点を失って2点差に迫られたが、逃げ切った。先発投手のジョンソンは来日5年目、通算100試合目の登板となった1戦で、通算50勝目となる今季4勝目(3敗)をマークしている。

リーグ4連覇を目指す広島は、球団初の開幕5カード連続負け越しとスタートダッシュに失敗。過去のデータで優勝確率0%とはじき出され、4月16日には最大借金8で最下位に低迷した。だが、5月はこれで16勝3敗1分け。1994年8月にマークした球団月間最多18勝まであと2勝に迫った。


まあ、あるブログでは『これでは野球が面白くない。カープ勝ちすぎ』との書き込みもあった。巨人ファン、阪神ファンからしたらそうだろうねえ。が、カープファンからしたら、セ・リーグで巨人以外に未踏の4連覇を果たしたい気持ちが強いねえ。

あっしは、8回2点差になった所で、今日はカープの負けを覚悟した。巨人に勢いがつき、カープの投手陣に陰りが見えたからだ。が、なんとか塁に出しながら、この2点差を守り切ったのはさすがカープと感心したねえ。お見事だ。今日も勝って、連勝記録を12に伸ばして、巨人に3タテを食わせて、ゲーム差を広げてほしい。先発アドゥア、頑張れよ。

それにしてもヤクルト、連敗脱出が出来ないねえ。なんとカープの逆手を取るように『10連敗』。山田、バンレティン、坂口などが故障で不調を引きずり、投手陣も今一歩を続ける。まさに、ヤクルトファンの方々にはお見舞い申し上げます、という心境だ。カープも4月には8連敗したからねえ。

ヤクルトの現状は、守備の失策から失点が続いている。西田などリーグ1の12失策と失点の起点になっている。カープも8連敗のスタートを切ったのは、三塁安部のエラーから。安部は9失策と首脳陣の信頼を裏切り、交替出場の憂き目にあっている。やっぱり野球は打撃も大切だが、投手を含めての堅守が先だろうなあ。カープの浮上も大瀬良を中心にした投手陣の立て直しに成功したからと見るが、どうだろうか。

ちなみに、セ・リーグ失策順位。
  .筌ルト  43   ▲ープ   37
  ∈綽澄   37   さ霓諭   30
  ゲI諭   19   γ翔   16
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★★<栃ノ心、大関返り咲き>大関2場所負け越して、関脇に陥落していた『栃ノ心』が、14日目、横綱鶴竜を破り、10勝。大関復帰特別ルール『関脇に陥落した場所で10勝以上を挙げれば大関復帰』を突破して、来場所大関に戻る。このルール、長く相撲を見ているが、適用された力士見ていない。力が衰え、関脇の落ちた力士が10勝を挙げるなんて至難の業なのである。

栃ノ心は、東欧ジョージアの出身で、元琴欧州がブルガリアの星と謳われたように、栃ノ心はジョージアの星なのだ。力力士で、その分、技の磨きへの傾倒が少なく、身体的な不調が重なると黒星が続く。

13日目に、優勝した朝乃山との一戦で、土俵外への踏み足を取られて黒星になった。テレビ画面でもかかとが土俵の外には出ていたが、土は踏んでいなかった。審判員は、テレビの画面より審判員の目が正しいと、6分もの長時間審議の上、栃ノ心の負けを判断した。

プロ野球で、1塁での審判を巡り『リクエスト制度』が出来、何度審判判定が覆ったことだろうか。相撲審判は、プロ野球審判より目の判断が数段優れているのだろうか。それを証明してほしいと思う。傲慢なり、相撲審判だ。

栃ノ心は涙を流したが、14日、横綱戦はもうカド番。なりふり構わず横っ飛びに身をかわし、はたき込んだ。相撲業界もちっとは古い慣習にとらわれず、観客、ファンの納得いく審判制度にしてほしいなあ。困ったもんだ、石頭連中には。アメリカのリクエスト制度を研究してほしいねえ、相撲協会は。

栃ノ心の話。
-復帰を決めた瞬間の気持ちは。
 『まあ良かったですね。緊張しましたけれど、勝てて良かったです』
 -3日間足踏みが続いた。
 『そうですね。4日前からちょっと相撲が悪くなって立ち合いが全然当たれなくて。今日ももうあんな内容でしたけど、とりあえず勝てて良かったです』
 -大関復帰を確実にした。この経験をどう生かす。
 『明日ももう一番あるんで頑張って、これからもしっかり頑張りたいですね』

おっと、大関陥落から1場所で返り咲いたのは、2005年に栃東の実績があるそうだ。そいえば、うっすらと記憶がよみがえって来たな。

なんと、報道によれば、現行のカド番制度になった1969年名古屋場所以降、過去5例しかなかったそうだ。やっぱり、難しいんだねえ、大関1場所復帰は。


★★<異常高温、北海道で午前6時過ぎには早くも30度超え>今朝の午前6時30分現在、最高気温の全国ランキングのほとんどが北海道。1位は留萌地方の増毛で30度3分。

北海道では早朝から気温が高く、北部に位置する留萌地方の増毛町では午前6時すぎに30度を超えた。また、十勝地方や網走地方を中心に既に27度前後まで上がっていて、午前6時30分現在、全国の最高気温ランキングの20位までのほとんどが北海道。

きょう、26日:日曜の日中は5月とは思えない季節はずれの厳しい暑さが予想される。気温の上がるペースが早いため、昼前には猛烈な暑さになるだろう。熱中症に十分な注意が必要だ。

北海道から近畿にかけての広い範囲に高温注意情報が発表されてる。北見のほか福島で36度、京都や岐阜、甲府、熊谷、前橋、山形などで35度の予想。

本当、異常気象だねえ。おっそろしい時代だ。何が原因か。やっぱCO2だろうなあ。トランプはアメリカでCO2規制を撤廃し、野放しにするそうだ。人類を滅亡に導くおっそろしい地球破壊の大統領ではあるな。

『プレミアブランド小話⑧ メルセデス・ベンツとBMW』

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六甲~醒ヶ井~安土の度を無事終え、今朝夜行バスで帰広。天候不順で、大台ヶ原、赤目の滝をスキップして、旅程を半分にしましたが、結果オーライ。昨日は東湖方面は一日中雨が繰り続きました。安土城址を登時には雨が止みラッキーでしたが、大台ヶ原は屋久島同様雨が柱になって降る地と。またの機会に訪れようとおもいます。レポートはまた他日。


今日の画像は、東京・浅草三社祭に繰り出した『100 基の御輿』、そして道ばたの雑草『ホトケノザ』『ナズナ』『マツバウンラン』です。このマツバウンランは、本当、どこにでも咲き、風にゆらゆらと揺らめく姿がなんともチャーミングです。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★プレミアムブランドには、プレステージ感に直結する価格帯イメージ(縦軸のポジショニング)が重要だが、一方で、キャラクターやテーストの違い(横軸のポジショニング)も実は非常に重要である。

一般的なマスブランドであれば、この横軸のポジショニングはそれほど重要ではない。マスブランドはより多くの人に愛され購入されることが目標なので、下手に個性の強いキャラクターを持ってしまうと好き嫌いが出てしまい、大きなシェアを取りにくくなってしまうからだ。だから、コカ・コーラもペプシコーラも、『より多くの人の親しみを持ってもらう』べく、広告キャンペーン等は好意度や話題性の獲得を目指したものになる。マクドナルドやバーガーキングでも同様だ。トヨタと日産も基本は同じだろう。であるから、『ブランド・アイデンティティ』といってもその差は大きくない。

マスブランドのブランディングとは、極端に言えば『認知と好意度の獲得』とほぼ同義なのである。

しかし、プレミアムブランドとなると話は違ってくる。なぜなら、プレミアムブランドの選択は、自らの社会的ステータスをはじめ、『自分がどんな人か』を表現することに直結するからだ。『そのブランドを持っている自分』が他人の目にどのように映るかを意識しながら選ぶのがプレミアムブランドである。だからブランド・アイデンティティはそのユーザー自身のアイデンティティとも繋がるのだ。

例えば自動車の世界では、メルセデス・ベンツが高級車の象徴として君臨しているが、それ故同時に高年齢や保守本流、権威主義といったイメージがついて回る。富裕層ではあるが、こういったイメージで見られることを嫌う層が存在する。たとえばおなかの出た典型的な守旧派中高年紳士ではなく、『年齢よりも若々しくて活動的な富裕層』というイメージを演出したいというニーズが存在する。

BMWはメルセデス・ベンツとは異なり、スポーティで運転を楽しむ車と自らを定義し、このような『メルセデス・ベンツユーザーとは違う、アクティブで若々しい富裕層』を演出したい層を狙っている。従って、最高級の7シリーズであっても同クラス他社に比べて相対的にスポーティで軽快な仕立てとなっている。しかしそれ故、堂々とした、重厚感のある佇まいを求めるメルセデス・ベンツユーザーの関心を惹くことは出来ない。逆もまた真なりであり、BMWファンは、基本的にメルセデス・ベンツには見向きもしない。メルセデス・ベンツに乗りたくないからBMWに乗っているのだから当たり前である。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■『玉置宏の「昔の話で、ございます」─∥膺裕い「平凡アワー」の司会になる』昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★この頃、ラジオのスター番組で人気の高かったのが、昭和27年(1952)から毎週日曜日の朝の時間に、文化放送で始まった『平凡アワー』だ。この番組は、昭和33年にラジオ関東、昭和34年にニッポン放送とキー局が変ったが、スター雑誌として人気のあった『月刊平凡』とのタイアップで始まり、毎月発売後の1週目の放送は、本に紹介されているスター達のグラビアに合わせたインタビューを取り、『それでは○○ページのグラビアを見ながらお楽しみ下さい』というスタイルで、番組を構成していた。

そして昭和26年に第2回の優勝者として話題になった『初代コロムビア・ローズ(斉藤まつ枝)』を輩出した『コロムビア全国歌謡コンクール』も、放送開始以降、平凡がコロムビアに協賛。男女1名ずつの優勝者を『平凡アワー』の公開番組に招き、新しい『歌うミスター平凡、ミス平凡』として、前年の優勝者からクラウンを受け取るなどのセレモニーを番組で流した。

最初、司会はずっと局のアナウンサーだったが、途中で『アナウンサーでなくて、タレントで行こう』ということになったらしく、そこで登場したのが爆発的な人気者『林屋三平師匠』。『神田立花』では懸命に古典落語に取り組んでいた三平師匠だったが、その後テレビに出るようになり、ギャグを交えた現代風のドタバタ芸風で急速に売れ始めたのだ。

昭和33年(1958)には三平のまま真打ちに昇進するが、この頃になると『ど~もすいません』『も~大変なんすから』とテレビに出てくる度に、人気が鰻登りに上昇。とてもラジオの公開番組に行ったり、歌手にインタビューしている時間なんて取れなくなってきたのだ。


それで三平師匠の後を急遽受け継ぐのと、昭和34年には『週刊平凡』も発売になり、その時期に合わせて若返りを図ろうという理由で、柳家小ゑん、今の立川流家元・立川談志師匠と、水原弘の付き人だったなべおさみ、そして『ロッテ歌のアルバム』の司会で少々名が売れ始めてきた私の3人が、3代目パーソナリティーとして受け持つことになった。局としては3人いれば、何があってもローテーションが組めると思っていたのだろう。

特に番組の目玉である公開録音は『ロッテ・・・』風に行きたいという局の要望もあり、私が担当になった。今では私の心友でもある談志師匠については後でじっくり話すが、この時が初対面だった。師匠はリスナーから来る葉書やリクエストを読んだり、書かれてある質問に答える。そしてなべおさみが巡業先や撮影所にスターのインタビューを録りに行くというのが、3人の役割だった。

ところが1年も経たないうちに、まず談志師匠が『俺は今、こんなことをしている場合じゃねえ』と騒ぎ始めた。もっときちんと落語の勉強をしないといけないし、舞台の上でフレッド・アステアのような華麗なステップも踏みたい、という人だ。実際、こうと思ったらすぐ行動に移す人だから、ブロードウェーの劇場に日本人ダンサーとして初めて出演した、日本のタップダンスの草分け・中川三郎さんのスタジオに行って、タップも習い始めていた。

なべおさみも、映画のちょい役や、テレビの仕事も増え始め、その後昭和36年(1961)に日本テレビで始まる『シャボン玉ホリデー』で人気になるのだが、所属のナベプロが、小ゑんさんが降りるのなら、『なべも』、と一緒に降ろしてしまった。

で、結局残ったのは私一人。ローテーションを組むどころか、公開録音も、スターのインタビューも、リスナーからの葉書の紹介も、全て私一人でこなすはめになった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<京都のホテルが"不足から過剰"になる背景>ニッセイ基礎研究所は2019年2月、2020年および2030年における宿泊施設の客室稼働率を都道府県別に試算して公表した。

ホテル、旅館、簡易宿所の利用客数は、20年と30年の両方で17年を上回る見込みだ。ニッセイ基礎研究所の白波瀬氏は『国内旅行客は人口減少や80歳以上の高齢者の増加によって減っていきますが、訪日外国人の増加分がそれを上回ります』と説明する。

ただし、『国内旅行客の減少を訪日外国人の増加でカバーできない県が徐々に増えていき、地域による差が広がりそうです』とも。20年には利用客室数が12県で、30年には20県で減少するという予想だ。特に秋田、福井、高知は大きな減少が予想されている。

◇京都は供給過剰に陥いる可能性が
ホテルの客室稼働率で比較した場合、総客室数を17年の数字で固定すると、20年には大阪で、30年には東京、京都、大阪で稼働率が100%を超える見込みだ。これに宿泊施設のオープン計画を照らし合わせると、「東京、大阪は20年から30年に稼働率が80%前後になる妥当な計画です。一方で京都は20年までに客室数が17年から41%増える予定ですが、稼働率は67.9%となり供給過剰に陥る可能性が高いです」(白波瀬氏)。奈良、島根は30年で稼働率が6割を切る厳しい結果となった。

やっぱりな。五輪目当てのホテル建設が進むが、その反動は大きいだろうなあ。その危険一番手、『アパホテル』だと思うが、どうだろうかな。


★★<1億画素の高級ミラーレスを発売 富士フイルム>富士フイルムは、高級ミラーレスデジタルカメラ『FUJIFILM GFX100』を6月下旬に発売すると発表した。一般向けのミラーレスデジカメでは世界最高となる1億200万画素のイメージセンサーを搭載。最高峰の画質の写真が撮れるという。

レンズは別売りで、本体の市場推定価格は税込み132万円程度。プロの写真家やアマチュアカメラマンに売り込む。

東京都内で開いた発表会で古森重隆会長・CEOは『デジカメ市場が落ち込んでいるのは真に革新的な商品がないからだ』と述べ、高級機種の投入が市場全体の活性化につながることを期待した。

1億画素。画像1枚が20MB程度かな。重い。素人が使うHDはすぐいっぱいになるな。まあ、プロ仕様だから、素人の私には関係ないが。それにしても、最近のミラーレスフルサイズ競争はすさまじいねえ。ミラーレスに変わって、元気なのがキャノニコではなく、ソニー、パナソニックという家電メーカーなのがまた面白い。富士フィルムも頑張っているなあ。面白い。


★★<地方発世界へ 『ユークス』ゲームソフト開発>1月5、6日。横浜市で4人組の男性アイドルがライブを開いた。10歳代のメンバーが観客に『皆も出来る?』と呼びかけながら、歌い、踊る。ただし、4人とも実在しない。『仮想現実VR』のアイドルだ。

舞台裏の声優と踊り手が臨場感を作り出す。4人の声優がファンの反応を見ながら当意即妙に対話し、4人の踊り手の動きがアイドルのダンスに反映される。

VRと生身の人間が融合した『拡大現実ARシステム』を生み出したのは、ゲームソフト開発の『ユークス』だ。谷口社長は『ゲーム業界で先行優位の技術』と自負する。4月中旬、4日間にわたってライブを編集した映像を上映。合計12回の興業がある通しチケットは6万4,800円と高額だったが、200人の女性ファンが購入した。

ユークスは格闘技ゲームの受託開発を中心に成長。代表作はアントニオ猪木さんらが活躍した新日本プロレスの試合をゲーム化した『闘魂烈伝』シリーズ。ゲームで蓄積した筋肉や髪の動きなどの表現技術をARに生かしている。

国際化のチャンスは1999年に訪れた。米国でゲームショーを視察した谷口社長は、THQという米ゲーム会社のブースで闘魂烈伝のデモが流れているのに気付いた。無許可利用なら抗議しようと乗り込むと、発売元で共同著作権を持つ『タカラトミー』から許可を得ていた。

当時THQは、米国最大のプロレス団体であるWWEのゲーム化権を持っており、この出合いをきっかけにWWEのゲーム開発も受託することになった。『日本人特有の緻密さが評価された』と語る。

2019年1月期は海外向け売り上げが23億円弱と全体の58%に達した。その大半がTHQからゲーム権を引き継いだ米2Kスポーツ社向けだ。現在は2Kスポーツが自前で開発するため、ユークスに入るのは新作にも使われる描画エンジンのライセンス料収入のみになる。

谷口社長は『契約変更で浮いた人的資源を投入し、ARビジネスや新たな受託先開発を強化する』と話す。アイドル4人の海外公演を視野に入れ、外国企業などからキャラクターのARを受注したい考えだ。

まさにインテリジェンスなビジネスだねえ。知恵と技の結晶だから。資源は日本人の頭の中、頭脳にあるとはまさにこのことだなあ。将来が楽しみなユークスではある。


★★<痛ましい、川崎の殺傷事件>誠に悲惨な事件だ。何も罪もない事も達の中にいきなり飛び込みナイフを振りかざし、切りつけるとは。子供達にとってはまさに地獄絵だったろう。

川崎市多摩区で、スクールバスを待っていた私立カリタス小学校の児童らが殺傷された事件で、直後に自分の首を切り死亡した職業不詳岩崎隆一容疑者(51)が、わずか十数秒間に19人を相次いで切り付けていたことが分かった。
殺害された同小6年の栗林華子さん(11)と外務省職員小山智史さん(39)のほか、襲われた児童16人と40代女性はいずれも首や胸、背中など上半身を切られたり刺されたりしており、捜査本部は同容疑者が強い殺意を持って計画的に襲ったとみて、殺人容疑で調べている。

同市麻生区の岩崎容疑者の自宅は、現場から西に直線距離で約4キロ離れており、捜査本部は事件前の足取りの解明などを急ぐ。

一体どうゆう背景があったのか、当局の操作、調査が注目されるなあ。本当に死ぬ気なら、自分一人で死んで欲しいと思うねえ。人生に絶望したのだろうが、それって全部自己責任だろうに。運、不運は世の常。不運を他人のせいばかりにしても世の中は渡れない。そんな中か這い上がる、抜け出す努力こそ人間として持つ生きる力ではるまいか。人生一生幸福、という人はいまになあ。

それよっか、こういう人達をどういう手だてで発見し、社会厚生に導くか。まさにその点が一番問題になるところだろうなあ。


★★<カープ、火曜サスペンス劇場>
9回 中・・・   恒例のお祈りタイムが始まりました

お願いします・・お願いします・・・  どうか神様お願いしますだ・・
翼のホームラン、無駄にしたくないです・・  わたし・・良い子になります・・
もう悪い言葉も使いません・・・

山田デッドボール  坂口フォアボール
からの村上
この子・・  反抗期のサイみたいな顔して!!
迫力ありすぎ・・  (((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

(;゚д゚)ゴクリ…  三振!!2アウト!!
あと1人じゃわ
神様とりあえずありがとうございます  あと1人でございます!!
なにとぞ!!なにとぞーーーっ!!  よろしくお願い致します。。

雄平・・・  フォアボールで!!満塁っ!!
なにやっとんじゃい!ザキっっ!!  ヽ(`Д´#)ノ
シャキっとせんかいっ!!
おーーーまえは!抑えなんだろーが!  抑えんかーっ!!!!
(# ゚Д゚) ムッ!

と・・  さっき神様に
もう悪い言葉は使いませんと言ったばかりなのに!!
はっ!!Σ(゚Д゚)  すみません神様。。
今のは「なーんちゃって暴言」です神様!!

次は奥村。。 もうね・・私、胃痛プラス激頭痛に襲われる
目もシバシバよ   汗もかいてるし・・
もうね・・  中劇場というか・・
確か先週の三次での中劇場も火曜日だったよね

火曜サスペンス劇場でしょうか?
★よろしければ音量に気をつけながら
こちらの曲をバックミュージックにして記事お進め下さい(笑)
火曜サスペンス劇場 フラッシュバックテーマ

崖の端まで追い詰められた・・  もう、もう・・ダメ・・
(゚A゚;)ゴクリ   この奥村・・
今日とっても当たってるもの・・  打つ気まんまんじゃん・・

中・・大丈夫よね・・
いつもランナー出すけど点とられんことだってあるもんね
(;゚д゚)ゴクリ…  [あ!山村紅葉が誰か連れてきた!
ヽ(; ゚д゚)ノ ビクッ!!  そこまでだ!! (`・ω・´) シャキーン !!
お!!船越英一郎だ!! ]   ヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ

空振り三振!  ゲームセット
ふぅ・・(;´Д`)=3
からの・・・・  バタン!!!


9回裏めっちゃ体力使った   あーーーーーーー
しんどかった!!  。・゚・(ノД`)

でも・・  ヒロインは
翼ぁぁああーーーーー  
もうーーもうーーー   かっけーーーー!!!
・:*:・(*´∀`*)ウットリ・:*:・  さすが翼じゃ!!

お祈りタイムでは・・
カープファンもだけどヤクルトファンもお祈りしよったわ
お気の毒さまです。。心中はお察ししますけど
このカードが終わったら、きっと連敗とまりますよ

長野さんは最近出てきたら打ってくれる!!
調子よくなってきて嬉しい!!   
ノムスケは
おーー!!今日いいねーー!って思ってたんだけどね・・
突然悪くなったわ   あんだけ援護もらっててアレはないわ (>_<)

快勝と思ってたけどキツイ試合になった  けど今日はレグナルトが2イニング好投!
2イニング投げさせた事はとっても良かったと思う
レグナルドが火消し役になってくれた!!  

何はともあれ勝って良かった!!  月間17勝目よ!!
てかね・・
なんかすいませんね。。   手抜きに9回しか書かずに。。
マジで頭痛でガンガンしよるんよ。。  ( TДT)
コメ返は明日試合始まるまでには全部しますので・・
申し訳ない!!

今夜は薬飲んで ちょっと横になります。。

恐るべし!!  中!体調までも崩さすわホンマ
゚(゚´ω`゚)゚。ピー

あ!!30日は・・  
山口翔くんがプロ初先発に向けて調整を行ったらしいですよ^^
個人的に私・・この子、可愛いのよ(*^_^*)
楽しみで仕方ないわ!!  思い切り腕を振って投げてくれればいい
四球・デッドボールさえ出さなければ多少ヒット打たれてもええんよ
今は打撃が好調なんじゃけー!!
その為にも明日大瀬良君は好投希望!
野手で得点バンバンして中継ぎ陣を30日の為に
休ませてもらいたいね!!
(参考: 『おカープ婦人な私の勝手な喜怒哀楽』)


ヤクルトファンにはお気の毒。
連敗が12と。
記録は14.
あと2つ。
次いでに、新記録樹立はどうだろうか。
記録ストップは巨人戦にしてほしいねえ。

青木が頭を丸坊主にして、叱咤激励をしたが、無意味だったようだ。
山田だのみのヤクルト、本当に可哀想だねえ。

今日は、大瀬良と高橋。高橋君には荷が重いようだねえ。大瀬良もよっぽど調子が悪ければ別として、ちゃんと完投してくれるだろうしなあ。

『またも守備がほころびを見せた。同点の3回、野間の左前打を、左翼手バレンティンがファンブルし、二塁進塁を許した。菊池涼の一塁へのセーフティーバントは、打球処理した村上のトスが山なりになってセーフ。西川のゴロを併殺を焦ったのだろうか、二塁手・山田哲も打球をはじいた。「3回の3点はミス。(村上は)トスができていない。(記録は安打だが、山田哲は)顔が二塁を向いていた」と宮本ヘッドコーチ。鈴木に三盗も許した。これでは勝利の女神も逃げていく。

 今季のチーム44失策は12球団最多。12連敗の期間中は19個にも上る。個人では村上がリーグワーストの11個で、バレンティンも外野手最多の4個を記録している。指揮官は「将来のヤクルトの中軸になる選手」と村上を起用しながら育てる方針だが、25日の中日戦では守備面の不安もあってスタメンから外した。勝負と育成のジレンマにも陥っている。 』

『プレミアブランド小話⑨ フェラーリはセダンを作らない』

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今日の画像は、プロ用1億画素の中判カメラ、お代132万円也の『FUJIFILM GFX100』と、日本での販売台数が40台から139台に増やされた『マツダ・ロードスター30周年記念車RF』、90座席機から70座席機へモデルチェンジする『MRJジェット旅客機』。そして、瀬戸内の小島呉市『上蒲刈島』の風景です。この地を訪れる度に、この島の人達の昔の暮らしはどんなだったろうか、とその苦労ぶりに思いを馳せます。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★価格ポジショニングを示す『縦の軸』の位置が更に上がった領域になると、ブランドのキャラクター、つまり『横の軸』の重要性もさらに高まる。高級になればなるほど差別化意識が更に高まり、ありきたりなものでは満足出来なくなるからである。実際、車でも時計でも、超高級領域になると登場するブランド数が増え、そのキャラクターも際だって来る。悪趣味、とも言えるようなブランドも登場する。

フェラーリはF1をはじめとしたモータースポーツのイメージが強く、今まで超高性能スポーツカーしか生産していない。極めて正統なスポーツカーブランドだ。そのキャラクター故、フェラーリは正統派のスポーツカーしか作れない。2011年に四輪駆動の4人乗りスポーツカーを登場させたが、恐らくこの辺りが限界だと思われる。

イギリスのアストンマーティンやマクラーレン、ロータスといったスポーツカーメーカーも、モデル数は多いものの、その強烈なキャラクター故に素人目では区別がつかないほど全てが似通った製品となっている。キャラクターを失うことは、存在価値そのものを失うことになるからである。

保有資産が10億円を超えるような超富裕層の来場者が多い『ジュネーブ・モーターショー』では、超高級車を更に改造して高性能にしたり、デザインをより個性化したりする業者が多数出展する。筆者の個人的印象だが、差別化のための差別化を目指した改造をしているものが多く、ごく限られた人のテーストにしかミートしないような悪趣味といってもよい領域の代物になっているものが多い。こうした車は価格も極端に高いのだが、それはそれで需要はあるのである。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」 錦之助さんの京都の宿は「蔵」の部屋』
時代劇の俳優さんなどは、ほとんど京都だったから、インタビューには太秦撮影所に出向いた。すると、長谷川一夫さん、大川橋蔵さん、高田浩吉さん、中村錦之助さんなど時代劇のスターがズラリといらっしゃる。でも今回のお目当ては誰であれ、片岡知恵蔵御大と市川右太衛門御大がどこかにいらっしゃれば、まず真っ先にそちらに伺おうというのが決まりだった。

中村錦之助さんがゲストの場合は、日本旅館を定宿にしていたので、平凡スタッフもそこに全員が泊まり込む。当時の錦之助さんのスケジュールは殺人的で、京都で4晩徹夜して朝の3時に地方へ。日中ロケを済ませて京都へ戻りまた徹夜、などというのはザラ。その合間を縫っての取材だったから、みんなピリピリした状態だった。しかも、錦之助さんの部屋は、蔵を改造した部屋で、どんなに大きな音を出して稽古しても外には漏れないようになっていたから、もし休むヒマもないスケジュールに癇癪を起こして荒れても外からは分からない。

そこで、錦之助番の編集者に頼んでおいて様子を伺ってもらい、機嫌がいいときを見計らって素早く取材を敢行した。油断も隙もならない今のマスコミと違って、当時の番記者は何があってもスターの味方だから、絶対の信頼関係があったのだ。

後で、試しにスタッフに外に出てもらい、私は声が枯れるまで中で大声を張り上げたが全く聞こえなかったほどだから、その密閉度には改めて驚かされた。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<予約殺到のロードスター30周年記念車、RFは139台に応募枠拡大>広島の自動車メーカー・マツダは、『ロードスター30周年記念車(リトラクタブルハードトップモデル:RF)』の販売台数について、当初予定の40台を139台とし、5月27日よりウェブ商談予約を開始した。

マツダでは、ロードスター30周年記念車を世界限定3000台で販売するが、日本の割当は当初、ソフトトップモデルが110台、RFが40台の合計150台となっていた。しかし、ソフトトップは4月5日から15日までの商談予約で、販売台数の17倍を超える1900台以上の申込みが殺到。マツダはHPで『応募頂いたすべてのお客様に30周年記念車(ソフトトップモデル)をお届けできない事をお詫び申し上げます』と謝意を表明した。

マツダでは、予想を超える申込みがあったことを受け、RFの販売台数を当初予定の40台から139台ヘ大幅に増やすことを決定。より多くの国内マツダファンにロードスター30周年記念車を提供する。

ロードスター 30周年記念車は朝焼けのような専用色『レーシングオレンジ』を採用。ブレーキキャリパーやレカロシート、ドアトリム、シフトレバーなどは、そのオレンジをアクセントとしたカラーコーディネートとしている。そのほか、レイズ製鍛造アルミホイールやビルシュタイン製ダンパー(MT車のみ)、ブレンボ製フロントブレーキキャリパー、ニッシン製リアブレーキキャリパー、Boseサウンドシステム(AUDIOPILOT2)+9スピーカーなどを特別装備する。RFの価格は6MTが430万3800円、6ATが426万0600円。

マツダでは、5月27日から6月10日までウェブ商談予約を受け付け、応募多数の場合は抽選を予定。ウェブ商談予約受付の当選後、店頭で契約し、納車は8月下旬以降順次行う。

頑張ってほしいねえ、広島の自動車メーカーマツダには。カープ、サンフレの最大のスポンサーだからねえ。しっかしこのオレンジ色のロードスター、魅力的だ。お金さえあれば申込したいと思うねえ、ほんとに。


★★<MRJ、スペースジェットに変更 名称から「三菱」外し刷新> 三菱重工業傘下の三菱航空機(愛知県豊山町)は事業方針を大幅に見直す。初の国産ジェット旅客機として開発している座席数90の『三菱リージョナルジェット(MRJ)』事業を事実上縮小。代わりに最大市場の米国の需要に合う一回り小型の70席の機種を開発する。90席モデルの受注先の切り替えにも応じるが、納入時期や資金回収の遅れにつながる可能性がある。

現在開発している90席の機種は5度にわたる納入延期もあり、新規受注が止まっている。新機種の投入や、海外からの部品調達の拡大、米国生産などによるコスト削減を検討する。6月中に概要を発表する。2019年中にも70席モデルの新機種の開発に本格的に着手する。70席の機種は仕様を大幅に刷新する計画だ。小型化に合わせて部品調達の一部を米国に切り替え、燃費性能と合わせてコストを売り物にする。今後は両機種とも名称を『スペースジェット』に改める。

現行の90席の機種は飛行に必要な国土交通省の型式証明(TC)取得に向けて最終段階に入っており、20年にも納入を始めたい構え。ただ新機種の投入で事業は事実上、縮小する見通しだ。

米国では航空会社とパイロットの労使協定(スコープ・クローズ)で、地域間を飛ぶ航空機の座席数などに上限が設けられている。90席では基準を満たせないが、三菱重工がMRJの開発をスタートした08年当時は労使協定が緩和されるとの観測が支配的だった。だが、現時点では協定緩和が実現していない。このままでは世界最大の米国市場で売り込めないと判断。米国市場を攻略するために70席モデルの開発に踏み切る。


一方、70席モデルは今後の開発となるためTCが取得できるのは早くて22年以降とみられる。顧客が90席モデルから切り替えた場合は、納期のさらなる遅れにつながる。70席モデルのジェット旅客機は主にブラジルのエンブラエルとカナダのボンバルディアが手掛けている。エンブラエルは『Eジェット』シリーズで70席モデルを約960機受注している。70席モデルで後発となる三菱航空機がどこまで市場に食い込めるかは不透明だ。

90席モデルのMRJはこれまで全日本空輸(ANA)などを最初の顧客として注文を受け、最大447機(基本合意を含む)を受注していた。ただ、開発の遅れで受注残は407機に減少したほか、事実上、受注をストップしている。MRJは1965年の『YS11』以来となる国産民間旅客機として08年に開発が始まった。三菱重工は18年3月期までに計6千億円超の開発費を投じており、社運をかけた一大事業だ。

90席モデルは当初、13年12月の納入を目指していた。ただ、設計変更や安全性証明を巡る作業の遅れなどから5度延期し、事業化は7年遅れている。これまでも内向きの開発体制を刷新し、開発や営業部門などを外国人中心の組織体制に変更し改善を模索してきた。今回はグローバル市場を見据えて機種名からも『三菱』の名前を外し、ブランド戦略の立て直しもはかる。

MRJは、2008年に事業化を決定。初号機の納入は13年を予定していたが、設計変更などで納期を5度にわたって延期している。

大型旅客船の建造の失敗で3~4千億円の損失を出した三菱重工業。今度はMRJのしりぬぐいに必死だ。もう開発当初の世界に先行した飛行性能など、競争相手にキャッチアップされ、艱難辛苦の時代に入っている。一番のポイントはサービスねっと。ボーイングやエアバス傘下に入った企業は、世界を網羅したそのサービスネットが使える。反面MRJの場合、全世界ネットなどとてもできない相談で、受注競争でも一歩も十歩も相手に後れを取っている。机の上でかいた計画は夢のまた夢になりそうだねえ、三菱は。90座席機から70座席機への計画変更は、もう『MRJは大失敗』の烙印を押される動向ではあるな。可哀想だ、三菱重工業。だが、MRJは計画の甘さが随所に目立つ。


★★<日本郵便、広島駅南口に20階ビル>日本郵便は、JR広島南口にある『広島東郵便局』を解体し、オフィス主体の20階建てビルを建設する。飲食などの店舗も整備し、2022年頃の開業を目指す。駅周辺では再開発ビルや複合ビルの建設が相次ぎ完成。駅ビルの建て替え計画も進んでおり、広島の『陸の玄関』はさらに変貌する。

敷地は4,200屬如⊂果明僂榔笋4万5千屬離咼襪砲覆襦上層階をオフィスとし、低層階に飲食や物品の店を入れる。中層階には駐車場を設ける。広島東郵便局は9月頃近くの再開発ビル福屋百貨店が入居する『エールエールA館』に窓口機能を移し、現在の建物を解体する。

駅南口には三つのエリアの再開発ビルが揃い、北口側もオフィスの入った複合施設が今春完成するなど様変わりした。駅ビルも20階建てに建て替え、25年春の開業を予定。今回の新ビル建設で、駅周辺の再生は大詰めを迎えた。

まあ、福岡などの大幅な遅れをみる広島駅周辺の再開発ではあるな。が、大きく変貌し、あの時代遅れの田舎くさい広島駅のイメージは大きく変わる。いいことだ。


★★<ソフトバンク、米ドラ1右腕獲得>ソフトバンクは、米イースタン・フロリダ州立大学の『カーター・スチュワート投手(19)』と契約に合意した。スチュワートは昨年の大リーグMLBのドラフト会議でブレーブスから1巡目(全米の8位)に指名されたが、身体検査で手首に問題があるとされ契約金が押さえられ、入団に至らなかった。

ソフトバンクとの契約は6年総額700万ドル、7億7千万円と言う。今年のドラフト会議でも指名される可能性があった。ソフトバンクは『世界中で良い選手を探してきた。以前から取り組んで来たこと』としている。身長198cm、体重101kg。

この獲得は、新人選手の争奪を巡り、日米が新しい時代に突入する契機かも知れない。日本の球団が米国のドラフト対象選手と契約するのは初めて。NBP日本野球機構によると、日米間で米国アマチュア選手との契約を規制するルールはなく、今回の契約に問題はないと言う。

常識を打ち破る斬新な発想だが、双方に利点のある契約と言える。米国ドラフト1巡目の評価を得たスチュワート投手は、日本のドラフト候補と比べても超一級品の素材なのは間違いない。スチュワート投手が日本で活躍すれば、6年後に大リーグ球団との大型契約も実現可能だろう。

日米間ではこれまで、アマ選手の流れは日本から大リーグへの『一方通行』だった。しかし、現在はルールが整備され日本のトップアマ選手が大リーグ球団と直接契約する可能性は以前よりかなり低くなった。大リーグでは、日本を含め国外のアマ選手との契約が解禁になるのは毎年7月以降。日本の高校生や大学生は、卒業してもすぐ大リーグ球団と契約出来ない。

今後、従来とは逆の『米国から日本へ』という流れが出来るかどうか。外国人出場枠あるため安易な契約は出来ないとはいえ、興味を持つ日本球団はあるだろう。日本球界にとって、大リーグに対抗する有力なカードになりうる。面白い時代が到来したもんだねえ。


★★<韓国産ヒラメなど検査強化 政府、輸入規制への対抗措置>政府が6月1日から韓国から輸入するヒラメのモニタリング検査を強化する。特定の国の水産物輸入を規制強化するのは極めて異例。韓国が東京電力福島第1原発事故後、福島など8県の水産物の輸入規制を続けていることを受けた、事実上の対抗措置となる。

検査を強化する輸入水産物は韓国産ヒラメのほか、生食用冷蔵むき身のアカガイ、タイラギガイ、トリガイ、ウニ。 韓国産ヒラメについては、全輸入量に対するモニタリング検査を現在の20%から440%に引き上げる。嘔吐や下痢をもたらすクドアという寄生虫を原因とする韓国産ヒラメによる日本国内での食中毒が平成27年が8件(患者数62人)、28年が10件(同113人)、29年5件(同47人)、30年が7件(同82人)発生していた。

アカガイ、タイラギガイ、トリガイ、ウニについては、腹痛や発熱をもたらす病原微生物、腸炎ビブリオの検査を現行の10%から20%に引き上げる。30年に輸入ウニを原因とした腸炎ビブリオによる食中毒が発生しており、同種の食品についても対象にする。

政府は検査を強化する理由について、食中毒が増える夏場を前にした「安全性の確保」を挙げている。いずれの水産物についても、残留農薬や加工、流通などで食品衛生法違反の可能性が高いと認められた場合には、全量検査も視野に入れる。今後の検査結果を踏まえ、検査率のさらなる引き上げも検討する。厚労省は、韓国産ヒラメなどの検査を全国の検疫所で強化するため、今年度の輸入食品等のモニタリング計画を改正した。

韓国による日本産水産物の輸入規制をめぐっては、4月に貿易紛争を処理する世界貿易機関(WTO)の上級委員会が、韓国の輸入禁止措置を不当とした1審の判断を破棄し、事実上、日本が逆転敗訴した。韓国は『上級委の決定を尊重する』として日本産水産物の輸入規制を継続しているのに対し、11カ国・機関はWTOに異議を唱えた日本の立場に支持を表明している。

まあ、韓国に対しては目には目を、だな。もう友好国とはとても呼べない隣人だ。私は国交を断絶してもいいくらいの気持がある。今の朝鮮半島がロシアに占領されていたことを想像すれば、朝鮮半島の人達は日本に感謝をすることはあれ、非難する言われはないはずだがな。農業の進展、鉄道の施設、河川の管理、インフラの設置など朝鮮半島の人達の自力では出来ないことを日本は行ったのだがな。


★★<カープ 両リーグ最速30勝、誠也バット折られても逆転お膳立て同点打>
セ・リーグ カープ5―3ヤクルト ( 2019年5月29日 神宮 )

カープは29日のヤクルト戦に5―3で今季12度目の逆転勝利を飾り、両リーグ最速で30勝に到達した。4番・鈴木誠也外野手(24)が初回に15号先制2ランをバックスクリーンへ運ぶと、1点を追う5回には左翼線同点二塁打で3打点目を挙げ、逆転劇をお膳立て。94年8月の球団記録に並ぶ月間18勝目を挙げた。
 
打って欲しい場面で打つ。それが4番打者だ。1点を追う5回、29分間の降雨中断が明け、バティスタが空振り三振した2死一、三塁で打席に鈴木。カウント2―2からの内角直球にバットをへし折られながらも、鋭いスイングで左翼線にライナーを飛ばした。『「みんながつないでくれた好機。走者を還せてよかった。得点圏だったので集中することだけを考えました』。


逆転劇をお膳立てする同点二塁打。初回から4番打者のバットは全開だった。2死一塁に四球のバティスタを置き、初球の真ん中高め150キロをいきなりバックスクリーンへ。『先制点につながってよかったです』。4試合ぶりの15号先制2ランに笑顔がのぞいた。

試練の右足首骨折から1年9カ月。患部は順調に回復し、走塁でも本来持つスピードが戻りつつある。同点二塁打を放った5回、なおも2死二、三塁の場面では、西川の遊撃内野安打で一塁送球が乱れたスキを突いて三塁を蹴り、一気に5点目のホームを踏んだ。『三塁コーチの広瀬純さんが手を回していたので。スキを突くのは当然。今はそれができています』。

今季は既に8盗塁。当初掲げた3割30本30盗塁も、あながち難しくはないように思えるが、本人は笑って首を横に振る。『個人目標としてはいいけど、そういう感じじゃなくなってきました。勝てばいい』。4番としてチームの勝利にどう貢献するか。意識の重心は大きく変わった。

4月の低迷から逆襲に転じ、両リーグ最速の30勝到達。3打点を挙げて貢献した4番打者に緒方監督は『バティスタが倒れた後、誠也の一打が相手投手にショックを与えたと思う。4番の仕事をしてくれた』と絶賛した。2試合を残す中で、94年8月にマークした球団記録に並ぶ月間18勝目。25年ぶりに記録更新へ、元気な主砲が攻守だけでなく走でもチームをけん引する。

しっかし、心配だねえ。まだまだ先のことだが、誠也もFC権を取ったら巨人に移籍するんだろうねえ。まあ、関東出身の選手はほとんど、移籍だからねえ。しっかし、それまでしっかりカープのため頑張ってほしいねえ。

ヤクルトファンには申し訳ない、カープのヤクルト戦2連勝。今日はカープは新人口が初先発する。カープもリーグ優勝を目指し、白星を重ねることを目標としているからには、ヤクルトの連敗には同情心は起こせないのだねえ。ごめんね、ヤクルトファン殿。

昨夜のプロ野球では、阪神ー巨人戦が名勝負になったねえ。12回裏、満塁サヨナラホームランを高山が打ち、ジ・エンド。結果、阪神に抜かれて3位に転落。l巨人ファンにとっては、何やら不吉な予兆にも見えたかしら。

『プレミアブランド小話⑩ メルセデス・ベンツの危険な賭け』

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今日の画像は、事実上の空母化が決まったヘリコプター搭載護衛艦『いずも』と、ヤクルト戦を7回1安打と好投しプロ初先発で初白星を挙げた『カープ・山口翔投手(20)』。そして春の息吹『ハナニラとスズランズイセン』です。

山口は、熊本工高出身。入団以来評価は高かった。ヤクルトの大型打者村上も熊本の九州学院高からの入団の同期生。熊本では、練習試合に、春夏の県代表試合にと競った間柄だろう。山口の投球は、直球に威力があり、7回までノーノ―ピッチング。それを破ったのが同じ熊本出身の同期生である村上。レフトへのヒットを放ち、なんとか面目を守ったが、チームはカープに冷封されて14連敗。現実は厳しくもまた楽しくもあります。これでカープの先発の穴のピースが埋まりました。生きのいい山口が投手陣の柱となってくれる日も遠くないでしょう。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★メルセデス・ベンツは、1990年代半ばからその車作りの姿勢を大きく変更した。それまでの『最善か無か』というスローガンを取り下げ、全モデルを思いきりコストダウンすると同時に、Aクラスという200万円台の小型車を出したのだ。それ以外のモデルも車作りの考え方を大きく変え、ローコストで高効率・大量生産出来る設計とした。

これは当時『400万台クラブ』という言葉がまことしやかに流布しており、年間400万台以上の生産規模を持たない自動車メーカーは淘汰されると言われてたいための対策だった。要するに、質より量を選んだのだ。クライスラーとの合併で『ダイムラー・クライスラー』となったのも、その目的に即したものであった。

しかしこの試みは凶と出た。1990年代から2000年代前半にかけてデビューした車は次々と品質問題を起こしたほか、見た目の品質感も明らかに落ち、古くからのメルセデス・ベンツファンをがっかりさせてしまった。長期耐久性もひどく低下したようで、1990年代まではドイツのタクシーと言えばメルセデス・ベンツが定番だったが、近年ではメルセデス・ベンツ比率は大きく落ち込み、今や主流はVWとトヨタである。さらに、1997年に鳴り物入りでデビューした小型車Aクラスが転倒問題を起こした上に、2002年に発売されたEクラスでは全車に標準装備された先進のブレーキ・パイプ・ワイヤ・システムで不具合を頻発し、安全性にさえ疑問符がついたのである。


しかし面白いのは、ここまで商品低下や不具合が重なったにも拘わらず、この時期メルセデス・ベンツの売上はそれほど落ちなかった。それどころか、この間も販売台数は伸びているのだ。ブランドイメージはダメージを受けたものの、販売面はダメージを受けていないのだ。これは一体何故か。多くのメルセデス・ベンツユーザーは品質問題があるにも拘わらず、メルセデス・ベンツを買い続けたからである。

メルセデス・ベンツのユーザーの立場で考えてみよう。メルセデス・ベンツの品質が下がったとはいえ、それでBMWやアウディやレクサスに乗り換えるかというと、それでは自らの求める自己イメージから外れてしまう。替えることに対する心理的障壁は想像以上に高いものがある。それで結局、品質に問題があるのは分かりつつ、メルセデス・ベンツを買ってしまうのだ。

つまりブランドイメージ、ブランドアイデンティティの強さというものが、経営のミスを補ってしまったのである。さらには、カバーする価格帯レンジを下げたことで、メルセデス・ベンツに憧れを持ちつつ、それまで買えなかった層が流入し、販売を伸ばすことになった。メルセデス・ベンツは、この品質問題と商品の下方展開でブランドイメージは損なったものの、商売としては順調だったのである。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」 裕次郎さんとの出合い』
日活のスターを取材するのは多摩川撮影所だ。中でも石原裕次郎さんは私と同じ昭和9年生まれだったので、撮影所でも気さくに話しかけてくれた。

と言っても相手はすでに日活の看板スター。昭和31年(1956)の『太陽の季節』でデビューして以来、1年に9本という驚異的なペースで映画を撮っており、数多くのヒットを飛ばしていた。昭和32年の暮れに主演した『嵐を呼ぶ男』は、人気ジャズバンド『ビッグ・フォー』の興行権を巡る実話を元にした映画で、ジョージ川口とフランキー堺のドラム対決などの話題もうまくアレンジして盛り込み、連日超満員。映画館の扉が閉まらなくなかったという伝説さえ残した。

その時の裕さんのスタイルは肩幅の広いダブルのステージ・ユニフォーム。これは『バンドマン・スタイル』として、すぐに一般の若者にも大流行した。

だから、日活も裕さんの映画を作れば当たるのが分かっていたから、私が初めてインタビューに行った昭和34年には4~5本の映画を同時進行で撮っているという最中で、まさにハードなスケジュールの真っ直中だった。


撮影所の食堂で20分間のインタビューという約束だったが、時間通りになかなか現れない。やっと現れたと思うと、宣伝部の人が咳き込むように、『すみません、撮りが押してて5分が精一杯です』なんて言われることもしょっちゅうだった。

そのうちに、こちらも待っている時間に、弟分の和田浩二さんや、赤木圭一郎さん、宍戸錠さん、川地民夫さん、脇役で売れていた藤村有弘さんなどをインタビューしたり、撮影したりと、おかげで立ち回りがうまくなった。

後、裕さんは、映画界だけでなく歌謡界にも大旋風を巻き起こした。映画の主題歌としても歌われた、低音の、乾いたエコーの効いた『裕次郎節』は、数々のヒットを飛ばしたのだ。

昭和31年(1956)8月に初主演した2作目『狂った果実』に始まり、『俺は待ってるぜ』『錆びたナイフ』『お前にゃ俺がついている』など昭和32年の暮れまでに14曲、昭和33年には驚くことなかれ、『嵐を呼ぶ男』を皮切りに、『俺はパイロット』に至るなんと26曲もの歌を、1年間の内にレコーディングしたのだ。

私も、堀の内にあったテイチクの録音スタジオでレコーディングには何回も立ち会い、インタビューもさせてもらった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<『ワークマン』の国内店舗数がユニクロ超え、FCオーナーに希望者殺到の理由>国内店舗数が839店と“ユニクロ超え“を果たし、25年には1000店の目標を掲げる『ワークマン』。出店増を支えているのが、店舗の約9割に当たるフランチャイズ(FC)契約店だ。FC契約の初回継続率はほぼ100%。店の売り上げ1億2000万円の約1割がオーナーの収入になるといい、『ホワイト』フランチャイズだとオーナー希望者が殺到している。

◇国内店舗数はユニクロ超え 9割がフランチャイズ
『先に脱サラした同僚から、「ワークマン、いいぞ」と誘われて――』。そう話すのは、ワークマン足立尾久橋通り店の店長を務める武藤等さんだ。ドラッグストアの社員として働いていた武藤さんは、50歳での脱サラを考えていたころ、元同僚から、『ワークマンのオーナーをやらないか』と声をかけられた。話を聞くと、新店の立ち上げからではなく、既存店にオーナーとして入る形だった。

武藤さんは衣料品を取り扱った経験がないため、不安はあった。ただ先にオーナーになった元同僚は、武藤さんから見ると『何事も続かないタイプ』。『あいつでもできるんだったら』と、2012年にワークマンオーナーの道を選んだ。

フランチャイズ(FC)契約をめぐっては、24時間営業など、コンビニの加盟店オーナーの負担が世間の注目を集めている。そして、ワークマンの国内店舗数839店の約9割が、FC契約店である。ワークマンとコンビニの違いは、営業時間が短いこと、そして定休日があることだ。職人向けの商品が多いため、ワークマンの開店は朝7時からと比較的早いが、夜は20時に閉店する。レジ締めの作業を昼間に行うこともホワイト要因の一つ。閉店時のレジ締め作業がなく、『外に出している商品も少ないし、閉店後5分で家に帰れます』と武藤さんは笑う。これはワークマンの本社が群馬にあり、周囲に夜間金庫がなかったことの名残だというが、おかげで店長は残業とは無縁だ。その働きやすさから、店長の4分の1が女性だという。


◇口コミでオーナーになったケースが約3割
ワークマンのオーナーへの道は大きく2通りある。オーナーを募集している店舗を探して面接を受けるパターンと、現オーナーからの紹介や親族への引き継ぎなどの口コミだ。後者の比率は約3割だという。武藤さんのように元同僚から声がかかることも少なくなく、ある会社の脱サラ組が紹介に紹介を重ねた結果、その会社名を冠した『○○村』と呼ばれている地域もあるという。また、約6割のオーナーが小売業未経験者だ。

オーナーになるには、個人契約で一人1店舗。夫婦での登録が原則だ。これは店のリピーターを獲得するためであり、夫婦だと『夫のファン』『妻のファン』と顧客を分散できるからだという。職人がオーナーになることはほとんどないため、店に並んでいる商品がどういう職種の人に使われ、どういう商品が良いものなのか、今現場ではどんなニーズがあるのか、といったことは客から教わることになる。

例えば、建設現場ではニッカポッカを履くイメージが強いかもしれないが、大手ゼネコンの現場では、“ニッカポッカ禁止令”が出ているところも多い。そうした現場が近くにあると客から聞けば、それに合った商品を並べられる。『今年はハーネスをたくさん買っていくお客さんがいて、理由を聞くと、法改正でフルハーネス型の安全帯が義務付けられた現場があるとのことでした。うちでは1万5800円という高価格帯の商品なので、そうした情報は本当に貴重です』と武藤さんは話す。

職人向けの商売は、昔ながらの個人商店のような密なコミュニケーションが必要となる。客がつけば常連化しやすく、店の常連客が『いいの選んでやって』と現場に入ったばかりの新人を連れてくるようになる。最近は長年雇ったパート・アルバイト社員へ代替わりするケースも増えている。オーナーの最後の契約更新は65歳で、その後継者として店舗のオーナーを本部が探すことになるのだが、そのまま勤めていたパート社員に譲る場合は、『パート・アルバイト独立支援制度』として、加盟時の必要資金が減額されるという。


コンビニFCの代表格であるセブン-イレブンの創業は1973年。ワークマンが創業した1982年当時は『フランチャイズブーム』 の時期であった。しかし、ワークマンの場合、もともと『いせや(現・ベイシア)』の衣料部門が、大阪で売れている職人向け衣料ショップのビジネスモデルを真似して作った店舗からスタートしており、コンビニとは出自が異なる。社内の人間が加盟店になっていった経緯があり、『本部』『加盟店』というより、今でも『のれん分け』の感覚に近い。

◇ワークマンのFCの仕組みには、2つの大きな特徴がある。
まず、新規店舗は店舗用地の取得からオープンまで全て本部で行う。コンビニでもよくある、本部が土地・建物を用意するというパターンだ。開店してからオーナーが決まるまでは本部で運営する。テリトリー権(FC本部が加盟店に対して、その営業地域を特定する権利)はないものの、『人口10万人に1店舗と決めています』とフランチャイズの責任者である加盟店推進部の八田博史部長は言う。

もう一つの特徴が、契約後1年は店舗の年間売上高が6300万円に達するまで、売上高にかかわらず“固定給”がオーナーに支払われる『Bタイプ』という契約形態がある点だ。通常のAタイプの契約は、粗利益の60%を本部に上納する。Bタイプの場合、粗利益の如何にかかわらず、月50万円と歩合分が本部からオーナーに支払われる。小売業の未経験者が多くても何とかなるのは、この仕組みがあるためだ。

年間売り上げが6300万円を超えると、そこからは利益連動方式になる。現在1店舗あたりの売上高は約1億2000万円。オーナーの懐に入るのはだいたい1200万円と推定されている。

Aタイプは契約時の必要資金として、加盟金、開店手数料、研修費、保証金、開店時出資金合わせて350万円。Bタイプは開店手数料、研修費、保証金のみで150万円が必要になる。契約期間は6年間で、オーナーの年齢が65歳になるまで更新できる。再加盟料は200万円かかるが、『1回目の更新は、病気になった場合を除けばほぼ100%。脱サラ組が多いのでオーナーの平均加盟期間は10年だが、20~30年契約しているオーナーもたくさんいる』(八田部長)。なかなか“おいしい”話のようだが、実際にオーナーになるにはハードルがいくつもある。


◇オーナー選びに面接は6回 親族でも落ちるケースも 
まず、自分で店舗を建てることができないため、オーナーを募集している店舗しか応募できない。土地勘がない場所では難しく、Iターンはお断りだ。1回目の面接もある程度選考した相手としか会わない。次に、オーナーの息子など親族の場合でも、本部がダメだと思えば平気で面接で落とす。オーナー次第で店の売り上げが大幅に変わるため、オーナーを選ぶまでに6回もの面接を本部の人間が行う。いい人が見つからなければ店舗は本部で運営し続けるため、いつまでたっても直営店のままになっている店舗もあるようだ。

もちろん、ワークマンのFCがずっとバラ色だったというわけではない。ワークマンが一番苦しかった2009年のリーマンショックのころは、オーナーたちも売り上げが落ちて苦労した。ただ、夫婦経営が主体で、職人の『顔なじみ』の店になっていたため、売れ行きは落ちても顧客は離れなかった。その時期に、他社を駆逐する低価格帯の維持と、PBのヒット商品を本部が作ったことで、少しずつ客足が戻ってきた。最近は『ワークマンプラス』の好調で、一般客まで来店するようになり、手持ち無沙汰の時間も減った。苦労を共にしたことがかえってオーナーと本部の関係を良好にしたという。

また、最近では本部がインターネット上で直接販売するECもオーナーの懸念材料の一つだった。そこで、あえて受け取りを店舗にすることが選べるようにECサイトを設計。受け取りを店舗で行えば、店舗で購入したのと同様、売り上げは加盟店の物になるようにした。現在では66%が店舗受け取りになっている。『「加盟店とともにワークマンは伸びている」ということを、社長になってから(土屋嘉雄)会長にはさらに厳しく言われています』と小濱英之社長も苦笑する。

『今選ぶんだったら、ワークマンのオーナーがよかっただろうね』。あるセブン-イレブンのオーナーは、記者の取材にこう漏らしたことがある。しかし、今は絶好調のワークマンでも、良い時ばかりは続かないだろう。消費環境の悪化や建築需要の減少など、不安要素は尽きない。成長期にはもてはやされたコンビニのFCも、本部の『共存共栄』との言葉が今は空虚に響く。ワークマンのFCが、オーナーから“ホワイト”だと評価されるのは、本部とオーナーの信頼関係が強固であることに他ならない。いつかこの信頼関係が揺らぐときがきたら、それはワークマンの致命傷になるだろう。

『本部はヒットを生み出し続けてくれると信じている。売れなくなる時期がきたら? そのときのために今からお金を貯めておきますよ』(武藤さん)。オーナーの期待に応え続けることができるかどうかが、ワークマンの今後の成長を左右する試金石となるだろう。

ふーん、知らなかったなあ『ワークマン』。広島市内で、一件、比治山トンネル下で店を見たことがある。なにやらがさつで、建築作業者向けグッズが並んでいる、ややむさくるしい業態だったが、これがワークマンFC店だったんだねえ。世の中色々あるなあ。セブン-イレブンも真っ青か、な。


★★<王者・カープにニューヒーロー誕生 20歳山口、強力援護の打線に感謝『カープに来て良かった』>広島が投打に渡ってヤクルトを圧倒し、ともに今季最多となる16安打13得点で完勝を収め3連勝。5月の成績を19勝4敗1分けとし、1994年8月にマークした月間最多18勝を塗り替える球団新記録を樹立した。

◇セ・リーグ 広島13―0ヤクルト ( 2019年5月30日 神宮 )
プロ初先発で7回2死までノーヒット投球。7回1安打無失点快投で文句なしの初勝利を挙げたカープ・山口翔投手(20)は敵地でのヒーローインタビューに終始笑みが絶えなかった。
祝福の声に満面笑みで『ありがとうございます!』と元気よく応じた山口は『全力でやった結果が勝ちに結びついたので、本当にとてもうれしいです』と第一声。『意識したら崩れるかなと思ったんで絶対に意識しないように心がけて頑張りました』と7回2死まで続いたノーヒット投球を振り返った。

試合前には元エースの佐々岡投手コーチから『1人1人を集中して全力で投げて来い』と声をかけられ送り出されたそうで『その通りに全力でいった結果がこうなったので、また次もこうやって頑張りたいです』と若鯉らしい初々しさをにじませた。


熊本工から2017年ドラフト2位で入団したプロ2年目。5月7日の中日戦でデビューしてから3試合にいずれもリリーフ登板し、計4回を無失点。4度目の登板で初めて巡ってきた先発も7回無失点とこれで11回連続無失点だ。

初回から140キロ台後半の速球とスライダーを駆使して快調に飛ばした。『まっすぐが自分の武器なので、そのまっすぐを見せることができたので本当に良かったです』。握りしめたウイニングボールは『もちろん自分を生んでくれたお母さんとお父さんにあげたいです』とし、どんな言葉をかけながら渡すか問われると『生んでくれてありがとう。俺やったよ!って言います』と最高のスマイルを浮かべた。

ともに今季最多の16安打13得点という打線の援護に『野手の皆さんがたくさん打ってくれたので自分は本当に投げやすかったのでカープに来て良かったなと思いました』と山口。

故郷・熊本の人たちへメッセージを、と促されると『うわ~』と声を挙げた後で『とりあえず、やったよ!って皆に言って、また次も頑張るよみたいな感じで…。頑張ります!』と最後まで初々しさ全開のニューヒーローだった。


山口は熊本出身ながら2歳から小学5年まで広島在住。緊張する初先発の舞台でも堂々と腕を振れたのは、ファンとしてテレビで見ていた永川の独特なフォームがキッカケだった。『大あっぱれだよ。秋のキャンプから期待していた投手の1人。2~3試合は任せてみようと思う』。月間19勝の球団新記録に貢献した新星を緒方監督は絶賛し、交流戦でも先発起用を明言した。

カープは、丸移籍の大穴が心配されたが、次々に新しいパワーが生まれてくる。バティスタの打棒も素晴らしい。シーズン初めには、あの外角に落ちる球を空振りし放題だったが、今は見極めるどころか、右打ちでホームランも。1回、ライトスタンドへ打ったホームランは強烈なライナー。テレビカメラも追えず、どこへ落ちたかも画面では確認できなかった。9回の2本目は、レフトへ打った瞬間ホームランと分かる打球。そして続く鈴木が絶好調。みんな見事なものだなあ。ご立派だ。


★★<ヤクルトファンの反応>ついにヤクルトは14連敗を喫した。ヤクルトファンブログでトップのアクセスがあるブログの内容。この人の心境、ヤクルトファンを代表しているのだろうねえ。カープだって、4月借金8になった時には、緒方はもう出涸らしか、と思ったもんねえ。ヤムを得ない意見ではあるなあ。可哀想だ。超自虐的ブログを見つけた。以下。


《2019.05.29 対広島10回戦/蟻地獄にハマったようだ》

ヤクルト・高橋、無念2敗…  五回途中5失点
(セ・リーグ、ヤクルト3-5広島、10回戦、5勝5敗、29日、神宮)
先発の高橋は自己最速を1キロ更新する152キロの直球を軸に勝負を挑んだが、
五回途中7安打5失点で2敗目を喫した。

3-2の五回2死一、三塁では鈴木に対し、5球連続で直球を投じた。
最後はバットをへし折りながらも左翼線へ運ばれて同点。
続く西川に勝ち越し打を浴びた。
『(五回は)投げ切りたかった。強気にいったが、切り替えられなかった』
と悔やんだ。(サンケイスポーツ)


これで13敗目だ、快調そのものである。
しかも最下位の横浜とはゲーム差なしの0.5差だ、
こんなに嬉しいことはない、最高だ。 しかも1位の広島とのゲーム差は9.5差だ、
もう今年の優勝はなくなったしAクラス入りも絶望的だ、
これは地蔵が如何に無能かが示されているし
今年から入団した大物と騒がれ高待遇で入ったバッテリーコーチの衣川が
これまた、如何に無能だったか理解できる。
特に衣川はプロの選手経験はなくアマでの活躍が認められて入団、
しかしながらこのザマだ、どうしてくれようか?
しかも交流戦が明後日の6月1日から始まる、これで小川はお陀仏だろう、
昨日も言ったことだが更に連敗を伸ばすなら
御大地蔵の首は一気に飛んでしまう、これほど喜ばしい事はない、
そして宮本がリーダーとなってヤクルトの指揮を執るのは間違いない。
なので連敗は嬉しく思え、最高じゃないかと感じてならない。

ただ懸念されるのは以前、前地蔵政権時に最下位になり、
地蔵退任が確実、そして退任発表がされると思っていたら
衣笠がなぜか退任発表の極手前で「彼(地蔵)に代わる指導者はいない」と言い始め、
続投させた苦い経験を思い出す。
だからそれを考えれば今年が最悪のシーズンであっても
地蔵続投の可能性は高い、しかも地蔵はイエスマンで
衣笠の言うことなら何でも聞く周囲がどう言おうとまさに鶴の一声である。
そうだよな、監督を退任したら、高収入が水の泡となってしまうから。
あんな寝たような顔面でもよ、上の言う事だけは必ず聞く、


ヴォーッと してんじゃねえよ! (ʘ言ʘ╬)
チコちゃんなら、 普段よりも、もっと怒り狂うだろう。
もっと深く考えたら誰でも監督なんかできる、
まさに、そう言う事になってしまうのだ。 
例えばの話ではあるが 今年最下位になった挙句に地蔵続投、
最後の切り札として クソ真中がヘッドコーチなどになったら
お前はヤクルトを応援するか?
ワタシなら接待に応援なんかしない、 する訳がないと言える。
ああ……嫌な事を思ってしまった、 これで今日一日は最悪日となるだろう。
ああ、考えただけでも気持ち悪い、おぇぇぇ…
とりあえずは、この13連敗を祝し、 今日一日を良い一日にしようじゃないかよ。
しかし地蔵、クソ真中コンビ、 マジに吐きそうになってしまう、おぇぇぇ…

一応、地蔵は三年契約ではあるが、
地蔵は自らの意思で即刻退任せよと言っておく。(参考: ブログ『構造イズム』)

※この『地蔵』なるものが何者か不明である。文脈からすると小川監督を指しているが、監督の名は『淳司』である。あだ名が地蔵なのかな。


★★<電ミスで排気筒解体を延期 福島第一、クレーン届かず>政府と東京電力は、福島第一原発で、倒壊リスクのある1、2号機の排気筒の解体について、今月開始予定だった工事を2カ月延期すると明らかにした。作業用のクレーンの構造の確認を怠ったといい、汚染水対策をはじめ、今後の様々な作業にも影響が出るおそれがある。

高さ120メートルの排気筒は8年前の原発事故で外部に放射性物質を含む水蒸気を放出する『ベント(排気)』に使われた。損傷が見つかったが、周辺の線量が高く、放置されてきた。

東電は倒壊や、部品の落下を防ぐため上半分の撤去工事を20日に始める予定だった。だが直前になって、クレーンが解体のための作業用装置を計画より1.6メートル低くしかつり上げられず、排気筒の上部に届かないことが判明した。

東電は、ミスの原因を当初『計器の誤差と考えられる』と説明していたが、その後『クレーンのワイヤの巻き上げ過ぎを防ぐ安全装置の場所を、実際より高い位置にあると思い込んで計画していた。ワイヤは計画した高さまで巻き上げられなかった』と変更した。実際のクレーンの詳しい設計図を確認せず、一般的なクレーンの構造をもとに計画書を作ったためという。

本当にだらしない東電だ。こんなオソマツなことをしているから、原発事故のようなことを起こすのだ。原発事故は間違いなく人災である。私は原発事故で避難した人達への補償が満足・十分に行われていないことに腹立たしく思っている。強制的に避難させられ、解除後、元の住居に帰っても、商店はなし、隣人は帰ってこない状況で、補償金は1所帯10万円なにがしかだそうだ。一体、政府も東電も被害者への補償をどう考えているのか。全く被害者救済の気持さえない政府・東電である。

やはり、原発事故後、いったん東電は倒産させ、新しく出直す形を取らなかったのが仇となり、内部に溜まったドロドロとした垢や膿はなんらそのままの状態であはるのだ。困った東電だ。

『プレミアブランド小話⑪ ポルシェ911ばかり60台も』

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今日の画像は、岡山市南区の畑などがパッチワーク模様を作り出ている『児島湾干拓地の麦畑』、昨夜阪神戦で12回裏サヨナラヒットを打って月間20勝記録に貢献した『カープ・野間峻祥タカヨシ』。そして春の花『ハナニラとスズランズイセン供戮任后私はこの2つの花がとても好きです。特にハナニラの紫がかったのが大好き。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★往年のレーシングドライバー、『生沢徹さん』。1964年の第2回日本グランプリレースでスカイラインGTを駆り、わずか1周とはいえ、式場宗吉さんが駆るポルシェ904をリードし、『スカG伝説』を生んだ男である。1967年の第4回日本グランプリではポルシェ906を駆って総合優勝を成し遂げ、その後は活動の中心を欧州に移し大活躍することになる。その際、日常の足に選んだのがポルシェ911である。

以来、彼はポルシェ911の熱狂的なファンである。レーシングドライバー引退後も自らのチームを率いるなどレース活動を続けていたが、それも終えて悠々自適の生活になると、ポルシェ911好きの気持が一気に高まったようだ。欧州で乗っていて、日本に持ち帰った1969年式の911は手放してしまって行方が分からなくなっていたが、わざわざ探し出したと言う。

発見した時にはかなり悪いコンディションになっていたが、すぐにポルシェ本社に送って新車同様に修復。それに飽きたらず、その911が黄色のタルガという仕様だったことから、全世代の911タルガモデルをすべて黄色で揃えてコレクションしたのだ。更にはまったく同じ仕様(白いボディに真っ赤な内装)の911の新車を3台発注して東京とロンドンとモナコにある3軒の自宅に1台ずつ置いたりした。コレクションは増え続け、現在では新旧各モデル合わせて所有する911は、なんと60台以上になっている。

世界中のメディアから取材依頼が引きも切らず、ポルシェ911の50周年を記念して刊行された豪華本には、生沢さんが複数ページを割いて取り上げられているほどだ。古いモデルは、どれも修復をドイツのポルシェ本社まで送って行っているため、コンディションは極上。まさにポルシェミュージアム並みのコレクションだ。それらを収めるための倉庫や整備工場、専属のメカニックまで用意している。


生沢さんほどでなくても、ひたすらポルシェに乗り続けたり、同時に複数台のポルシェを保有したりする愛好家は多い。ポルシェを買い続けて一度も売ったことがない!という人もいる。ポルシェには公式なオーナーズクラブだけで世界中に640あり、メンバー数は18万人に及ぶ。

BMWやメルセデス・ベンツにもコレクターは多い。『カメラのドイ』の創業者である土井君雄さんは世界的にBMWコレクターとして知られていた。土井さんが逝去された後その50台に及ぶコレクションは堺市に寄贈され、現在『堺市ヒストリッカー・コレクション』として公式に保管されている。

時計界でも、かなりの数のロレックス・コレクターが存在するらしい。また、俳優のチャーリー・シーンは、パティックフィリップの時計を相当数集めているという話だ。

強力なプレミアムブランドには、このような熱狂的な顧客層が存在する。彼らにとって、そのブランドは単なる『モノ』ではなく、その人のエモーションそのもの、更に言えば、人生そのものなのである。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」 ひばりさんも褒めた裕次郎さんの音感』行くと、必ずピアノの上にビール瓶が置かれてあって、まずはグラス片手にちびりちびりやりながら、譜面を見て、ピアノを軽く叩いたりする。そして鼻歌まじりに、しばらく譜面をなぞっていたかと思うと、裕さんから『おおい、本番!テープ回しといて』の声がかかる。

それで、リハーサルもなしにいきなり歌い始める。音感については、あの美空ひばりさんも褒めたほどだから、確かに並外れた素質があっただろうが、自分が納得いくまでリハーサルを繰り返す歌い手さんの姿を見ているこちらとしては、まさにあっけに取られるようなレコーディング風景だった。

で、歌い終わったあとみんなでテープを聴いて、スタッフが『裕次郎さん、どうでしょう?』とお伺いを立てると『ん、このままでいいんじゃないの』なんて言う。スタッフがしばらく黙っていると、『じゃあ、今のキープで、もう1回だけやっとこう』と言ってそれでお終い。その後はビールを飲みながら30分間のインタビューってことも何度もあった。

そう言えば、裕さんの25周年の特番をテレビ朝日で、私の司会で放送した時、お兄さんの石原慎太郎さんとの兄弟対談があった。そこで慎太郎さんが突然『今日は記念日だけど、お前に言っておきたいことがある』と始まって、話が裕さんの映画デビュー2作目の『狂った果実』の歌のことになった。


この曲は、作詞が慎太郎さんで、裕さんが歌手として初めて吹き込んだ歌だが、よく聞くと1番と3番の歌詞で、『夢は遠く白い帆に乗って 消えていく消えていく』のはずの歌詞が、『白い帆に乗せて』と歌われていると言う。どうやら歌詞を間違えて歌い、それがディレクター達も誰も気づかないで、そのままレコーディングされて、プレスされ、全国に出回ったというのだ。慎太郎さんが気付いた時はすでに、もう後の祭りだったとか。

だから慎太郎さんが『今日この場で、この曲を歌うんだったら、俺が作詞したオリジナルで歌え』と言うと、裕さんも苦笑い。『じゃあ、25年間の封印を解くか』と言って歌ってくれたお陰で、番組も大いに盛り上がった。

裕さん本人にとっては、自分は俳優であり、歌手じゃないという意識がデビュー以来ずっとあったようだ。が、当時の日活は、裕さんがデビューして結婚するまで下宿していたい家主であり、プロデューサーである水の江滝子さんの号令の下、主演した俳優には必ず歌も歌うように義務づけていたのだ。テイチクでは、裕次郎の実績を足がかりに、日活俳優の浜田光夫、高橋英樹、朝丘ルリ子、ビクターからは吉永小百合、ポリドールからは、日活アクション三羽烏といわれた、赤木圭一郎、宍戸錠、二谷英明がそれぞれレコードを出している。

つまり映画とレコードの両面作戦を展開することによって、人気の倍増を狙うのが目的で、映画スターのレコード吹き込みが盛んに行われた、輝かしい時代でもあった。

勿論日活に限らず、中村錦之助、大川橋蔵、高田浩吉、鶴田浩二、勝新太郎などの他の映画会社の大看板もレコードを出していて、大スターで歌っていないのは、市川雷蔵さんなどごく少数だけだった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<トランプ大統領も衝撃を受けた、天皇皇后両陛下の英語力>5月27日午前9時過ぎ、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、天皇陛下即位後最初の国賓として、皇居・宮殿「竹の間」で会見を行った。玄関で迎えられた両陛下の横に、今まで天皇皇后の国際親善の場にいたはずだった『通訳』はいなかった。驚いたのは、トランプ氏だった。

『陛下は英語が大変お上手ですが、一体どこで勉強されたのでしょうか』。トランプ氏は前日、安倍首相と行動を共にした。安倍首相はゴルフにも大相撲観戦にも通訳を引き連れていたので、トランプ氏が驚くのも無理はなかったのかもしれない。

陛下は、『英オックスフォード大学に留学経験があり、そこで知り合ったアメリカ人の友人を訪ねて、ニューヨークなどアメリカ各地を回りました』と答えられた。さらに、『皇后もニューヨークの幼稚園、ボストン郊外の高校、そしてハーバード大学で学んだ』と説明されたという。

『雅子さまは会見を通じて、メラニア夫人とすべて英語で会話されました。雅子さまが高校2年生になられた愛子さまの話をされると、メラニア夫人も13才の息子バロンさんの話で応じられたそうです』(皇室記者)。

トランプ氏は2017年7月、米紙のインタビューで、安倍首相夫人の昭恵さんについて『夕食会で隣に座ったがハローさえ言わないほど、英語を話さなかった』と発言したことがある。実際、昭恵さんは聖心女子専門学校の英語科を卒業しているので英語が話せないわけではないが、トランプ氏が円滑なコミュニケーションに強いこだわりを持つという象徴的なエピソードだ。


トランプ夫妻は、雅子さまの類い稀な語学力に衝撃を受けたに違いない。外交官の父を持つ雅子さまは幼少期からソビエト連邦(現ロシア)やアメリカ、スイスなど外国での生活が長かった。進学されたのは、アメリカ最古の大学で、世界最高の知性が集まるハーバード大学経済学部。卒業時には学部でわずか3人だけが受賞する優等賞に選ばれた。

『大学卒業後、東京大学を経て、外交官の道へ進まれた雅子さまは、外務省北米局に勤務されました。アメリカ通商部相手の国際交渉で通訳官を務めたほど英語が堪能で、スペイン語、フランス語、ドイツ語、ロシア語なども話されます。並みの通訳など軽く凌駕するネイティブレベルです』(皇室ジャーナリスト)。

卓越した語学力だけではない。1960年代前半生まれの世代の日本人女性の中でも、雅子さまは教養や知性、国際経験などの面で、間違いなくトップクラスのキャリアウーマンなのだ。陛下とご成婚後、雅子さまは紆余曲折を経て適応障害を患われ、皇室の国際親善の場からは遠ざかられていた。それでも、結婚してすぐの頃には、それまでの皇室の国際親善の枠を超えた活躍を果たされてきた。

たとえば、1994年のアラブ7か国への歴訪。当時、男女が同席しないイスラムの慣習に基づいて別々に晩餐会に臨んだ。雅子さまは女性王族に囲まれながら通訳なしで会話を弾ませたという。『それまで日本の男性皇族がアラブの男性王族と親交を持つことはありました。しかし、女性王族とパイプを作った皇族は、雅子さまが初めてで、画期的なことでした』。

お見事なり、天皇皇后両陛下だなあ。雅子さまがこんな華麗なる経歴をお持ちとは、ついぞ知らなかった。外交官の娘さんであることは知っていたが、ここまで深い教養を積んでおられるとは、さすが、と言うほかはないなあ。


★★<なぜJリーグにはビデオ判定がないのか、『世紀の大誤審』が生まれた事情>その場で映像を確認すれば分かる問題じゃないのか。それなのに、なぜ大相撲やプロ野球、あるいはテニスのようなビデオ判定制度がJリーグにはないのか――。J1の浦和レッズ対湘南ベルマーレで起こった、明らかなゴールが認められない世紀の大誤審が、サッカー界を越えて物議を醸したことはまだ記憶に新しい。世界のサッカー界における映像を駆使した判定制度の現状と、再発防止へ向けてJリーグが取ろうとしている対応策をあらためて追った。

◇“世紀の大誤審”で湘南のゴールが認められない事態に
大相撲にビデオ判定が導入されてから今年で半世紀になる。1969年の春場所2日目。45連勝中だった横綱・大鵬が行司差し違えの末に前頭筆頭の戸田に敗れた一番で、大鵬が押し出される直前に戸田の右足が土俵を割っていることが、NHKの中継ではっきりと映し出されていた。横綱・双葉山が持つ69連勝への挑戦が、歴史的な誤審によってあっけなく止まった。世間の反響はすさまじく、日本相撲協会は翌五月場所から『ビデオを勝負判定の参考にする』と発表している。日本のみならず、世界のプロスポーツ界でも初めての試みだった。

今では野球界でもMLB、NPB双方で導入。テニスでは今年1月の全豪オープン準決勝で、大坂なおみがマッチポイントとなるサービスでビデオ判定によるチャレンジを要求し、勝利を告げる画像が映し出されるまで両手を合わせ、心の中で『お願い』と祈るポーズが世界中で話題を呼んだ。アメリカのNBPと日本のBリーグを含めたバスケットボール、ラグビーやNFLを含めたアメリカンフットボール、オリンピックを含めたバレーボールの世界三大大会、レスリング、柔道などスポーツ界で幅広く実施されているビデオ判定が、なぜ日本のサッカー界では導入されていないのか。

ファンやサポーターだけでなく、世間全体で大きな物議を醸したJリーグにおける世紀の誤審をあらためて振り返った時に、ビデオ判定をめぐってこうした声が聞こえてくる。DAZNで動画配信されているのだから、映像で確認すればすぐに事実が明らかになるはずだ、と。ゴールが認められない、前代未聞の誤審が起こったのは5月17日。浦和レッズのホーム、埼玉スタジアムで行われた明治安田生命J1リーグ第12節の前半31分だった。湘南ベルマーレのMF杉岡大暉が放った強烈なミドルシュートが右ゴールポストを弾き、反対側のサイドネットに突き刺さった。レッズの守備陣は失点したと分かっていたのだろう。例えばGK西川周作はゴール内から転がってきたボールを拾い上げ、悔しそうな表情を浮かべながら前方へ無造作に投げ飛ばしている。気持ちを切り替えて、キックオフで試合を再開させよう、というメッセージが込められていた。


ベルマーレの選手たちも、ゴールが決まったと信じて疑わなかった。ビハインドを1点に縮める一撃を決めた杉岡の元へ駆け寄り、歓喜のハイタッチを交わしている中で、山本雄大主審はプレー続行をゼスチャーで示している。つまり、ノーゴールと判断していたわけだ。状況を察知したレッズの選手たちがカウンターを仕掛け、ベルマーレのゴールに迫っていく。レッズのFWアンドリュー・ナバウトとの1対1を、ベルマーレのGK秋元陽太が何とか阻止。ナバウトが負傷したところでプレーが止められたが、当然ながらベルマーレ側は猛抗議を開始する。試合中断は数分間におよんだが、もちろん一度下された判定が覆されることはない。DAZNの配信映像ではボールがゴールラインを割っていることが、はっきりと映し出されていた。肉眼でも確認できたゴールが、認められなかったのはなぜなのか。

試合中の主審は2人の副審、そして第4審判員とインカムを介してコミュニケーションを取り合っている。誤審を導いた要因のひとつに、ボールが異常なはね返りを見せたことがあげられる。左のゴールネットに突き刺さったボールは通常ならばそこにとどまるか、あるいはゴール内へ転がっていく。しかし、問題のシーンではゴール内から西川の近くへ勢いよくはね返ってきた。ただ、ピッチ上で平面的な視野を介してジャッジしていた山本主審には、左側のゴールネットに突き刺さった瞬間が、両チームの複数の選手たちと重なる形となって目視できなかったという。

そうした場合はインカムを介して副審の意見を仰ぐ。ただ、ゴールに近かった川崎秋仁副審はオフサイドの有無を判定するため、レッズの最終ラインの位置に合わせている。ミドルシュートだったがゆえにゴールラインまでは角度があり、そこへ極めて特異なボールのはね返りが加わった。川崎副審もゴールラインを割っていたことを目視できなかった。そして、それまでの経験値から反対側のポストを叩いて、ピッチ内にはね返ってきたと判断したのだろう。ゆえにノーゴールとなり、西川のスローイングとともに試合は続行される判断に至ってしまった。

両チームの選手たちの所作やその後の反応などを見れば、判断が誤っていたのではないかと、一度中断して審判団で再確認するべきだった。この点については、最終的には3-2の逆転勝利をもぎ取った当事者でもある、ベルマーレの眞壁潔代表取締役会長が『今回は、ある意味でヒューマンエラーでもある』とこう語っている。
ビデオ判定を行ってきた欧州リーグと、追加副審で対応してきたJリーグの違い。『ヒューマンエラーについては、人間のレベルを上げていくに尽きる』。眞壁会長はJリーグの理事にも名前を連ねていて、23日に都内で開催された月例理事会で再発防止策をこう訴えた。そして、ヒューマンエラーを補う手段としてビデオ判定を求める声が各方面から上がったわけだが、現状ではDAZNの映像を介して問題のシーンを確認することは許されていない。


サッカーの競技規則は国際サッカー連盟(FIFA)ではなく、国際サッカー評議会(IFAB)によって管理されている。そして、IFABで決定された規則は、FIFAに所属する各国のサッカー協会が管轄する国際試合および国内試合で適用されている。Jリーグは国内試合に該当する。そして、審判団による判定を補助する制度としてIFABが承認しているのは、現時点でゴールラインテクノロジー(GLT)と追加副審(AAR)、そしてビデオアシスタントレフェリー(VAR)の3種類しかない。民間の配信映像などを介して確認することは規則違反となり、抵触した場合はFIFAに加盟する協会へ重大なペナルティーが科されることになる。

2014年のワールドカップ・ブラジル大会で採用されたGLTは、ハイスピードカメラや磁気センサーを駆使して、ボールがゴールラインを完全に超えていたかどうかを判定。ゴールインの場合は1秒以内に主審の腕時計が振動で震え、同時に『GOAL』の文字が映し出される。しかし、スタジアムに機材を設置する場合、初期費用だけで数千万円を要し、さらには試合ごとにランニングコストもかかる。スタジアム内の高い位置、基本的には屋根にカメラを設置しなければならないため、すべてのスタジアムで屋根付きの条件が整っていなければいけない。

コストを含めた一連の事情もあってJリーグではGLTではなく、AARの導入を進めてきた。4人で構成される審判団に2人を追加し、両方のゴールライン付近に配置。ゴールか否かの見極めや、ペナルティーエリア内で発生するさまざまな事象に対する判定の精度を向上させていく。Jリーグでは2016シーズンのJ3で試験導入し、その後のYBCルヴァンカップの準決勝以降、当時開催されていたJリーグチャンピオンシップなどでも採用。2017および昨シーズンはグループリーグを含めたルヴァンカップの全試合で導入した成果を、Jリーグの村井満チェアマンはこう語る。『退場や警告など、ペナルティーエリア付近における悪質なプレーが減少したことで、けん制が働いている、という一定程度の成果があることを認識しました』。

村井チェアマンも、AARを『具体的な措置としては非常に有効』と位置づける。もっとも、AARにしてもVARにしても、審判団の中で瞬時にコミュニケーションを取る作業が欠かせない。ヒューマンエラーを防ぐという、サッカー界における永遠のテーマを今回の誤審問題を介してあらためて共有しながら、短期的にはAAR、中長期的にはVARという手段を講じていくことになる。

我がサンフレッチェも先の横浜戦でのゴールが認められなかった。後に誤審だったが、審判の結果は変わらない。早くJリーグ版『リクエスト制度』を作るべきだ。プロサッカーであり、観客をだますことになる誤審は絶対に許されないのである。Jよ、しっかりしろ、と言いたいねえ。

先の大相撲夏場所で、栃ノ心の取り組みで、審判団が6分協議し、テレビ画像より自分の目が確かだと押し通した。アナクロだなあ。人間の目ってそれほど正確ではない。はやり大相撲もテレビ判定の制度を採り入れるべきだろう。老眼が進んだ審判団に判定を全面的に任せるわけにはいかないのだ。


★★<北朝鮮の対米交渉担当者、処刑か=与正氏も『謹慎中』-韓国紙>31日付の韓国紙・朝鮮日報は、ハノイでの2回目の米朝首脳会談で実務交渉を担当した北朝鮮の金革哲・国務委員会米国担当特別代表らが決裂の責任を問われ、処刑されたと報じた。

対米協議を統括していた金英哲朝鮮労働党副委員長(党統一戦線部長)は『強制労役と思想教育』を受けており、金正恩党委員長の妹の金与正党中央委員会第1副部長も『謹慎中』とされる。


この報道について韓国大統領府当局者は『確認できることはない』と記者団に語った。北朝鮮関係筋は『国営メディアでは、金革哲氏が処刑されたという報道はこれまでのところない』と述べる一方で、『与正氏は最近、報道に登場していない』と語った。 

まあ、異腹とはいえ、自分の実兄を暗殺する人間がトップに立つ国だからねえ。こんなことは日常茶飯事のことだろうなあ。正に、おっそろしい国ではある、北朝鮮は。


★★<カープ サヨナラ勝ちで球団記録更新の月間20勝!延長戦を制す>
セ・リーグ 広島2―1阪神 ( 2019年5月31日 マツダ )

では11回裏のサヨナラの場面を振り返ろう(笑)。

2死になって打席にはバティスタ。ノウミさんのストレートを捉えて思い切り引っ張って強振、レフト前ヒットで出塁。2死1塁。続いて鈴木誠也。どっしり構える4番打者のオーラ。バッテリーは慎重に入り過ぎてカウントを悪くしてスリーボール、からのそのまま四球、誠也の貫禄勝ちで2死1.2塁。で、5番西川。フォークを2球空振りで追い込まれるも、最後は高目に浮いたそのフォークを引っ張り打球はライト上空へ!糸井の頭上を遥かに超えるサヨナラ打!おっしゃぁ!

ん?ん?なにか違うぞ?

出てきた役者名が違ってますね(笑)。
正しくはこんなキャストでしたな(笑)。

2死になり、打席には上本。右打席に入り、ノウミさんのストレートを捉えて思い切り引っ張って強振、レフト前ヒットで出塁。2死1塁。続いて代打で磯村クン。何だか知らずにこのところ打ちまくっている磯村クンのオーラ。バッテリーは慎重に入り過ぎてカウントを悪くしてスリーボール、からのそのまま四球、磯村クンの貫禄勝ちでで2死1.2塁。で、打席には野間クン。フォークを2球空振りで追い込まれるも、最後は高目に浮いたそのフォークを引っ張り打球はライト上空へ!糸井の頭上を遥かに超えるサヨナラ打!おっしゃぁ!

これが「正しい11回裏」でしたな(笑)。しかし、今日のノウミサンの球キレキレだったんですよ、先頭の会澤くんもフォークが全くバットに当たらずに空振り三振。続くコースケもあっというまに三球三振。で、続くは上本クン、磯村クン、野間クンでっせ!誰がこんな結末を予想しましょうか?笑。この3人まさにあっぱれ!でしたかね。

試合の方はもうあまり詳しく書きませんが、床田クンはほんと素晴らしいピッチングでしたな。ま、昨日の山口翔クンの快投にも刺激を受けたのでしょうね、床田クン、7回99球で無失点投球!被安打も5本のみ。いやぁ安定してます。というか、5月には行ってからは床田クンも苦しんでましたが、先週・今週とナイスピッチが続けられております。6勝目とはなりませんでしたが、ベンチの信頼をがっちり掴んでくれちゃいましたな。

大型連勝11連勝が途切れたあとも、1つ負けを挟み、神宮で3連勝、そしてマツダに戻って本日勝利で4連勝です。いやぁ素晴らしい。そして、去年散々やらせていただいた「2位チーム叩き」。今年も発動しちゃいましょうかね。明日・明後日も楽しみですな。

しかし燕さん、とうとう15連敗ですか(絶句)。夜明け前が一番暗いのです。頑張ろうスワローズ!(参考: 『カープがやっぱり好きなんよ』)


これで2位阪神とのゲーム差は『4』。独走態勢完備だ。床田はよく投げた。先日の山口が7回、1安打の好投したのに対抗するような投球であった。ただ攻撃面で、あと一本が出ず、追加点が取れなかったのが苦戦した原因。特に鈴木に元気がなかった。中崎のクローザーについては、ファンの間ではそろそろフランスアに替えた方がいいのではという意見が多い。毎試合『中崎劇場』よろしく、塁を埋めるピッチングはファンからみても健康に良くないからなあ。もう交替だなあ、中崎君は。

巨人もあれこれ手を変え、品を変えて試合に臨んでいるが、投手陣がどうやら疲弊して、失点が多く続く。ここが治らないと連勝稼働は走れない。いくら点を取っても、すぐにひっくり返される巨人の病根は投手陣にあり、だなあ。見ていて、巨人の投手達、本当金太郎さんのようにブグブグに太った選手が多いんねえ。利根や田口、菅野もそうだねえ。大丈夫かな健康管理は。

一方で、内海の放出が、投手陣の支柱を失って、安定感がなくなったと嘆くファンもいる。それもそうだなあ。内海の放出はファンにとってはショックだったろうからなあ。長野もそうだが、末は頑張っているからまあ帳消しだなあ。


★★<引きこもり?男が家族刺す=自殺か、母と妹重傷-福岡>31日午後5時10分ごろ、福岡市博多区板付の路上で『女性が倒れている』と付近の女性から119番があった。警察官が駆け付けたところ、40代女性が胸と頭から血を流し倒れていた。一方、現場近くの市営住宅で火災があり、70代女性が頭から、40代男性が腹からそれぞれ血を流して倒れているのが発見された。

3人は病院に緊急搬送されたが、男性は約1時間後に死亡が確認された。70代女性は金づちのような物で頭を殴られ、40代女性は右胸を刺されており、いずれも重傷という。

福岡県警博多署によると3人は家族とみられ、770代女性は『引きこもりの息子と口論になり殴られた』と話しているという。同署は男性が母親と妹を刺すなどした後、自殺した可能性があるとみて、殺人未遂容疑で詳しい状況を調べている。 

悲惨だねえ、引きこもりの家庭は。原因は家庭内より職業問題や教育問題など社会的な問題が多いなあ。困った社会になったもんだ。安易にテンポラリーな『派遣社員制度』を認めたことが社会悪の直接原因のような気がするなあ。仕事につけなく、引きこもる人が多いのだろう。親から攻められ、家族から攻められても仕事に就けない以上どうしようもないじゃないか、と捨て鉢な気分になるわなあ。本当に困ったもんだなあ。

『プレミアブランド小話⑫ プレミアムブランドの収益力』

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今日の画像は、5東京タワーの青と白の『LED電球約1万7000個で作り出された星空』と、美しき『河津サクラ(だと思う)』『西洋さくら草』『エニシダ』です。色濃いい河津サクラ、ソメイヨシノとはまた違って、とっても魅力的なサクラではあります。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★プレミアムブランドは強いブランドイメージを武器に高い収益力を誇っている訳だが、果たしてその収益力とはいかほどのものだろうか。

VWはディーゼルエンジンの排気ガス不正問題でイメージ的にダメージを受けたにも拘わらず売上を伸ばしており、2016年はトヨタを上回る1,030万台を販売し、世界一の自動車メーカーとなった。VWは多くのブランドを擁しており、VW以外に、アウディ、ポルシェ、ベントレー、ランボルギーニ、ブガッティといったプレミアムブランドを保有している。もちろん、台数的に最も売れているVWブランドの車で、600万台を生産し、グループ全体の58%を占める。続いて多いのがアウディで190万台、全体の18%である。

ところが、収益を見ると全く違った世界が見えてくる。VWの中国企業とのジョイントベンチャーである中国事業の数字が含まれないことに注意が必要で、分析は中国生産分を除いている。で、中国生産分を除くと生産台数でグループの47%を占めるVWブランドだが、全体の収益の13%しか稼いでいない。どのブランドが一番稼いでいるかと言えば、台数では21%でしかないアウディで、33%である。

しかし、驚くべきはポルシェである。なんとグループ全体の27%の収益を稼ぎ出している。アウディにも迫る数字だが、ポルシェがどの程度の生産台数かと言えば、わずか24万台。グループ全体の4%にしかすぎないのだ。


1台当たりの収益を見るとどうか。VWブランドはわずか1台600ユーロ強しか稼いでいない。それがアウディになると3,600ユーロと大幅に向上する。ポルシェはなんと1万6,000ユーロを超える水準だ。高級車ブランドのベントレーも、ポルシェほどではないが1台当たり1万ユーロの収益を上げている。

このようにプレミアムブランドの収益力は圧倒的だ。VWは、多くのプレミアムブランドを擁しているが故に収益を上げることが出来ているとも言える。VWがかつてのVWブランドだけの企業だったら、DEスキャンダルに対応出来なかったかも知れない。このようにプレミアムブランドは、うまく育てることが出来れば販売量は少なくても高い収益力を持つことが出来るのである。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」 南国土佐を・・、小林旭さん―登場!』 ところで、日活で、裕さんと絶えず張り合ったのが『小林旭さん』。これまた主演映画は120本以上と、まさにギネスものの大スターだ。

昭和31年(1956)高校卒業と同時に、日活ニューフェース第3期生として二谷英明さんらと入社し、同年『飢える魂』で本格的にデビューを果たした。昭和32年には、川地民夫、沢本忠雄のご両人と、『日活三悪トリオ』として売り出すが、皮肉にも昭和33年に朝丘ルリ子さんとコンビを組んだ文芸作品『絶唱』で注目され、旭人気のみが先行し、三悪トリオは自然消滅した。

そして、昭和34年、映画館の周りには、入れないで溢れた人が長蛇の列を作るという異常事態で、ついに小林旭は名実ともに、人気スターの仲間入りを果たした。

この後すぐに、ギターを抱えて日本中を流離う小林旭の不朽の名作『渡り鳥シリーズ』が公開されるが、旭さんは、『南国土佐を後にして』こそ、シリーズの第1作と言ってもいいと、後に語っている。

実はこの『南国土佐を後にして』は、ペギー葉山さんが歌って大ヒットした同じ曲名の歌を映画化したもの。映画の題名は最初『赤いダイス』だったが、『南国土佐を後にして』の人気があまりに高いため、急遽歌と同じ題名に変えたのだ。


映画公開前年の昭和33年、NHK高知放送局の開局記念番組で、地元の人々の愛唱歌であるこの歌を是非歌ってほしいという話がペギーさんのもとに届いた時、譜面と共に『愛ちゃんはお嫁に』を歌った鈴木三重子さんが、以前テイチクで吹き込んだ『南国土佐を後にして』のSPレコードも添えられていた。

聞いてみると『よさこい節』まで入っている民謡調の歌謡曲。これでは折角アメリカ留学から帰って来て、これからさらに築き上げていこうとするジャズ歌手としてのイメージが壊されると、ペギーさんは、一旦は断るがNHKも頑として引き下がらない。

『では本番ではなく、アトラクションとして歌いましょう』、としぶしぶ引き受けて高知入りするが、行くと現地では、すでに『私の秘密』と『歌の広場』の公開番組の、全国放送本番用に歌が組み込まれていた。今更四の五の言っても始まらない、とペギーさんは、何も言わず、昭和33年の12月8日、NHK高地放送局の生放送のステージに立った。

ところが歌っているうちに、会場の雰囲気が異様にざわめき始めた。この歌はもともと、戦時中、異国に渡った高知の鯨部隊が故郷を偲んで歌ったもので、残された家族や地元の人々にとっても特別な思いがこもる歌だった。歌い終わると同時に、会場は張り裂けんばかりの大拍手に包まれた。この年にはテレビの受信契約が100万台を突破し、本格的なテレビ時代を迎えた放送局にも、同時に全国から『よかった! よかった!』のメッセージが寄せられ、局の電話がパンク状態になるほどの大反響を呼んだ。


さらに、その後全国のレコード店にも『レコードはないのか?』という問い合わせが殺到。ペギーさんも、ついに観念してレコーディングに応じ、昭和34年5月に発売された『南国土佐を後にして』は、100万枚の大ヒットになった。しかも『土佐の高知の播磨屋橋』『月の名所は桂浜』『室戸の沖で鯨釣った』などの歌詞は、多くの人にまだ見ぬ南国土佐への憧れを抱かせ、そこに小林旭の高知ロケによる映画の登場で、南国土佐は一気に観光ブームとなった。この年、高知を訪れた観光客は42万人、翌35年が56万人、36年には何と68万人もの人が押し寄せた。

もちろん小林旭さんも、『南国土佐・・・』以降、『渡り鳥シリーズ』『流れ者シリーズ』などには、作品毎にその土地の民謡を盛り込み、『おけさ歌えば』『鹿児島小原節』『アキラのソーラン節』など、映画と共に旭さんの耳に残るご当地ソングの歌声が、全国に響くことになった。またその都度、観光スポットとして脚光を浴びたため、各地の観光協会では『渡り鳥・・・』のロケ地誘致合戦が繰り広げられたのである。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<独首相『無知、偏狭の壁壊せ』=トランプ大統領批判>ドイツのメルケル首相は30日、米東部ボストン郊外のハーバード大学卒業式で講演し、『無知や偏狭さの壁を打ち壊せ』と訴えた。保護主義や孤立主義を批判し、気候変動をはじめグローバルな問題を多国間で解決する必要性を強調。トランプ米大統領を名指ししていないが、『米国第一主義』を掲げるトランプ大統領の姿勢を暗に批判した格好だ。

旧東ドイツ生まれのメルケル氏は、ベルリンの壁が『私のチャンスを狭めた』と指摘。壁の崩壊を通じ、『何もそのままであり続ける必要がないと実感した』と述べ、変革は可能だと訴えた。

さらに、『保護主義や貿易摩擦は自由な国際貿易、ひいては繁栄の基礎を台無しにする』と批判。『一人で進んでも多くは成し遂げられない』とも語った。『うそを真実と、あるいは真実をうそと言わないように』といった助言も行ってトランプ大統領を皮肉り、たびたび拍手を浴びた。 

目覚めよ、アメリカ国民、の図だな。ハーバードの学生達がメルケル首相に拍手を送ったということは、まだアメリカには正常な人間としての良心が残っているということだ。


★★<ファーウェイ製スマホ、中古価格が急落>中国通信機器最大手の華為技術(ファーウェイ)製スマホの中古品の価格が急落している。店頭価格が1カ月前に比べ半分近くになった機種もみられる。米国政府による同社への輸出規制で、基本ソフト(OS)やアプリの利用がしにくくなるといった観測が広がり、買い手が減った。買い取りを中止する中古販売業者も相次ぐ。

売れ筋の『HUAWEI P10 lite(SIMフリー品)』は、中古販売店の店頭価格が1万~1万6千円程度。4月末に比べ2~4割下がった。一部で1万円を下回る価格もみられる。ファーウェイの端末は米アップルのiPhoneシリーズに比べ安く、一定の人気があった。トランプ米政権がファーウェイへの事実上の輸出禁止措置を発動した5月中旬以降、値下がりが目立つ。

中古スマホは一年を通して2~3割のペースで緩やかに値下がりするのが一般的だ。短期間での価格の急落は珍しい。米国の制裁発動以降、グーグルのOSが円滑に更新されなかったり、一部アプリが使えなくなったりするといった可能性が指摘されている。ファーウェイ日本法人は31日、『現時点でコメントは差し控える』としている。

中古品市場では『返品を申し出る客も出た』(大手販売店)。ファーウェイ製品の売れ行きは振るわず、販売店は軒並み店頭価格を引き下げている。取り扱いを縮小する店舗も出ている。ブックオフを運営するブックオフグループホールディングスは30日、全国約600店でファーウェイ製品の買い取りを中止した。ゲオホールディングスも25日に引き取りをやめた。

中古品販売の携帯市場(東京・千代田)の粟津浜一社長は『グーグルのOSを今後も使えるか不安に感じる客も目立ち、店頭価格は今後さらに下落しそうだ』と話している。

いよいよ米中戦争の火花が市中に広がり始めたなあ。でも本当の戦争になれば、この程度では済まない打撃が経済面に起こるなあ。困ったトランプだ。


★★<岩崎容疑者、社会から孤立した姿浮かぶ>川崎市多摩区の路上で19人が殺傷された事件で、刃物で襲ったとされる岩崎隆一容疑者(51)=直後に自殺=の周囲からは携帯電話やパソコンが見つかっておらず、同居する親族と会話をほとんど交わしていなかったという。『他人との接点が見当たらない』。神奈川県警の捜査関係者はそう話す。周辺を取材すると、岩崎容疑者が社会的に孤立していた姿が浮かび上がる。

近所の人や同級生によると、岩崎容疑者は、川崎市の小中学校を卒業。小学校の時に同級生だった男性(51)は『おとなしくて気が弱いが、話してみると良い子だったという印象がある』と振り返る。高校1年生の時、川崎市麻生区内の駅前で偶然会うと、岩崎容疑者は『職業訓練校に通っている』と話したという。

その後の岩崎容疑者の生活ぶりは明らかになっていない。近所に住む70代の男性は、岩崎容疑者が10代後半の頃から姿を見なくなったが、数年前に、自宅から出てきた姿を見たという。『白髪で当時の面影はなかった。戻って来たんだなと思った』と。

川崎市は、同居していた高齢の伯父夫婦や親族から2017年11月から今年1月まで相談を受けていた。同市麻生区の自宅に夫婦の介護サービスが入った場合に、岩崎容疑者がどう反応するかを心配していたといい、岩崎容疑者は長期にわたって就労せず、伯父や伯母とほとんど会話がない状態だったという。

捜査関係者によると、事件後、県警が夫婦に岩崎容疑者の身元を確認しようとした際、接点が薄いため、岩崎容疑者の顔だけでは判断ができなかった。県警は最終的に、自宅などに残された指紋で本人確認をしたという。行きつけの店なども確認できていない。


県警は29日、岩崎容疑者の自宅を約7時間にわたって家宅捜索。ポータブルゲーム機やソフト、ノートなど数十点を押収したが、携帯電話、パソコンはなかった。事件当時も、携帯電話は所持していなかったという。一方、岩崎容疑者のズボンのポケットからは現金約10万円が見つかったといい、県警は今後、口座の入金記録などから、職歴などを調べる方針。

岩崎容疑者は28日朝、刃渡り約30センチの柳刃包丁を両手に持ち、バス停で私立カリタス小学校の児童や保護者を次々と刺したとされる。同小6年の栗林華子さん(11)と別の児童の保護者で外務省職員の小山智史さん(39)が死亡し、同小の児童17人と保護者の女性(45)が負傷した。

犯人の家庭環境は複雑で、逆境に育ったと推察できるが、その逆境に負けたのかな。それを跳ね返してこそ人間の人間たる所以だがなあ。NHKドキュメントで、渋谷の再開発ビル建設に携わる24歳の青年が、事情があって福祉施設で育った陰も見せずに『この仕事で優秀な腕を発揮すると、月100万円になる。今自分の兄貴分がそうだが、自分もそれに到達すべく頑張っている』と明るく語った姿がとても印象的だった。宙づりになった鉄骨材の上に乗って、オペレーターに指示する姿はまさに男の仕事。引きこもっている余裕や暇などない姿がそこにはあった。世の引きこもり諸君。体を使う仕事を探してみろよ、新しい人生が開けるぞよ、間違いなく。


★★<女子高生が交際の28歳男性刺す>まさに世は様々だなあ。交際相手の男性(28)を包丁で刺したとして、大阪府警平野署は、殺人未遂容疑で、大阪市住之江区に住む高校生の少女(17)を現行犯逮捕した。『死ぬかもしれないと思って刺した』と供述し、容疑を認めている。

逮捕容疑は、31日午後8時55分ごろ、同市平野区喜連西のマンション一室で、交際相手の男性の腰を包丁(刃渡り約20センチ)で刺したとしている。男性は救急搬送されたが、命に別条はないとみられる。

府警平野署によると、現場は男性の自宅で、少女は『けんかになって刺した』と供述。同署は2人で口論となった後、少女が室内にあった包丁で背後から男性を刺したとみており、詳しい動機などを調べる。

常識的に考えて、28歳の男性と17歳の高校生のカップルがうまくいくはずがないのは明白の理であるがなあ。この男『女子高校生』のネームバリューに負けたのだろうなあ。拙者は女子高校生を見ても、女性としての評価は皆無である。時折はっとする女高生もいるにはいるが、まあ、女性とては対象外だなあ。これ、日本の常識ではないのかしらなあ。


★★<広島国際学院大、募集を停止、閉校へ>広島市安芸区にある私立『広島国際学院大学』は、来春の新入生募集を停止し、在校生が卒業する2023年3月で閉校すると発表した。少子化の中で学生確保に苦戦し、定員割れにより赤字経営が続いていた。黒字経営の『広島国際学院中・高』は存続する。

発表によると、大学本部を置く中野キャンパスにある工学部と情報文化部、及び大学院を廃止。上瀬野キャンパスにある2年制の自動車短期大学部は専門学校への移行を目指している。

4年生の学部は、00年度から20年連続で定員割れ。今年5月1日現在の学生数は、収容定員千人に対し735人に留まる。経常収支は00年度から赤字となり、17年度は3億円の赤字だった。今春は定員250人に対し入学者は227人と回復したが、留学生など授業料減免を受ける学生が多く、赤字脱却に至っていない。

法人全体では、中学・高校の黒字で大学の赤字をカバーする状態。今後も大学校舎の耐震化に費用がかかり、少子化の加速で学生数の確保が見通せないとして、5月29日の理事会で閉校を決めた。

田中理事長は『大学部門の残余資金が数年で枯渇する。最後まで在校生の面倒を見る体力がある内に閉校した方が良いと判断した』と語った。広島県内で4年生大学が廃止されるのは、広島女子商業学園が新設し、当初より定員割れが続いた2003年3月の立志舘大学(坂町)以来となる。



広島では、私立大学の数が都市人口の割に多く、少子化の進展と共に、各大学の経営は厳しくなっている。廃校にはならなかったが、鈴が峰短期大学は、修道大学に吸収合併されて存続を図った。まだまだ、更に2~3大学の閉校があってもおかしくない状況と言える。学生達の東京志向は強く、さらに海外の大学を志す若者が増えている現在、広島の大学数は過剰と言えるだろう。


18歳人口の急激な減少による私立大学の淘汰は、大学業界では『2018年問題』として予見されていた。広島国際学院大学の募集停止決定は、中国地方でもその懸念が現実になったことを突きつけた。経営に行き詰まる私立大は、今後も出てくると見られる。

遠因は、1991年の大学設置基準の規制緩和にある。それ以降、全国の大学数は1.5倍に膨らみ、入学定員も25%増加。一方で、18歳人口は92年に比べ40%減った。その帰結として、現在では私立大学の4割が定員割れしている。

大学とは一体何だ。原点に帰って考える必要があるな。大学に入学する学力もない若者を、みんなが行くから自分も大学へと群れている。自分の人生観、職業間を早い時期に組み建てる仕組みがドイツのように、日本にはなくて、まさに甘えの構造になっている。大学は出たけれど、消耗品職種にしかつけない若者が多い。その結果、3年のうちに3割が離職し、浮浪の民となる。しっかりした職業感を持てば、大学に行くより専門学校で修行した方がいい若者も出てくるだろうに。私の知人の息子は、工業高校に進ませ、世界のデンソーに就職した。今では世界中を走り回るデンソーの技術者として成功している。大学だけが人生ではない、と拙者は思うがねえ。

私が再就職した会社で、広島の私大を出た若者が転職すると言ってきた。どこへ行くのか聞いたら、郵便配達員の臨時職員になるのだそうだ。『お前なあ、親は泣くぞ。高い教育費を注ぎ込み、結果郵便配達とは』と説教したのを覚えている。同じ大学を出た若者は、消防士になると言って転職した。消防士に大学卒の資格は必要か。が、一方で、しっかりした若者は、名のある一部上場企業へと転職し、現在は幹部社員に昇格している。それこそ大学へ行った価値があると言う物だがなあ。まあ、甘えの構造の日本国だから仕方ないかなあ。


★★<元農水次官、自宅で長男刺す、搬送先で死亡>1日午後3時40分ごろ、東京都練馬区早宮の民家から「息子を刺し殺した」と110番通報があった。駆け付けた警察官が血を流している男性を発見。警視庁練馬署は殺人未遂容疑で、この家に住む元農林水産省事務次官で無職、熊沢英昭容疑者(76)を現行犯逮捕した。調べに『長男を刺したことは間違いない』と容疑を認めている。

同署によると、男性は熊沢容疑者の長男で無職、英一郎さん(44)。搬送先の病院で死亡が確認された。同署は容疑を殺人に切り替え、トラブルの有無などを調べている。逮捕容疑は1日午後3時半ごろ、自宅で英一郎さんの胸など複数箇所を包丁で刺すなどし、殺害しようとしたとしている。

熊沢容疑者は岐阜県出身で東大卒。昭和42年に農林省(現農水省)に入り、経済局長などを経て平成13年に事務次官に就任したが、牛海綿状脳症(BSE)問題の責任を問われる形で14年に退官した。その後、駐チェコ大使を務めた。

現場は東京メトロ有楽町線平和台駅の南約650メートルの閑静な住宅街。熊沢容疑者は妻と英一郎さんの3人暮らしで、近所の男性(86)は妻と出掛ける姿をよく見掛けたといい、『10年ほど前に引っ越してきたと思うが、息子の姿は見たことがない』と驚いていた。

報道はまだ詳細を伝えていないが、息子44歳、無職とあるからには、これは『引きこもり』だねえ。どうやら、政府次官を務めた大エリートでさえ、息子の引きこもり問題を解決出来なかったということだ。これもあれも、政府の近視眼的、目先を追う短絡的政策の帰結だ。もはや『引きこもり』は日本社会の闇を示す、恥ずべき部分だと言える。自民党政権の『競争社会優先路線』が、大量の弱者引きこもりを生んだと断言できるなあ。

川崎の大事件も、福岡の事件も全て同じ『引きこもり』が病根だ。自民党総裁殿、歴史を巻き戻し、日本国を『引きこもり』のない、健全な社会に塗りなおしておくれな。まさに『歴史的大失政』と言えるだろうなあ。スイスを旅すると、列車からバス、食料、宿泊代の高いことに悩まされる。それでも、あの大自然の美観を守るため、EUにも加盟せず唯我独尊の道を歩む。社会は健全で高収入社会。ロレックス、オメガはセイコー、シチズンを上回る世界の高級時計。新入社員の初任給は30万円程度。どっか、日本と比較し一枚も二枚も上手の健全社会を組み立てているように見受けられるスイス政府ではあるなあ。


★★<ヤクルト16連敗の軌跡>これ、いやみではなく、単なる記録のためアップする。今日こそ勝って、連敗脱出してほしいヤクルトではある。ヤクルトが負けると言うことは、他の球団に白星が配給される訳で、カープにとっては向かい風になるのだ。ガンバレ、ヤクルト!

【ヤクルト連敗中の試合結果】(選手名は責任投手)
   4○1 巨人 高梨
 1)4●9 広島 原       2)7●9 広島 中尾
 3)3●4 DeNA 小川     4)6●11DeNA 石川
 5)0●7 DeNA 高梨      6)2●3 阪神 原
 7)2●3 阪神 ハフ       8)0●1 阪神 マクガフ
 9)1●6 中日 小川      10)3●10中日 石川
11)8●10中日 高梨      12)7●8 広島 原
13)3●5 広島 高橋      14)0●13広島 小川
15)2●3 DeNA ブキャナン  16)0●7 DeNA 清水

『プレミアブランド小話⑬ メルセデス・ベンツの矜持』

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今日の画像は、車両事故で運転を停止した横浜市内を結ぶ新交通システム『シーサイドライン』。そして『ムスカリ』『ツルニチソウ』『コブシ(だと思う)』です。本当にかわいい花、ムスカリですが、花期は本当に短いです。まさに『花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき』ですねえ。

『シーサイドライン』、逆走の原因不明。よって今日も運行停止が続きます。利用者は代行運転のバスの利用。1日6万人弱の利用者はとても不便でしょうねえ。それにしても、未だ原因不明、特定出来ないとは摩訶不思議なことではあります。


★★★強力なブランドは、いかにして今の地位を得ることが出来たのか。プレミアムブランドの中でも、時計界ではロレックス、自動車界ではメルセデス・ベンツが特に抜きんでた存在であることに異論のある人はいないだろう。

メルセデス・ベンツは自他ともに認める『自動車を発明した会社』である。1886年にカール・ベンツが初めて原動機付き三輪車を完成させたと言われ、自動車の特許を取得している。メルセデス・ベンツには自動車を発明した会社としての矜持がある。1926年、ベンツ社はダイムラー社と合併して、社名はダイムラー・ベンツに、商品名はダイムラーが使っていたメルセデス(ダイムラー社のディーラーを営んでいた富豪の娘の名前)を組み合わせて『メルセデス・ベンツ』としたのである。

この当時、世界各国で数多くの自動車会社が生まれていた。戦前には多くの超高級車メーカーが存在しており、小型車や商用車・トラックも作る総合自動車メーカーブランドだったメルセデス・ベンツは、と飛び抜けて高級をいうイメージのブランドではなかった。

このメルセデス・ベンツの名声を高めたのが、モータスポーツであった。フェルディナンド・ポルシェ博士が設計したSシリーズが世界各地のグランプリレース(現在のF1)で大活躍したのである。レースでの勝利は、製品の優秀性を幅広く知らしめるには絶好のものであった。

その評価を更に高めるきっかけとなったのが、ナチス政権の誕生であった。ナチス政権はメルセデス・ベンツ770など高級・高性能車を愛用した。これはヒトラーが貴族的な高級感よりも絶対的な性能の高さを好んだからだと言われている。

ナチスはメルセデス・ベンツの他に、同様に高い技術を誇ったアウトウニオン社も支援した。アウトウニオン社は4つの自動車会社、ホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKM、が合併して出来た会社で、結果、そのマークは4社を表す4つの円を連ねたものである。このマークは現在では4つの円の一つであったアウディに引き継がれている。


戦後、ドイツは東西に分割され、アウトウニオン社の本社は東側にあったため、アウトウニオン社はソ連によって解体されてしまう。その後西側で復活するものの、戦前からの高度な技術を継承するメーカーはダイムラー・ベンツ1社となった。戦後9年が過ぎた1954年、メルセデス・ベンツは満を持してモータースポーツの世界に復帰する。そしてF1で世界を席巻したが、この活躍は1955年のル・マンで300SLRが観客席に飛び込み多数の死傷者を出す事故を起こしたことで終焉を迎える。その後、メルセデス・ベンツは長らくモータースポーツの世界かた遠ざかるが、圧倒的な強さは神話として語り継がれた。

モータースポーツの世界からは撤退したものの、その完璧主義ともいえる開発姿勢は安全性の向上に向けられた。1960年代から様々なクラッシュテストなどに取り組み、独自の安全性設計哲学を育んでいった。そしてメルセデス・ベンツの車は見るからに頑丈で、ドアを開閉しただけでその剛性感を感じることが出来るようになった。その安全思想は、広告をはじめとしたコミュニケーションによって広く訴求された。1980年代まで、モーターショーのブースでは、クラッシュテストでつぶされた車が展示されていたものだ。

1980年代以降はモータースポーツにも復帰した。1989年にはル・マン24時間レースに優勝。シルバー一色で塗られたマシンは、往年のシルバーアローを思わせるものだった。2010年からは『メルセデスAMG』としてF1に本格的に復帰し、ここ数年は圧倒的な強さで他チームを寄せ付けず、2014年から4年連続のチャンピオンとなっている。

メルセデス・ベンツは今や、安全性の徹底的追及とモータースポーツでの比類なき強さと2つの軸で、自動車界の最も優れたブランドの地位を揺るぎなきものにした。だからこそ、長年にわたって世界中で富と成功の絶対的シンボルとして君臨し続けているのである。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」 旭・ひばり―アツアツの頃』小林旭さんがギターを抱えて日本中を流浪う、『渡り鳥シリーズ』の第1作は『ギターを持った渡り鳥』(昭和34年)だが、旭さんのステージでも、ほとんどがこの曲で開幕する。そして『人生は旅である』と語りかけながら、『北へ』『北帰行』『さすらい』と歌い継いでから、『アキラのダンチョネ節』『アキラのズンドコ節』『アキラの・・・』とつく作品をメドレーにして歌いまくる。

映画に歌に絶頂だったこの旭さんとの思い出で忘れられないのが、昭和37年(1962)の正月第2週の浅草国際劇場。『美空ひばり・三橋美智也 夢の共演』という豪華な舞台に、私は司会として立っていた。丁度旭さんとひばりさんがアツアツの頂点の頃で、当時はまだテレビのワイドショーもなければ写真週刊誌もない、スターにとってはのどかな時代。撮影に入っていた旭さんが撮りを終えて、まだ国際劇場が開幕している時間であれば、必ず駆けつけてくれた。

客席の一番後ろにガラス張りの監事室があって、毎回舞台を見続けているひばりさんのお母さんの隣に座るのだが、来ると監事室からライターがカチッと擦られる合図がある。

三橋さんの出番の時だと、ひばりさんが合図を見つけるが、ひばりさんの出番だと私が見つけ、ひばりさんとのやりとりの中でマイクを持つ時小指を立てたりして、客に分からないように旭さんが来たことを知らせた。するとひばりさんは、歌いながらステージから大きなゼスチャーで旭さんに向かって応える。勿論客席は自分たちに贈られたジェスチャーだと思ってさらにステージが盛り上がるという具合だった。

ひばりさんも毎日心待ちにしている訳だから、いつ来るかと私の合図を食い入るように見つめる。私も、司会もしながら、いつ来るか分からない旭さんの合図にも神経を使う訳だから、毎日がもうヘトヘトだった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<広島出身の女流棋士(囲碁)『大森らんさん(17)』4月にプロ入り後、初の公式戦デビューを白星で飾った。4月22日に行われた第29期竜星戦予選。最年少でプロ棋士になり世間の注目を集めた10歳の『仲邑菫初段』との対局を中押し勝ちで制した。『勝てる相手とは思っていなかったので嬉しかった。少しは自信になったかな』と素直な心情を吐露した。

碁を始めたのは、小学1年生の時。囲碁の盛んな江田島市で、子供囲碁教室に通い手ほどきを受けた。負けると周囲もはばからず、号泣するほどの『負けず嫌いな性格』を武器にめきめきと力を付けていった。6年の時、全国少年少女囲碁大会広島県予選で2年連続優勝を飾り、プロへの思いを抱くようになった。

転機は中学2年生の時。プロ棋士になるための研鑽を積む日本棋院関西総本部の院生になった。週末は大阪の本部に通い、プロを目指す同世代の院生と対局を重ねながら腕を磨いた。棋士採用試験で優遇措置があるなどプロ棋士への近道となる院生は17歳までしか在籍出来ないという年齢制限がある中で、『院生の間にプロになりたい』と高校進学を断念。中学校卒業後は、院生一本に人生の選択を絞り、大阪で一人暮らしをしながら、毎日12時間囲碁と向き合った。


その努力が彼女に運を呼び込んだ。昨年、日本棋院が女流棋士を拡充する女流特別採用推薦棋士制度を制定。これまで彼女がプロ棋士になるには、男女含め5人の一般枠か1人の女流特別棋士採用の試験を勝ち抜かなければならなかったが、新制度で採用枠が緩和された。昨年10月の時点での院生リーグでの成績が認められ、院生3年目で夢をかなえ、広島県で初めての女流棋士になった。

『プロとしての自覚はまだです』とはにかみながら、『10代の今が一番伸びる時なので、もっともっと勉強を積み重ねたい』と目を輝かせる。

目標としている女流棋士は1歳年上の『上野愛咲美棋士』。タイトルを獲得した棋士だけに『私もタイトルを取れるような棋士に』と願う。また『囲碁をやっている人の多くは高齢の方。小中学生の間で人気の出る競技にしたい』と抱負を語る。

輝ける17歳だねえ。仲邑菫さんに勝った試合は、テレビニュースで流れたねえ。頑張って、らんさん、広島の誉れだ。


★★<モルテン、3人制バスケ後押し>競技用ボールなどで世界展開をしている、広島市の『モルテン』は、『3人制バスケ』の普及に取り組む。このほどトラック1台で運べ組み立ても簡便な簡易コートの貸し出しを始めた。3人制バスケは2020年の東京五輪で正式採用されたことで、国内でも人気が広がりつつある。モルテンでは競技人口の裾野を広げ、事業基盤の強化にも繋げたい考えだ。

3人制バスケ『3X3 スリーバイスリー』用の簡易コートは、縦11mX横15mの広さで、ポリプロピレン製の床面パネル4千枚とゴールなどで構成する。4トントラック1台で運搬出来、屋内外を問わず2時間程度で設置出来る。

これまでもプロチームが開くファンとの交流イベントや自治体行事で集客の目玉として使われることがあった。貸出料金は2日間で18万円。別途運送費がかかり、雨天中止などでも返金はしない。月4件程度の利用を見込んでいる。

16年にプロバスケットボール『Bリーグ』が開幕。今夏の男子W杯に続き、東京五輪でも男女で日本代表の出場が決まるなど国内のバスケへの注目はかつてなく高まっている。これに『3X3』の普及が重なれば、新規プレーヤーの獲得に加え、かつてプレーしていた人の掘り起こしが見込める。

モルテンの民秋社長は『サッカーも「Jリーグ」創設とW杯の出場をきっかけに、手軽なフットサルを通じて広く普及した経緯がある。バスケにも同じ流れが期待出来る』と話す。

モルテンは、ゴム素材を使用した自動車部品メーカーでもある。同時にサッカーボールやバスケのボールも製造販売している、ユニークな企業。事業のバランスを取りながら、うまく『スリーバイスリー』を広めてほしいねえ。拙者も一度広島市内で、米人男性によるデモプレーを見たことがあるが、とてもシンプルで、面白いと思うねえ。見るより自らプレーする競技だと感じた。


★★<アシアナ航空、売却>韓国の中堅財閥、錦湖アシアナグループが中核の『アシアナ航空』を売却する。グループの経営危機を何度も救ってきた政府系金融機関、『産業銀行』が今回は一転して創業者一族に引導を渡した。背景には文政権の登場がある。

『関心はある。我々に相応しいのか、様子を見ているところだ』。アシアナ航空の身売り決定からひと月余り経って、買収に意欲を見せる企業がやっと現れた。LCCの『済州航空』を傘下に持つ『敬愛グループ』だ。小が大を飲む買収に市場は懐疑的だが、ひとまず産業銀行が絵を描いたアシアナ航空再建が動き出す可能性が出て来た。

錦湖アシアナが虎の子を手放さざるを得なくなったきっかけは3月。不適正会計が発覚し、アシアナ航空が提出した監査報告書が監査法人から『適性』意見を得られなくなったからだ。信用不安が広がると、錦湖アシアナグループ総師の朴三求会長は3月28日に引責辞任。4月10日には資金支援を求める再建計画を産業銀行に提出した。

だが、産業銀行は『創業家の責任の取り方が不十分』と一蹴した。グループの錦湖産業が持つ33%のアシアナ航空の全株売却と引き換えに金融支援する案を朴会長に飲ませた。アシアナ航空と創業家の切り離しだ。『生かさなければならないのは大株主ではない。会社だ』。産業銀行の李会長はこう言い切った。

産業銀行と錦湖アシアナは蜜月関係で知られた。リーマン・ショックのあおりでグループが経営危機に陥った2010年には、傘下の大宇建設と錦湖生命を産業銀行が買収し経営を支えた。

今回産業銀行がしがらみを断ち切ったのは李会長の存在が大きい。革新系の経済学者で、金大中政権で大統領府入り。廬政権では金融監督委員会の副委員長を務めた。17年の大統領選では文陣営の経済ブレーンになり、政権発足後に産業銀行会長に就いた。

文政権は『財閥改革』を掲げ、創業家による不透明な企業支配に批判的だ。アシアナ航空への否定的な世論も後押しした。昨年7月に機内食を提供出来ないトラブルが起き、下請けに無理強いしていた疑いが浮上した。女性乗務員が朴会長を賛美する歌や踊りの練習に動員される映像も流出。創業家一族によるパワハラと非難を浴びた。

アシアナ航空を失えばグループの資産規模は5兆ウォンを下回り、韓国政府が指定する『財閥』ではなくなる。産業銀行などの信頼を裏切る不適切会計の代償は余りにも大きかったと言える。

まあ、韓国の財閥は『漢江の奇跡』という経済成長の恩恵と利益を人一倍奪取したのだから、ここへきての逆風はまあ当然の成り行きだろうなあ。古い体質を引きずる韓国ではあるな。


★★<韓国、保守と革新が『非難合戦』 ネット請願で弾劾要求も>インターネットの掲示板で国民からの請願を受け付ける韓国大統領府の制度を利用し、保守層と革新層が『非難合戦』を繰り広げている。革新系の文在寅大統領の弾劾や与党『共に民主党』の解散を求める請願に約25万~33万人が賛同する一方、保守系最大野党『自由韓国党』の解散要請には約183万人が同意した。

来年4月の総選挙を見据えて与野党の対立が激化していることが背景にあるが『「双方の支持者が自尊心を満たしているだけ』(韓国メディア)との冷めた見方も多い。制度は文政権が国民の意見を直接政策に反映させようと導入した。

まあ、韓国ってこんな国なんだよね。信用したり、あてにしたりするととんでもない大失敗に繋がる。困ったもんだねえ。北朝鮮問題さえなければ、日本は韓国と手をつなぐ必要なんかちっともないんだけどねえ。


★★<那覇―上海に新航路 沖縄の観光客の増加、建設ラッシュに対応>沖縄国際海運(上勢頭保社長)は、貿易・物流事業を行う上海錦江運航(中国上海)と契約を結び、上海―那覇の定期貨物航路を開設した。那覇から上海まで直行で28時間で到着し、従来の航路と比べ定期・定時運航が評価されている。上海を経由して香港やベトナム、タイへの輸送も行い、中国だけでなく東南アジアの市場への拡大も期待される。

外航貨物船『マイルドジャズ』(9994トン)が5月31日に那覇港に初入港し、船内で入港式が行われた。那覇港には毎週金曜日に到着する予定。上海から那覇には大阪と神戸を経由する。

就航は沖縄を訪れる観光客数の増加や、ホテルやマンションの建設ラッシュが背景にある。マイルドジャズは1098台のコンテナを積むことが可能で、貨物の多くは上海から運ばれる建設資材や家具が多いという。

那覇港管理組合の田原常勤副管理者は『生活用品や建設資材が増え、沖縄に入ってくる貨物量が増えている。輸出の貨物も増やしていきたい』と話した。錦江シッピングジャパンの張勇社長は「貨物の量を増やし、沖縄の経済発展に協力したい」と述べた。

沖縄には、内地と違ったウエーブが押し寄せているようだな。いいことだ。


★★<林真理子のネパール旅>今回、ネパールに行った。『えっ、トレッキングするんだ?』。勿論山登りなぞする気はさらさらない。ただカトマンズという街に行きたかっただけである。

で、今回初めて知ったことであるが、ネパールの人達は、驚くほど言語能力が高い。小学校から英語を習っていて、たいての人は普通に会話出来る。その上にもう一つ、日本語を習おうと、最近すごい日本語ブームだとう言う。大学付属の語学学校に見学に行ったところ、上級コースは丁度趣味の話をするという授業だった。

『私は相撲を見るのが好きです。幕内力士の技は素晴らしい』、などとテキストを読み上げ、次に幕内力士の説明となった。黒板にはヒエラルキーの三角形が描かれ、上から横綱、大関、関脇、小結、前頭、とある。『この前頭から上が幕内となります』。先生の言葉にせっせとメモする学生さん達。しかし、こんなことを知っている日本人が一体何人いるんだろうか・・・。

確かにテキストは古いが、学生さんのひたむきさに、次第にみんなの目頭が熱くなってきた。最後に同行の中国人実業家のR夫人がきっぱり言った。『みなさんを、日本で私が引き受けましょう。うちの会社で雇ってあげます』。おお、とどよめきが起こる。実はみんな日本での就職先に苦慮していたのだ。

R夫人はホテルのエステの女性もスカウトしていた。『あなたぐらいマッサージのうまい人はいないわ。私が住居を提供するから日本に来なさい。給料も日本人と同じだけ出します』。彼女が大喜びをしたのは言うまでもない。先の大地震で家を失い、友人の所で間借りしていたそうだ。


旅の最後はシアターレストラン。お客は私達ともう一組だけ。ネパールのダンスが始まる。『うまいんだかヘタなんだか、まるでわからないゆるい踊りです』、西郷大使はおっしゃった。やがてフィナーレが始まり、ダンサーが誘う。真っ先にステージに立ったのはR夫人。次に西郷大使。そして私達もみんな踊りだした。

勝手な振りで、ネパールいいとこ、一度はおいで。こりゃこりゃ・・・。そして気付いたら私は『ネパール親善大使』を引き受けていた。(参考: 林真理子筆『夜ふけのなわとび』)

まあ、林さんらしいと言えば、林さんらしい行動ではありますねえ。そのバイタリティーがあのような沢山の作品を生み出しているのだなあ。お見事。


★★<緒方監督『最終形じゃない』中崎、アドゥワは配置転換><広島5-7阪神>◇2日◇マツダスタジアム

まだまだ、進化するけえ! 首位広島が阪神戦で0-7から5-7まで追い上げ『敗れて強し』を印象づけた。

貯金13の首位で4日からの『日本生命セ・パ交流戦』に突入するが、緒方孝市監督(50)は『これが最終形ではない』とチームにメスを入れると宣言。守護神中崎を抑えに固定せず、2回7失点のアドゥワを中継ぎに配置転換する。リーグ4連覇&悲願の日本一へ、ベストチームをつくる作業を貪欲に続ける。

チームの勢いを象徴するような猛反撃だった。7点を追う6回1死。西川の左前打から打線がつながる。磯村右前打、小窪四球で満塁となり、田中広が2点左前打。さらに2死二、三塁から野間の内野安打に2つの悪送球がからみ、2点を加えた。バティスタの左前適時打も飛び出し、この回一挙5点。相手の守備の乱れもあり、どちらが負けているかわからない迫力で追い上げた。

2点及ばずに敗れたが、ベンチ裏に暗いムードはない。一時は首位と8ゲーム差の最下位に沈みながら、猛烈に巻き返してきた自負がある。8連勝、4連勝、11連勝、そして5連勝。断続的な大型連勝で、首位に立った後も快進撃を続ける。この日敗れても貯金13、2位阪神に4ゲーム差。他球団がうらやむチーム状況であるのは間違いない。


それでも緒方監督は『これが最終形じゃない』とチームにメスを入れる。安定感を欠く中崎を不動の守護神の座から下ろし、アドゥワを中継ぎへ配置転換する。初めて2点ビハインドの展開で起用した中崎について『彼とは話をしている。ポジション的なものは流動的になる』と説明。先発で7試合起用したアドゥワについても『中に入って火曜日から投げてもらいます』と話した。

初回こそ相手の拙攻で『0』を刻んだが、2回の先頭・梅野のソロ被弾からつるべ打ちだ。1イニングだけで長短8安打を浴び、四球も絡んで大炎上。『2試合連続で立ち上がりが悪い。最低限の役割を果たさないといけないのに…』と猛省した。5月26日の巨人戦でも初回、岡本に3ランを被弾。5回4失点にまとめたが、チームの連勝は11で止まった。

3連覇チームから昨オフ、丸、新井、エルドレッドが抜けた。その時点で緒方監督は、一からのチームづくりを覚悟した。『丸の穴』を埋めるのではない。現有戦力を駒として、チームを土台からつくり直す作業。苦しみ、のたうち回りながら1カ月をかけて上位打線を固め、投手陣も整備。そして、もっと強いチームをつくるため、さらなる改造に乗り出す。

4日から交流戦に突入する。指揮官は『しっかり切り替えてやっていきたい』と言い切った。カープはもっと強くなる。バティの調子がいいのは朗報だが、鈴木が阪神2戦目から不振感を漂わせている。小さい波であればいいがなあ。

『プレミアブランド小話⑭ ロンドン生まれのロレックス』

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今日の画像は、米大リーグで6回3安打2失点1死球6奪三振と好投し、5月10日から4連勝で今季7勝目(2敗)を挙げたカープ出身の『ドジャース前田健太投手(31)』、世界で初めて小惑星にクレーター付近への着陸に向け、目印の投下に成功した『はやぶさ2』。そして私の好きな花『ムスカリ供戮任后

★★★メルセデス・ベンツは、自動車を発明したという出自とその後の実績で今の地位を手にしたが、ロレックスは、優れた製品と言うだけでなく、巧みなブランド戦略によってその圧倒的な地位を得たと言っていい。

実はロレックスは、スイスで生まれたブランドではない。ロレックスの出自はイギリスのロンドンである。ドイツ人のハンス・ウィルスドルフが義兄弟アルフレッド・デイビスと共にロンドンで1905年に興した『ウィルスドルフ&デイビス』という名の時計商社がその始まりだった。あくまで商社であり、時計を作る会社ではなかったのだ。

彼は事業を拡大するために、ムーブメントをスイスのジャン・エグラー社に発注し、自社ブランドの時計を売るようになった。時計商人として時計の知識が豊富だったハンスはエグラー社に色々注文をつけ、その結果エグラー社のムーブメントの性能が上がり、腕時計用ムーブメントとして世界で初めてスイスクロノメーター検定に合格した。

その自社ブランド時計を『ロレックス』と名付け、本拠をスイスのジュネーブに移した。エグラー社もロレックス専業となり、社名をマニュファクチュール・デ・モントレ・エグラーと変更するが、2004年に所有していた親戚のボレ家がロレックスに譲渡するまでは独立した会社だった。

その後、ムーブメントを納める高性能ケースを探していたところ、オイスターケースを発明したオイスターウオッチカンパニーというイギリスの時計会社の技術に目をつけ、その会社を買収する。そしてそのオイスターケースを使用して1926年に発売したのが、世界初の完全防水時計『オイスター』である。ロレックスは非常に優れた時計だが、それは自社技術で開発された訳ではなかった。が、結果としてそれらの会社を買収しているので、今では自社技術と言っても差し支えないが。


そして、商才に長けたハンス・ウィルスドルフは、発売したばかりのその防水時計をドーバー海峡横断泳に挑戦する女性スイマー、『メルセデス・グライツ』の腕に着させた。1927年11月、彼女は横断泳に成功し、ロレックスの時計も15時間以上に亘り海中で正常に作動し続け、その成果を新聞の全面広告で世に知らしめたのである。結果、ロレックスの時計は大評判となった。

さらに1933年には、飛行機でエベレストを越えるという冒険ミッションにもロレックス・オイスターを携行させ、その耐久力と精度をアピールした。

こうしたプロモーション活動はその後も続き、マルコム・キャンベル卿の自動車での速度記録達成チャレンジなどでもロレックスを装着させて、その成果を広告で大々的にアピールした。この速度記録を達成した場所のひとつがアメリカのデイトナビーチで、後の1963年にそれにちなんだ『デイトナ』というモデルが発売されている。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」 ひばりの母、先見の明「小野満」を引き抜く』当時、ひばりさんと並んで人気があったのが、ジャズ出身の『江利チエミさん』と『雪村いずみさん』。この3人は昭和29年(1954)の『平凡5月号』で初めて顔を合わしたが、これをきっかけに3人娘として大々的に売り出し、映画でも昭和30年には3人娘が主演した東宝映画『ジャンケン娘』が大ヒット。その後も『ロマンス娘』『大当たり三色娘』と3人娘映画が次々と作られるほど人気が高まった。

ひばりのお母さんはこの人気を先に読んでいて、テレビの番組の歌番組や舞台などでも3人がジョイントする機会が必ず来るはず。その時に、ひばりを二人と同じようにジャズが歌えるようにしなければ、本当のジョイントにはならない。そう考えた上で、ジャズ界では人気も腕もトップスターの『小野満さん』を引き抜いた。

そしてひばりさんの地方公演には、経費が大幅にかさむのは承知の上で、これまでのバンドの他に、小野満さんのバンドも一緒に連れて行って『お客さんの前で歌うことが一番身に付く』という考えのもと、ジャズもどんどん歌わせた。ひばり人気が高く、客の入りも見込めたからの決断だったが、お母さんの思惑は見事に嵌り、この時期の歌い込みがしっかりと身についたお陰で、後にコロムビアでも80曲くらいはジャズを吹き込んだ。


そう言えば、ひばりさんが『ロッテ・・・』に初出演してくれたのは、確か昭和35年(1960)頃、弟小野透さんの歌手としての活動にからんでのことだった。小野満さんに惚れ込んだお母さんはひばりの弟の芸名に『小野』を使ったのである。

東奔西走と忙しい中、またギャラが高い中の大スターひばりさんが、弟を売り出すために『特別出演という形でなら出ます』と言ってきた。ギャラも破格な安さでいいと言う。もちろんこちらはOKして、公開放送も興奮の坩堝と化した。

小野満さんはその後、専属契約を解消して『小野満とスイングビーバーズ』というフルバンドを結成し、以後『紅白歌合戦』なども含めた歌謡番組をメインに活躍するようになった。

結果として、ひばりさんはジャズをものにし、小野満さんは歌謡曲のジャンルを手に収めた訳だから、別れはしたものの、お互いを高め合った意味からすると、いい出会いだったと言える。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<米最長景気 変調の足音 トランプ流 長引く緩和、金融にひずみ>トランプ米大統領が5月5日に対中関税の早期引き上げを予告してから1カ月。世界経済の変調を警戒した金融市場の動揺は収まらず、世界の株式全体の価値は400兆円減った。減税に加え、金融政策への露骨な口先介入で米景気をふかすトランプ流の政策は金融市場にひずみを生む。『1強』とされる米経済にも影が伸び始めた。

『5月に入り、企業活動が急激に鈍っている』。調査会社IHSマークイットが発表した米国の製造業景況感指数(速報値)は50.6と約10年ぶりの低水準となり、好不況の境目とされる50に接近した。米中貿易戦争の激化が米国の景況感にも響いてきた。

◇失業率は低水準
米景気は失業率が半世紀ぶりの低水準で、賃金も伸びている。貿易戦争の逆風は内需の強さで吸収できるとの見方が多かった。トランプ氏も『関税は米国をもっと強くする』と高関税政策を正当化してきたが、その主張は揺らぎ始めた。

『シュガーハイは急速に切れ始めている』(米ニューヨーク市立大のクルーグマン教授)。シュガーハイは糖分を多量摂取した一時的な興奮状態のこと。減税や金融政策への政治介入で目先の景気を刺激するトランプ流を皮肉った表現だ。

◇利下げ余地なく
制裁関税の拡大に、華為技術(ファーウェイ)への米ハイテク製品の実質禁輸――。5月に入ってから連日飛び出したトランプ政権の対中強硬策に世界の株式市場は翻弄され、乱高下を繰り返した。ただ市場では『株価が下がればトランプ氏が手段を問わず相場を支える』との期待が根強い。


米国の株価が史上最高値から5%安でとどまっているのもこのためだ。トランプ氏は米連邦準備理事会(FRB)に利下げを迫るなど露骨に政治介入し、それに便乗した投資家が年内の利下げを織り込み、株売りに歯止めを掛けている。
だが米国の政策金利は2%台前半にすぎない。『景気後退時に必要な利下げ余地が残されていない』(ブレイナードFRB理事)。米コンファレンス・ボードのギャド・レバノン氏は『財政出動で対応する度合いが強まる』とみるが、米政府債務残高も22兆ドルと右肩上がりだ。追加財政出動への壁が高いなか、トランプ政権下の高成長を支えてきた減税効果は薄れ始めた。

長引く低金利は将来リスクの芽も育てる。欧米企業の債務残高は24兆ドルとこの10年で4割も増えた。国際通貨基金(IMF)は『景気や市場環境が悪化すると債務不履行が増え、景気後退を増幅させる』と警鐘を鳴らす。新興国もドル建ての借金が3.7兆ドル(約400兆円)に膨らむ。世界の債務膨張リスクは6月に日本で開く20カ国・地域(G20)の一連の会議でも議題となる。

けん引役のドイツ経済の急減速で欧州中央銀行(ECB)が年内利上げを断念した欧州。低金利にあえぐ投資マネーは、欧州債務危機に揺れた地中海東部の島国キプロスにまで流れ込む。同国の10年物国債利回りは年初の2.3%台から1.2%前後へ5カ月で半分近くに急低下(債券価格は上昇)。英国の10年債に迫る人気ぶりだ。リスクは世界に散らばりつつある。

拙者はトランプの強引な経済政策、関税政策は市場経済をゆがめ、アメリカ自身へのブーメランになると見るね。アメリカ経済はメキシコや中国の安い製品、部品などに支えられている側面があるのを無視すると、国内でのコストが急上昇するだろうな。そして消費の失速が成長率鈍化に結びつく。まさに、首の皮一枚の綱渡り政策を強引に進めれば、自分の首を絞めることになるトランプだ。その時期はそう遠くなく、次期大統領選までに顕在化するだろう。次期大統領にはトランプの名は載らないのだな、私の見立てでは。


★★<最下位マリナーズ、早くも解体モード 強打ブルースを放出>ア・リーグ西地区の最下位に沈んでいるマリナーズは2日(日本時間3日)、強打のジェイ・ブルース外野手(32)をフィリーズへ放出したと発表。引き換えにマイナー内野手1人を獲得した。
 
17年オフにメッツと3年3,900万ドル(約42億)で合意したブルースは1年プレーした後、昨オフにカノらとの交換トレードでマリナーズへ移籍。メジャー12年目の今季は外野手兼一塁手として47試合に出場し、打率0.212、14本塁打、28打点を残している。通算成績は1557試合、打率0.246、300本塁打、903打点。球宴に3回選出されている。

AP通信によると、ブルースの今季と来季の年俸あわせて2,800万ドル(約30億円)のうち、フィリーズは275万ドル(約3億円)を負担。マリナーズは残りの2,525万ドル(約27億円)を支払う計算だ。

今季のマリナーズは3月に東京ドームで開幕を迎え、アスレチックスに連勝するなど、13勝2敗のロケットスタートに成功し、首位を快走。特に打線は15試合で35本塁打、116得点を奪う驚異的な破壊力で懸念されていた投手陣を盛り立てた。ところが、4月中旬から打線が不振に陥り、投手陣が大量失点を繰り返す悪循環で5月18日に地区最下位に転落。4月12日以降は3度の6連敗を喫するなど、46試合で12勝34敗と苦しい戦いを強いられている。

昨オフにトレードを繰り返し、10人以上の主力級選手を入れ替える一方で将来を見据えてポスティングシステムで菊池を獲得するなど、解体&再建に着手したマリナーズ。MLBネットワークのジョン・ヘイマン記者は1日のツイッターで他球団関係者の『全員をトレードに出そうとしている』との談話を紹介しながらマリナーズが早くも『売りモードに入っている』と伝えた。この日トレードが成立したブルースのほかにエンカーナシオン、ヒーリー、ゴードン、ベッカム、リークら実績ある中堅、ベテラン選手のトレードを画策しているという。

他人事ではないな、カープ。ヤクルトやマリナーズを見習わないでほしいねえ。しっかりと頼むよ緒方さん。


★★<軽井沢にマツダ ロードスター が1000台以上…30周年モデルの秘密を主査が語った>初代『ロードスター』(NA)ベースのショーカー『MX-5 Miata Club Racer』をオマージュし、マツダが現行ロードスター(ND)に特別色『レーシングオレンジ』をまとわせて登場させたのが、『ROADSTER 30th Anniversary Edition』だ。

そのリトラクタブルハードトップモデル『RF』をじっくりみる機会があった。場所は長野県の軽井沢、ロードスター乗りには恒例の『軽井沢ミーティング』の会場内(5月25日)。

このロードスター30周年記念モデルは、世界限定3000台。ソフトトップモデルは4月の商談予約で、販売台数の17倍を超える1900台以上の申込みがあったことをうけ、RFの販売台数を当初予定の40台から139台ヘに増やし、6月10日まで商談予約の申し込みを受け付けている。

軽井沢ミーティングでマツダの中山雅主査は、レーシングオレンジというカラーについて『いくつか候補があって、やはり彩度と明度が両方とも高い色というのを考えて、ピンク色、黄色、黄緑色、水色、そしてオレンジ色などがあがってきた。30年というロードスターの歴史を振り返って、これから先もロードスターを30年、またつくり続けるという決意を、朝焼けの色に重ねてこの色にした』と語った。

また気になるのは、その足。30周年記念モデルのソフトトップ仕様は195/50R16を履くいっぽう、RF仕様は205/45R17。実はこの違いを埋めるように、16インチのレイズボルクレーシングの鍛造アルミホイールも用品として発表される。これらのデザインについて山口宗則プロジェクトマネージャーはこう語っていた。


『30周年記念モデルの国内仕様には、レイズボルクレーシングの鍛造アルミホイール「ZE40」17インチ版ダークガンメタリック塗装のホイールを履かせている。これはマツダ専用に図面を起こして評価して、ラインで組めるように形状変更した新しいもの』『海外仕様の30周年記念車はすべて17インチホイールだから、用品として販売される16インチ版は国内のみ。リムには「30TH ANNIVERSARY」のほかに、「ROADSTER」という刻印が入る予定』と。

いろいろスペシャル感が満載の 『MAZDA ROADSTER RF 30th Anniversary Edition リトラクタブルハードトップRF』。このクルマの前に立った中山主査、山口PM、そして新たに主査となった斎藤茂樹氏が加わり、初代ロードスターから将来の『NE』についていろいろ飛び出した秘話に、ロードスター好きは食らいつくように聞き入っていた。

ことしの軽井沢ミーティングは、NAが355台、NBが209台、NCが138台、NDが342台。合計1044台ものロードスターが集結し、青空のもとで思い思いにロードスターと時間を過ごした。

初代NAが355台参集とは、またすごい人気だねえ。発売が1989年、30年経過して現存するこれほどの人気の国産車、ほかにあるかねえ。すごいことではあるなあ。お見事。


★★<川崎20人殺傷事件 襲撃犯『孤独の40年間』の行動>前代未聞の残虐な事件だった。スクールバスを待つ小学生に次々に襲いかかり、両手に持った刺身包丁で20人を殺傷した凶悪犯、岩崎隆一(51)。彼をめぐる報道を見ていると、違和感が拭えない。なぜ、中学時代の写真しかなく、それ以降の足取りが一向に掴めないのか。40年にもわたる孤独の深淵に迫った。

事件の発生直後、現場に向かった本誌記者は、岩崎容疑者の自宅の電話番号を入手。事件発生から約3時間後、記者は電話をかけた。
──岩崎さんのお宅ですか。  『……うん』
 年配の男性が応対した。岩崎容疑者の父親かと思った記者は、こう聞いた。
──こちらに隆一さんという息子さんはいますか?  『……いるような、いないような』
──警察から連絡は?  『警察? 今、来ていますよ』
──事件についてですが。  『事件についてっていうけど、事件のことなんて何もわかりませんよ』
──事件の前は自宅にいたのでしょうか。  『ほとんどいません、今はいない』
──ご一緒には暮らしてなかったんですか。  『暮らしてるっていうものじゃないですね』
──どういう関係ですか?  『何だろう。いいじゃないですか、どういう関係でも』

その後、記者の話を断ち切るように電話は切れた。父親と思われた年配の男性から聞こえてくるのは、岩崎容疑者との“近くて遠い距離”を窺わせる言葉ばかりだった。近所に住む50代男性の証言がそれを裏付ける。『隆一は僕の5歳年下で、昔は遊んだこともあります。その頃は隆ちゃんと呼んでいて、大人しい子でした』。

男性は続けて、地元ではそれなりの名士だという岩崎家の事情を明かした。『今あそこに隆一と住んでいるのは、彼の伯父伯母にあたる夫婦です。あの家は50年以上前からあって、このあたりではかなり古いほう。以前は隆一の祖父母と伯父伯母、その子供たちで住んでいた。隆一は別の場所で両親と住んでいましたが、隆一のおばあちゃんが一家について絶大な力を持つ厳しい人で、隆一のお母さんと折り合いが悪く、やがて両親は離婚することになった。おばあちゃんは、僕らが野球してて家にボールが入ったら怒鳴り散らされたり、このあたりでは恐れられていた存在でした』。

その後、岩崎容疑者はこんな境遇に置かれたという。『隆一は、父親でも母親でもなく伯父夫婦が預かることになった。伯父夫婦には、実子として隆一のいとこにあたる姉弟がいて、端から見たら三兄弟のように見えるけど、伯父さんたちは『預かって育てている子だ』と近所の人間にもはっきりと言っていました。(子供時代の)僕の目から見ても、隆一よりその姉弟のほうが大事にされているようには感じていて、とくにお姉さんは地元の小学校じゃなく、たしかカリタス小学校に通っていたはずです』(同前)。奇しくも岩崎容疑者が襲ったのが、カリタス小学校の児童たちだった。警察は、計画的な犯行だったと見ている。何らかの因果関係があるのだろうか。


◇身元確認を拒否
一方、彼が通っていた地元の小学校時代の同級生は、当時の印象をこう語る。『低学年の時に一度だけクラスが同じでしたが、あまり良い身なりをしていなかったので、家庭環境がよくないのかなと思っていた。授業中にツバを吐いたり、落ち着きのない子供だった印象があります』。

ところが、小中学校の同級生に取材をしても、どんな少年だったかを覚えている人物はほとんどいない。『中学の時に一度同級生になった記憶はあるんですが、名前だけで全く覚えがないんですよ。同級生でグループLINEをやっているんですが、今回の件で「誰か詳しい人いる?」って聞いても、みんなよく知らないって言うんですよ。“誰々と親しかった”くらいの話が出てきてもおかしくないのに、それすらない』。

中学を卒業してからの彼の姿は、いよいよ目撃情報がなくなる。だからメディアに出てくる彼の肖像は、いまだに中学の卒業アルバムのままだ。幼少期をともに過ごした近所の男性の記憶も、ここで途絶えている。『小学校中学校以降のことは覚えてないんです。見ていない時期があって、ここに戻ってきたのは最近だったと思う。伯父さん夫婦の実子の姉弟はもう家を出ていて、ときどきは帰っているようだけど、今あそこに住んでいるのは伯父さん夫婦と隆一だけです。夜にどこかに出かけている様子はあったから、夜勤かなにかしているのかと思っていた。ただ、隆一だとは分かっても、見かけても声をかけたりはしないから何をやっているか聞いたことはありません』。

多くの近隣住民が、昼間は出歩いているのを見ることはなく、見かけるとしたら夜だったと口を揃える。隣に住む40代の女性は、岩崎容疑者との間に“近隣トラブル”があったという。『去年の夏頃、朝6時ぐらいにいきなりピンポンピンポンと玄関のチャイムが鳴って、夫が出たら“その人”がいて、「お宅に植えてある木の枝が伸びて、葉っぱが目に当たる「ってすごい剣幕で一方的に怒鳴りつけてきたんです。30分くらい口論になった。その件をご近所に話したら、みんな“その人”とは距離を置いているというから、うちもそうしようと』。

だが、容疑者との関係に突如として変化が起きた。『事件当日の朝です。ふだんは夜中しか出かけないはずなのに、朝7時頃表に出てきて、向こうから『おはようございます』と挨拶してきた。思わず挨拶を返しましたが、初めてだからおかしいなと思ってたんです。その後にニュースで登戸の事件を見たときは、「もしや」って。格好は黒いズボンに黒いポロシャツ、黒いリュックに黒いメガネでした』。


同じく近所に住む、70代の女性も、事件直前の岩崎容疑者の姿を目撃している。『たまたま3日ほど前に隆ちゃんを見かけたのよ。両手に買い物袋を持って、リュックを背負って、うつむき加減にこの前を通り過ぎていった。挨拶もしないけど、あら隆ちゃんだって思っていた。それがこんな事件を起こすなんて……』。容疑者自身だけでなく、伯父夫婦も、近所との交流はほとんどないようだった。家の中での様子の一端が明らかになったのは、川崎市役所が開いた会見だった。

『(伯父夫婦から)高齢なので訪問介護サービスを受けたいが、長期間就労していなくて引きこもり傾向にある家族がいるので、そこに外部の人が入るのは大丈夫かと心配する相談があった。一緒にいながらなかなか会話がないという話だった』。今年1月、伯父夫婦が岩崎容疑者の意思を確認する手紙を部屋の前に置いたところ、口頭で「自分のことはちゃんとやっている。引きこもりとは何だ」と言われたという。それを受けて伯父夫婦は『しばらく(岩崎容疑者の)様子を見たい』という意向を市の職員に示した。

社会との最後の接点だった伯父夫婦を残して、岩崎容疑者は凶行に及び、自ら命を絶った。伯父夫婦は警察の取り調べには応じたが、遺体の身元確認は拒否したという。このまま引き取りも拒否すれば、無縁仏として葬送されることになる。岩崎容疑者の近くにいた人物でさえその人生の大半を知らない。凶行に至った動機はおろか、“引きこもり”状態になった原因さえもわからなければ、事件の全容解明は進まない。岩崎容疑者が40年にわたって抱えてきた孤独の闇は、あまりにも深かった。(参考: 週刊ポスト)


★★<カープ、クローザー交替>カープのクローザー中崎。阪神戦第3戦では、2点ビハインドの九回に登板した。1安打1四球に自らの失策も絡み、2死二、三塁のピンチを招いたものの、何とか無失点で切り抜けた。

5月31日の阪神戦で1点リードの九回に1点を失い、セーブ機会で失敗していた。その日以来となる登板は負けている場面。広島・緒方監督は「彼とは話をしている。ポジションは流動的になる」と意図を説明した。これまで2勝2敗8セーブ、防御率2.66。これからは七、八回や楽な展開での起用も視野に入れるという。佐々岡投手コーチは『(もう1人の守護神はフランスア?)そうなるでしょう』と助っ人左腕をセーブのつく場面で起用する可能性があると明かした。

『リーグV3中も、度々先発の勝ちを消し、毎度のように塁上を賑わす中崎の安定感のなさにチーム全体がへきえきしていた。特にフランスアが台頭し始めた昨季途中から、守護神交代論が渦巻いていた。他球団からは「唯一付け入るスキがあるとすれば、中崎が投げる九回が狙い目」とささやかれた。フランスアは今季4勝2敗、防御率3.08と成績は中崎と似たり寄ったりでも、他球団は球に力があるフランスアを嫌がっています』(球界関係者)。

2位阪神とは4ゲーム差。広島はV4へ一歩近づいたといえる、かな。まあ、緒方さんの手綱さばき如何だな。

『プレミアブランド小話⑮ ロレックス、エベレストに登る』

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今日の画像は、アユ解禁で益田市匹見町澄川でのアユの釣り人たち、またもや高齢運転者事故、昨夜福岡市早良区で起きた『逆走車の多重事故現場』。そして、優々たる『クレマチス』と『センニチコボウ』です。風にゆらゆら揺れるセンニチコボウ、とっても可愛いです。

広島の太田川では、一昨日アユ釣りの老人が溺死体で発見されました。アユ釣りの方々、くれぐれも事故のないよう気をつけてくださいね。

高齢者の無謀運転、なにやらブームのような様相になって来たねえ。何等かの対策は必要だろうなあ。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★ロレックスは戦後も、積極的にプロモーション活動を続け、1953年にエドモンド・ヒラリー卿がエベレストに初登頂した際もロレックスを装着していた。実はこの時、ヒラリー卿以外のエベレスト挑戦チームにもロレックスを支給しており、どのチームが初登頂に成功してもロレックスのアピールが出来るようにしていたと言われる。

現在の人気モデル『エクスプローラ』は、このエベレスト登頂のイメージにちなんで開発されたモデルである。1960年には最も深い海溝と言われるマリアナ海溝への潜水ミッションにチャレンジ。特殊な試作モデルを作ってミッションを成功させ、防水時計として名声を博していたロレックスのイメージをさらに確固たるものとした。1971年にはそのイメージを商品化した究極の防水時計『シードゥエラー』が発売されている。

これらのプロモーションは全て冒険、チャレンジという点で共通しており、ロレックスという時計を『タフで高精度』という明快なブランドイメージに集約することとなった。

このように、まだ腕時計が未成熟だった時代に、ロレックスは『タフで高精度』という時計としての本質的な部分で他社を圧倒するブランドイメージを商品力とプロモーション力によって築き上げ、それを多くの人に認知・浸透させることに成功したのである。そして、ロレックスが極めて価値の高い時計であるというイメージを『社会的に』確立したのである。


ロレックスは今でもその地位に胡座をかくことなく、進化を続けている。全ての製品に『スイスクロノメーター認定』を得るだけでなく、それを大きく上回る日差±2秒という独自基準を向上させているのだ。対外的にそうした進化をアピールすると同時に、F1やヨットレースなどのチャレンジングかつステータス性の高いスポーツのスポンサーになるなど積極的なコミュニケーション活動を継続し、さらなる認知の拡大とブランドアイデンティティの強化を怠らない。

ロレックスのブランド力の維持・管理に対する力の入れようは、メルセデス・ベンツ以上である。それ故に、過去の歴史を知らない新興国においても富と成功のシンボルとして幅広く認知され、富裕層の仲間入りをしたら最初に選ぶべき時計としてのポジションを盤石なものとしている。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)

『セイコー』のHPを見ると、プレミアムブランドとして『グランドセイコー』が掲げられている。先日も新聞での宣伝広告をみた。この『グランドセイコー』、マーケティングの入り口、プライシング、デザイン、ネーミング、の『ネーミング』で失敗していると思う。

私が『グランド』と聞くと、往時ミズノが販売していた老人向けのクラブ『グランドモナーク』を思い出す。そこには、若々しさが欠け、金満家のニオイがプンプンし、よりアグレッシブな若い気持ちで前向きに取り組む雰囲気が欠落している。残念ながら、『グランドセイコー』には、そのネーミングでまず失敗しているように、私には思える。もっとも、セイコーは低価格の汎用時計から高級品まで幅広く、ロレックスのように下位製品を切り落とす決断ができないことが一番の原因だとは思うが。


■■昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」 ひばり母子に対抗した「江利チエミ」』このような、ひばりさん母子の動きを敏感に察知したのが、江利チエミサイドだった。チエミさんは、ピアニストの父、久保益雄さんと一緒に小さい頃から、米軍キャンプのステージに立ってジャズを中心に歌っていた。そして、ジャズだけでなく、笠置シヅ子そっくりに『東京ブギウギ』なども歌う処女歌手として日本人の間でも評判になり、その後キングレコードのオーディションを受け、昭和27年(1952)に『テネシー・ワルツ』で、15歳でデビューした。

『テネシー・ワルツ』は、昭和25年にパティー・ページが歌ってアメリカで大ヒットした歌だが、チエミさんはこの歌を、初めは英語の歌詞、途中から日本語の歌詞を交えたもので歌った。というのも、この頃丁度越路吹雪さんが宝塚を辞めてフリーで東京ミュージカルなどに出演していて、そこではシャンソンを日本語に訳して歌って、喝采を浴びていた。この訳詞を担当したのが岩谷時子さんだった。

このアイディアは見事に成功し、売り上げ枚数40万枚という大ヒットになった。この後、昭和28年には、雪村いずみさんも『思い出のワルツ』というジャズでデビューしたが、英語と日本語の歌詞を交えた同様のアイディアで歌い、ヒットを飛ばした。

その後もジャズ一辺倒だったチエミさんだが、ひばりさんがジャズを歌い始めたことで、今度はチエミさんが『着物を着て歌える歌』を身に着けようと、小唄や都々逸など江戸時代の音曲や、一節の最後に『さのさ』という囃子詞が入る『さのさ』などを習い始めた。


チエミさんには、後に私が司会をしていた、キングレコードの専属歌手を毎回ゲストに招くラジオ番組『キングアワー』に出てもらったが、もう音感の魂のような人だった。私が学生時代好きだった『東京キューバンボーイズ』の見砂さんからも、ラテンの真髄を吹き込まれた筋金入りだから、一般リスナーだけでなく私からのマニアックなリクエストであろうが、どんな曲でもこなせる人だった。本番中だったが『いや参りました』と、本気で頭を下げた覚えがある。

そして昭和31年には主演した映画『サザエさん』が大当たりして、ずっこけ三枚目まで演じられるエンタティナーとして、日本中の人気者になった。

そこで今度は、ひばりさんサイドも黙ってはいなかった。お母さんが参謀として映画での対抗策を講じたのだ。つまり、映画の中でふた役させるという作戦を立てた。宝塚の男装をヒントに、娘役と若衆などのふた役で登場させて、ひばりさんの新たな魅力をアピールするのだ。ひばり映画でのひとり二役の設定は、このチエミ対策が発端だった。

雪村いずみさんはジャズだけで通したが、ひばりさんとチエミさんは、こうしてお互いにないものを意識し合い、学ことでますます芸域を広げていった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<ジャイは落ちる、交流戦予想達川光男さん> 今日から『セ・パ交流戦』が開幕。毎年、パ高セ低などと言われ、交流戦順位はパ・リーグ→セ・リーグの順となるのが通例だった。だが、昨年は最下位に沈んでいたヤクルトが交流戦で優勝し、ペナントレースでも2位に食い込んだ。今年のセ・リーグで、交流戦後に抜け出すチームはどこになるか。『今年のパは弱いよ』と力強く言い切る野球評論家・達川光男さんが語る。

『台風の目はDeNAですが、交流戦が終わったら広島が首位を独走しとるでしょう。なんといっても投手陣は、先発の枚数が揃っている。3年目ながらこれまで交流戦で登板がないカープの床田寛樹(24)なんかは、初見では打てんと思うよ。床田は左対左で内角に厳しく投げられる。パにいない左腕です』(達川さん・以下同)。

さらに広島は打線にも上積み要素があるという。『鈴木誠也(24)が核となっている打線は、唯一の懸念が田中広輔(29)の不調。ただ、詳しくは言えんけど、実はここまでケガを抱えながらのプレーになっていて、それが治り、交流戦からはまた打ち出すと思う。田中が打率2割5分まで戻したら、カープは手が付けられんようになる』。

一方、いまひとつ波に乗りきれない巨人の交流戦はどう読むか。『巨人は落ちていくんじゃないか。菅野智之(29)は交流戦に戻ってくるじゃろうが、中継ぎがようない。4点差ではセーフティリードにならんから、先発を引っ張りすぎてしまう。打線がカバーするにも、限界があるでしょう』。

 交流戦の第2カード(6月7日~)は、ソフトバンク対広島の3連戦という昨年の日本シリーズの再現となる。シリーズではソフトバンクの“頭脳”として見事に古巣を封じた達川氏だが、『今回は同じようにはいかん。セとパのどちらが優勢か、このカードではっきりするじゃろうね』と笑顔で締めくくった。

その達川さん、2日日曜日に廿日市市で行われた『往年の名選手交流会』の高校生との試合では、バッターに立って、例のインコースの球が手に当たったとデッド・ボールをアピールした。が、審判は手を振って受け付けなかった。現役時代もインコースの厳しい球をデッド・ボールとアピールすることがしばしばあった達川さんの面目躍如と言ったところか。面白かった。


★★<3X3 バスケの人気>バスケットボールの本場、米国の路上の遊びとして生まれ、若者を中心に世界中に愛好者が広がった『3X3 バスケ』。国際バスケットボール連盟FIBAが2007年に統一ルールを設けて競技性を強め、国内では14年に男子プロリーグが創設され、昨年に女子リーグも始まった。男子は今季からニュージーランド、タイ、韓国の海外勢も参加する。

選手の競技への向き合い方も従来の型にははまらない。18年覇者の『立川ダイス』に所属する池田千壽(35)の本業は、公立中学校で担任を持つ体育教諭だ。大学卒業後は『仕事をしながら頑張りたい』と3人制に活路を見出し、13年に初代日本代表に選ばれた。週2日は勤務後に練習に参加し、その他は公園のストリートコートなどを転々といて技を磨く。『教え子にも3人制の面白さを伝えたい』と、教諭として東京五輪出場を夢見ている。

『東京ダイム』の落合知也(31)は3人制での五輪挑戦を目指し、昨年2月にBリーグ1部の栃木との契約を解除した。芸能事務所にも所属し、テレビ出演などのモデル業もこなす。『お客さんとの距離が近くて、声を掛けてもらえる機会は増えた』と3人制のブーム到来を予感する。

同じく東京ダイムの小松昌弘(35)は金融機関で働きながら東京五輪を目指しており、『気軽にできて、国際連盟主催の世界大会もある』と3人制の魅力を語る。

5人制のプロチームと比べて拘束時間は少なく、ほとんどの選手が仕事と両立しながら楽しむ文化が定着している。その気軽さも普及の背景にある。

どんどん進化する、スポーツの世界、だなあ。とってもいいことだ。本業の仕事と掛け持ちで五輪に出られるなんて。


★★<そっと渡された電車賃1000円…高齢夫婦にお礼したい>『困っているなら、これを使って』。先月29日夕、東京・池袋の駅で、ICカードの残高不足で、帰宅できなくなった東京都立特別支援学校高等部1年の男子生徒(16)=東京都足立区=に高齢の夫婦がそう声をかけ、1000円札を手渡した。行き違いではぐれた母、福田恭子さん(59)は「こんなに親切な人に出会えるなんて感謝しかない」とツイッターに投稿し、連絡先が分からない夫婦に会い、お礼を伝えたいと考えている。

◇残高9円、母と行き違い
29日午後6時ごろ、福田さんの長男の男子生徒はJR池袋駅の北改札で立ち往生していた。自宅最寄りの北千住駅まで帰るつもりだったが、カード残高が9円しかなかった。その姿を見た高齢の夫婦が長男に近づき、『これを使って』と1000円札をそっと渡した。長男がカードのチャージを終えると、既に夫婦の姿はなかった、という。福田さんによると、長男は自身の状況を言葉で具体的に説明することが苦手だという。

4月に墨田区の支援学校に入学した長男は電車で通い、福田さんも付き添っていた。1人での通学に慣れ始め、下校時に2人が落ち合う場所は校門から最寄り駅の道中に変わっていた。この日は、普段より1時間早い午後2時半に授業が終わり、下校時間が早まったこともあって2人は行き違い、会うことができなかった。長男の携帯電話も、ちょうど解約したばかりだった。


10日ほど前、福田さんは冗談半分で『早く授業が終わる日は、池袋に行けたらいいね』と長男に話した。このことから、長男は『先に行った恭子さんを追いかけなければ』と思い、自宅に帰らずに池袋駅を目指したとみられる。ダウン症の長男は計算が不得意で、お金の価値をしっかりと把握できないので、ICカードに高額の入金をしないようにしている。福田さんは残高が数百円と把握しており、『そろそろチャージしなければ』と思っていた。

長男のかばんには、援助や配慮の必要性を知らせる『ヘルプマーク』が付けられ、道に迷ったり、はぐれたりしたときは、最寄りの交番に行き、マークに記載された福田さんの携帯電話に連絡を頼むよう伝えていた。長男の説明によると、駅周辺で2時間ほど福田さんを待ち、疲れたため帰宅しようとした際、夫婦が1000円札を渡してくれたという。長男は午後7時前に自宅に戻ってきた。

1日10万人以上の乗降客があるターミナル駅での出来事に、ツイッターでは『殺伐とした世の中、捨てたもんじゃない』『その1000円は神様のバトン。巡り巡ってほんわかバトンはそのご夫婦に届くはず』など、温かい投稿が相次いでいる。福田さんは『長男は失敗と体験を積み重ねて、生活力を身につけており、すてきなご夫婦に多くのものをいただいた。直接会ってお礼がしたい』と話している。


★★<SB入団スチュワートはゴルフも別格 ベストスコア『65』>ソフトバンクの新外国人カーター・スチュワート・ジュニア投手(19=東フロリダ州立短大)が3日、福岡市内のホテルで入団会見を行った。

6年620万ドル保証で、出来高を含めると1200万ドル(約13億2000万円)の大型契約とみられる。今季推定年俸は1億1000万円。昨年全米ドラフトでブレーブスから1巡目指名された怪物はゴルフの腕前も規格外。「6年間で日本で一番の投手を目指す」と目を輝かせた。

198センチ、91キロの大きな体にスーツ姿。でも表情はあどけない。期待の19歳に無数のフラッシュが浴びせられた。場所は過去に松坂らが入団会見を行ったヤフオクドームに隣接する高級ホテル。超VIP待遇で三笠取締役GMから背番号2のユニホームを着せてもらうと笑顔でポーズを取った。『質の高い野球を6年やり、日本で一番の投手になりたい』と目を輝かせた。

昨年の全米ドラフト1位右腕を獲得した三笠取締役GMは、その理由について『身体能力が優れているから』と明かした。野球以外でも規格外の腕前を持つ象徴が、趣味のゴルフだ。3歳で始め、日本にも愛用のクラブを持ってきた。『ベストスコアは65』と笑顔でサラリ。ドライバーでは巨体を生かし、何と360ヤードをかっ飛ばすという。


『65』のスコアは米国男子ゴルフツアーでも、首位争いができるレベル。松山英樹プロの平均飛距離は304ヤード。360ヤードのスチュワートの飛距離は驚異だ。大学からゴルフ競技で誘われたこともある。『野球が終わったらゴルフ(のプロも)やるかも』と笑った。ボウリングのベストスコアは246。卓球も得意。高校時代は26試合で10本塁打を放った。

もちろん本業の投手の素質も抜群だ。巨体から最速98マイル(157キロ)の直球と大きく縦に曲がるカーブを繰り出す。直球もツーシーム、フォーシームと投げ分け、チェンジアップ、スライダーも持つ。5月1日まで実戦で投げていた。『「試合からしばらく離れているので、2~3週間で試合に投げられるよ』。

目標はソフトバンクでの6年間で能力を磨き、メジャーで通用する選手になること。今季はまず、日本野球に慣れるところから始める。福岡市内に住み、しばらくは両親も滞在する。新幹線で福岡・筑後市のファーム施設へ通う。とてつもない素材の米国の19歳怪物が、異国の地で挑戦をスタートさせた。

まあ、凄い選手ダネエ。SBも安泰だ、いいねえ工藤さん。


★★<また起きた、福岡で高齢者逆走多重衝突事故>そのSBの本拠地福岡市早良区。帰宅ラッシュの歩行者が行き交う地下鉄駅近くで、また高齢ドライバーによる事故が起きた。福岡市早良区百道の幹線道路交差点で4日夜に発生した多重衝突事故。弾みでひっくり返った乗用車が歩道に乗り上げ、事故に遭遇した住民は肩を震わせながら、力を合わせて下敷きになった人を助け出した。

『すごい衝撃と共に自動車が宙を飛んでひっくり返った。「とにかく助けなきゃ」と必死だった』。帰宅中に事故を目撃した近くのスポーツトレーナー、佐藤美代さん(39)は携帯電話で119番しながら、通行人らと一緒にひっくり返った車両の下敷きになった男性の救助に向かった。

上半身が挟まれた男性は『うーうー』とうめき声を上げていたが、通行人らが車を持ち上げて助け出した。男性は体を震わせてぐったりしており、間もなく救急搬送された。周囲では別の車から助け出された運転手らを心臓マッサージする外国人男性や女性の姿もあった。

別の40代女性によると、現場前の学習塾や病院などからタオルを持ち寄り、負傷者に手渡す人の姿もあった。近くの医師、中川元典さんは『雷のようなドシャーンという音を聞いて外を見たら車がひっくり返っていた。中から運転手を助け出して手当てした。心臓マッサージが必要な人がいたので救急隊が来るまで手伝った』と当時の様子を語った。

歩道上にも頭から血を流した母親と足から血を流して震えている小学生くらいの女児もいた。事故後、周辺道路は一般車両の通行が規制され、約3時間たっても近くの住民らが心配そうに現場を見つめていた。

逆走したワゴン車を運転していた老人と同乗の妻は死亡。事件の詳細の解明は難しいなあ。600m以上、反対車線を猛スピードで走り、アクセルとブレーキの踏み違いが修正出来ず、自ら死に至った事故。

死亡したのは現場近くに住む小島吉正さん(81)=同区原=、節子さん(76)夫婦だったと発表した。他の負傷者は14~52歳の男女7人。けがの程度は不明だが、いずれも命に別条はないとみられる。同署は事故車両のドライブレコーダーを精査するなどし、事故の状況を詳しく調べる。 

もう高齢者事故は社会問題だねえ。やっぱ、免許更新をもっと厳しくすべきだねえ。

『プレミアブランド小話⑯ 安価な小型車メーカーだった「BMW」』

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今日の画像は、福岡の土産物として昨年1年間に最も売れたあんこまんじゅうとして、ギネス世界記録に認定された『博多通りもん』。そして、街中でよく見る花『マリーゴールド』です。花期も長く、今ではコスモス並みのポピュラーな花になりましたねえ。きれいです。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★メルセデス・ベンツやロレックスは、その分野において『最高』というブランドイメージを広く一般に築き上げ、『富と成功のシンボル』となった。では、その分野における絶対的王位ともいえる盤石なイメージを持つブランドに対し、追いかける立場にあるブランドはどのような戦略を取るべきか。

BMWは、今ではメルセデス・ベンツと並ぶプレミアムブランドとして認知されているが、もともとはそうした位置づけのブランドではなかった。BMWは長い時間をかけて戦略的に地位を得ることに成功するのだが、その経緯を見てみたい。

BMWは、航空機エンジンを作るメーカーとして1916年に誕生した。1923年にモーターサイクルの生産、続いて1929年に自動車の生産を開始するが、最初のモデルはイギリスのオースチン・セブンという750ccの小型大衆車のライセンス生産であった。その後、独自開発を行うが、あくまで2000cc以下の小型車中心のラインアップであった。

戦前のBMWを代表する名車、『328』、2000cc・6気筒エンジン搭載、はモータースポーツで活躍したが、その生産台数は5年間で464台に留まった。更に、1939年にはナチスの命令により自動車生産を停止させられてしまう。航空機エンジンの生産に集中させるためである。

第二次世界大戦後は疲弊したドイツ経済の状況もあり、イタリアの超小型車イセッタのライセンス生産、エンジンはBMWのモーターサイクル用250cc、から事実用の復興が始まった。

その後、一回り大きいBMW600やその後継車BMW700が加えられたが、どれもモーターサイクル用エンジンを転用した非常に小さいモデルだった。この間、501、502という高級セダンや503、507という高級クーペも作られたが、生産台数はごく少数に留まった。


1960年代初頭まで、BMWは1000ccにも満たない超小型車がメインで、少数の高級車も作るといういびつな構造の会社であり、その財務内容は厳しいものであった。倒産寸前という状況の中、ダイムラー。ベンツへの身売り話も出たほどである。

その状況を打破するため、株式の30%を取得したクヴァント家の資金援助のもと、1961年に当時のメインストリームである1500ccクラスの車を開発したのである。これが『ノイエ・クラッセ(新しいクラス)』というコンセプトで作られたBMW1500である。全く新しい車台、全く新しいエンジンと全てが白紙から設計された。

普通のファミリーセダンとして開発されたが、全てが新設計だったことが幸いし、後輪に独立懸架サスペンションを持ち、エンジンもOHCという当時としては高性能のエンジン形式を採用した進歩的な設計だった。

結果、オーソドックスな4ドアセダンでありながらその走行性能は競合他社を凌駕するものとなり、その後の自動車設計に大きな影響を与えるほどエポックメーキングなモデルとなった。日産が1967年に発売したブルーバード510型はこのBMW1500の設計思想に大きく影響を受けたと言われており、技術的に極めて類似したものとなっている。

イタリアのミケロッティによる外観デザインはモダンかつエレガントで端正な佇まいで、それも高い評価に繋がってこのBMW1500は大ヒット作となる。エンジンバリエーションは1600、1800、2000と増え、高性能ニーズにも対応した。

1966年にはこの1500をベースに、廉価でコンパクトボディの2ドア版BMW1600-2も追加された。そのスタイリングは1500より更に軽快かつスポーティで、走りも一層スポーティなものとなり、また大ヒットとなった。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。



★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」亜]俺奮Δら三波春夫と村田英雄が登場』昭和33年(1958)は、浪曲の世界でも大きな出来事があった。浪曲界の期待の星、村田英雄さんが歌手としてデビューを果たしたのだ。

昭和4年(1929)、佐賀県の浪曲師の家に生まれた村田さんは5歳で初舞台を踏み、7歳で酒井雲に弟子入り。13歳で酒井雲坊を名乗り、天才少年浪曲師として騒がれた。以後九州を中心に旅回りをしていたが、昭和26年(1951)に上京。27年には浪曲新人最優秀賞を受賞。この年に村田英雄と改名した。

そして、昭和32年浅草国際劇場の浪曲大会に出演したのが、ラジオの文化放送番組のプロデューサーの目に留まり、文化放送の『連続浪曲』のレギュラーになった。その村田さんの口演『江戸群盗伝』を耳にしたのが、作曲家・古賀政男さんだった。古賀さんは、その瞬間、当時テイチクから売り出し中の同じ浪曲出身歌手・三波春夫さんの対抗馬はこの声しかないと閃き、すぐコロムビアに打診。村田さんにも直接電話で、歌手に転向するよう説得した。

古賀門下生になった村田さんは、『明るい声』の三波さんに対して『暗めの重厚な声』を売りにすることで、レッスンが始まった。さらに、啖呵も切れる、語りも抜群なのを生かして、歌はストーリーのある原作もので行くことに決定。そこで、日本人なら誰でも知っている題材がいいと起用されたのが、長年浪曲台本を書いてきて、この世界を書かせたら天下一品の吉野夫二郎さん。作曲は勿論古賀政男さんで、昭和33年、ついに村田さんのデビュー曲『無法松の一生』が出来上がった。

後の私のインタビューでも『男とあらば、ああいう人間になりたい。荒々しい中にかいま見える男の美学。無法松は、日本人の一番好きな男性像じゃないですか』と、村田さんは熱く語った。歌手としての初舞台も同じ年、有楽町の日劇で行われた『コロムビア歌謡大行進』。古賀先生のアイディアで、車夫の扮装で人力車を引いて登場し、やんやの喝采を浴びた。


浪曲界出身の二人、三波春夫、村田英雄の関係は、最初から何やら波乱含みだった。生まれは三波さんが大正12年、村田さんが昭和4年と、三波さんが年上なのだが、浪曲界の芸歴では、村田さんが5歳で初舞台を踏んだのに比べて、三波さんは昭和16年に16歳で日本浪曲学校に入学、1年半後に、南条文若と名乗り浪曲界入りした訳だから、村田さんの方が先輩になる。

しかも、村田さんは浪曲界では立派な真打ち。片や三波さんは、終戦後は旅回り一座の浪花節語り。落語家で言えば、師匠と付き人くらいの、大きな格の開きがあった。ところが三波さんは昭和32年に『メノコ船頭さん』で1年早くデビュー。同じ年に出した『チャンチキおけさ』『船方さんよ』の両面が大ヒットして、一躍人気歌手の仲間入りを果たしていた。

この二人は、仕事場や宴席で顔を合わす機会が多かったが、性格的に真反対の二人には雲行きも怪しくなった。まずゴルフ。三波さんが、上野の『聚楽』の会長の後押しで名門『小金井カントリー』のメンバーになった。それで、三波さんが『村田君、僕が予約するから一緒に小金井を回りましょう』と誘ってくる。が、名門クラブほど会員とビジターの差は大きい。もともと親分肌の村田さんとしては、その違いに満足は出来なかった。が、いかな村田英雄でも、小金井の会員にはなれなかった。

そんなところへ、確かあれは『明星』で、お正月の記念グラビア撮影だったが、三橋美智也、三波春夫、村田英雄の3人が九段の料亭に集まった。金屏風を背に、三波さんが一番年上というおkとで真ん中にして、3人が紋付き袴姿で並んだが、カメラマンの『本番行きます』の声の直後、真ん中の三波さんがすっと背伸びしちゃった。それが両端の二人に分かった。大人げないと思ったのか、さすがに二人はその時何も言わなかったが、後で三橋さんが私に『玉ちゃん、やっこさん背伸びしやがった。村田さんも知っていたよ。金輪際、一緒には撮らないと怒ってた』と話してくれた。三波さんと村田さんの犬猿の仲はこの時決定的になった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<博多通りもんが『最も売れたあんこまんじゅう』ギネス認定>福岡の土産物として人気の菓子『博多通りもん』が、昨年1年間に最も売れたあんこまんじゅうとして、ギネス世界記録に認定され、福岡市のJR博多駅前で、製造・販売する明月堂の秋丸真一郎社長に公式認定証が贈られた。

2018年の売り上げは75億9126万1769円。今年で創業90周年を迎えた明月堂が記念に申請し、ギネス社が新たに創設した『最も売れている製菓あんこまんじゅうブランド』の部門で認められた。

『博多通りもん』は、1993年発売。3年余りの研究・開発を経て、バター、生クリームの洋菓子の素材と和菓子の伝統を融合させ、しっとりした食感の『西洋和菓子』のジャンルを作った。販売エリアを福岡都市圏に限定した戦略で、旅行者や出張者の定番土産に成長し、現在は年間約6400万個を生産する。

秋丸社長は『認定は喜ばしく、誇らしい。100周年へ向け、地域に愛されるお菓子作りをしたい』と意気込んだ。

93年の発売で、一位を確保するとは名月堂も見事なもんだねえ。私が福岡に住んだ時代にはなかった商品だ。お見事。


★★<高給で優秀新卒争奪戦、ソニー、AI開発730万円 くら寿司、幹部候補1,000万円> ソニーは、新入社員の初任給を引き上げる。プログラミング言語を使いAIなどの分野で新たなサービスを開発できる人材を採用するため、大学院修了など一部の新入社員の年収を能力に応じて最高で730万円と、現在の約560万円から3割程度上げる。デジタル分野での人材の獲得競争が世界的に激しくなっていることが背景にある。

今春の新入社員も全員7月から、給与を大卒で2万円増の月25万円、院修了で1万5千円増の月28万円に引き上げる。その上で、プログラミングが堪能な新入社員を中心に、入社後の仕事内容や評価に応じて人事評価で9段階中の4段階目にあたる『主任クラス』の等級に抜擢する。これまで新入社員は入社2年目の6月まで一律で『等級なし』だった。約400人いる新入社員で実際に等級が与えられるのは5%ほどと見込む。ソニー広報は『世界的な人材獲得競争に、危機感を持って対応していく』としている。
 
回転ずし大手の「くら寿司」は2020年春入社の新卒採用で、初年度から年収が約1千万円となる幹部候補生を10人募集する。平均年収の2倍以上の好待遇で、海外での店舗拡大に対応できる人材を集める狙いがある。

幹部候補生への応募は、ビジネスレベルの英語力を持っていることが前提。採用されれば、最初の2年間は国内店舗や本部の各部署、その後1年は海外店舗などで研修を受ける。その後、適性に応じた部署に配属され、部長職に相当する業務を担い、経営戦略の企画立案などにも携わる。将来的には、海外子会社の経営などに携わることも見据えているという。

通常の採用枠約220人とは別枠の募集。社員の平均年収450万円の2倍を超える収入を1年目から得ることになるが、2年目からは本人の実績に応じて額を増減させるという。

同社は米国で21、台湾で19の海外店舗を持ち、今後も毎年10店ほどのペースで拡大させる方針。こうした業務を担う経営感覚を持った人材は、社内でも公募などで募集しているが、『より若くて意欲があり、チャレンジングな方に来てほしい』と特別枠を設けた。

まあ、い人材を採ろうと思えば、おのずと処遇は引き上げる方向になるねえ。ソニーが抜きんでた報道だが、各社『タレント人材』には、一般総合職とは異なる賃金体系を組みつつある。あのインド工科大学人材の初任給は1千万円がずらりだから、日本の人材もそれに負けない能力と処遇が必要な時代になったということだろうなあ。自動車会社では、相当前から、『デザイナー』の報酬がタレント扱いされている。ワールドワイドな開発競争から、デザイナーはその筆頭タレントなのだなあ。世の中変わる。


★★<中国のテレビ市場失速 格安業者増殖で大荒れ、現地ルポ、格安テレビ街>世界最大の中国のテレビ市場が急失速している。2018年の販売総額は11%減と2年ぶりに大きく落ち込み、直近の1~3月も同16%減と歯止めがかからない。国内ではいまだ40ものテレビブランドが乱立する。最近は中古部品や不良部品を使う格安テレビが出回り、販売価格を大きく押し下げ、事業環境をさらに悪化させている。事態を探るため、中国で今、増殖する格安テレビの街を歩いた。

『おい、このテレビ、いるか?』。中国南部の中核都市、広東省広州市郊外の番禺(パンユウ)――。昼でも薄暗い古びたアーケード街を歩いていると、ぶっきらぼうに中年男性が声をかけてきた。言われるがまま8畳ほどの店をのぞくと男性数人が気だるそうに中国ドラマを見ていた。そのテレビを売ってくれるのだという。

見た目は新品だが、テレビにブランド名は無い。ただ、65インチの大型液晶パネルが韓国製であると知り、値段が高いとも思ったが、価格はなんと3千元(約4万8千円)。大手メーカーの3分の1程度と格安だった。雑然とした店の中を見回すと、京東方科技集団(BOE)や韓国サムスン電子など大手のテレビ用液晶パネルメーカーのロゴが入った発泡スチロールの箱がたくさん積み重なっていた。

中身は、京東方やサムスンなどの工場から横流しされた不良品や中古テレビから取り外した液晶パネルだという。そこでは、一枚一枚のパネルを裏側から光を当て、動作状態を確認し、ここに来るテレビ業者に卸す作業員の姿が見て取れた。この古びたアーケード街にはこうした液晶パネルのほか、電子基板などを含め部品の卸売業が50軒以上も軒を連ねていた。周辺にはここから部品を集めてテレビに仕上げる業者が点在し、一帯でいわば『格安再生テレビ工場』を形成していた。


18年、この番禺などで生産された格安の再生品のテレビが、中国で有名な通販サイトで大量に取引され、市場を荒らしたことが問題となった。再生品とはいえ、見た目は新品同然。多くは大手メーカーのロゴを偽った模造品だった。そのため政府も問題業者を排除し、事態は一端沈静化したかに見えた。だが、問題となった格安テレビを売る業者は今もこうして生き残っていた。理由は通販サイトの販路が途絶えても、農村部へトラックで運び、ノーブランド品として大量に売りさばく販路が健在で、もうかるからだった。

こうしたテレビ再生街はこの1年間ほどで中国で広がり、販価を押し下げ、大手メーカーの収益を圧迫するに至っている。あおりを受け、18年は大手の海信集団(ハイセンス)の純利益は6割減、康佳集団(コンカ)も9割減と急減した。中国調査会社の北京中怡康時代市場研究も、テレビは既に各家庭に行き渡り『需要の低迷に加え格安業者の流入で販売単価がかなり下がっている』と、業界が抱える二重苦を指摘する。

実際、同社の調べでは中国で販売するテレビ大手9社の中で、通販サイトにおける平均のテレビ販価が17年から18年にかけて上昇したのは、高級テレビの販売に絞るソニーとサムスン電子の2社だけ。一方で中・低級機を手がけるハイアールやハイセンスなど中国勢は最大10%強も下落した。

『今は、もう安ければ何でもいいわ』。最近、広州市内で引っ越しをした湖南省出身の20代女性は通販サイトでテレビを買った。ブランド名は『暴風』。全く聞いたこともないブランドだったが、32インチで600元(1万円弱)。大手メーカーの7割程度の価格が購入の決め手だったという。

世界のテレビ業界は再編が進んだ。だが中国の通販サイトではいまだに『暴風』や『夏新』といった中国人にもなじみの薄いブランドもずらりと並ぶ。こうした無名ブランドの多くは2000年代、政府が農村部へのテレビ普及に多額の補助金を付け、それ目当てに創業した、にわかメーカーが少なくない。競争力は高いはずもなくいまだゾンビのように生き残る。

だが今、そこにまた格安再生テレビなる薄利で稼ぐ新たな業者が増殖し、価格破壊をもたらし、市場をかき乱す。世界最大を誇った中国のテレビ市場は変質した。大手テレビメーカーでさえ体力がさらにむしばまれる構図ができ、先行きが見えない状況を迎えている。

テレビのように『コモディティ化(一般化)』が進む製品は、部品だけ集めれば、誰でも生産、製作できる。よってブランドによる差別化が難しい商品に成り下がり、メーカーは淘汰される。やがてスマホにもその時代が来るのではなかろうかな。PCもすでにその領域に入っているしな。


★★<西宮市長『公務員以前の問題』 市職員1年で7人逮捕に訓示>昨年度から1年余りで7人が逮捕されるなど兵庫県西宮市職員の相次ぐ不祥事を受け、同市の石井登志郎市長は5日、市役所で幹部職員約300人を集めて訓示し、『公務員以前に人としてあってはならないことが頻発している。危機的状況だ』などと述べ、綱紀粛正を訴えた。

西宮市では昨年、小中学校で児童や生徒を盗撮したとして教員2人が逮捕されたほか、職場で上司の財布から現金を盗んだ疑いで職員が逮捕された。

今年に入っても、1~2月に副主査2人が入札情報の漏えい事件で逮捕・起訴されて公判中。4月には小学校の調理師が同僚の財布から現金を盗んだとして逮捕される窃盗事件(不起訴)があるなど、懲戒処分も続いている。

こうした事態を受けて5日、石井市長は管理職らを招集。『われわれの仕事は(市民の)信頼があるからこそできる』と説き、『市民は市役所を選べない。信頼を回復する以外に道はない』と呼び掛けた。

石井市長は再発防止策を検討中としたが『制度や仕組みだけで不祥事は根絶できない。職員の仕事とは何かをしっかり意識してほしい』とも強調。その上で『一定の区切りがつけば私を含め特別職のけじめを示す』と自身にも処分を課す考えを明らかにした。

広島市でも市の高速道路公社が、二葉山トンネル工事入札に際して、大成建設と公社が入札額を巡り、官民談合した疑いがある。なのに、市長も県知事も公社理事長をかばう。なぜ大失態に対して毅然とした措置が出来ないのか暗い闇を抱える松井市政ではある。


★★<カープ、中村恭平>カープ背番号『64 中村恭平』。2010年のドラ2、30歳。8年間在籍しながらちっとも芽が出なかった。それは中村の年俸が証明している。なんと8年間グラウンド生活をしたのに、たったの『750万円』。新人の中村奨成800万円、高橋樹也900万円、飯田哲矢900万円、アドゥア2,200万円よりも低いのである。それもそのはず、リリーフで出て来ても必ず四球、ホームラン、失点を重ね、やっと一軍に上がったかと思うとすぐに二軍落ち。富士大出身の情けない恭平だった。

それが、今季グラウンド9年目にして覚醒した。今季、リリーフ登板14回、投球回数17.1、打者63人に投げ、被安打7、被本塁打1、奪三振21、与四球4、失点2、自責点2、そして防御率はなんと『1.04』。遅咲きとは言え、30歳で花開いた恭平君ではある。ちなみに恭平の暦年防御率をメモする。
 2011年  4.05     2012年  4.85     2013年  3.96
 2014年  1軍登板なし 2015年 10.80    2016年  5.40
 2017年  1軍登板なし 2018年  7.53    通算病魚率  5.00  

妻は女優で元グラビアアイドルの『清水ゆう子』。まあ、この成績で行くと、来年は少なくとも3千万円は超えるだろう。早く5千万円のラインを超えて、かみさん孝行しておくれな、恭平君よ。

昨夜のカープは、恭平君が見事なリリーフ。そして田中が復活の烽火で満塁ホームランを含む3安打5打点と、上から下まで打線にむらがなくなってきた。投げては調子がよくない大瀬良が丁寧に6回を122球も投げて、6勝目を飾った。とにかくツースリーの連発だった。が、よく辛抱したねえ。エースの鏡だ。

この試合、先発を外されたアドゥアが9回に登板。ヒット1本打たれたものの、ゼロ封で凌いだ。見事なピッチングだったねえ、アドゥア。また先発に帰っておくれな。

これからの交流戦、カープの存在は面白い、なああ。ソフトバンクに勝ち越して工藤監督をギャフンと言わせておくれ、緒方監督。

『プレミアブランド小話⑰ BMW、ブランドを定義す』

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雨不足深刻な水不足が顕在化して、水は枯れ底を見せている『東海地方、九州地方のダム』、BMWの飛躍のモデルとなった『ノイエ・クラッセ』。そして、私が初めて目にした花『クラスペディア(ゴールドスティック)』と、『白いハナニラ』です。クラスペディアは、黄色い小さい可愛い花で、花期は長そうですね。見事は花ではあります。

今日広島は雨。それも結構な量の降雨。異例ともいえる、市内中心部での避難命令が出ている。この雨が九州、東海の水不足緩和に寄与すれば、まさに神の雨になりますねえ。カープのナイターが心配だが、午前中は90%、午後は50%、夜は30%。午後の雨脚が退かなければ、試合は中止だろう。ここのところ陰りが見えるカープ投打。少し休んだ方がいいかもね。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★『ノイエ・クラッセ』は大成功を収めたが、その後BMWをどのように導くか。ノイエ・クラッセ以前のBMWは統一性のない商品ラインアップで、明確なブランドイメージは存在しなかった。そこでBMWは、この大成功したノイエ・クラッセという製品をたたき台として、BMWというブランドそのものを定義することにした。

ノイエ・クラッセが高く評価されたのは、普通のセダンであるにも関わらず先進メカニズムを持ち、走りがスポーティで運転を楽しめたことにある。このような特質を踏まえ、BMWを『運転を楽しむための車』と定義したのだ。それまでは運転を楽しむと言えばスポーツカーであったが、普通のセダンであっても運転を楽しめる、という点がユニークだった。そしてBMWは、その後発売される全てのモデルを、この『運転を楽しむための車』というブランドアイデンティティに則って開発して行くことを決意する。

当時のドイツ市場は高級車にメルセデス・ベンツ、大衆車にVWとオペル、ドイツフォードがあったが、どれも実用重視の車作りをしていた。せいぜい、一部にスポーティなモデルがある程度だった。アウディも存在していたが、これもまだ地味な中級実用メーカーにすぎなかった。ポルシェはあくまでスポーツカー専業のメーカーだった。その中でブランド全体として『運転を楽しむ』ということを打ち出したBMWは、明確にブランドキャラクターの『横軸』での独自のポジションを確立することになったのである。

BMWの車は『運転を楽しむ』というブランドアイデンティティを実現するためにサスペンションやエンジンにコストがかかる構造にすることで、通常より高コストになった。つまり、一般的な大衆車より高く売らざるを得なくなったのである。従って、ブランドキャラクターの縦軸のポジショニングはVWクラスよりは明確に上に設定する必要があった。そのため、ターゲット設定は横軸の独自性である『運転が好きでアクティブ』という特性に加え、縦軸では比較的裕福な層、アッパーミドル以上を狙うこととなった。はたしてそんな人はどれだけいるのだろうか。


そこでBMWが考えたのが、『グローバルマーケットシェア戦略』である。経済的に豊でありながら、運転を楽しむようなアクティブでライフスタイルを指向する層が、世界中どこでも一定の比率で存在する。ドイツにも、イギリスにも、アメリカにも、オーストラリアにも、少数でああるかも知れないが、必ずそのような層が存在するはずだと仮説を立てたのである。

BMWは、このターゲット設定をもとに戦略を練っていった。一つの市場において、幅広いラインアップで大きなシェアを取るのではなく、アイデンティティのはっきりした製品でターゲットを絞り込み、世界中の市場で限られた一部のシェアを取る。当時のBMWの世界シェアは1%程度であったので、仮に販売を2倍にしたとしても2%に過ぎないし、そもそも各国の事情に合わせて製品を作り分けられるほどの規模ではないのだから、ロジカルな戦略である。

ごく限られた顧客をターゲットにするのであるから、車そのものだけでなく『売り場』をそのターゲットの嗜好に相応しいものにする必要があった。そこでBMWは、世界各国の販売会社の整備を行った。1972年の南アフリカを皮切りに、販売会社の100%子会社化を進めたのである。

欧州主要市場の販売会社に続いて、1975年にはアメリカの販売会社を100%出資の子会社化し、日本でも1981年に海外メーカーとしては初めてのメーカー100%出資の販売会社、BMWジャパンを設立した。日本市場では、BMWジャパン設立前は年間3,000台ほどだった販売台数は、1990年には3万6,000台にまで増加した。10年で12倍に伸ばすことに成功したのである。

各販売店にも徹底したCIを持ちこんだ。ターゲット層の好みに合うように設定された。白を基調としたクリーンでシンプルかつ高品質なショールームは、世界中どこに行っても同じデザイン・フォーマットで統一されている。ショールーム内の展示車の並べ方にもルールがあり、必ず道路に対して平行に、かつ同じ向きに車を並べなくてはならない。BMW車の疾走する流麗なフォルムを外から感じられるようにするためだ。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」押∥腑劵奪函⊇嫺郎さんの「お富さん」』当時、三橋さんと同じキングレコードにいたもう一人の大スターが『春日八郎さん』だ。春日さんは大正13年生まれで、昭和23年にキングレコードの新人募集に合格したがなかなかデビューにチャンスがなく、岡晴夫さんなどの看板歌手と一緒に、前歌歌手をしながら荷物運びなどの裏方も日課として地方公演に明け暮れていた。ようやく昭和27年(1952)、デビュー曲の『赤いランプの終列車』が話題になり、第一線に登場した。

そして昭和29年、春日さんが巡業から帰ってくると迎えが来ていて、そのままスタジオ入りして吹込をして欲しいと。話を聞くと、春日さんがお世話になっていた岡晴夫さんがキングを退社し、マーキュリーへ移籍することになった。それで、岡さんに予定されていた歌が、急遽売り出し中の春日さんに回って来たという次第。

この歌は『お富さん』というタイトルで、歌舞伎の『玄冶店ゲンヤダナ』の話に出てくる、切られの与三郎にゆすられるお妾さんの名前かた取ったのだが、民謡調のウキウキしたリズムに乗せて歌った『お富さん』は、春日さんの張りのある高い声にもピッタリとマッチして爆発的なヒットとなった。春日さんは、岡さんの移籍という幸運をものにして、一躍スターダムに登り詰めたのだ。


その春日さんと三橋さんが、一度だけ夢の共演をしたことがある。これは会社創立40周年記念のイベントとして、キングレコードが企画した『春日八郎・三橋美智也・ゴールデンコンサート』で、会場の東京宝塚劇場は開演前から異様な雰囲気に包まれた。

というのも、テレビ中継もなし、ラジオの録音も取らないという、まさにファンのためだけに用意された夢の一夜だったからだ。6曲ずつ、持ち歌を交換して歌うコーナーがハイライトで、三橋さんの司会が私、お笑いのゲストが獅子てんや・瀬戸わんや師匠、春日さん側の司会が北条竜美さんで、お笑いが宮城けんじ・東けんじのWけんじさんという、VS形式の舞台構成だった。

キングレコードの両雄が、人気もヒット曲もちょうと肩を並べた時期だっただけに、その夜の盛り上がり方は尋常ではなく、私の司会の声がかき消されるほどの歓声が何度も沸き、夜遅くまで会場の回りは熱い空気に包まれていた。二人はこの共演を機に『春日先輩』『ミッちゃん』と呼び合うようになり、心を開いて語り会える関係が生まれた。

この後、三橋さんの紹介で、春日さんと村田さんも意気投合して、後に『ミッチー、ハッチー、ムッチー』の愛称で、世代を超えて人気となる『三人の会』へと発展して行った。

背筋をしゃんと伸ばし、美しく伸びやかな高音の魅力で本格派の演歌を歌い続けた春日さん。民謡をベースにしたコブシで、ハイトーンをきかせる三橋さん。浪曲出身らしい男の世界を力強く語りこんでいく村田さん。三者三様のスタイルが、歌好きには堪らない味を醸し、私も舞台の上で司会をしながら、演歌の黄金時代の再臨をたっぷりと堪能させてもらった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<1回食べたら病みつきになる『アパカレー』>3月10日から6月30日まで、アパが直接販売する『アパ直』1周年を記念したキャンペーン、『「アパ直」からなら、もれなく「アパ社長カレー」プレゼント』だ。『アパ直』からなら、比較なしで宿泊料金が『常に最安値』だと言う。確かに、アパ直のCMはインパクトの強さがある。

いや、『アパ!』という歌声が印象的な『アパホテルズ&リゾート』のCMも負けていない。更に一昨年、某俳優の不倫スキャンダルの『現場』として名前を取り沙汰されてからは、バラエティー番組でも連呼されたものである。

だが、それよりずっと前からバラエティー番組がお世話になっていたのは、『アパ社長』こと『元谷芙美子さん』だろう。『私が社長です』のキャッチコピーと、華やかで大きな帽子、色味のあるスーツ。ミニスカートから覗く脚で稼いでいるカンジが伝わって来る。『アパ』のアイコンと言っていいだろう。ホテルのアイコンにまでなるということは凄いことではある。

『アパ直』から予約して『もれなく』もらえる『アパ直カレー』だが、実はこのホテルを仕事で利用する芸能人から『本格派』『一回食べたら病みつきになった』『以来、通販で申し込んでいる』と大評判なのである。『差し入れに利用している』という某芸能人によれば、舞台の楽屋では、カセットコンロを利用している人も多いので、『弁当にあきる中日あたりに喜ばれる』とのこと。

『アパホテル&リゾート東京ベイ幕張』の名誉総料理長、岩崎さんもHPの動画の中で、『コク、まろやかさ、自然な甘み、絶妙なカレースパイスのブレンド』と自信を持ってオススメしている。『ホテルレストランの評価を決める特別な料理』とも言い、『人気NO1メニュー』と紹介している。

カレーショップとしての評価も高く、その『味』をレトルトパウチした『アパ社長カレー』は、超本格派。アンケート調査の結果、99.3%の人が『美味しい』と回答する『300万食達成』の『アパ社長カレー』。勿論、元谷社長の写真付きパッケージだ。(参考: 山田美保子筆『楽屋の流行ハヤりモノ』)


★★<『弟よロケットが上がったよ』>5月4日に、民間企業が単独が単独開発した小型ロケット『MOMO』3号機の打ち上げが成功した。その企業の社長で設計・製作をしたのが甥である。甥は小さい頃から工作が好きで様々な木工作品を作り、大学では工学部に進み、『鳥人間コンテスト』の人力飛行機の機体設計やロケット開発、その電子部品工作熱中していた。

大学院修了時には就職が決まっていたが、堀江貴文さんからロケットの打ち上げに参加しないかと誘われ、入社式当日に内定先を断って現在の会社に入社した。当然、親である私の弟はあきれた。しかし、自身も大手企業の管理職を辞めて市議会議員になっていたこともあり、最終的には認めた。残念ながら、弟は打ち上げを見ずに2015年に58歳で他界した。

打ち上げまでには資金調達や宇宙関連の法律への対応、少人数での旋盤機械を使った部品製作、高度な電子機器などの自作など、想像以上の困難があったと思われる。2回の失敗後の成功。打ち上げの成功の映像を見てうれしくて涙が出た。『弟よ、ロケットが上がったよ』。手を合わせて仏前に報告した。(参考: 朝日新聞『投書欄』)

58歳で他界された弟さんは、無念至極だっただろうなあ。でも、息子のプロジェクトが成功したのだから、天の界から微笑みかけてくれているだろうな。いい話だ。


★★<丸山議員の糾弾決議可決 衆院本会議>衆院は6日の本会議で、北方領土を戦争で取り返す是非に言及した丸山穂高衆院議員(大阪19区)について、直ちに進退判断を促す糾弾決議を全会一致で可決した。衆参両院の事務局によると、国会議員に対する糾弾決議は初めて。

決議では、丸山議員に対して『国益を大きく損ない、本院の権威と品位を著しく失墜させた』と指摘し、『国会議員の資格はないと断ぜざるを得ない』と厳しく非難している。5日に自民党や立憲民主党など与野党8会派が衆院に提出。糾弾決議に法的拘束力はない。

丸山議員は、3日に衆院議院運営委員会の高市早苗委員長(自民)に弁明書を提出した。議員の進退については『最終的には選挙での有権者の判断によるものだ』などと持論を展開し、議員辞職を改めて否定した。

まあ、みっともない悪あがきだねえ。それにしても、こんな劣悪な人物を推薦し、当選させた維新の会には道義的責任があるねえ。しっかりしろよ。


★★<シヤチハタ、『痴漢対策ハンコ』発売を検討 女性社員らが商品案練る>
◇痴漢根絶を目指して
シヤチハタ公式ツイッターは2019年5月27日、痴漢被害を念頭に『目指すべきはこの社会問題が根絶され、"護身用グッズが必要ない世の中"になる事です』などと投稿した。

痴漢をめぐっては、被害に遭ったという女性が2019年5月中旬、『無理に声出さなくていいんだよ。次痴漢が出たらそれで刺しな それなら持ち歩ける』などと安全ピンで撃退するようアドバイスされたとツイッターに投稿し、賛否を呼んでいた。

こうした議論を踏まえ、シヤチハタは痴漢対策グッズとして、安全ピンに代わる『ハンコ』を提案した。『最初にご提案できるのは従来のネーム印とほぼ変わりません。そして今後段階的に形にできればと考えております』と展望を明かし、最終的には前述した『"護身用グッズが必要ない世の中"』を目指すという。

投稿は約4000『いいね』を集め、『素早い対応に感銘を受けています。応援しています』『指輪型で手のひら側に印を向けられるものを作ってください』と賛同や要望が多数寄せられている。


◇ツイッター担当者が商品化へ奔走
シヤチハタ広報室は、『商品化に向けて現在議論中です』と話す。 構想のきっかけは、先の女性の投稿に寄せられた反応の中で『安全ピンよりはハンコの方が良いのでは』といった意見があったためだという。それを見たツイッターの女性担当者が実現に向け動き、現在は別の部署の女性社員と具体的な商品案を練っている。

シヤチハタが『痴漢対策グッズ』を手がけるのは意外とも思われるが、同社は以前から社会貢献に取り組んできた。 16年11月に発売した『手洗い練習スタンプ おててポン』は、子どもの手の平に"ばいきん"のイラストを押印し、印影が消えるまで石けんで手洗いすることで手洗いの練習ができる商品だ。

18年8月には、防災訓練をスタンプラリーで学べるプログラム『防災・減災スタンプラリー』を発表。東北大学と共同開発し、スタンプをおしながら避難経路を回り、楽しく防災・減災の知識を学べる。 痴漢対策用のハンコの商品化もこうした背景がある。同社は「SNSなどでのご意見をもとに、商品化に向けて議論していく」とした。

面白いねえ、痴漢対策の『ハンコ』。押されたら、1週間くらい消えないのだろうねえ。実現して欲しいなあ。

『プレミアブランド小話⑱ ブランドスローガン「運転の歓び」』

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今日の画像は、香港で多くの追悼のろうそくが灯る『天安門事件30年』、錦織圭を超えるか、全仏OPジュニア4強入りの『望月慎太郎』。そして、とってもユニークな花『忍者の秘密=オステオスペルマム』と絵園品種の『チューリップ』です。この園芸品種は、とてもユニークなチューリップです。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★BMWのブランドスローガンは1969年に作られた『Freude am Fahren 運転の歓び』であり、今でも変わっていない。50年間同じスローガンを掲げ続けているのである。ドイツ以外では意訳されて、イギリスでは『Sheer Driving Pleasure 純粋な運転の歓び』、アメリカでは『The Ultimate Driving Machine 究極のドライビングマシン』、日本では『駆け抜ける歓び』である。

BMWらしい小気味よい操縦性をどのモデルでも共通して感じられるよう、全てのモデルでFRと四輪独立懸架のサスペンションを採用した。更には重量配分、エンジンの改良などに力を注いだ。走りの個性化だけでなく内外デザインも『BMWらしさ』とは何かを徹底的に追求した。ターゲットユーザーの好みに合うよう、シンプルでオーソドックスなスリーボックス型セダンでありながら、引き締まったスポーティなプロポーションを持たせた上で、一目でBMWと分かるようなアイデンティティを追及した。

BMWは『運転の歓び』というイメージを象徴的に高めるため、モータースポーツ活動にも力を入れた。1983年にはBMWエンジンを積んだブラバム・BMWがF1のワールドチャンピオンに輝いた。このF1用エンジンはBMW1500用のエンジンを祖とするもので、近代F1では唯一、市販車用エンジンを土台としている。また、1999年には『ル・マン24時間レース』にも優勝している。

モータスポーツ直系の高性能車、Mモデルもラインアップに加え、モータースポーツイメージと市販車とのリンクも取った。コミュニケーションにおいても、個々のモデルの訴求よりもBMWとしての共通の設計思想や特性をメインとしたものを中心として据えることで『運転の歓び』を標榜するBMWのイメージは世界中に浸透していった。


BMWはもちろんお客を大切にするが、お客に媚びるようなことは基本的にしない。BMWはユーザーに意見を聞くような調査は最低限しか行っておらず、調査好きのトヨタとは対照的である。この理由は、BMWの価値を知っているのはBMWであってお客ではない、という信念からである。これはBMWに限らず、強いプレミアムブランド共通の特徴である。なぜなら、様々な客の意見を聞くとどうしても最大公約数的になってしまい、結果的に個性の乏しい製品となり、ブランドの個性をも失うことになりかねないからだ。ブランドの個性が失われれば、そのブランドを選ぶ理由も失われる。そうではなく、ブランドが客をリードする。だからこそ、客はそのブランドの『シンパ(信者)』となり得るし、信者となった客は簡単には浮気をしないのである。

2007年には、BMWブランドに共感するファンのための総本山としての『BMW Welt(World)』をミュンヘンの本社隣接地に作った。ここでは最新のBMW車やテクノロジーを展示するだけでなく、ミュージアムも併設され、ブランドに対する理解が進むようになっている。

2014年には韓国の仁川国際空港近くに東京ドーム5倍のドライビングセンターを設立した。BMWに対してなじみの薄い韓国の人々にBMWの本当の性能を体感してもらうための施設だ。この施設の存在もあり、BMWの韓国での販売台数は、2009年までは1万台以下だったのが、2016年には日本と同等の5万台にまで上昇した。2017年には6万台で、日本より10%以上多い販売実績となっている。韓国の自動車市場は日本の3分の1程度なので、この販売台数は驚異的である。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」押.蹈ビリーに対抗し、橋幸夫登場』昭和33年(1958)の世は『日劇ウエスタン・カーニバル』の大人気に代表されるように、まさにロカビリーの全盛期だった。若者の憧れの芸能誌『平凡』『明星』のグラビアは歌謡曲の歌い手のページがどんどん減り、代わりにミッキー・カーチスや平尾昌晃、寺本圭一や山下敬二郎らが大きく登場し、坂本九ちゃんを始めとする10代の若いロカビリー系歌手にもスポットを当てたページが、どんどん増えていった。

つまり、歌謡曲の歌い手は、ロカビリーの歌手に比べて圧倒的に年齢層が高いのが、後退の大きな理由だった。歌謡曲の場合、デビューするにはまず作曲家に弟子入りして内弟子となり、順番に練習を積み、歌ってもよかろうという段階で、舞台度胸を試すために実地勉強のため、一度前歌で地方巡業に出す。

そして戻ってきて、合格となれば曲をもらい、地方公演でのメイン歌手のレコードのB面にやっと入れてもらえるというのが、新人歌手のスタンダードなデビュースタイルだった。

だから、高校を卒業して弟子入りすれば、デビューはどうしても20歳を過ぎてしまうので、年齢をごまかしたりするケースも出て来た。そういった歌謡界の構造の問題も見直さなければならないという危機感を、歌謡界全体がこの時期持った。

若いロカビリー歌手に対抗出来る10代のスターを作ろうという機運が一気に高まったのだ。その期待を背負って、高校生で登場したのが、まず御三家の一人『橋幸夫君』だった。しかし、橋君にしても、デビューまでの道のりは決して易しいものではなかった。橋君は昭和18年生まれで、中野の呉服屋の9人兄弟の末っ子。なにやら、2歳上の坂本九ちゃんと同じような育ちだが、歌の勉強を始めたのは13歳だった。

当時ボクサーに憧れ、ボクシングジムに通っていたが、お母さんは、『月謝まで払って喧嘩の稽古をするなんてとんでもない。何かほかにいいお稽古ごとはないものか』と、ずっと考えていたそうだ。お隣は理容店で、そこの職人の一人が人気歌手・藤島桓夫の専属で、藤島家へ出入りしていた。その傍ら、藤島を世に出した遠藤実先生の歌謡教室で、趣味の歌を習っていた。そこでお母さんは、職人さんに遠藤さんを紹介してもらい、『週に1回、歌謡教室に行くのだったら、ボクシングジムにも通っていい』という条件をつけて、橋君を承諾させた。


橋君は、予科、本科、研究科と、まる3年通い、遠藤さんから歌の基本をみっちり仕込まれた。そして昭和34年(1959)、頃合い良しとみた遠藤さんは、コロムビアの新人オーディションを受けさせたのだ。しかも、橋君に用意した歌は、村田英雄さんのために作曲した、まだ吹き込む前の『蟹工船』だった。つまり、既成の曲であれば、どうしても元の歌い手と比較される。まだ誰も歌っていない歌だったら、新鮮な目で判断してもらえるだろうという、遠藤さんなりの配慮だった。それほど、遠藤さんは橋君の才能を高く評価していたことになる。

ところが、才能豊かな故に巻き舌も使える橋君は、村田さん風にも歌える訳。村田さんに作った曲で、村田さん風に歌うものだから、いくら良くてもコロムビアとしては『うちには村田は二人もいりません』ということで、落っこっちゃった。

遠藤さんはそれでも諦めきれず、今度はビクターのオーディションを受けさせた。ところが、橋君が遅れて来て、すでに審査が全て終わったところだった。諦めきれない二人は、何とか録音技師に頼み、遠藤さんの伴奏で『蟹工船』と『人生劇場』を歌い、テープに取ってもらうことが出来た。数日後、ビクターからは『とても面白い素材なので、何とか生かしてみたい』と、待望の合格通知をくれた。

しかしビクターとしては、コロムビアの専属の遠藤さんの所に預けておくにはいかない。そこで、ビクター専属の吉田正先生のもとに預けられることになった。この一件は、遠藤さんにとって悔しくもあり、心残りであったらしく、御三家の二人目、舟木一夫君がコロムビアからデビューする時は、真っ先に手を挙げて、舟木君を育てることに燃えたのである。

一方、吉田さんに預けられた橋君は、昭和35年ついに『潮来笠』でデビューを果たした。私との出会いは、昭和35年6月26日、『ロッテ歌のアルバム』第108回の会場、代々木の山野ホールだった。メイン『フランク永井ショー』のゲストとして登場したが、これが17歳の高校生だった橋君の、テレビ初出演でもあった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<橋下徹さん『息子殺しを僕は責められない』>私立小学校の児童と保護者が犠牲になった川崎殺傷事件。犯人が自殺したことを受けて、ネットやメディア上でさまざまな意見が飛び交った。その後、官僚トップを経験したこともある父親が、『他人に危害を加えかねない』として息子を殺害する事件も発生した。本質的な問題はどこにあるのか。橋下徹さんが『絶対的な第1順位』を提示する。プレジデント社の公式メールマガジン『橋下徹の「問題解決の授業」』(6月4日配信)から抜粋記事――。

◇他人を犠牲にしないことが絶対的な第1順位
5月28日朝、子供たちを殺傷し、51歳の犯人の男も刃物で自殺した川崎殺傷事件。人の男を『自殺するなら1人で死ぬべきだ』と非難する意見に対しては、『それは冷たすぎる。自殺しないようにしていくのが社会の役割だ』という意見も出された。

僕は、自殺に悩んでいる人をサポートすることや、悩みがあれば支えていくよというメッセージを社会が出すことは当然であるけれど、しかし『どうしてもやむを得ず死を選ぶ場合には絶対に他人を巻き添えにしてはいけない、死ぬなら1人で死ぬべきだ』というメッセージを出すことも重要だという立場だ。生き方のみならず、死に方というものもしっかりと子供たちや大人たちに教えていくべきだと思う。僕の意見には、『「死ぬなら」と死ぬことを前提とすることは優しくない。自殺もダメだし、他人を殺すこともダメで、生きることを説くことが大切だ』と、テレビ朝日の玉川徹氏に批判を受けた。

◇現実を見ない人は抽象論で語る。
自殺に悩んでいる人たちへのサポート体制は、僕も知事、市長のときに政策として実行してきた。全国各地の自治体でも同じようなサポート体制は構築しているだろう。その甲斐があったのか、かつては全国で年間3万人を超えていた自殺者が、近年は2万人程度で推移している。
(略)


自殺者が0なら、死ぬことを前提にする話はしなくてもいいだろう。しかし自殺者は0にはならない。そうであれば自殺者が出ることを前提に対応策を講じることが必要だ。他人を犠牲にすることは絶対にあってはならない。他人を殺すことは、自分が死のうが死ぬまいが絶対にやってはいけない。他人を犠牲にしないということが絶対的な第1順位だとすれば、それを守るためには自分1人で死んでもらう場合もある。これは他人を犠牲にしてはいけないということを、どれだけ強く想うかにかかっている。

特に、このような事件の被害者のご遺族に直接会った経験があるかどうかが左右するだろう。僕は、ある。自殺に思い悩む人を助けようとするカウンセラーの人たちには敬意を表するが、しかし彼ら彼女らは、何の罪もない子供の命を奪われたご遺族がどんなに苦しい思いをしているかを実際に見たことはあるだろうか。まだ人生がたっぷり残っている状態で命を絶たれた子供の無念さをどれだけ感じているのだろうか。それはそれは、言葉で言い表せないほど、辛く、苦しく、無念だ。これらに比べれば、自殺に思い悩んでいる状態の方がまだましだ。

自殺に思い悩んでいる人を支援することは大切だ。しかし、自殺者を出さないようにすべきだと当たり前のことを叫ぶ人に限って、他者に不条理に命を奪われた者のご遺族と会った経験もないことがほとんだ。テレビで偉そうにきれいごとを喋っているコメンテーターも、そのようなご遺族に会ったことはないだろう。一度でもそのようなご遺族と会うことがあれば、社会の第1順位として、他人を犠牲にしてはならないということの絶対性を理解することができるだろう。

たとえば、自殺するにも、高所から飛び降りることがどれだけ他人を犠牲にする危険があるのか、そういうことを知らずに飛び降りをしてしまう者もいるだろう。自宅に放火して自殺したという事例もある。年間2万人ほどの自殺者が存在する現実を前にして、このようなことは絶対に避けなければならない。自殺者を救うという視点のみならず、他人を犠牲にしてはならないという視点からも、飛び降りや自宅放火が絶対にダメなことはしっかりと教えるべきだ。
(略)

◇息子を殺した元農水次官・熊沢氏の行為を僕は責められない
さらに、重要なことは、何の罪もない子供の命が他者に奪われ、最愛の子供を一瞬にして失ってしまうという事態を日本社会は絶対に認めないという姿勢を示すことだ。亡くなった子供、そしてご遺族の苦しみを想えば、このような加害者や事件を絶対に許さないという姿勢を社会が示すべきだ。そのような社会の姿勢がなければ、亡くなった子供やご遺族はどうなる! このような姿勢を示す社会こそが優しい社会だと思う。カウンセラーやテレ朝の玉川氏は被害者への想いが弱過ぎる。

そしてこの事件の後、元農林水産事務次官の熊沢英昭さんが自分の息子を殺した事件が起こった。熊沢さんは、『息子は中学校時代から家庭内暴力を起こしており、最近、家庭内暴力が激しくなってきた。そして、近隣の小学校がうるさいと言い始め、川崎の殺傷事件を見て、息子も人に危害を加えるかもしれないと思い自ら殺した』旨を供述しているようだ。


何の罪もない子供の命を奪い身勝手に自殺した川崎殺傷事件の犯人に、生きるための支援が必要だったと主張する者が多いが、それよりももっと支援が必要なのはこの親御さんのような人だ。自分の子供を殺めるのにどれだけ苦悩しただろうか。どんな子供であっても、親にとっては最愛の子供なのである。しかし、その自分の子供が他人様の子供を殺める危険があると察知し、それを止めることがどうしてもできないと分かったときに、親としてどうすべきか? 今の日本の刑法では危険性があるだけで処罰などはできない。ではその息子をどうしたらいいのか? 自殺で悩む人へのサポート体制はたくさんあるが、このような親へのサポート体制は皆無だ。確かに引きこもりに対してのサポートは色々とあるが、成人している息子がそのサポートを受けてくれなければどうしようもない。

他人様の子供を犠牲にすることは絶対にあってはならない。何の支援体制もないまま、僕が熊沢さんと同じ立場だったら、僕も熊沢さんと同じ選択をしたかもしれない。熊沢氏がどこまで手を尽くしたかがこれから問われるところだが、本当に熊沢さんの息子に他人様の子供を殺める危険性があり、熊沢さんにそれを止めることがどうしてもできなかったのであれば、刑に服するのは当然としても、僕は熊沢さんを責めることができない。むしろ本当にこれで他人様の子供が犠牲にならなかったのであれば、ホッとしてしまう。

近代国家の刑法としては、危険性があるだけでは処罰はできない。しかし、本当に他人を犠牲にしてしまう危険が自分の子供にあると判断した時に、社会が処罰できないのであれば、親が処罰するしかない。もちろんその後の責任は全て親が被ることになるが、他人を絶対に犠牲にしてはならないということをとことん突き詰めると、これだけ厳しい判断を迫られることになる。このような究極の選択も、死ぬのであれば1人で死ぬべきだと言うことも、他人を絶対に犠牲にしてはならないという、人の命を最も大切にした、きれいごと抜きの態度振る舞いだと思う。

この原稿を書いた夜、うちの子供を集めてこの話をした。子供の意見を聞きながら、僕の考えを伝えたら、社会人になった長女が『まあ究極の親の責任やね』と言ってくれた。大学生の長男のところには、友人から『お前、ちゃんとせなあかんぞ』と、からかい半分のメールがいくつも来たらしい。中学1年の三女は、宿題があるからといってさっさと離れていった。この中学以下の三女と四女には、話す機会をまた作ろうと思う。

僕は子育てを妻に任せっきりにしてきた。今の風潮からすれば、完全に父親失格である。妻の子育ての苦労は半端なかったと思う。もちろん今も大変だ。生まれたての赤ん坊を大人にするというのは、想像を絶するほどの手間暇がかかるし、だからこそその反面、喜びと幸せも伴う。ここまでやっと育ったこのうちの子供たちが、自殺者の犠牲になるなど、考えるだけでゾッとする。川崎殺傷事件の被害者のご遺族の悲しみはいくばくであろうか。自殺に悩んでいる人を支援することは社会として当然だ。世の中に苦しんでいる人が多いのも事実だろう。その人たちが生きる活力を得られるような社会をつくっていくのも当然のことだ。


しかし、繰り返し言う。『もし自殺するならこのうちの子供たち、その他の子供たちを絶対に犠牲にするな!』と。そして、うちの子供たちだって今後、他人様を傷つけることがあるかもしれない。子育てには常にそのようなリスクが付きまとう。だからこそ、『他人様を絶対に犠牲にしちゃいけない。それはたとえ自分が死を決意したときでも』と、僕はうちの子供たちに言い続けていく。

人の命を大切にする社会を作るためには、死にたいと思い悩んでいる人の苦しみを解放してあげることと同時に、いかなる場合であっても絶対に他人を犠牲にしてはいけないということを親が自分の子供に言い続け、そして社会全体がそのような姿勢を示し続けることが必要だと思う。
(略)(ここまでリード文を除き約3500字、メールマガジン全文は約1万1000字です)
※本稿は、公式メールマガジン《橋下徹の「問題解決の授業」》vol.154(6月4日配信)を一部抜粋し、加筆修正したものです。もっと読みたい方はメールマガジンで! 今号は特別増刊2本立て、《【川崎殺傷事件】社会は絶対に「自殺の巻き添え」を許すな/【令和時代の天皇制(3)】今後の存続を占う「敬慕」というキーワード》特集です。

まっこと、真理であろうなあ。自分の子供が他人の子供に危害を加える可能性が絶対的であった場合。確かに、行政への相談などを説く識者は多いいが、この熊沢さんの場合、その限度を超えていたようにも見える。第三者が熊沢さんを勝手に責めて、説くのは勝手だが、その結果責任は放棄している訳で、やはり当事者でなければ分からない苦悩、自責には思いが及んでいないだろうなあ。中学生からの書いてない暴力。一つには、日本全国、赤字を垂れ流し、少子化や引きこもり対策に有効な手立てを打たない日本政府からはじまり、日本国全体が『甘えの社会』になっているからではないか。

戦中、戦後を生き、多くの脚本を書いた『橋田壽賀子さん』は、あの苦しみを知っている世代が少なくなるに従い、日本は荒れた社会になった、と述懐しておられる。戦時中、身寄りを頼って、食糧難を克服するため山形県の山奥を訪ねた時目にしたのが『幼い子が最上川の筏に乗って、奉公に出る風景』だった。その時から、橋田はいつかわこの現実を脚本にと考えておられたそうだ。『おしん』は、辛抱の辛をもじった名前で、架空の人物である。それが世界70カ国で放送され、高い視聴率を取っている。世界各国とも『おしんの世界』に共感を寄せ、貧しく、逆境の中でもたくましく生きる主人公に共感を覚えたのではなかろうか。

この川崎事件、練馬事件の年を取ったひきこもり青年達には、『おしん』の思いの100分の1、否、1万分の1も持たなかったのだろうなあ。折角人の子と生まれたのに、残念至極だ。


★★<広島松井市長の詭弁>広島市は4日、広島中央公園でのサッカースタジアム建設などに関連して一般会計で総額8億円の2019年度6月補正予算案を発表した。12日に開会する定例議会に提出する。スタジアム建設に向けた寄付金を集める基金設置の費用など建設推進に約1億9千万円を充てる。補正後の一般会計総額は前年同期比3%増の6708億5300万円となる。

スタジアム新設のほか、広島城を観光拠点として打ち出すためのアンケート調査や天守閣の耐震診断に約2千万円を使う。人工知能(AI)やロボティック・プロセス・オートメーション(RPA)を導入し、市職員の業務を自動化・効率化するための費用も3500万円盛り込んだ。

松井市長は、記者会見で『サッカースタジアム問題は、スピード感を持ってやる』と。サカスタ建設の住民署名30万人があったのははるか昔の7年前。そして完成して使えるようになるまで更に5年、足掛け12年もかかる。自治体のサカスタ問題でこれほどの長期に引っ張ったのは全国でも稀な広島市のではないか。北九州市など、あの小倉駅のすぐ北に、たった3年で建設してしまった。その北九州はJ3に降格している。
しかも、建設計画の当初の検討に、審議会なるものを作り、サカスタ旧市民球場跡地建設反対者ばかりを委員にし、結果、サンフレの社長が直接市長に立候補するという騒動があった。今になって『スピード感を持ってやる』とは、市民をバカにした発言だ。そして『3回優勝したら建設する』とも言う呆れかえった言動もあった。軽薄な市長ではある。政治家というより、行政官、官吏にすぎないなあ、松井君の能力は。

また、広島市高速道路公社が、5号線の建設にからみ、300億円の工事に200億円で落札させ、残りは契約後に増額するという進め方をしていた。請け負うJVは『公募落札時、公社はJVが入札を断念することで工事が施工できなくなると危惧してた』と指摘。16年4月22日には6項目の工事費を除いて事業費を200億円とした見積書を提出し、5月31日に契約が交わされた、と。

この工事入札が前もって、『官民談合』だったことが明白になっている。なのに、ああそれなのに、松井市長、湯崎県知事は公社の肩を持つような発言に終始し、公社責任者の更迭など処分を見送っている。公社理事長がいなくなっても、工事は進む。こんなでたなめな入札を堂々とやっていて、何のお咎めもなし、は市民として納得がいかない点である。ぬるま湯、市政、県政ではある。


★★<18年の出生数91.8万人、最低を更新 出生率は1.42>厚生労働省が7日に発表した人口動態統計によると、2018年に生まれた子どもの数(出生数)は91万8397人で過去最低を更新した。3年連続で100万人を割った。1人の女性が生涯に産む子どもの数にあたる合計特殊出生率は1.42と、17年から0.01ポイント下がった。低下は3年連続だ。晩産化や結婚をしない人が増えている影響が大きい。

出生数は17年から2万7668人減少した。最も出生数が多かったのは1949年の269万人で、18年は3割強にとどまった。比較可能な1947年以降で過去最低だった。出生率は05年に最低の1.26を記録してから緩やかに回復し、ここ3年は1.4近辺で推移する。

出生率がほぼ横ばい圏だったのに出生数が大きく減ったのは、出産適齢期とされる女性の人口が減ったためだ。15~49歳の女性は前年に比べ1.4%減の2463万人だった。子どもを産んだ女性を年齢別にみると、44歳以下の全ての年齢層で出産が減った。30~34歳は1万人以上減り33万4906人となったほか、25~29歳でも約7000人減の23万3754人となった。

第2次ベビーブームの1971~74年に生まれた「団塊ジュニア」世代が40歳代半ばになり、出産が減っている。第1子の出産年齢が上がっていることも影響している。第1子を産んだ時の母親の平均年齢は30.7歳と、4年連続で過去最高水準を記録した。平均初婚年齢も夫が31.1歳、妻が29.4歳と高くなっている。結婚する年齢が上がったことで晩産化が進み、第2子、第3子を産む人も少なくなっているもようだ。


都道府県別の出生率では最も低い東京都が0.01ポイント低下し、1.20となった。神奈川県や大阪府などの大都市圏は全国平均を下回る1.3台で推移した。最も高いのは沖縄県の1.89だった。
政府は25年度までに子どもを欲しいと考える夫婦らの希望がすべてかなった場合の出生率『希望出生率』を1.8にする目標を掲げる。共働き世帯が増えるなか、出産・育児と仕事が両立しやすい環境を整えないと、出生率は上昇しない。出生数から死亡数を引いた人口の自然増減は44万4085人減で、過去最大の減少幅だった。人口減は当面続くため、社会保障やインフラを人口減を前提にして作り直す必要が出ている。

この数字を安部晋三君はどのように捉えているだろうか。総理大臣在籍で伊藤博文を超えたと伝えられるが、その長期政権の中、日本国の出生数は右肩下がりを転げ落ちて行った。なんら有効sw強力な政策、手段も打たなかった。トランプから何千億円もの兵器を平気で調達する度胸があれば、出生率増加にむけた強力でパンチ力のある政策は打てたはず。なのに、ああそれなのに、無策の引きずりだった。日本国民もよくもこのような日本の将来に対する対応で無策な人物を首相として長くも許しているものだ。恐れ入るなあ。

『プレミアブランド小話⑲ BMW、ついにメルセデスを超える』

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今日の画像は、またもやお粗末な事故『横浜地下鉄脱線事故』と、いろいろな色がある美人花『フリージア』です。横浜市の交通機関はもう信頼度ゼロに落ちてしまいましたねえ。残念ですが。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★BMWは一般的な大衆車よりも高価とはいえ、1980年代初頭まではまだメルセデス・ベンツとの差が明確だった。当時はメルセデス・ベンツEクラスとBMW5シリーズも、ボディサイズ、価格、製品としての完成度に明確な差があった。それが縮まるきっかけは、1982年にメルセデス・ベンツが小型車190でBMW3シリーズの市場に参入したことだった。

メルセデス・ベンツは小型車とはいえその品質は高く、1985年の日本導入時の価格は533万円と、418万円のBMW3シリーズより100万円以上高かった。190の日本発売から10年経った1995年には、BMW3シリーズのベースモデルが370万円、190の後を継いだメルセデス・ベンツCクラスが430万円となってその差が縮まった。

それが紆余曲折を経て、2005年になると3シリーズとCクラスとも399万円と同価格になった。さらに2015年には、3シリーズの466万円に対し、Cクラスはなんと419万円と、BMWの方が高くなってしまったのである。5シリーズとEクラスの関係も同様で、5シリーズの633万円に対しEクラスは599万円と、5シリーズの方が高くなった。

BMWは、モデルチェンジ毎に着実に品質、性能、機能を向上させ、ついにはメルセデス・ベンツと同じ価格で勝負出来るブランドまでに成長したのである。そしてグローバルでは2005年から2015年まで連続してメルセデス・ベンツを超える販売台数を達成。名実ともにメルセデス・ベンツと並ぶ、いや超える高級車の雄となったのである。

BMWは、強力なブランドパワーを持つライバル、メルセデス・ベンツに対抗出来る地位を獲得するために、メルセデス・ベンツとは異なるターゲットを絞り込んでその対象に相応しい製品を徹底的に作り込んだ。

その上で、『メルセデス・ベンツでなくBMWを選ぶ』という明確なファン層(信者)を作ることからスタートした。50年もの長きにわたり、プロダクトそのものは勿論、全てのマーケティング要素を『運転の歓び』というスローガンに相応しいものに統一。ブレない一貫した戦略の下、ブランドイメージの維持・強化し続けた。昔からのファンを裏切ることなく、BMWの支持層を少しずつ広げて行き、現在の地位を得ることに成功したのである。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」魁.侫薀鵐永井も不機嫌になるほどの橋幸夫の人気』代々木の山野ホールの『ロッテ歌のアルバム』第108回に登場した橋君。メインのフランクさんが到着して、客席前列4列にびっしり並んだ若い女の子達の多さを見て、これは俺の客じゃないと、まず眉をひそめた。これはビクターが用意したサクラであったのだが。そして、リハーサルが始まり、順調に進んでいた最中、突然外が、キャーキャー、ワーワーとやかましくなった。

フランクさんも何事かと、オケの音を止めて、確認すると、ゲストの橋君が学校を早退して、今会場に着いたところで、その橋君を囲んでファンが『幸ユキちゃ~ん』『幸ちゃ~ん』と大騒ぎしていると言う。もちろんこれもビクターが仕組んだヤラセなのだが、呼ばれていたマスコミ各誌も一斉にフラッシュを浴びせ、収拾がつかないほどの騒動になった。

何も聞かされていなかったフランクさんは激怒した。第1回レコード大賞で歌唱賞を受けるなど、人気も実力もあったフランクさんはプライドも人一倍高かったのだ。『おれは帰る!』というフランクさんを、ディレクターと共に私も手伝って何とか引き留めた。フランクさんが歌っている時は静かにするという条件がついて。

橋君の出番は中CMの前、ショートカットで『潮来刈り』の名前もついた新しいヘアスタイルで、この時は目の覚めるようスカイブルーのブレザー姿。学生服でやってきた時とは別人のような眩しさで、少し鼻にかかった甘い声で歌う舞台姿を見ているうちに、最初はヤラセで来た女の子達もすっかり虜になってしまい、その場でファンクラブに入会する子も大勢いた。

この橋君がデビューした昭和35年は、大洋ホエールズファンにとっては一生忘れることの出来ない年でもある。5年連続最下位のどん底から一転、三原監督のもと、奇跡の初優勝を果たしたからだ。一方、橋君も同年、第2回の日本レコード大賞で、その年から誕生した第1回新人賞を受賞した。


ところでビクターは橋君が新人賞を受賞したことに勢いづき、興業部門のスタッフが浅草国際劇場を1週間押さえて『新人賞受賞記念橋幸夫ショー』を決定した。ゲストにはロカビリーから歌謡曲に転向して人気のあった佐川ミツオを入れて、前宣伝を始めた。

これに慌てたのが、レコード制作と宣伝部門のスタッフで、いくらゲストを加えても、1時間半のショーを構成するには橋君の持ち歌が少なすぎたのだ。そこで、デビュー候補として用意していた作品を急遽レコディングし、緊急発売してレパートリーを増やす作戦に出た。『あれが岬の灯だ』『南海の美少年』などがそれだった。

こうして国際劇場公演は大成功し、以来、橋幸夫の舞台は長期にわたって、正月第1週浅草国際劇場、第2週大阪劇場、ゴールデンウイーク日本劇場というローテーションが組まれた。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<父親になってほしい著名人、所さん1位返り咲き>日本生命保険が7日発表した『父の日』(6月第3日曜日)にちなんだアンケートで、『父親になってほしい著名人』の1位にタレントの所ジョージさんが2年ぶりに返り咲いた。2位は昨年首位だったジャーナリストの池上彰さんだった。上位10人のうち8人は昨年と同じ顔ぶれだった。

父親の育児参加への関心の高まりを反映して、今年は『イクメン』タレントとして知られる、つるの剛士さんが初めて10位以内にランクインした。アンケートは5月にインターネットで行い、保険契約者の男女計8,977人が回答した。
  1位 所ジョージ     2位 池上彰     3位 三浦友和
  4位 明石家さんま   5位 高橋英樹    6位 関根勤
  7位 阿部寛      8位つるの剛士     9位 タモリ
  10位 イチロー


★★<コンサル集団に変われない銀行は捨てられる>地方銀行の2019年3月期決算は、全体の約7割が純利益で減益か赤字となり、2020年3月期も同様の見通しだ。これまでの銀行決算ですっかり珍しくもなくなった有価証券取引の益出しや不良債権処理費用の圧縮という苦し紛れの『利益捻出策』を除く、正味の収益力の悪化はいよいよ深刻といっていい。

原因は、構造全体にある。預金などの短期で資金を調達して長期で運用することによる『長短金利差』で稼ぐという伝統的な銀行のビジネスモデルが崩壊したからだ。既成概念にとらわれず、ビジネスモデルの終焉が示すこの意味を真剣に考えねばならない。

直言すれば、『再編統合で規模拡大すれば銀行は生き残れる』という認識はもはや古い。旧来発想の銀行同士が一緒になっても事態は打開できていないのが現状だ。
これからの銀行経営が直面する改革の難しさを鑑みるに、むしろ安易な再編統合は、社内政治をはびこらせるリスクばかりを増大させる恐れがあると考えられる。何かを変え、管理するには、規模は小さいほどいい。優先すべきは規模ではなく、ビジネスモデルの抜本的転換だ。

◇構造不況に追い打ちをかけるデジタライゼーションの波
銀行は、長らく『資金需要があれば、審査をして、格付けに基づいて貸します』を続けてきた。しかし、企業は長期にわたり生産拠点の海外移転を加速し、財務戦略も見直してきた。M&Aすら金融機関には頼らない企業もあるくらいの時代だ。

いくら低金利でも有利子負債の拡大には慎重な企業が少なくない。銀行は、もはや日銀のゼロ金利政策を悪玉論と呪うだけでは済まない状況なのである。さらに、押し寄せているデジタライゼーションの波が旧型銀行にとって、決定的追い打ちとなるからだ。 


できるだけ店舗には行かず、対人接点を持たずにスマートフォンで諸事万端、手続きを済ませたい10~20代の『Z世代』を中心とした消費行動(筆者は『行かない革命』と呼んでいる)は、銀行のみならず百貨店、スーパーなどの流通はもちろん、働き方、生き方にまで革命的変化を起こしている。

こうしたデジタライゼーションの猛烈な普及は銀行に、預金・送金・決済といったトランザクションバンキングサービスの自動化を迫る。そうした変化は、今後数年間で劇的に進むだろう。すでにメガバンクでも業務削減の動きが顕著だ。かといって、トランザクションサービスに従事していた人材を営業に配置転換すればいいという単純な話では済まない。金融庁は、資産運用の活性化を重要政策として掲げ、顧客本位の取り引きを求めているためだ。投資信託の回転売買、手数料の高い外貨建て保険商品や複雑な仕組み債の販売、資産形成につながらないアパートローン、カードローンなどにも監視の目を光らせている。

苛烈なノルマで営業を推進して荒稼ぎする伝統的な手法も長続きしない。結局、営業に人手を回しても、現実的には経費に見合う収益につながらず、人手がコストを圧迫するのは目に見えているというわけだ。もはや銀行が社会に提供する価値に照らし、その給与が高すぎるという現実を直視せざるをえない。当然、経営が考えるのは人員削減だ。しかし、生き残りのために規模拡大や再編統合に邁進し、肥大化した組織で社内政治に忙しい多くの銀行員にとって、まさかの『人切り』には相当の抵抗があることは想像に難くない。

◇『課題解決型のコンサル集団』に生まれ変われるか
では、『未来の金融』とは一体どのようなものか。それは『銀行が銀行であることをやめ、未来創造業として生まれ変わること』だ。かつて人力車を引いたり、馬車の御者をしていた人間がドライバーになったように、銀行員の仕事もいずれ変わる。

未来に必要になるのは、取引企業がグーグル検索だけではたどり着けない課題解決策を提供する『銀行員の総コンサルタント化』だ。銀行によるビジネスマッチングなどの押しつけ型(プロダクトアウト)コンサルではない。融資機能も持ち合わせているが、顧客が真に悩んでいる課題の解決まで伴走型で取り組むコンサルティング集団だ。顧客企業の生産性向上、ITインフラの導入、人材育成など、事業者の悩みは実に深く、幅広い。


また、銀行がこうしたコンサルサービスを展開するには自行の組織改革も不可欠だ。銀行本部からコンサル営業に人員を送り出すにしても、本部の決裁承認手続き、報告、経営会議の議事録、本部申請書、社内稟議などを簡素化、効率化しなければならない。顧客の悩み事をせっかく受け取ってきたのに『やりっ放し』では元も子もない。顧客の課題情報の管理や解決のレスポンスの早さも含めた、銀行の本部と営業店の生産性向上は不可欠だ。皮肉を言えば、自分の組織内でさえできない生産性向上の改革を銀行が顧客企業に導入できるはずもない。

さらに言えばペーパレスなどの目に見える変化はもちろん、社内政治を持ち込まない組織文化づくり、真の意見交換ができる会議の運営など、旧型銀行の常識を捨て去るスピード感と実行力が求められる。これらを同時に行うにはシステム戦略、店舗統廃合などのコスト戦略、人事・業績評価を「総取っ換え」しなくてはならない。基本ソフト(OS)を交換するくらいの改革の覚悟が必要だ。実は、このような改革は一部の銀行ではすでに始まっている。

◇持続可能な未来を描くために『原点回帰』せよ
地銀グループの子会社や、地銀が中心となって設立している地域商社にも銀行の未来を変える1つの可能性がうかがえる。

山口銀行を傘下に持つ山口フィナンシャルグループの地方創生コンサル専門子会社『YMFG ZONEプラニング』(下関市)は、地域全体の課題をコンサルし、解決に取り組む会社だ。日本マイクロソフトと組んで、自社のペーパレス化・職場を選ばないフリーアドレス化に取り組むだけでなく、企業・自治体の導入提案、支援を通じた地域全体の生産性向上を目指している。ほかにも副業・兼業を含めた首都圏からの人材還流でベンチャー企業と協業し、長門湯本温泉のまちづくりファンドも組成した。下関市のまちづくり事業の受託業務では、デザイナーのナガオカケンメイ氏が創設したD&DEPARTMENTなどと連携し、ワークショップや観光ガイドの作成にも取り組む。これまでの『お堅い銀行』のイメージとは、かけ離れたセンスが光る。

北海道銀行が中心となってつくった地域商社『北海道総合商事』も地銀業界で話題だ。ロシアやベトナムなどでの商機拡大を後押しするユニークな商社だ。企業進出支援はもちろん、寒冷地技術を活用したホテル建設プロジェクトの参画やゴミ処理施設の輸出をも手がける。農業法人と共同で植物工場への野菜の生産指導、ベトナムでの高糖度のトマト栽培、野菜の買い取りと道内外への販売、牛丼チェーン『松屋』のロシア進出支援など農業や食の販路拡大、生産性向上にも本気だ。

今、地銀では未来に絶望し若手が大量に早期退職をしている。金融庁も地銀の持続可能性を点検するために導入する『早期警戒制度』で、ヒューマンアセットの頑強さを確認する方針だ。地滑り型で若手が大量退職する銀行の持続可能性が警告信号であることに議論の余地はない。一方、ここで紹介した地域商社などで主人公となっているのは同じ銀行員であることを忘れてはならない。『理想論だ』と耳をふさいでいる場合ではない。取引企業の持続可能な発展、個人顧客の着実な資産形成を通じて『地域の役に立つ』という原点回帰をせずに、一体、どのような未来を描けるのかに目を向けるべきだ。


★★<横浜市営地下鉄で脱線=けが人なし、工事用装置乗り上げ>6日午前5時20分ごろ、横浜市営地下鉄「ブルーライン」の始発列車が、同市泉区の下飯田駅を出発した直後に脱線した。乗客約130人にけがはなかった。運輸安全委員会は、原因を調べるため鉄道事故調査官3人を現地に派遣した。

市交通局によると、湘南台発の始発列車が隣の下飯田駅を出た直後、6両編成のうち先頭から5両目までが、進行方向の左側に脱線した。5日夜、工事用車両を移動させるため分岐部分にかぶせた金属製の『可動式横取り装置』がそのまま放置され、乗り上げたとみられる。
本来は、装置を撤去した後に点検中を知らせる警告灯を止めるが、作業員が撤去前に止めており、撤去を失念した可能性があるという。列車は脱線時、時速約35キロのスピードだったとみられ、乗務員が衝撃を感じてから約40メートル走行した。事故後、乗客は係員の誘導で、線路上を歩いて下飯田駅まで移動した。

記者会見した城博俊交通局長は『人的ミスの可能性が高いと考えており、再発防止に取り組む』と陳謝した。 

困った横浜市だなあ。連続して、列車事故とは。ケアレス、不注意の連続だ。交通機関にあるまじき行為だねえ。


★★<LED大手日亜化学がユーチューブを提訴>徳島県阿南市の発光ダイオード(LED)製造大手、日亜化学工業が、動画投稿サイト『ユーチューブ』に製品や職場環境をおとしめる動画を掲載され、社会的信用を損なう恐れがあるとして、米国のサイト運営会社を相手取り動画の削除を求める訴訟を徳島地裁に起こした。

提訴は昨年10月9日付。訴状によると、昨年4月、元従業員を名乗る何者かが『工場内に鳥や犬が紛れ込んだりする状態』『上司がむちゃくちゃな仕事を押しつけ、できなければかなりの圧をかけてくる』といったテロップとナレーション付きで同社製品や職場環境を中傷する2種類の動画を日本語と英語で計4本投稿した。従業員の私的活動や住所をさらす場面もあった。

同社は従業員からの連絡で覚知し、昨年6月下旬に削除を依頼したが、同社によると、ユーチューブ側は『審査したが、名誉毀損(きそん)に当たるかどうか判断できなかったので削除対象とならなかった』と応じなかったという。日亜化学は『動画は事実に基づかない。会社と従業員の名誉、社会的評価を低下させる行為で公益目的は一切存在しない』としている。

まあ、日亜化学時代が薄暗い会社だからなあ。あの『青色ダイオード特許訴訟』で、発見者の中村教授の人格を貶め、世間からひんしゅくをかった。今の社長は入り婿で銀行出身。中村教授は創業社長の支援を受け、研究に没頭した。が、新社長はその功績は会社に帰属するものとして、中村さんの功績を一切認めなかった。こんな企業はやっぱり『ブラック』だよねえ。本当にそう思う。


★★<正徳からの教訓、令和へ> 今や懐かしいが『昭和元禄』なる言葉があった。言い出したのは後に首相となった『福田赳夫さん』らしい。前の東京五輪の頃。高度成長の結果、物資至上主義が国を覆い、江戸期の元禄年間の世相に似ていることを指摘した。平和を享受し社会も成熟しつつあったのだろう。

この古いフレーズを手掛かりに、歴史家の磯田道史さんが、こんなエッセーを雑誌『三田評論』に寄せていた。『平成は宝永にあたる』。元禄の次の元号だ。当時は大地震が列島を襲って、その後、富士山まで噴火した。新田の開発は低地への津波などで勢いが鈍り、それまで増えていた人口も頭打ちになりだしたと言う。

相次ぐ天災と人口減。着眼の妙に思わず膝を打った。新しい元号も決まって、その先も何やら気になる。ちなみに宝永の次は正徳だった。ものの本には、儒学者の新井白石が幕府の実権を握り、儀礼を重んじ賄賂を禁止するなど刷新を図った、とある。そして、もっと重要なのが経済の再建への取り組みらいしい。

元禄から宝永の時代、幕府は金の量を大胆に減らした小判を鋳造し、莫大な通貨発行益を得た。この江戸のリフレ策はインフレを呼び、庶民を苦しめたと伝わる。白石は金の量を元に戻し、沈静化を図ったが、逆にデフレを招いたようだ。通貨や財政の政策の転換は難路を慎重に進むべし。正徳から令和への教訓だろうか。


★★<『ロヒンギャ、ミャンマーに帰りたくない』>バングラデシュに逃れているミャンマーの少数派イスラム教徒『ロヒンギャー』の帰還が始まらない。ミャンマー当局への不信感があるためだ。70万人が逃れて1年半、難民生活は長期化している。

バングラデシュ南東部、コックスバザール郊外。竹の骨組みをシートで覆った無数に並ぶ簡易住宅の一つを訪ねた。電気のない難民キャンプはどの家も薄暗い。『連れ戻され、殺されるなら自分で死ぬ方がいいと思った』。ハモンドさん(60)が声を絞り出した。ここでの生活が1年半を超えた。

昨年11月、殺虫剤を水に混ぜ一気に飲んだ。1週間後に始まる予定だった難民帰還の第1陣リストに自分の名前があった。『知らないところで準備が進んでいた』。気を失い、キャンプの医療施設で一命を取り留めた。

帰還を拒むのは、ミャンマー側から逃れる時の光景が目に焼き付いているからだ。『村が焼かれ、遺体がころがっていた。ミャンマー軍の仕業だ』。

70万人が難民になる発端は、2017年8月のロヒンギャ武装組織『アラカン・トヒンギャ救済軍ARSA』による警察襲撃事件だった。こにれ対し軍や警察が掃討作戦を実施。ミャンマー側は否定するが、国連などによると多数のロヒンギャが殺され、家を焼かれたとされる。

ミャンマー、バングラ両政府は昨年11月、難民2千人の帰還を始めるとしていた。だが『用意された10台ほどのバスに乗る人はいなかった』と。帰還は先延ばしになった。『今の状態で帰りたい日とはいない』と語る。難民の多くが帰還の条件とするのは、ミャンマー国籍の付与、掃討作戦をした治安部隊の訴追、そして期間後の安全保障だ。

ミャンマー政府は、国内住歴が確認出来た難民には国籍申請資格がある身分証を渡すとしている。だが、帰還リストにあった人は『信用出来ない』と言う。ロヒンギャの澄んでいたラカイン州では、仏教徒らが帰還に反対。200人が死亡した12年の仏教徒との衝突で国内難民になった10万人超のロヒンギャですら、州内の難民キャンプから戻れないでいる。

『ましてや国外に逃れた我々が戻って、安心して暮らせるはずがない』と、難民達は声を揃える。

厄介な問題だねえ、ロヒンギャ問題は。一般的に仏教徒は平和的とのイメージがあるが、ミャンマーの仏教徒は違うらしい。それにイスラム対峙の宗教戦争だから、少々のことでは収まりがつかないだろうなあ。まったく、困ったもんだ。


★★<9歳女児待ち伏せ『好きだった』 ストーカー容疑で逮捕>福岡県警は、福岡県築上郡の無職の男(19)をストーカー規制法違反の疑いで逮捕し、発表した。9歳の女児を繰り返し待ち伏せた疑いがある。男は容疑を認め、『女の子のことが好きだった」』と話しているという。

県警によると、男は5日午後5時ごろ、築上郡にある団地の駐輪場で、小学生の女児(9)を待ち伏せて声をかけたほか、6日午後0時35分ごろにも団地の階段で女児を待ち伏せた疑いがある。2人は知り合いではないという。

5日に女児が母親に相談して発覚。この2回以外につきまとっていたとの情報はないが、県警は女児が幼く、連れ去りなど重大な事件に発展する恐れもあると判断して、逮捕に踏み切ったとしている。

世の中様々、危険がいっぱい、ということだなあ。

『プレミアブランド小話⑳ ミニをプレミアムブランドに押し立てる』

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今日の画像は、スウェーデン・ストックホルムのプールで練習を行う、はげ頭、太鼓腹にひげ面、地元の仲間同士で結成した40代男性のグループ『ストックホルム男性アーティスティックスイミング』のメンバー。そしてかわいいい花『フリージア供戮任后紫色のフリージアは、やっぱり土の成分によるのでしょうか。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★BMWは、1993年に規模拡大を目指してイギリスのローバー社を買収したが、結果として失敗、2000年に手放すことになるが、小型車『ミニ』ブランドの権利は手元に残した。ミニは超小型の安価な車として1955年に発売されたが、革新的な設計に加え、そのあまりの小ささと愛くるしいスタイリングでインテリ層に支持される車となった。低い重心高と俊敏な操作性でモータースポーツでも活躍し、スポーティなイメージも加わっていた。そのため実用性では競争力がなくなった後でも愛され続け、ひとつのファッションアイコンとなっていった。しかし、発売から41年後の2000年、BMWがローバーを売却する際についに生産となり、工場も売却された。

BMWはまったく新しいミニを開発することになるが、本来の設計思想から離れ『ミニ』というブランドをファッション性の高いプレミアム小型車、つまり全く新しいカテゴリーのブランドにする道を選んだ。

経済的に豊でありながら、これ見よがしの大型高級車には乗りたくない、もちろんありふれた大衆車にも乗りたくない、自分のセンスを表現出来るものが欲しいという層が、ごく一部ではあっても世界中に存在する、という仮定に基づいての判断である。これは、BMWブランド自身を定義した時と同じやり方だ。ターゲット設定に基づき、その嗜好性に合わせ、実用性よりもデザイン性に徹底的にこだわり、旧型ミニのデザインエッセンスを生かしながら、サイズの割に高価ではあるが存在感があり、プレミアム性も兼ね備えた小型車として新型ミニは登場した。


2001年の販売と共に、新型ミニは世界的な大ヒットとなった。旧型のミニが売られておらず、認知がほぼゼロだったアメリカにおいてさえ大ヒットとなった。BMWはまたしても巧みなブランド戦略で収益性の高いプレミアムブランドを作り上げたのである。

BMWはローバー売却の際、ミニ以外にライレーとトライアンフという一時期名声を挙げたスポーツ性の高いブランドを手元に残している。将来、これらのブランドを復活させる時期が来るかも知れない。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)

トライアンフは、二輪車で名をはせているから、新しい四輪を出すと人気が出る可能性はあるねえ。どんなターゲットを想定すか、が課題ではあるが。

BMWジャパンのミニ部門の人の話を聞いたことがある。とにかく、徹底的にミニだ。オフィスで着るものも違う。ミニ以外は一切目に入らぬ、という集団である。恐れ入ったねえ、BMWのブランドづくりの巧さには。勿論、販売チャネルは違うし、ミニ専用店でしか売っていない。BMWの店に行ってもダメなのだ。


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」粥/契献ラウンレコード誕生の裏話』 御三家の3人目が、昭和39年『君だけを』でクラウンからデビューした『西郷輝彦君』。西郷君もまた、同年の第6回日本レコード大賞で新人賞を受賞している。ちなみに女性の新人賞は『アンコ椿は恋の花』を歌った都はるみさんだった。

ところで、この『日本クラウン』は、当時設立されたばかりのほやほやで、7番目に当たるレコード会社だった。というのも、40年近くコロムビアレコードに在籍し、数々の実績を残した伊藤正憲常務が『ジェット時代にプロペラ商法はいかがなものか』と、経営方針で社長から意見されて対立。昭和38年5月株主総会で、取締役を外されたのを契機にコロムビアを離れ、若松築港社長の有田一寿さんと手を組んで、9月6日に日本クラウンを設立したのだ。

部下の面倒見もいい親分肌の伊藤さんの、『アーチストはゼニ勘定ではない。気分良く、お互い血の通った仕事が出来、自分の力量を一番評価してくれる会社を選ぶ』という意見に共鳴した業界の実力者も、相次いでクラウンへ移った。

作家・五木寛之の小説『海峡物語』の主人公『演歌の竜』のモデルと言われ、美空ひばり、島倉千代子、小林旭の数々のヒット曲を手掛け、こまどり姉妹をスターにした『馬淵玄三ディレクター』、高田浩吉を担当する傍ら、ウエスタンの小坂一也に、古賀メドディー『青春サイクリング』を歌わせて大成功を収めた『目黒賢太郎ディレクター』、後の日本クラウン社長で、村田英雄をスターにして、北島三郎を売り出したばかりの『斉藤昇』など、そうそうたるメンバーが抜けたため、一時コロムビアはレコード制作が出来ないような状態にまで追い込まれた。


移籍した作曲家は、米山正夫、叶弦大、小杉仁三、前田利克。歌手では、北島三郎、守屋浩、若山彰、佐々木功、五月みどりなどのメンバーだった。

そして昭和38年(1963)10月22日、今はない『赤坂ミカド』で設立披露パーティーが開かれ、1,500人を超す来客者を前に、私が司会進行を担当した。

当日ステージからは、12月1日に発売する、第1回新譜19枚の披露もした。
  『銀座の庄助さん』  北島三郎
  『浪花子守唄』    一節太郎
  『後姿』       守屋浩
  『温泉芸者』     五月みどり
  『青島だア―』     青島幸男
  『清らかな青春』   山田太郎

記念すべきレコード・ナンバーのトップには、『関東春雨傘』(作詞・作曲 米山正夫)が組まれて話題になった。歌ったのはなんと、コロムビア専属の美空ひばりさんだったのだ。いくら創立お祝い盤だとは言え、通常はクレームが付くのが当たり前だが、何もなかったところを見ると、歌い手の力のバランスのなせる業だったのだろう。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<「プリウス」は本当に危険か?プリウスに乗ってみた>
◇相次ぐプリウスの暴走、その原因は?
またもやプリウスによる事故が起きた。6月3日の夜、大阪市此花区で、80歳の男性が乗っている乗用車が歩道に突っ込み、幼い子ども2人を含む4人がけがをした。つい数週間前の5月15日にも、千葉県市原市の公園にプリウスが突っ込んだばかり。この事故では、保育園児をかばった30代の女性保育士が右足首を骨折している。運転していたのは65歳の男性だった。4月19日には、東京・池袋で旧通産省工業技術院の飯塚幸三元院長(87)が運転するプリウスが暴走。母親と幼い長女が亡くなり、飯塚元院長を含む10人が重軽傷を負った。

飯塚元院長は『アクセルが戻らなくなった』と説明しているが、警視庁の捜査でアクセルに異常は見つからなかったという。アクセルとブレーキを踏み間違えた可能性があるようだ。なぜ、プリウスによる事故が相次いでいるのか。インターネット上では、様々な原因が噂されている。曰く、ペダルレイアウトが悪い、シフトレバーが分かりにくい……。そうした噂を検証するべく、ペーパードライバーを脱して1年も経たないい筆者(20代)が2017年登録のプリウスに乗車して、新橋駅近辺を数時間走ってみた。なお筆者は普段、カーシェアリングを利用して、主にソリオとノートに乗っている。

◇確かにブレーキペダルが左寄りだが……。
インターネット上で頻繁に指摘されているのが、ペダルレイアウトの悪さだ。Twitterでは『プリウスはペダルが左に寄りすぎているから、慌てて真っ直ぐ足を伸ばすとブレーキじゃなくてアクセルの位置になる』といった指摘が散見される。

実際にプリウスに乗ってみると、確かにブレーキペダルが左に寄っているように感じられる。いつも運転している車と同じように足を正面に伸ばすと、間違えてアクセルを踏んでしまう可能性もなくはない。ただ、運転歴は四半世紀以上で、今も日常的に年間3万キロほど運転しているというヘビードライバーの男性(40代。トヨタ車所有歴なし。実家のプラドとアクアは運転したことがある)は『そんなに極端に左に寄ってるようには思えない。でも、言われてみるとプリウスはブレーキとアクセルの間隔が狭いような気もしないでもない……。言われてみれば、という程度でもっと変なレイアウトの車もあった気がする』と話す。とはいえ、数時間乗車して、一度も踏み間違えることはなかった。これだけで事故が多発するとも考えづらい。


◇Nレンジでプリウス・ミサイル?
また、シフトのレイアウトが分かりにくいという指摘も見かけた。確かに、昔ながらのAT乗用車のシフトレバーに慣れていると、プリウスのレバーは、ゲームセンターにあるアーケードゲームのレバーのようでかなり違和感がある。40代男性『NレンジからDレンジへはブレーキ踏まないで動かせるのも問題という声も見かけた。確かに、自分の車はブレーキ踏まないとNレンジのところでロックが掛かりはしたが、AT車はそうならない車のほうが多い。その上、プリウスの場合は、Dレンジにするためには、レバーを右に振ってから下げる必要がある。そのため、何かの拍子で間違えてDレンジにしてしまう可能性は考えづらいかな……』と語る。

ただ、気になったのはプリウスのシフトレバーにはPレンジがないという特徴だ。Pがレバーとは別のボタンになっているのだ。そのくせ、ダッシュボードの表示では、R・N・Dの左斜め上に表示されている。昔のAT車の癖でPレンジに入れようとしてレバーを上げ、Rレンジに入れてしまうことはあるかもしれない。事実、40代男性も『初め、Pレンジはシフトレバーを左上にするのかと思った。Pレンジに入れたつもりになって、誤発進してしまうことはあるかもしれない』と話していた。とはいえ、バック以外でも暴走事故は多発しているのでそれだけが問題というわけでもないだろう。

また、違和感としては、シフトレバーがNやD、Rレンジに動かしたあとも、必ず『起点』の位置に戻ってしまうことで、モニタ表示を見ない限り、目視でどこのシフトに入っているか分かりづらいとは思った。昔の車に慣れた中高年以上のドライバーであれば、もしかしたらここは慣れない点なのかもしれない。

◇プリウス・ミサイルを試してみるも……。
5月末、『プリウスミサイルの原因確定!』というツイートが話題になった。それによると、Nレンジにレバーが入った状態でアクセルを踏んでしまい、そのままDレンジにシフトチェンジして暴走してしまうのではないかというのだ。しかしいざNレンジに入れてアクセルを踏むと、すぐに警告音が鳴り『Nレンジです。アクセルを緩めて希望レンジに切り替えて下さい」という表示が出た。この警告が出たまま、不用意にDレンジに入れてしまうとは考えづらい。

ただ、Dレンジにシフトチェンジできないということではない。警告を無視してDレンジに入れると、そのまま発進することができるが、『ミサイル』というほどの威力はなかった。これだけ事故が相次いでいるのだから、『プリウス自体が運転しづらいのでは?』と思っていた。しかし運転初心者でも難なく運転することができた。

では、プリウスの事故が多いのは、単に販売台数が多いからなのか。日本自動車販売協会連合会の調査によると、2018年の1年間にもっとも売れたのは、日産のノートで、13万6324台だった。次いで、トヨタのアクアが12万6561台、プリウスが11万5462台となっている。販売台数が多ければ、事故も増えるというのならば、高齢者がプリウスを好んで乗っていない限りは、ノートやアクアでも事故が頻発するはずだ。

プリウスのせいなのか、そうではないのか? ネットではさまざまな憶測が流れているが、これ以上暴走事故を増やさないためにも、抜本的な原因究明と問題解決が求められている。


★★<『作家と読者繋ぐ書店 二村知子さん』>大阪市中央区にある書店、『二村知子さん経営の「降祥館書店」』。作家や出版関係者らが全国から足を運ぶ大阪市内の書店。店長の二村知子さんは作家と読者を繋ぐ座談会を200回以上開いている。

40屬里海造鵑泙蠅箸靴薪稿癲座談会の写真や手書きの推薦文が至る所に貼られている。お客は顔馴染みが多く、笑顔で挨拶する。『小さい本屋だからこそ、何かやらなあかん』。座談会は2011年に始めた。『著者に会ってみたい』という常連客の声に応え、作家を招いたところ、70人以上が参加した。以降、店の恒例行事として定着した。

19年3月、刑務所を取り上げた著作がある作家の『寮美千子さんと坂本敏夫さん』を招いた座談会では、少年達が犯罪に手を染めた経緯などを2人が語り、会場中が涙した。『読者は日頃知ることのない社会の側面に触れるっかけになる』との思いを強くした。

シンクロナイズドスイミングの日本代表として活躍し、引退後の1994年に父、善明さん創業のこの店で働き始めた。ある時お客に『おすすめない?』と聞かれ、好きな本を紹介すると非常に喜ばれた。これを機に読書にのめり込むようになった。『5~10分話すとその人の好きそうな本が分かる』。頭には常連客数百人の好みが入っている。『二村さんが薦めるなら』とそのまま購入していくお客も多い。小さい店は新刊や話題書の仕入れが難しいこともある。必ず売り切ることをポリシーに出版社と関係を築き、納入してもらえるようになった。

町の書店はネット通販などに押され、閉店が相次ぐ。70年前の開業当初、1日400人だった降祥館書店のお客は今は80人ほどだ。『実店舗の強味を生かさなければ埋もれる』と危機感は強い。19年に、親子向けに絵本を選ぶサービスを始めた。子育ての悩みを聞き、解決につながりそうな本を選ぶ。16年から開く子育て中の母親向けの交流イベントも好評だ。

18年に訪れた米NYのブルックリンで書店が住民の交流の場をなっているのを見て、『同じことをやっている』と自信を深めた。『書店は地域の文化発信地』との熱い思いで店に立つ。

『実店舗の強味を生かす』。いい言葉だなあ。北海道の田舎町で書店を経営する男性は、自信で読み通した本をアレンジし、お客の要望を酌み取り売る。これがこうじて、遠方から『1万円分本を選んで送って』などの注文も入るようになった。いかに工夫と努力をするか。たかが書店、されど書店ではある。ガンバレ、二村さん!


★★<ウイグル族虐殺10年>中国新疆ウイグル自治区で、漢族とイスラム教徒のウイグル族が衝突して197人(当局発表)が死亡した『ウルムチ暴動』から、7月5日で満10年を迎える。節目を前に、米国などから中国政府の民族・宗教政策への批判が高まっており、中国当局が反論に追われている。

『我々の理解ではウイグル族人口1千万人のうち、300万人近くが施設に拘束されているらしい』。シュライバー米国防相時間補は記者会見でこう発言した。国連の人権高等弁務官などが指摘していた『100万人以上』という人数を3倍近くに増やした。

これに中国側が強く反発した。『米国は偏見を捨て去り、新疆の問題を利用して中国の内政に干渉することをやめるよう促す』と。

米中貿易戦争が本格化した昨夏以降、米国は台湾や南シナ海などと同様に新疆ウイグル自治区の収容施設などへの批判を強めてきた。米メディアによると、トランプ政権は中国通信機大手『ファーウェイ』に続き、ウイグル族の監視に使われているとして中国監視カメラ大手の『ハイクビジョン』に対しても禁輸措置を検討中だ。

一方、中国側は『米国は政治目的で、中国のハイテク企業にいわれのない圧力をかけている』と反発。収容施設との批判については、今年3月の白書で『職業訓練センター』であり、テロや過激主義に勧誘された人達を入所させていると説明している。

しかし、今月になって英紙ガーディアンは、新疆ウイグル自治区の衛星写真などを分析した結果、ここ数年で20カ所余りのイスラム教の礼拝所モスクが取り壊されたと報じた。これに対しても『噂話を宣伝することに没頭しないように』と批判。中国が一部メディア、外交官にしか現地視察を認めていないとの批判には『中国の法律を守り、相応の手続きを経れば、新疆に行くことが出来る』と反論した。

中国では今年、ウルムチ暴動10年だけでなく、天安門事件30年、軍事パレードが予想される建国70周年(10月1日)などの節目をl迎える。米国側にも『来年の大統領選を前に、対中政策が強硬になる時期』に重なり、中国側は等分、守勢に回ることになりそうだ。

まあ、アメリカの批判は天に唾を吐くようなものだねえ。戦時中、日系米国市民の財産・自由を剥奪し、砂漠の中の収容所に押し込んだ国家的犯罪は明白なんだなあ。さらには、先住民族から土地を奪い、殺戮したのだから、人のことは言えない身だようなあ、あ、あ。


★★<地銀の6割、10年後赤字>日銀が発表した『金融システムレポート』で、10年後の2028年度には地銀の6割が最終赤字になるとの試算を示した。人口減と低成長に伴う資金需要の先細りで貸出の伸びが鈍り、銀行間の競争が激しくなって、利ザヤの縮小も続くためだ。各行が注力してきた不動産投資には、バブル期の1990年以来となる『過熱サイン』を示し、一部の金融機関に金融緩和のひずみがリスクとしてたまっていることに警鐘を鳴らした。

このリポートは金融システムの安定性を評価するため、半年に1度まとめている。日銀によるマイナス金利政策の導入以来、銀行の収益環境が厳しさを増す中、近年は特に地銀の経営分析に力点を置いている。

今回の試算では、人口が緩やかに減り続け、日本経済の実力を示す潜在成長率は現在と同程度の0%台後半で推移するとの前提を置いた。銀行の収益悪化が顕著に表れたのは、資金需要が減るケースだ。地銀が中心の国内基準行全体のうち最終赤字に陥る銀行の割合は足元では1%だが、23年度ニ21%、28年度には58%に達する。同じケースを信用金庫にあてはめてみても、赤字割合は足元の5%から23年度に35%、28年度に53%と急速に増える。

収益の圧迫要因が資金需要減に伴う貸出残高の伸び鈍化と利ザヤ縮小だ。限られる貸出先を取り合って、金融機関同士の低金利競争が起きやすくなる。足元では低水準に止まる企業倒産も景気後退時には増える見込みで、不良債権の処理費用が膨らむことも重荷になる。

金融庁の試算によれば、地銀の半分に当たる54行がすでに本業赤字で、東北や九州などの23県は1行独占でも不採算と言う。政府・日銀がそろって警鐘を鳴らすことで構造改革の動きが遅い地銀に対して再編を含めた抜本策を迫っている。

20年前、厳しい選考の網をくぐって地銀に入った方々。今40歳半ばかな。これから、定年までが大変だ。今どき一生、一社勤め切る、というのは難しい時代なんだねえ。それだけ波風が強い、速いということだねえ。親友社員諸君、よくよく頭に入れておいてくれたまえ。


★★<ヤクルト16連敗の陰に『宮本慎也』あり>ヤクルト16連敗のウラに……自分に厳しく人にも厳しい“鬼軍曹”宮本ヘッドの評判。


6月2日のDeNA戦で勝利し、悪夢の連敗を16でストップさせたヤクルト。その渦中、球団側は小川淳司監督の続投を明言していたにもかかわらず、一部では次期監督候補の名前が報じられていた。『そこで、いの一番に挙がる名前の評判が実は芳しくないんです』(スポーツ紙デスク)。

宮本慎也ヘッドコーチ(48)のことだ。侍ジャパンでキャプテンシーを評価され、史上最年長(当時)で2000本安打を達成。古巣に戻ってきた際には、球団関係者の誰もが次期監督と見做していたが……。

『真中満前監督時代は弛んでいたと見ており、猛練習を課し始めた。練習しないと勝てないというのは正論ですが、選手たちは「うちは軍隊ですよ」とぼやいている。ヤクルトは選手の自主性に任せ、伸び伸びやらせるチーム文化ですから。神宮球場で試合がある時、若手は早出の練習をするのですが、“鬼軍曹”が姿を現すと、これ見よがしに「よし、行くぞ!」と声が挙がるんです(笑)』(ベテラン記者)。

5月30日、14連敗した後の全体ミーティングで、小川監督は『責任は監督である俺にある』と語ったが、宮本ヘッドは技術的なアドバイスをするのみだったという。

『「やるのは僕らなんで」と選手たちは話していて、監督の言葉は響いていた。だけど「ヘッドは何て?」と聞くと「宮本さんは、技術的なことを言ってました……」と淡々と答えていたので、温度差を感じました』(担当記者)。


◇ミスしてもフォローがなく、いいプレーをしても褒めない
連敗中、『手を尽くしてるんだけど結果が出ないんだよ』と話していた宮本ヘッドが、『ピッチャーまで教えてるんです』とチーム関係者から呆れられていたという話も。『今季苦しんでいるエースの小川泰弘に指導したそうです。野手出身のコーチが投手を指導するなんて、阪神の金本知憲前監督と似てますね。良かれと思ってのことでしょうが、押し付けがましいと呆れられています』(前出・デスク)。

自分に厳しく人にも厳しい姿勢は、若手選手たちに疎まれているという。『ミスしてもフォローがなく、いいプレーをしても褒めないので、今の選手には受け入れられない。次期監督として球団側の評価は高くないようです』(前出・ベテラン記者)。 燕が再び高く舞うには、鬼が仏になるか、選手がタフになる必要がありそうだ。

折角カープから、河田、石井コーチを引き抜き、昨季はその効果が十分に表れたという今、今季は『宮本効果』で大暴落だなあ、ヤクルトは。


★★<東レ 血液1滴でがん検査、年内申請>東レは血液1滴から様々ながんを発見する検査キットについて、2019年中に厚生労働省に製造販売の承認を申請する。優先的に審査する対象に選ばれており、20年にも承認される可能性が高い。膵臓がんなどの早期発見も期待できる。

承認されれば、数万円で複数のがんを一度に調べられる見通しだ。現在、遺伝子検査でがんを発見する方法は米国で実用化されているが、血液は数十ミリリットル以上必要で発見できる割合も低い。東レの場合は血液が1滴と利用者の負担が少なく、がんの有無の判定精度も95%以上という。

国立がん研究センターなどと14年に始めた研究プロジェクトがこのほど終了し、その成果を事業化する。がんができると血液中に増える「マイクロRNA」という物質を検出する手法で、東レはこれを検出する遺伝子解析チップを開発した。

同社の遺伝子解析チップは独自の素材や加工技術を生かし、マイクロRNAなどを従来に比べ100倍の感度で検出できる。血液1滴分、50マイクロ(マイクロは100万分の1)リットル程度あれば検査できる。

マイクロRNAは遺伝子の働きにかかわる物質で、体内に約2600種類存在する。がんはこのうち特定のマイクロRNAを分泌し、増殖したり転移したりしている。

研究プロジェクトでは乳がんで5種類、大腸がんで3種類など、各がんの鍵を握るマイクロRNAを特定することに成功。東レの膵臓や胆道にできるがんを検査する遺伝子解析チップが4月、厚労省の「先駆け審査指定制度」の対象に選ばれた。通常12~14カ月かかる審査が最短6カ月に短縮される。

とてもの朗報だねえ。すい臓がんで亡くなった知り合いを複数知っているので、その末期は本当に地獄だったろう。また、発見が難しい胃壁の裏に出来る『スキルス胃がん』にも有効だなあ。私の末弟は54歳の時スキルス胃がんで亡くなった。通院するも初期発見が出来なかって、見つかった時には手遅れだった。このようながんの発見遅れがなくなるだけでもう不幸ながん患者は減るねえ。お見事なり『東レ』ではある。世界的大発明ではなかろうかなあ。


★★<維新、堺市長選を制す。が僅差に笑顔なく> 『全身全霊を傾けて堺を新しく生まれ変わらせることで、支持していただいた人たちに報いたい」。9日投開票された堺市長選で初当選を果たした維新新人の永藤英機氏(42)は硬い表情でこう述べ、支持者らに深々と頭を下げた。当選確実の一報が流れたのは、午後10時20分すぎ。同市堺区の選挙事務所に集まった約200人の支持者らからは、大きな拍手と歓声が上がった。

選対本部長を務めた池田克史市議は『前回と同じ維新対反維新の戦いとなり、デマも流された。それでも、最終的には良識ある判断をしていただいた』と笑顔。日本維新の会幹事長の馬場伸幸衆院議員は、『のどの奥につかえていた骨がきょう、ようやく抜けた感じがする』と、安堵の表情を浮かべた。

だが、約1万4000票差という僅差の勝利とあって、永藤氏に笑顔はなかった。『相手陣営を応援した人たちの声も聞き、意見を取り入れながら市政を運営したい。そういう人たちにも「永藤でよかった」と言われるようにしたい』と神妙な表情で語った。

都構想については、『相手陣営は「堺がなくなる」と市民の不安をあおった。実際、多くの市民から「本当なのか」と聞かれた』とし、『堺ではまだ議論すらされていない。大阪市の状況を見ながら判断したい』と従来と同じ慎重な発言に止めた。

一方、敗れた無所属新人の野村友昭氏(45)は、同市堺区の選挙事務所で『結果を残せなかったのは私の力不足だが、多くの堺市民が「都構想には反対だ」という意思を示したのは意義があった』と述べ、支援者らに頭を下げた。ただ、『これで都構想に関する議論が終わったわけではない』とし、『市民に伝える努力は続けたい』と話した。

まあ、そうは言っても維新が府下を支配したことで、都構想も一歩前進だな。『堺がなくなる』という自意識は、戦国の時代から自立精神の富んだ堺人気質だろう。そこんところをうまくやって、不条理な府、市の二重行政を解消して、日本の地方行政改革の先兵となっておくれな。広島でも、市と県の二重行政、二重政策、二重施設の弊害が目立つ。広島市立大学と広島県立大学の併設などまさにその例である。借金だらけのくせをして。甘えの構造を助長する二重行政には日本の将来はない。

『プレミアブランド小話㉑ 高級ブランドに必ずしも長い年月は必要ない―テスラ』

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今日の画像は、香港で身柄を拘束した容疑者を中国本土へ移送できるようにする『逃亡犯条例反対の103万人のデモ』。そして、華やかなる『シャクナゲ』『チューリップの園芸種?』です。

香港は燃えている、なあ。習主席を相手に、香港の人達はよくやる。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★高級ブランドと言うと、歴史と伝統のある老舗というイメージがある。ロレックスやメルセデス・ベンツのブランドイメージも、時間をかけて築き上げて来たものである。BMWも今のポジションに至るまでには長い年月がかかっている。

しかし、名声あるプレミアムブランドになるためには長い時間が必要条件というわけでは必ずしもにもない。これを証明するのが、アメリカのブランドではあるが、電気自動車で大成功した『テスラ』だ。

バッテリーで動く電気自動車が技術的にも未完であり、まだ世の認知を受けていない中、テスラは2008年にまったく実用的でない2人乗りの電動オープンスポーツカー『テスラ・ロードスター』から商品導入をした。スポーツカーの名門であるイギリスのロータス社のアルミ製シャーシーを使い、軽量で高性能な電動スポーツカーとして仕上げた。加速性能はポルシェの高性能モデル並みであり、サーキットのラップタイムも十分高性能スポーツカーと肩を並べるものだった。

『テスラ・ロードスター』は1,000万円と高価だったが、たちまち新しもの好きの富裕層の心を捉え、クルーニーなど有名人がこぞって購入した。彼ら富裕層にとってはたくさん所有する車の1台にすぎず、いわば周囲への話題作りのための『おもちゃ』として購入した訳だ。実用性や航続距離などほとんど重要ではなく、電気モーターによる独特かつ強烈な加速感を楽しんで、友人達に自慢出来ればいいのだ。

同じ電気自動車でも、小さいセダンではステータスは表現出来ないが、高性能スポーツカーならステータス感は十分だ。所有することがステータスとなったステラは、特に環境意識が高いカリフォルニアで人気となり、テスラ・ロードスターは2,450台が販売された。


テスラが次に発売したのが『モデルS』で、これは大型セダンである。高価な大型車であることからこそ実現した性能と実用性で、電気自動車のネガティブな部分をそれほど感じることなく乗ることが出来る。価格は800~1,600万円と高価であったが、ロードスターでプレミアムなブランドイメージがある程度浸透していたこともあり、注文が殺到した。勿論、購入するのはほかにも車を複数台所有するような富裕層であったことは言うまでもない。

販売台数は初年度の2013年にいきなり2万台を超え、2014年には3万台となった。翌2015年には5万台の大台を超え、はるかに廉価な日産リーフを凌いで世界の電気自動車ナンバーワンの販売台数になった。

今やテスラ『モデルS』の販売台数は、アメリカではメルセデス・ベンツSクラスや、BMW7シリーズを2倍以上という圧倒的な台数差で凌駕し、ラグジュアリーセダンクラスのナンバーワンモデルとなっている。富裕層にとってメルセデス・ベンツやBMWに乗るよりも『進歩派』のステータス感を表現出来るブランドとなっているのである。

2017年、日産リーフに価格的に近い3万5千ドルクラスの普及版である『テスラ・モデル3』がアメリカで発売されたが、その受注はすでに50万台以上となっている。日産リーフの発売から2016年までの6年間の世界累計販売台数が25万台であることを考えると驚異的である。

この差は、『電気自動車のプレミアムブランド』としての地位を確立したテスラと、一般的なガソリン車のマスブランドでしかない日産の違いである。まだ不便な電気自動車を購入する決意を促すためには、何らかの社会的ステータスが必要不可欠だ。

今テスラを買うのは、社会的に『テスラ・ユーザー』という進歩的な富裕層で構成されるコミュニティに入るようなものだ。テスラはモデルSがヒットしたとはいえ、年産8万台弱(2016年)、ポルシェの6分の1程度でまだまだ希少でプレミアな存在なのだ。日産リーフを買っても世間からそうは見てもらえない。リーフの問題は、製品の問題事前にブランドの問題なのだ。BMWの電気自動車と言われてもピンとこないのもブランドの問題である。テスラが最初に安価な実用モデルから導入していたら、現在の成功はなかっただろう。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」㉑ 夢見て、耐えて、生きた・・・新人・チータ』 『作詞家・星野哲郎さん』も、『今度専属契約が切れたら、コロムビアとは再契約しないでフリーなる』と内々に宣言し、クラウンの隆盛に尽力を傾けた。

東京オリンピックが開催され、日本中が興奮に沸いた昭和39年(1964)のヒット曲を見ると、日本レコード大賞を受賞した都はるみの『アンコ椿は恋の花』はコロムビアで、作詞・星野哲郎、作曲・市川昭介。チータこと水前寺清子のデビュー曲『涙を抱いた渡り鳥』はクラウンで、作詞・有田めぐむ、作曲・いずみゆたかだが、実はこれが星野・市川コンビのペンネーム。今では時効となったが、秘密裏にクラウンの歌手のために作詞・作曲をしていたのだ。

チータはもともと『コロムビア全国歌謡コンクール』の出身。昭和35年の全国大会で堂々2位になり、作詞家の星野さんの目に留まり、『荒浜育ち』というデビュー曲で、絣の衣装で歌うところまで話は進んでいた。ところが、毎年優勝者が出るので、コロムビアとしても2位よりも力はそちらに注がれ、発売までには至らなかった。チータは、もはや忘れられた存在となりかけていた。

そんな時、『恋は神代の昔から』『出世街道』などで人気歌手になっていた畠山みどりさんも、歌手としてクラウン創立に参加する予定だった。移籍第1作ということもあり、彼女のために星野さんは渾身を込めて書き下ろし、市川さんが名前を伏せて作曲した作品『袴をはいた渡り鳥』が、すでにカラオケ収録も終わって用意されていた。そこに急遽、畠山さんからコロムビアに残るという連絡が入り、折角の作品が宙に浮いた。


自信作だったから、何とか世に出したいとクラウン所属のいろいろな歌手で吹込のテストをしてみたが、いずれも星野さん達の意に沿わなかった。その時ふと、星野さんの頭に、コロムビアに埋もれているチータのことが浮かんだ。連絡を取ると、まだローテーション入りも果たしておらず、移籍の話は、電話一本であっさりと決まった。そして『袴をはいた渡り鳥』は、少し手直しされた後改題され、『涙を抱いた渡り鳥』として、チータのデビュー曲となり、ついにチータはレコード歌手の仲間入りを果たした。

クラウン創立1周年記念『オールスターパレード』が催された、今はなき東京大手町の産経ホールのステージで、私は初めてチータを紹介した。
  花にそむいて 旅から旅へ
  涙を抱いた 渡り鳥
  夢見て 耐えて 生きてきた
  注目の新人 水前寺清子が唄います
  デビュー曲『涙を抱いた渡り鳥』

これが私とチータの出会いだったが、チータは歌手だけではなく、その後女優に、司会にと、才能をどんどん開花させて行った。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<困難を極める公立病院の経営効率化>公立病院の非効率経営にメスを入れるには再編統合が必要だが、様々な壁が立ちはだかる。

4月1日、兵庫県川西市の市立川西病院の運営者が医療法人協和会に変わった。赤字脱却を目指す民間委託だ。3年後に別の場所に新病院を建て、協和会の別病院と統合。医師を集約して救急体制を充実させる。

ハードルは市民病院の看護師らの処遇だった。民間経営になると年収が平均135万円、率で3割近く下がる。当初4年は市が差額を補うが、半数の職員は退職か市役所事務職に異動した。『公務員でなくなることへの抵抗感は強い』(同病院)。

川西市はなんとか乗り越えたが、往々にして労務問題は公立病院改革にブレーキをかける。『都立病院は独立行政法人化すべきだ』。2018年1月、東京都は有識者委員会から提言された。実現すれば人事や予算を柔軟に決められる経営が可能で、7千人超が非公務員になるが、都立病院労働組合は『労働条件を悪化させる』と反対を表明。都は『23年度までに検討を進める』と結論を出すかどうかも不透明だ。


複数の自治体が絡むと、運営責任や資金分担を巡り綱引きが始まる。千葉県香取市にある県立病院と国保小見川総合病院(市と東庄町で開設)。数年前に2病院の建て替えと併せた再建案が浮上した。県は市主導で赤字額が大きい県立病院を小見川病院に統合する案を推した。市は責任を押し付けられると警戒し、逆に県主導の建て替えを求め、小見川病院を市単独で建て替えた。これで再建案は消え、県立病院の赤字は膨らんだ。

再編には縦割り意識を脱した発想が要る。08年に地方独立行政法人として発足した日本海総合病院(酒田市)の前身は近接する市立と県立の2病院。県立の赤字が膨らみ、建て替えを控えていた市立病院が統合を提案した。原動力は『このままでは共倒れになる』との危機感だった。

県と市、病院間で厳しい調整を重ね、県立は規模を拡大し重傷者向け拠点病院、市立は縮小してリハビリ病院とする役割分担を決定。職員には業績手当を入れた。終章病院との連携も薦め、開業以来黒字を続ける。

理事長は『個々の病院ではなく、地域全体の医療を効率的に提供する経営が必要だ』と説く。サービス水準を落とさずに効率化するには、自治体や職員が既得権益にしがみつくのをやめる必要がある。

まあ、県と市。病院だけでなく、図書館や体育館、その他諸々の二重行政が忍び寄る人口減、税収減に重荷になりそうだねえ。あの『道州制』の議論はどこへ行ったのだろうか。選挙にメリットがないとなれば、議員はすぐに手を引く。困った日本型民主主義だねえ。


★★<永井 代表令和1号&2号 30歳96日で初ゴール!史上5番目年長記録>
国際親善試合 日本2-0エルサルバドル ( 2019年6月9日 ひとめS )

待望の初ゴールは、記念すべき一撃となった。前半19分。永井が快足を生かし、冨安のロングフィードに抜け出す。出し手が『ちょっと長くなった』というボールに簡単に追い付くと、切り返してDF2人を置き去りにし、左足でGKのニアサイドをぶち抜く『令和初ゴール』を奪った。同41分には原口の折り返しに左足で合わせ2点目。負傷した鈴木武蔵に代わる追加招集に『年齢も年齢だしラストチャンスだと思っていた』。30歳96日での国際Aマッチ初ゴールは史上5番目の年長記録となった。

福岡大時代の09年12月に大学生として18年ぶりにA代表に招集された逸材は、少年時代から“世界最速”に憧れた。小学校の卒業文集では00年シドニー五輪の陸上男子100メートル優勝者の名を挙げ『モーリス・グリーンよりも速くなりたい』と書いた。12年ロンドン五輪では『ウサイン・ボルトに会いたい』と世界最速の男をモチベーションにした。

森保ジャパンの“大迫依存”を解消しうる存在だ。大迫以外のFWでは15年9月のW杯アジア予選アフガニスタン戦での岡崎以来となる複数得点。ポストプレーにたけ、周りを生かす大迫と、スピードを生かした飛び出しを得意とする永井。新たな1トップのオプションとして期待を集めることになりそうだ。右肩負傷で後半14分に交代したが『そんなに気にならない。多分大丈夫』と軽症を強調した。国際Aマッチデビューから9年154日。殻を破ったスピードスターが代表の1トップ争いを白熱させる。

永井のプレーは秀逸だったねえ。最初のゴールは相手DF2人を置き去りにして切り替えしざまのシュート。2点目も相手陣内での混戦からGKがセーブに動いた逆のニアサイドを狙ったもの。福岡大時代の活躍は強く印象に残っているが、プロに入ってからは少し間合いを置いた感じ。名古屋で風間監督のもと、外人トリオの参入でまた息を吹き返し、スピードに乗ったドリブルとシュート力でファンを魅了しているねえ。この試合、久保が噂の的だったが、伏兵永井にその実を取られたようなきもするが。しかし久保のプレーも見事だねえ。あの小さい体で大男の体当たりをはねつけるのだから、すごい。


★★<広島県のアンテナショップ、売上全国第2位>広島県が東京に構えているアンテナショップ『TAUタウ』は、2018年度の売上高が過去最高を記録し、北海道に次いで全国で第2位の実績を挙げた。日本酒や熊野筆などの特産品に加え、プロ野球『広島東洋カープ』関連グッズも人気を集めている。

『都内ではここが一番そろっている』―。5月下旬、銀座のタウ2階にあるグッズコーナーで、都内在住の女性客がユニホームを探していた。広島にゆかりはないものの、好成績の球団に惚れ込んだ『カープ女子』の一人だ。タウによると、東京でカープ戦がある日は応援グッズを2階で買いそろえ、『完全武装』してから東京ドームや神宮球場に向かう人もいると言う。

タウの18年度の売上高は前年度比9%増の10億5,600万円と、12年の開業以来で初めて2桁になった。カープグッズの底堅さに加え、17年春の改装で新設した鮮魚コーナーの魚介類の売れ行きが好調だ。

県産品の普及に向けて取り組むのは、期間限定で商品を販売する『テストマーケティング』だ。タウや県のブランド推進課が協力し、県内の特産品の販路拡大を進める。狙いとしる顧客層などを製造元と相談し、パッケージデザインを刷新することもある。

尾道市のまるか食品の『イカ天瀬戸内レモン味』も、テストマーケティングを通じて人気になった商品の一つ。若い女性をターゲットにしたパッケージが奏功し、期間限定の販売から常設の土産コーナーまで登り詰めた。タウでは『瀬戸内側だけでなく、県北の特産品の発掘も進める』と話す。

見事だねえ、タウの実績。北海道に次いで第2位とは。静岡や熊本、青森など強力な競争相手がいるのになあ。しっかし、カープの活躍、単に試合に勝つことだけではないんだねえ。県産品の販売拡大に相当なる寄与をしているんだ。お見事なり、松田元オーナー殿。


★★<ダイキョーニシカワ、樹脂で車の後部ガラス>広島の自動車部品上場企業の『ダイキョーニシカワ』は、自動車用のリアガラスを透明な樹脂で代替えする技術を開発した。ガラスに比べて大きく曲げられるため、デザインの自由度が高くなる。また2~3割の軽量化にも繋がるメリットを自動車メーカーにアピールし、2025年頃に発売される新型車への採用を目指す。

透明な樹脂の表面をコーティングし、傷が付きにくくした。トランク付近に使う樹脂との境目がなくなるため、一体成型による製造が可能になる。従来はガラスだった部分を大きく曲げるなど、新たなデザインに繋がると言う。後方全体を滑らかな形状にし、空気抵抗を減らすことも出来る。

価格はガラスをl使う通常品に比べて1.5~2倍と高いが、高級車向けのニーズがあると見込む。フロントガラスはワイパー、左右の窓は開閉によるダメージが大きいため、樹脂による代替はまだ難しいと言う。

ダイキョーニシカワは、樹脂部品メーカーであった『大協』と、ゴム部品の西川ゴムの子会社であった『西川化成』が合併して生まれた会社。大協の躍進は、エンジンのエグゾーストパイプ=エンジンから出る排気管を、鋳鉄製から耐火性の高い樹脂製製品を開発し、ダイハツが生産していたトヨタブランドの『スターレット』に採用されたところから、トヨタ自動車に食い込んだことにある。その後、西川化成と合併し、財務体質を強化して東京第一部に上場し、全国的な部品メーカーにのしあがった。

大協自体は、オーナーのゴルフ場開発の失敗で200億円を超える赤字を抱えていたが、これを銀行団が消却し、健全体質になった。過去の傷を埋め、おつりがくるようなダイキョーニシカワの活躍ではある。お見事。


★★<『団体交渉誠実に』都労委、朝日新聞に命じる>朝日新聞社の一部の従業員が加入する新たな労働組合に、掲示板使用などの便宜供与を認めるかが問われた審査で、東京都労働委員会は、団体交渉に誠実に対応するよう同社に命じた。具体的な理由を説明せずに便宜供与を拒否したことが不当労働行為にあたると判断した。

都労委によると、朝日新聞社の従業員数人は、新たに労働組合『東京管理職ユニオン』の支部を昨年1月につくり、会社に対して、既存の労組と同様に会議室や掲示板を利用させることなどを求めた。会社側は、組合との間に信頼関係がいまだ存在しないなどとして応じず、組合が都労委に救済を申し立てていた。

都労委は朝日新聞社の対応について、組合の理解を得ようとする努力などを欠いており、不誠実な団体交渉にあたると判断。また、合理的な理由を示さずに要求を拒んだことは支配介入にあたるとも指摘したが、便宜供与については今後、労使の団体交渉で解決するべきだとした。朝日新聞社広報部は『命令書の内容を精査し、今後の対応を検討します』とのコメントを出した。

朝日新聞の管理職が組合をねえ。しかも外部組合組織の支部とは、日本の労使慣行にはなじまないなあ。この構図だと、朝日新聞の組合が、外部組織に団体交渉の委任を託すことが出来、いわゆる『企業内組合』の枠を逸脱するからだ。かといって単独の組合を作るとなれば、会社から潰されるし、痛しかゆしの部分だねえ。しかし、朝日新聞も手抜かりだねえ。設立が噂されれば、先手を打って協調的に組合を作ればよかったのだが。まあ、管理職組合だとそうもいかないわねえ、対外的にも。面白い朝日新聞だ。


★★<コメダ珈琲店が『全国制覇』名古屋発>コーヒーチェーンの『コメダ珈琲店』の新店舗が、青森市内にオープンした。これでコメダ珈琲店は47都道府県全てに店舗を構えることとなり、『全国制覇』を達成。青森への出店を記念して、青森県産リンゴを使った新メニューも全国の店舗で登場した。


コメダ珈琲店は1968年に名古屋市内に1号店が開業し、現在は新しくオープンした青森イトーヨーカドー店の店舗を含め、国内外に841店舗を展開している。昨年8月には沖縄県に初出店し、青森が最後の『空白県』となっていた。コメダ珈琲店は『これで全国の皆さんに身近な存在として楽しんでもらえるようになった』としている。

出店を記念して、温かいデニッシュにソフトクリームをのせた看板デザート『シロノワール』に、青森県産リンゴのふじを使った『アップルカスタード』味が登場。青森市内から訪れた成田綾子さん(61)は『新しいものができてうれしい。待ち合わせに使いたい』と話した。

この日は同じイトーヨーカドー青森店に、雑貨専門店『ロフト』もオープン。こちらも県内初出店のため、多くの若者でにぎわった。青森市羽白から来た和島直美さん(34)は『かわいい文房具が多くてうれしい』と話した。

私の住まいの、道路を隔てた真向かいにも『コメダ珈琲店』がある。オープンして1年余りだが、結構の人気。特にランチタイムには、広い駐車場が満杯になる。私は訪れたことはないが、ゆったりした室内が好評の原因だろうなあ。お見事名古屋魂だ。


★★<『窓際電通マン』、映画で世界に飛躍 体調不良が転機に>大手広告会社、電通の社員、長久允さん(34)の監督作が米国やドイツなどの映画祭で受賞を重ね、14日から全国で公開される。三つ編みのお下げという特徴的な髪形で、さぞ華やかな道を歩んできたのかと思いきや、『実は窓際社員でした』と吐露する。だからこそ、日の当たらない人への応援歌となる物語をつくり続けたいという。

今年2月のベルリン国際映画祭。初長編作『ウィーアーリトルゾンビーズ』が、青少年が審査するジェネレーション14プラス部門で特別表彰され、長久監督は満面の笑みで右手を高々と突き上げた。『ティーンエージャーを救うためにつくった映画なので、とてもうれしい』。作品は、それぞれ両親を亡くして感情を失い、周囲から『ゾンビ』とさげすまれた13歳の少年少女4人がバンドを結成して、心を取り戻してゆく物語。テレビゲームに影響を受けたような映像とポップな音楽、キッチュな衣装などが評価され、若手の国際的な登竜門とされる米サンダンス映画祭でも審査員特別賞を獲得した注目作だ。

大手広告会社の社員による作品で、インターネット上には『どうせエリートだろう』『電通だから評価されている』などという声もある。だが、2007年の入社後、仕事で手がけた映像はテレビCMではなく、スーパーの店頭で流す牛肉の宣伝や、ゆるキャラのPR番組など地味なものばかりだった。『広告のメインストリームからはほど遠いところにいた。当時の僕を知っている人は、同期でも1割以下だったと思う』と振り返る。『売り上げにもならない小さなことをやっている窓際社員だったし、何でこんなものばかりつくっているのかと思う日々でした。それでも依頼者に満足してもらえるものをつくりたいので忙しいし、体力的にも大変でした』。

そんな日々が続き、3年前には体調を崩した。耳が聞こえなくなり、胸が痛くて出歩けなくなった。しかし、それが転機になった。『このまま死にたくない。好きなことをした』と、学生時代に夢見た映画づくりを決意。有給休暇を取得して、10日間で撮影したデビュー作『そうして私たちはプールに金魚を、』(2016年)が、サンダンスでいきなり短編部門のグランプリを獲得したのだ。


受賞を機に監督業に専念できるよう会社に掛け合い、2作目に挑戦することに。役職はプランナーのままだが、『社員監督』として認められ、現在は業務中にシナリオや企画づくりを進めている。初の長編となる今作は電通も製作に加わったが、構想は2人目の娘の誕生で取得した育休中に練った。長女を公園で遊ばせているときに、物語が頭に浮かびあがった。すぐにシナリオにするため『1日30分だけ一人の時間を』と妻に頼み、最寄りのコンビニのイートインスペースに連日駆け込んで書き上げた。

資金集めや企画書づくりは本業でお手のもの。『世の中の潮流をよみ、どう露出させるか。低予算で店頭ビデオをつくってきた経験が生きている』という。自身も三つ編み姿で広告塔となり、PRする。『あれは誰だ?』と海外の映画祭でも注目を浴び、声をかけられる。奇抜な髪形の理由は、ゲームのサブキャラクターが好きだからだという。『格闘ゲームで言えば、華やかなメインキャラより、ワイルドな道を歩んでいる設定のキャラに興味がある。彼らの気持ちを知るためにこんな髪形にしているんです』。

中学生からサックスに没頭してきたが、大学のころに『これ以上はうまくなれない』と挫折感を覚え、プロの道を諦めた。電通に入っても新人時代に経験した営業職では鳴かず飛ばず。プランナーとしても、華やかな世界とは無縁だった。今回の作品で主人公の少年少女たちも、世の中の王道を歩めない人。『今の社会は「ポジティブに真面目に」と、正しさばかりを求める風潮がある。でも、つらければ時には逃げたりひきこもったり、道を外してしまう生き方でもいいんだと、伝わればいいな』と語る。

超長時間残業で、東大卒の新入女性社員の自殺事件があったブラック企業『電通』。なかなか乙なことをやりんすねえ。お見事、二足のワラジの時代だねえ、『令和』は。

『プレミアブランド小話㉒ VWブランドポーロフォリオ戦略』

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今日の画像は、尾道市の尾道ラーメンの老舗『朱さんの店』の休業発表で『長い行列を作るファン達』、インドの猛烈な大干ばつでチェンナイ郊外にある干上がった『チェンバランバッカム湖』。そして華やかな『ハナカイドウ』と清楚なる『ラッパスイセン』です。

この尾道のラーメン店は、いわゆる『尾道ラーメン』を全国区に仕立て上げた名物店。事情は明らかにされていませんが、店を閉めると言うこと。ファンは名残りを惜しみ、長い行列です。

インドの大干ばつは相当の被害がありそうですねえ。飲料水がないというのは生活の基盤を奪われて、とても苦しい生活でしょう。ご同情申し上げます。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★プレミアム性と販売量はトレードオフの関係にあり、その加減を判断するのは非常に難しい。企業である以上成長を目指さなければならないが、ある一定以上に販売数が増えてしまうとブランドの独自性を維持することが難しくなる。

VWは、その名が示す通り大衆車のメーカーであり、その領域では非常に強いブランドである。しかしVWはそれに飽きたらず、多くのブランドを駆使することでとても広い顧客層をカバーしているのだ。VWは、トヨタのレクサスやダイムラーのスマートのような全く新しいブランドを立ち上げるのではなく、既存のブランドを買収することでブランドポートフォリオを形成している。

1964年にDKWブランドを展開していた『アウトユニオン社』を買収。1965年にかつてアウトユニオンのブランドであった『アウディブランド』を復活させた。1969年にはロータリーエンジンを初めて市販したNSU社も買収し『アウディNSUアウトユニオン社』となるが、1970年代に入りアウディに集約させて、1985年に『アウディ社』と社名を変更する。

1970年代半ば、VWの中核車種は空冷リアエンジンの『ビートル』から水冷フロントエンジンの『ゴルフ』に劇的に変身するが、ゴルフはアウディ側の技術をベースに開発された車である。アウトユニオンを買収していなければ、今のVWはなかったかも知れない。

続いて、1986年にスペインのセアトを傘下に収める。セアトはイタリアのフィアットをスペインでライセンス生産していた会社だ。続いて1991年にチェコのシュコダ社を傘下に収める。シュコダは戦前には高級車も製造していた老舗だが、チェコが戦後社会主義国となると国有化され、安価な大衆車のみを製造していた。

セアトとシュコダの買収は、労働コストの安い国での生産拠点の確保と、南欧、東欧でのマーケットの拡大という意味合いが強いが、VWブランドより安価な価格帯で勝負出来るブランドを獲得したという効果もあった。VWはVW車の技術をこの2ブランドの製品に投入し、最終的にはゴルフやポロといったVW車と車台を共通化したモデル群に切り替えた。これにより量的なメリットが生じ、全体のコストダウンとクオリティアップを図ることが出来たのである。


1998年にはベントレー、ブガッティとランボルギーニを傘下に収めた。

ブガッティは戦前に輝かしい歴史を持つフランスのブランドで、1920年代のグランプリレースで素晴らしい戦績を残し、ロワイヤルという大型の超高級車を製造したことでも有名である。戦前の自動車ブランドでは最高峰と言ってよい存在だったが、本拠地がドイツ国境に近かったこともあり、第2次世界大戦で生産設備が壊滅し、戦後一旦回復するもまもなく倒産することになる。その後1980年代にイタリアの実業家が復活を試みたが失敗していた。

ブガッティは『自動車業界の伝説の頂点ブランド』ということで、当時のVWのトップ、ピエヒ会長がぜひとも手に入れたいとして入手したブランドである。ピエヒ会長の『頂点ブランドにふさわしい車を作り上げる』という執念により、VWグループの技術の粋を集めた『ヴェイロン』と言うモデルを作り上げた。16気筒エンジン、最高出力1001馬力、最高速度407キロ、価格2億円というモンスターで、まさに現代自動車業界の頂点を極める車となった。

ランボルギーニは派手なスタイリングで人気こそあったものの、品質と信頼性が低くわずかな台数しか生産していなかったが、ベントレー同様にVW傘下になってから品質が飛躍的に向上し、大いに売上を伸ばした。300台程度だった年間販売台数が、2016年には3,500台余りにまで増えている。

2009年には『親戚』と言ってもいい存在である『ポルシェ』を傘下に収める。なぜ親戚かと言うと、VWの礎となったビートルはポルシェ博士の設計であり、ビートルを生産していた期間、VWはポルシェに対しロイヤリティを支払っていたのだ。そのような経緯もあり、VW株の多くをポルシェが所有しているのだ。

2012年にはイタリアのモーターサイクルの雄、『ドゥカティ社』も買収する。このうに、一口にVWと言っても、その実態は数多くの個性的なブランドを抱える総合自動車会社なのである。大衆車であるVWに加え、スポーティーな高級車であるアウディ、高性能スポーツカーのポルシェとランボルギーニ、超高級車のベントレー、そして自動車業界の頂点に立つブガッティ。

幅広いブランドを揃えることで、VWは途上国の一般層から超々富裕層まで顧客としてカバーすることが可能になった。そして、トヨタを凌いで世界ナンバーワンの自動車会社になったのである。さらにこのブランドポートフォリオ戦略によって、VW社は同一の車台で複数ブランドの車を作ることで生産量を確保し、効率的な生産を行うだけでなく、通常の量販メーカーであればなかなか作ることの出来ない超高級車や超高性能車を開発する技術やノウハウも蓄積することが出来ている。これはVWブランドだけでやっていては到底不可能な話である。

ここで重要なのは、VWが買いたかったのはメーカー(会社)ではなく、ブランドだ、と言うことである。VWの顧客層を広げると共に収益性の高いブランドに育て上げているのだ。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」㉒ 御三家の新人・西郷君がクラウンの救世主に』 西郷輝彦君のデビュー曲『君だけを』は、60万枚を突破し、続いての『17才のこの胸に』も連続ヒットするなど、設立したばかりで資金繰りに苦労していた新星クラウンを、大いに勢いづかせた。

西郷君は、昭和40年(1965)に浅草国際劇場で初めてワンマンショーを開いたが、その時の司会も私だった。当時、1時間半の国際劇場のショーというと、着物を着て出る芸を一つ持たないと彩りが悪いというような、構成上の考えがあった。その辺りが松竹系なのだが、西郷君のレパートリーにはそれがない。それで『何か着物を着て歌える歌を作んなきゃ』というので、急遽作ったのが『青年おはら節』。

すでに小林旭さんが、映画『渡り鳥シリーズ』の中で、行く先々で各地の民謡を入れた歌を歌ってヒットを飛ばしていたから、『青年おはら節』にも西郷君出身の鹿児島の民謡『鹿児島おはら節』の一節『花は霧島 煙草は国分』という歌詞を入れて、民謡調の歌を作ったのだ。

これで、いなせ橋幸男、学園ムードの舟木一夫、モダンボーイの西郷輝彦の3人が出揃い、グループ・サウンズとムード歌謡が全盛だった歌謡界に青春歌謡という流れを注ぎ、ひとつの新たな時代を築いて行くのだが、この3人が御三家と呼ばれるようになるのは昭和41年(1966)以降のことであった。

この3人が初めてテレビで顔を一同に揃えるのが、昭和41年1月30日放送の、第400回記念の『ロッテ歌のアルバム』だった。この時出演した三田明さんも含めて、青春ビッグフォーと呼ばれるようになる。

以後、御三家、又は青春ビッグフォーで集まるのは『ロッテ・・・』だけにしようという了解が、私の知らないうちに4人の中で取られていたようで、それからも100回記念毎に集まってくれて、その度に番組も大いに盛り上がったものだ。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<落語人気『令和』も続く>江戸時代かた続く伝統芸能の『落語』。平成半ばから盛り上がりを見せ、落語家は今や東西合わせて810人と『かつてない規模』に。若いファンも増え、全国各地で公演が開かれ、人気は令和も続きそうだ。

『令和の真打ち第1号、2号、3号です』。改元初日の5月1日、東京新宿の寄席『末広亭』。『笑点』でもおなじみの落語芸術協会副会長の三遊亭小遊三さんの紹介に客席が沸いた。この教会の滝川鯉斗さん、三遊亭藍馬さん、立川吉幸さんが一人前のプロ『真打』に昇進、披露興行が大盛況のうちに始まった。藍馬さんは協会の落語家4人目の女性真打ちだ。

『自分が若い頃、こんなに広がるなんて思わなかった。飛行機に乗って落語をやりに行くなんて』と小遊三さんは、3月の記者会見で語った。

平成では2度、落語ブームが起きた。2004年(H16)の春風亭小朝さん企画の落語イベント、春風亭昇太さんらの創作落語の広がりと、翌05年のドラマ『タイガー&ドラゴン』放送。10年に連載が始まった漫画『昭和元禄落語心中』と、真打ち手前の位である『二つ目』の人気・・・。

人気と共に入門者が増え懸念材料にも。落語芸術協会は入門してすぐの『前座』まで含め、現在170人。10年前より40人以上増えた。寄席で十分な修行が積めなくなるとして昨年夏、前座に登録出来るのは35歳以下の30人と制限を設けたほどだ。小遊三さんは『競争も厳しい。今なら落語家になっていない』と言う。

他に落語協会所属が380人、上方落語協会が250人、さらに五代目三遊亭円楽一門、立川流など合わせて合計810人。05年時の640人から、170人も膨らんだ計算だ。

観客側にも楽しみ方に変化が窺える。若手のための場、東京神田神保町の『らくごカフェ』(50席)は、10年前の開設当初から毎月会を開く二つ目『柳家わさびさん』らの高座が人気で、20~40代を中心にファンが訪れる。代表の青木さんは『完成された芸を楽しむのもいいが、若手の躍動感溢れるライブを体験したい方が増えているようだ』と話している。

いい傾向だねえ。古来の伝統文化が栄える、ということは。でも、修行は厳しいねえ。大阪の淀川沿いでは深夜に及ぶまで、落語、漫才の自己修練が行われている。何でも一人前になるにはそれ相応の修行が必要なんだよね。世間の若者達、一夜にしてベテランにはなれないぞよ、心しておくれな。


★★<旅行サイト競争激化>公正取引委員会は、ネットで定着した『旅行予約サイト』の大手3社について、調査を進めている。契約相手のホテル側に不当な条件を課した独占禁止法の疑いがあるという。背景には、最近台頭してきた『メタサーチ』と呼ばれるネットサービスへの危機感があるとも指摘されている。

『料金が他社サイトと異なる可能性があります。設定の確認、修正をお願いします』。2019年春、関東地方のホテルに1通のメールが届いた。送信元は旅行予約サイト『楽天トラベル』。メールには競合するじゃらんnetに載った料金が引用されていた。

楽天トラベルからこうしたメールが届くようになったのは数年前から。『契約条件(最低・同一料金保証)に基づくお願い』とし、『改善されないと契約プランが変更となる場合がある』と毎回併記されていた。

ホテル経営者は『手数料がかからない自社HPにお得なプランを出すことも出来ない』と顔をしかめる。だが『契約を解除されては困るので、要求には従うしかない』と言う。


公取委は4月10日、楽天トラベル、米エクスペディア、オランダのブッキング・ドット・コムの運営会社を独禁法違反の疑いで一斉に立ち入り検査した。取引先のビジネスを不当に縛る『拘束条件付き取引』の疑いがるとしている。特に問題にしたのは、客室料金などについて競合サイトやホテルの自社HPと同等以上の条件を強いる『最恵待遇MFN条項』だった。

MFN条項によってホテルは客室料金などを自由に決めにくくなり、その結果、ホテル間の競争が停滞して料金が高止まりする。料金やプランで差別化を図る中小サイトの努力も無効になる。『一見するとMFN条項で最安の料金が広がると思われがちだが、実際は消費者に不利益が及ぶことになる』と公取委の幹部は説明する。

近畿大の高橋教授によると、楽天トラベルの前身の『ホテルの窓口』がサービスを開始したのが1996年。インターネットの通信速度が上がった2000年代以降、画像を多用するなど情報量が増えたことで普及が進んだ。『いつでも宿を予約出来る手軽さが消費者に歓迎され、ホテルにとっても集客に欠かせないツールになっていった』と説明する。

経産省によると、空の便や鉄道の予約などを含むネットを使った旅行関連サービスの市場は、18年時点で3兆7千億円。10年前の08年は飲食店の予約などを含めても8千億円程度だった。今後も市場の拡大が見込めると言う。

あるサイトの関係者によると、現在の旅行予約サイトの勢力図は、日本人向けでは楽天トラベルとじゃらんが拮抗している。訪日外国人はエクスペディアとブッキングの利用が多い。ホテルの契約は知名度が高く、閲覧数が多いサイトに集まりがちだと言う。


ところが、『トラベベルコ』や『トリップアドバイザー』など、『メタサーチ』と呼ばれるネットサービスの台頭で、大手サイトの地位も安泰ではなくなった。メタサーチでは、様々な旅行予約サイトに掲載されているホテルの料金やプランを一括で検索することが出来る。旅行予約サイトはホテルの情報を比較出来る場を消費者に提供することで力を得てきたが、比較される立場に置かれることになったのだ。

MFN条項に基づく要求は以前からあったと見られるが、公取委幹部は『メタサーチで一番安い料金を出しているサイトを探しやすくなったことに危機感を覚え、ホテル側への締め付けを強めた可能性がある』と指摘している。

私は、7月に北アルプス、後立山の麓に連泊し、山歩きや高原歩き、高山植物園などを歩く予定だ。名を知ったホステルの予約を、楽天トラベルで行ったら、なんと即座に料金の引き落としがあった。こんなこと、長くネットでホテル、ホステルを予約しているが初めての体験だ。その後、バスの便の関係で予約を一旦キャンセルし、別日程で再予約したが、再予約は海外旅行でよく使ったブッキング・コムを使った。この場合、料金の精算はチェックイン時となる。楽天のキャンセル分は来月カードで戻して来るとは思うが、予約したら即引き落としとは恐れ入った『楽天』ではある。長くネット予約を使っているが、即引き落としは本当に楽天が初めてだ。ご用心、ご用心だねえ。


★★<『ポツンと一軒家』 関西でも過去最高&大台超え21・4%>9日放送のABCテレビ・テレビ朝日系「ポツンと一軒家」(日曜後7・58)の関西地区・平均視聴率が過去最高の21・4%を記録。週間視聴率もNHK連続テレビ小説「なつぞら」(8日、19・5%)を抑え、関西地区1位となった。関東地区も初めて20・3%を記録した。

所ジョージ(64)が司会、林修(53)がパネリストを務め、日本各地の人里離れた場所にポツンと存在する一軒家を制作スタッフが訪れ、住人のドラマを伝える番組。9日は宮崎県南西部の山奥の一軒家を訪ね、老夫婦にスポットを当てた。制作プロデューサーは『これからも変わらず、番組作りを続けていきます』と話している。

9日同時間帯の読売テレビ『世界の果てまでイッテQ!』は12・2%(関東地区15・0%)、毎日放送『サッカー・キリンチャレンジカップ2019、日本代表対エルサルバドル戦』は11・2%(同13・8%)、関西テレビ『でんじろうのHTE実験』は6・4%(同5・2%)、NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』」が6・0%(同6・7%)、テレビ大阪『地球ぐるり!日本―北米2000km最新型!自動車船に乗せてもらいました』が5・2%(同5・9%)だった。

この日の『ポツンと一軒家』は、宮崎県の山奥に独りで済む女性が登場。おおむね、ポツン・・・は、昔から住んでいた人で、子供達も離れたが、先祖伝来の地を守る人が多い。この日もそうだった。が、その前の回、2日放送の分は、今様のなかなか素晴らしいものだった。2月に岩手県の山の中の建築後200年経過の古い家を5年かけて自分で建て直し、住んでいる建築家の夫婦がいた。絵描き三昧の生活を楽しんでいると。これもなかなか結構だったが、この愛媛県のポツンはそれを上回った。


この2日に放送分は、愛媛県の山奥。500万円で1万5千坪ほどの山の土地を買い、ブルやクレーンの免許を取り、一人で土地整備から始めた人。横浜市に住んでいた、写真館の社長である弓削さん(45)。現在単身でこの山奥に寝起きし、この会社の本社を一人で建てている。土地整備、木の入り倒し、材木への手入れ、製材を一人でこなしている。半日は仕事、半日は建築という生活。本社が出来たら、さらに上の高台に本宅を立てると言う。仕事はネットが通じるので、それで処理。山が好きで、精神的に落ち着きたいという気持ちからスタートしたそうだ。立てているログハウスに使う丸太も尋常ではなく、とても太い。これを削り、クレーンで組み立てる。すべて一から習ったそうだ。弓削さんの熱意と修練には頭がさがった。麓へは1.7キロの距離がある地故、本当に孤立生活なのだ。

さらに凄いのは、この作業を録画し、You tubeにアップしていることだ。自分のように全く素人から、一軒の家を立ち上げようと思う人の参考にしてもらいたいそうだ。お見事というか、天晴というか、素晴らしい弓削さんではある。

うちのかみさんも、私もこの番組のファンになったが、感心のポイントは、こんな山の中で苦労も多いのに住み続けているというその執念というか精神力に都会に住む人達が驚きと敬愛の気持ちを持つからだろう。そして、かつて山の中に住み、生活した人達は昔の日本人の歴史を垣間見る気持ちになるのではなかろうか。そして、何より所ジョージのコメントが、ぼそっとしているが、いいのである。やっぱり所の人気も素晴らしいという証左であろうなあ。お見事だ。


★★<プリンター、目詰まり>昨日は往生した。大分前、画像をプリントしたら、青味がかって。どうやら黄色が出ていない様子。まあ、年賀状をプリントして以来、インクの補充をしていないからなあ。と、先週末にプリントしたらさらに青く。ようやく腰を上げて、補充用エコインクを注入。ところがイエローが出ない。クリーニングをしてもダメ。どうやら強烈な目詰まりらしい。ダメで元々と、新しいカートリッジを買う覚悟で『強力クリーニング』を実施。30分毎に、計6回。やや黄色が出て来た、もう少し、と結果クリーニングに成功。当分毎週プリントテストを繰り返さなければならないなあ。予備にリサイクルのカートリッジでも買っておくかしら。

私のプリンターは、キャノンの2700。新品を2,600円で買ったもの。今は生産中止になったが、インク代金より安く、コンパクトなプリンターで、安値で何台も買って、インクがなくなれば、新しいのを使う、という人もいるそうだ。詰め替えインクは1,200円くらいで、6回くらい詰め替えできるから、ランニングコストは抜群だ。今のプリンターは、最低1万円は出さないといけない。スキャナーがついていないが、その前使っていたプリンターを残しており、これが使える。が、面倒なので、カメラで写真を撮ってスキャナー代わりに使っている。これで私的には目的を十分達成できる。

『プレミアブランド小話㉓ ロールスロイス争奪戦』

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今日の画像は、初夏の訪れを告げる伝統行事、色とりどりの装束や大小の鈴をまとった約70頭の馬が岩手県滝沢市から盛岡市までの約13キロを練り歩く『チャグチャグ馬コ』。そして、珍しい黄色の『ペチコートスイセン』と『ツルニチソウ』です。本当、ペチコートスイセンを見たのは何年ぶりかのことです。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★1990年代半ば、イギリスの小さな自動車会社が売りに出された。『ロールス・ロイス』と『ベントレー』を作っていたものの、生産効率が悪く収益性の芳しくない、『ロールス・ロイス・モーターズ』である。

当時、自社ブランドでは獲得出来ない超富裕層をカバーする力のあるロールス・ロイスブランドを欲しがっていたのはVWだけではなかった。BMWも参入してきて、2社間の激しい争いとなった。結果、最高額で入札したVWのものとなった。

しかし、ここから面白いことが起こる。ロールス・ロイス社はもともと車だけでなく航空機エンジンも製造する会社だったが、もとのロールス・ロイス社は航空機エンジンメーカーとして存続し、自動車製造部門はヴィカースという会社に売られたのである。ちなみに、現在ロールス・ロイス社の航空機用ジェットエンジンは全日空のボーイング787にも採用され、世界の三大エンジンメーカーのひとつとなっている。

VWは、ロールス・ロイス社ではなく、ヴィカース社から『ロールス・ロイス・モーターズ』という自動車製造会社を買った格好だが、実はロールス・ロイスの商標権は航空機エンジンメーカーのロールス・ロイス社が留保していた。その事実が判明するやBMWはすかさずロールス・ロイス社と交渉し、自動車分野のロールス・ロイスの商標権を獲得してしまう。

このため『ロールス・ロイス・モーターズ』を買収したVWはロールス・ロイス社の製造・販売が出来なくなるという事態に陥った。そこで、ロールス・ロイス・モーターズが所有していた『ベントレーブランド』の車のみを製造することになったのである。

ベントレーは、もともとウォルター・オーウェン・ベントレーが1919年に設立した自動車メーカーで、1923年から1930年の間に5回もル・マン24時間レースで優勝するほどの高性能車だった。しかし世界恐慌のあおりを受けたベントレーは経営危機に陥り、1931年にロールス・ロイスに吸収合併されてしまう。戦後は、基本的にロールス・ロイスと同じ車をバッジとグリルが異なる程度の変更で売られていた。ロールス・ロイス級のステータスは欲しいものの、これ見よがしなロールス・ロイスには乗りたくないという一部の層に向けて存在していた『陰の』ブランドだった。


VWはロールス・ロイスブランドを獲得することは出来なかったが、VWフェートンの車台を使った『お買い得』ベントレー車で大成功を収めることが出来た。BMWはロールス・ロイス向上を新たに立ち上げたが、BMWのロールス・ロイスが年間4,000台程度の販売に留まるのに対し、ベントレーは1万台以上を売り上げている。今や、数の上では以前はマイナーだったベントレーの方がメジャーブランドになっているのだ。

ロールス・ロイスは、そのブランドイメージの強さ故にマーケティングの縦軸にも横軸にもポジショニングを拡大しにくいが、ベントレーは比較的自由度が高く、結果としてロールス・ロイスより広いマーケットを獲得出来た訳である。2016年にはアウディQ7のプラットフォームを土台としたベントレー初のSUV『ベンテイガ』を発売。これも大ヒットとなっている。ベントレーを得ることで、VWは2,000万円以上の価格帯のマーケットで大きなシェアを得ることに成功したのである。

一方のBMWは、台数こそ少ないものの、ロールス・ロイスで3,000万円超という更に上のマーケットを獲得することになった。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」㉓ テレビ歌番で「歌謡曲黄金時代」到来』 昭和33年(1958)に、TBSだけのネット局なしで始まった『ロッテ歌のアルバム』は、昭和30年代のテレビの急速な普及に足並みを揃えるように人気番組の仲間入りを果たし、放送を開始して3年後の昭和36年には、ついに念願の全国ネットになった。この昭和36年には、新たに、二つの大きなミュージックバラエティーのテレビ番組も生まれた。

一つが4月からNHKで始まった『夢で逢いましょう』。これは歌と踊りとコントで構成されたバラエティーで、ホストがファッションデザイナーの中嶋弘子さん、出演者は三木のり平、黒柳徹子、渥美清、坂本スミ子、田辺靖男、E・H・エリックなどの芸達者の面々、さらに永六輔・中村八大のコンビが今月のコーナーを担当していた。この歌のコーナーからは大ヒット曲、坂本九ちゃんの『上を向いて歩こう』や、梓みちよさんの『こんにちは赤ちゃん』なども生まれた。

もう一つが、6月から日本テレビ系列で始まった『シャボン玉ホリデー』。これは当時大人気だった双子姉妹ザ・ピーナッツとクレージーキャッツをレギュラーに、毎回ゲストを迎えるコメディータッチのバラエティーだった。青島幸男さんは脚本を書きながら出演もしていたが、ほかに脚本担当として前田武彦さん、塚田茂さんなどが参加していた。

これまでの歌謡番組のように、ただ歌手が歌うだけでなく、コントやお芝居も絡めたショー形式の新しいスタイルが、テレビ前のお茶の間で大いに受けたのだ。


『シャボン玉・・・』の塚田さんは、昔から三橋美智也さんの舞台なども構成演出されている方だが、塚田茂さんが演出する大劇場の歌謡ショーなどの舞台では、この手法はすでに行われているものだった。つまり、歌手にお芝居など、必ず何かのアトラクションもさせることで、客を存分に愉しませていたのである。

実は私も、塚田さんには同じ昭和36年の日本劇場での初めての司会、『三橋美智也・お正月公演』では、1週間お世話になった。この公演は塚田さんの構成演出で、『佐渡おけさ』をテーマにしたお芝居もあり、三橋さんを中心に、特別出演が三木のり平さんと東宝の女優の北あけみさん、それに初代の脱線トリオ、由利徹、八波むと志、南利明の3人が絡むというコメディーもの。

三橋さんが修行中の板前、老板前がのり平さん、女将が八波さんで、のり平さんのすっとぼけたキャラクターと、八波さんのおかしげな女装だけでもう十分に笑いが取れる芝居なのだが、司会の及川洋さんも軽演劇出身というので、一役あった。ところがこれが間抜けな与太郎のちょい役。そこでカチン!ときた及川さんは、『天下の三橋美智也の司会のこの俺に、こんなちゃちな役を振るとは何事だ!』と台本ぶん投げて降りちゃった。

公演までもう20日を切っていたし、暮れも迫る忙しい時期だったので、日劇クラスの空いている司会者がいるはずもない。それで、急遽私に話しが来た。

私も『ロッテ・・・』とのスポンサー契約があるから、それまで東京での商業劇場には積極的には出ていなかったが、三橋さんの頼みだし、憧れの日劇だから、何とかしようと探りを入れてみると、番組に支障をきたさないのならOKという返事が出た。スケジュール的にも『ロッテ・・・』の生の時間を除けば、後は何とかなりそうなのでそのまま、塚田さんの演出指導のもと、暮れの稽古に入ったのだ。

役者経験のない私に、早速獅子舞の馬の尻の役が回って来た。それも頭は三橋さんで、渡板をよろよろ歩く役。渡板は幅が2mくらいはあったが、被りものをしているからよく見えない。下のオケの人達も気が気ではなかったと述懐している。私も、この獅子舞の方に神経をすり減らしたお陰で、日劇の初司会という重圧や緊張を感じる暇がなかったと言うのが本音だった。さすが日劇の舞台は魅力的であり、華やかなものだった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<なぜいま韓国へ進出? “売上好調”『アイリスオーヤマ』> 韓国の大手通販サイトで『アイリスオーヤマ』と韓国語で入力すると、ずらっと出てくる家電の数々。Eコマース(電子商取引)市場が約11兆円を超える韓国で着々と存在感を増す、仙台市の生活用品大手『 アイリスオーヤマ』のオリジナル家電だ。

他の大手家電メーカーの早期退職者を採用して独自の製品開発を進めることで注目を集めており、これまでに『ハンズフリー型の卓上ドライヤー』や『IH調理器としても使える分離型の炊飯器』などのアイデア家電を生み出してきた。18年12月期のグループ全体売上高は家電販売の好調などを背景に4750億円(前年比13%増)と過去最高を記録した。そのアイリスオーヤマが19年3月に完成させたのが韓国初の生産拠点『仁川(インチョン)工場』だ。

大山健太郎代表取締役会長は現地で開かれた竣工式で『これからは仁川工場で、収納用品だけでなく家電製品も内製化を図っていく。韓国市場の中で今後もEコマースを中心に積極的に展開し、韓国の生活者の皆様にお役に立てるよう、そして韓国経済の発展に寄与できるよう、まい進する』とコメントし、仁川工場の意義を強調した。

◇日韓関係は悪化の一途…なぜこのタイミング?
総投資額70億円をかけて果敢に韓国に本格進出したアイリスオーヤマだが、奇しくも現在は日韓関係が“どん底”ともいえる時期だ。なぜこのタイミングだったのだろうか?と疑問に感じる部分もある。

『残念ながら私たちは現在、日韓の難しい問題(日韓関係)について強い懸念を抱いている。適切な措置が取られると信じている』。仁川工場の竣工式が行われた6日後、文在寅大統領と外国企業関係者との懇談会の場で、在韓国の日系企業などでつくるSJC・ソウルジャパンクラブの森山朋之理事長(韓国三井物産社長)はこう述べた。

いわゆる徴用工を巡る訴訟で日本企業に賠償を命じる判決が出され、日韓関係が悪化の一途をたどる中、日本の経済界が直接、文大統領に対応を求めた形だ。差し押さえられた日本企業の資産が現金化されれば日本政府による対抗措置も現実味を帯びてくる。そうなれば日韓の経済に及ぼす影響は甚大であろう。訴訟の当事者ではない日本企業の関係者でさえも「韓国でビジネスを行う企業としては無視できない問題だ」と警戒感を露わにする。このタイミングでの工場進出の狙いを聞くため「仁川工場」を訪ねた。


◇仁川工場 初年度売上目標は『50億円』
ソウルから車で1時間ほどの距離にある『仁川経済特区』。韓国政府が2003年海外企業を誘致するために設けた経済特区で、税制の優遇などが受けられ、現在、日本企業18社を含む海外企業65社が進出している。総面積約4万4600平方メートルの仁川工場を訪ねると『ロボットアーム』が休みなくプラスチックの収納ボックスを生産していた。アイリスオーヤマが最新設備を導入し、推進する生産ラインの自動化だ。現在、工場はまだフル稼働には至っていないが、今年中にはサーキュレーター(送風機)などの家電製品の生産が開始されるほか、布団乾燥機、空気清浄器などの家電製品も順次、生産が始まる予定だ。

現地法人『アイリスコリア』のソン・スンゴン社長は『日本での売れ筋家電を韓国で紹介してアイリスオーヤマの商品を韓国の消費者に選んでもらえるようにしたい。売上目標は初年度は約50億、2021年までには約100億円。まだ小さい工場だが約200億円まではいきたい』と韓国市場での販売拡大に意気込む。

◇米中貿易戦争に伴うリスク分散…さらに韓国市場にチャンスも
アイリスオーヤマは仁川工場設置の理由の1つに『リスク分散』をあげる。激しさを増すアメリカと中国の“貿易戦争”の先行きは不透明だ。アイリスオーヤマでは中国工場で生産された製品の一部をアメリカに輸出していたが、対米輸出品の追加関税を考慮し生産の一部を中国から仁川工場に移管。仁川工場からもアメリカに輸出する計画だ。韓国からアメリカへの輸出は米韓自由貿易協定(FTA)によって関税がかからないためだ。

さらに22年にはグループ全体で現在の2倍にあたる『売上高1兆円』という目標を掲げているアイリスオーヤマにとって、海外の売上比率を上げることは欠かせない。韓国ではPM2.5による大気汚染が深刻な問題になっているため、仁川工場で生産される空気清浄器は家庭やオフィスに必須ともいえる家電で、かなりの需要が見込めるだろう。さらに布団乾燥機は実は韓国ではあまり知られていない家電だ。PM2.5の影響を心配して布団を屋外に干すことがほとんどないため、機能が認知されれば売上拡大のチャンスがあるだろう。韓国市場には魅力があるのだ。


◇悪化する日韓関係…政治と経済は『別』
その上で日韓関係の悪化については、あくまでも政治と経済は『別』と強調する。ソン社長は『訪日韓国人は年間700万人いて韓国国民でもアイリスオーヤマのことを知っている人はたくさんいる。私たちの商品の優れた機能を知ればもっと多くの人が購入してくれると思う』と期待感を寄せる。消費者のニーズに合った優れた商品を生産すれば日韓関係の悪化が及ぼす影響は小さいとの認識だ。

確かに韓国メディアもアイリスオーヤマの韓国進出に対して『IT分野、ビジネス貿易、マーケティング分野の人材採用増加が期待される』(日刊京畿)と歓迎ムードだ。韓国に進出した日本企業は売り上げや利益を伸ばし、韓国人は新たな雇用を得るという、双方にとってウィンウィンの関係が出来るのならば理想的だ。

しかし、元徴用工を巡る訴訟問題で韓国政府が何も対応せず日本政府が対抗措置に踏み切れば、日本製品の不買運動などが起きることもあり得る。“アイデア家電”で急成長を遂げるアイリスオーヤマが韓国市場に新たな風を巻き起こすためにも韓国政府には適切な対応が求められている。

しっかし、『アイリスオーヤマ』の快進撃は見事だねえ。大手電機メーカーの隙間を狙うような商品開発と物流。販売網は、ホームセンター経由が中心で、今は一般家電店にも進出。元々は東大阪が創業の地だが、火災により仙台で再出発したものだ。平成の家電不況でのリストラに対応し、家電大手を希望退職した技術者を再雇用。大阪に研究所を設け、開発もスピード感を増す対応力を示す。特にLED電球に早くから目をつけ進出したのは慧眼であろう。J1仙台の胸マークのスポンサーにもなっており、仙台愛たっぷりの企業だ。今後が楽しみだ。


★★<炎上する『老後2000万円』報告書問題、最悪なのは麻生大臣だ>
◇『老後報告書』の炎上は不思議でならない
通称『老後報告書』、金融審議会市場ワーキンググループによる『高齢社会における資産形成・管理』(2019年6月3日付)が、いわゆる『炎上』状態にある。

これは、どうしたことか。筆者は、当初、この炎上を不思議な思いで眺めていた。この報告書は、老後の資産形成と管理について国民個人の立場から書かれたもの。関係者が多いためか、率直に言って内容『ゆるい』し、不徹底だと思ったのだが、筆者の心配はこの報告書が高齢者向けの金融商品・サービスのあざといマーケティングに利用されるのではないかという可能性にあった。

ところが、現在の議論は、『公的年金は破綻しているのではないか?』『国民に2000万円貯めろという政府の言いぐさは無責任だ』といった妙な方向に向いている。
 
報告書で問題の『約2000万円が必要』に至る箇所を見ると、『高齢夫婦無職世帯の平均的な姿で見ると』、毎月5万円程度を保有資産から取り崩しており、これを基に『収入と支出の差である不足額約5万円が毎月発生する場合には、20年で約1300万円、30年で約2000万円の取り崩しが必要となる』と試算してみたにすぎない。 事実に基づく単なる計算であって、これに文句を言うこと自体が奇妙だ。

◇そもそも野党側の追及がピント外れだった
また、年金が『100年安心』だというのは、一定の経済前提の下での公的年金財政の持続性のことであり、個々の高齢家計に資産の備えが必要ないことを訴える表現ではない。『100年安心だと言っていたのに、今になって2000万円不足だから貯めておけというのは無責任だ』とか、まして『年金の破綻をまず謝れ』と言うに至っては、ピントの外れた言いがかりに近い。

実際の家計は『平均的な姿』の家計以外に、高所得・高支出の家計もあれば、低所得・低支出の家計もあるし、現役時代と老後で支出をどう配分するのかは、個々の家計の意思決定次第だ。『2000万円』という数字は印象的だが、報告書は『平均的な姿』を目指せと強制しているわけではないし、まして公的年金が破綻すると言っているわけでもない。公的年金の給付が『マクロ経済・スライド方式』に基づいて今後徐々に削られることは、もともと分かっていた話だ。野党側の追及の初動は全くピント外れだったのだ。

政治的な駆け引きがあるので、無理な注文かもしれないが、『2000万円!』と絶叫するのは愚かに聞こえるだけなので、できたら即刻やめてほしい。本来、本件は参議院選挙の争点になり得るようなテーマではない。


◇麻生大臣が上司ではかわいそう
ところが、追及の矢面に立った人物が、麻生太郎大臣だったのがまずかった。彼は、何と『表現が不適切だった』と報告書をバッサリと切って捨てた。『2000万円は、単に平均値に基づく高齢家計の試算を示しただけで、何の問題もない。報告書を丁寧に読んでください』とでも説明しておけばよかったところを、早々に表現の非を認めた。
 
麻生氏は、年金が話題になるとまずいと思い、この問題を早く終わらせたかったから、『表現が不適切』で済まそうとしたのだろう。しかし、この手の逃げ腰は、追及したくなる心理の火に対して大いに油を注ぐ効果がある。麻生氏の初期対応の誤りで、この問題は『炎上』に至ったと筆者は思っている。

それにしても、委員の意見をまとめて表現を調整して報告書をまとめた事務方の担当者は、上司筋である大臣に『表現が不適切』と言われては立つ瀬がない。こんな上司の下で働くのではたまらないだろうと、ご同情申し上げる。しかし、結果的には、部下をもう少し大切に思う気持ちを持って丁寧に答弁していれば、この心ない上司の側でも炎上に巻き込まれずに済んだのだろう。つまりは、不心得に対して罰が当たったような展開であり、世の中は案外バランスが取れている。

なお、答弁としては、現役世代の手取り収入額に対する受給開始時の年金額の割合を示す『所得代替率50%』に言及した安倍晋三首相の発言も危ない。所得代替率は、これまで分子が名目額、分母が可処分所得といういびつな計算で示されていたことが、国会で指摘され、塩崎恭久厚労大臣(当時)が不適切な計算であったことを認めている。

分子・分母を共に可処分所得で計算すると数字は相当に低下するはずなので、『所得代替率50%』を基準とする説明に首相がこだわると、『年金はやっぱり安心ではない』という印象を国民に与える可能性がある。


◇麻生氏の無礼に次ぐ無礼
後の質疑で話題の報告書の全文を読み込んでいなかったことが判明した麻生大臣だが、『表現が不適切』だと、部下ばかりか、報告書を了承した審議会の委員たちにまで恥をかかせた。そして、彼は、さらにこの報告書を正式なものとして受け取らないと言い出した。そもそも、大臣は、審議会の有識者とされる人々に対して、専門的識見に基づく意見の提出を依頼している立場だ。その報告書を、都合が悪いから『受け取らない』と言う麻生氏は一体どこまで失礼にできた人物なのか。

しかし、この度重なる失礼も、罰当たりのブーメランを加速する結果に終わるのではないか。受け取りを拒否したとしても、報告書の計算自体が変わるわけではない。また、報告書が指摘した老後に向けた資産形成等が必要なくなるわけでもない。まして、麻生氏に、報告書に代わる老後の備えの対案があるようには見受けられない。

報告書の各所に注目が集まる一方で、麻生大臣は、事実の説明とともに『それで、どうするのですか?』と対案を求められることになるだろう。ここでも、『単なる表現の問題』で逃げ切ろうとする姿勢が見えるので、追及する側も、見物する側も、麻生氏が追い込まれることに対して『張り合い』を覚える構造になっている。元々どうということのない報告書がこれだけ騒がれる問題となるのだから、組織のトップが不出来であることが、いかに不幸なことなのかが分かる。

◇『平均値』で老後を語るな
最後に一言補足しておく。報告書が示した試算は、高齢家計の『平均』に基づくものだが、個々の家計が多様である中で、平均に基づく計算だけを示すのはやめた方がいい。ダメなファイナンシャルプランナーが書く本や原稿は、平均で老後のお金の問題を語る傾向があるが、これと同類の不備だ。平均値に基づく試算に対して、低所得・低支出な人は「こんなに必要なのか」と不安になるし、高所得・高支出な人も『こんなもので足りるのか』と不安になる。平均は誰も安心させない。必要なのは、個人が自分の必要貯蓄額を計算できる「方法」を教えることだ。(参考: 経済評論家 山崎 元筆)

『プレミアブランド小話㉔ ポルシェの高い収益力の源泉』

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今日の画像は、ホルムズ海峡付近で2隻の『タンカーが攻撃を受けて火災を起こした1隻』、いずれのタンカーかは不明。そして、加西市鶉野町の鶉野飛行場跡に姿を現した旧日本海軍の最後の切り札として開発された戦闘機『紫電改』の実物大模型(全長約9m、幅約12m)。見事に満開の『チューリップ』ですです。右下をクリックすると、大きな画が見られます。

タンカー攻撃については、即座にアメリカはイランの攻撃だと声明で発表し、非難しました。今日は石油市場価格が急騰するでしょうねえ。それにしても、これほどの攻撃はかつてなかったのではないでしょうか。米中貿易戦争に加えて、世界経済の大波乱の勃発要素ですねえ。困ったことだ。


★★★VWは何故、プレミアムブランドを多く抱えるのか。客層を拡大するだけでなく高収益にも結びつくからだ。VWグループのブランドの一つ、『ポルシェ』の飛び抜けた収益の高さについて、それをもたらす要因について考えてみたい。

ポルシェの代表的な車種は『911』である。911は、ポルシェ初のモデルで大成功した『356』を引き継いで1963年にデビューした。356の特徴であったリアエンジンを踏襲しつつ、よりハイパワーを求めて重い水平対向6気筒エンジンを採用したのが災いしてか、当初は操縦性に難のある、欠陥車に近いモデルだった。重いエンジンが後端にあるため、高速コーナーリング時にお尻を振り出してしまうのだ。また、高速直進性も悪く、フロントが浮き気味になるという悪癖があった。

しかし911は、モータースポーツの世界では大活躍した。エンジンが後端にあって加速時に過重が後輪に掛かることで、エンジンのパワーを有効にタイヤに伝えることが出来る。うまいドライバーが乗れば、素晴らしいタイムを出すことが出来たのだ。乗りこなすのは難しいが、乗りこなせば速いというマニアックな操縦性と、その独自のエンジンレイアウトだからこそなし得たフォルムで、熱狂的なファンが沢山生まれたのである。


その後フロントエンジンへの試行錯誤もあったが、ポルシェファンはそれをよしとせず、ポルシェも脇目も振らずに911の改良型へまい進した。1997年には、基本コンセプトは不変のままフルモデルチェンジを敢行。エンジンは全く新しい水冷エンジンとなり、911は最新のスポーツカーとなった。

結果としてポルシェは、水平対向6気筒エンジンを車体の後端に搭載するという、911以外ではほとんど例のない異端の基本コンセプトを全く変えないまま何十年も作り続けることになった。最新型のボディは初代911よりかなり大きくなったが、エンジンのキースペックの一つであるボアピッチ=シリンダーの中心間の距離、は初代911から変わっていない。

このように『唯我独尊』の車作りをしてきたポルシェは、熱狂的なファンを世界中に生むことになった。あの生沢徹さんなんか、世界中に分散して60台も保有している。筆者もその一人であり、小学生以来の熱狂的なポルシェファンである。

コンセプトが他社と違うユニークなものであるというだけではなく、同じコンセプトで50年以上作り続け、完成度はモデルチェンジのたびに高まる。新型車は必ず前のモデルより良くなる道理となり、一度911のファンになるとお金が許す限りずっと911を乗り続けることになるのだ。自動車の世界でもっとも熱狂的なロイヤリストの多いブランドではないかと思う。911は高価だが、ほとんど値引きすることなく買われ続けているのもうなずける。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★<『玉置宏の「昔の話で、ございます」㉔ 「黒い花びら」作詞秘話』> 歌謡曲の歴史の中で、今日まで大きな役割を果たしているのが、昭和34年(1959)から始まった『日本レコード大賞』だ。この賞は、歌謡界の前進と発展のため、その年に大きな功績を残したもの表彰しようと、日本作曲家協会が提唱し主体となって生まれたものだ。

初回の大賞は、23歳の水原弘が歌った『黒い花びら』。この曲は、作曲・中村八大(28)、作詞・永六輔(26)で、二人が初めてコンビを組んだ作品だった。きっかけは、東宝映画『青春を賭けろ』で、初の映画音楽を担当することになった八大さんに、制作担当者から、『とりあえず、明日の朝までに10曲ほど用意してくれませんか』という注文が発端。この映画は、当時大人気だったロカビリーをテーマに、ミッキー・カーチス、山下敬二郎、釜萢ひろしら人気ロカビリー歌手や新人の坂本九などが総出演するもので、昭和34年に東芝レコード入りを果たす水原弘も出演していた。

八大さんも心積もりはしていたので、曲の方はなんとかなりそうだったが、詞が出来ていない。どうしようかと東宝本社を出て有楽町を歩いていると、日劇前で顔見知りだった放送作家の永さんとばったり出くわした。

この時の会話は、永さんによると、
 八『君、作詞したことある?』
 永『いいえ、ありません』
 八『やってくれる?』
 永『できるかどうか?』
 八『できる、大丈夫!』
と、そのまま、八大さんの仕事場、東急アパートへ直行。朝までに、二人で10曲を見事書き上げたのだ。その中の一曲が『黒い花びら』だった。


映画『青春を賭けろ』の中では、水原寛の芸名で歌っているが、34年に東芝レコードから発売された途端、爆発的な大ヒットとなった。

水原弘はみんなからは『オミズ』の愛称で呼ばれていて、銀座のバーなどでもよく見かけたが、酒はブランデーのレミーマルタンしか飲まない。いつも4~5人の取り巻きがついていて、氷を入れた器にブランデーをドボドボ注いで、みんなで回し飲みする。そして酔ってくると、見知らぬ人でも挨拶されると一緒に連れて行ってしまう。最後には十数人の大所帯になっていたなんてこともざらで、一晩に300万円飲んだという豪快な噂も聞いた。

このあと、しばらくして人気に陰りが出て、その後昭和42年(1967)に『君こそわが命』で奇跡的な復活を遂げ、私も産経ホールの舞台で復活リサイタルの司会をしたが、その時は『これまでの苦労をバネに、一から出直します』と神妙に言っていた。

このオミズが大賞を受賞した時に、『夜霧に消えたチャコ』で歌唱賞を受賞したのがフランク永井。実はオミズとフランクさんのお二人は、素人の頃『素人のど自慢』番組に出まくって、次々に賞をかっさらっていた、名うての『のど自慢荒し』。同じ仲間同士だったというのも何やら妙な因縁だった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<ランドセルに新たな命を>『大切に使っていたので、これからも誰かの役に立てたらと思って』。広島市安佐南区の中学1年生、村田君(12)は4月下旬、母親と話し合い、途上国への寄付を決めた。ソフトバンクがネパールの子に向けた『愛のランドセル寄付プロジェクト』を始めたと聞いたからだ。

持ちこんだのは自宅近くの携帯ショップ。担当者に手渡すと、活動の報告が見られるQコードが印刷された証明書をもらった。『手放すのはちょっと寂しいけど、引き継いでくれた新しい持ち主が楽しく勉強出来たらうれしい。手元になくても、ずっと心に残ります』と満足そうだ。

ランドセルはNPO法人を通じて、山岳地帯が多い現地の公立学校196校に贈られる。丈夫で貴重な教科書を傷つけずに持ち運び出来るため喜ばれる。背負いやすく、山道を何時間もかけて通学する子の体にも優しい。家で勉強する時、ちょっとした机代わりにも出来て便利だと言う。

寄付出来るのは、破損や落書きがなく、経年劣化がしていない卒業後5年以内のもの。事前申し込みをし、名札などを外して持ちこむ。送料はソフトバンクが負担する。

アフガニスタンへ贈る団体もある。世界の女性を支援する公益財団法人『ジョイセフ』は2004年から、使わなくなったランドセルの寄付を呼びかけている。女性の就学率が低いアフガンで、学校へ行くきっかけにしてもらう。昨年までに20万個以上を贈った。『現地ではランドセルがとても目立っていて、教育を身近に感じられるようになっている。親達が自分の子供に背負わせたいと、子の就学を考えるようだ』と話す。確かな手応えを感じている様子だ。

いいねえ、使わなくなったランドセルの寄贈。最近のランドセルは高品質で、小学校6年間使った位でへたりはしないものねえ。いいことだ。


★★<京都死体遺棄 容疑の市職員、『前科あると聞き、逆らえず』>京都府向日(むこう)市のアパート駐車場で女性の遺体が見つかった事件で、死体遺棄容疑で逮捕された市職員の余根田渉容疑者(29)=京都市西京区=が、一緒に逮捕されたアパート住人の橋本貴彦容疑者(55)について、『傷害致死などの前科があると聞き、怖くて逆らえなかった。死体遺棄も指示されて手伝った』との趣旨の供述をしていることが、捜査関係者への取材で明らかになった。

捜査関係者によると、橋本容疑者は同居の女性に対する傷害致死などの罪で服役したことがある。市地域福祉課保護援助係主査の余根田容疑者は、ケースワーカーとして生活保護を受けている橋本容疑者を昨年1月から担当し、本人から過去の事件について聞かされていたという。

橋本容疑者は近隣の店で因縁をつけて騒ぐなど乱暴な言動で警察に通報されることもあり、恐怖心を抱いた余根田容疑者は日常的に自分の車を貸したり、買い物などの命令に従っていた。

遺体は橋本容疑者が交際する大阪市の40代女性とみられ、捜査関係者によると、橋本容疑者は『交際女性と口論になって殴ったら死んでしまった』という趣旨の供述をしているという。府警は、橋本容疑者が遺体の置き場所として余根田容疑者に同じアパートの階上の部屋と大型冷蔵庫を用意させ、異臭で発覚しそうになったため余根田容疑者の車で運び出すのを手伝わせたとみている。府警は両容疑者を送検した。

何だ、この市職員は。捕らえてみれば我が子かな、の典型だなあ。よくもこんな意志薄弱な職員を雇っていたもんだなあ、日向市は。情けない。


★★<石原信雄さん、東大合格の秘話>竹下首相時代、内閣副官房長官を務めた『石原信雄さん』。仙台の旧制二高から東大に進学したが、その秘訣は『フランス語』で受験したラッキーによると述懐する。

仙台の旧制第二高校は『勉強なんてくだらない』という雰囲気があった。私の入った明善寮は、文科も理科も一緒で夜な夜な哲学や文学を論じ、人生いかに生きるべきかを語り合った。

校長の野口明先生はフランス語教育で知られる暁星学園の出身で、私が入学した1946年(S21)にフランス語を第1外国語とする丙類を作った。希望はしていなかったが1期生となり、陸軍幼年学校で教えていた先生に基礎からみっちり教わった。フランス語は『明晰メイセキならざるものフランス語にあらず』と言われるように論理的な言語で、私の性分に合っていた。

戦後間もない当時、ルネ・クレール監督の『巴里祭』や、ダニエル・ダリューを国際的な女優にした『うたかたの恋』といったフランス映画が人気を博していた。内容を全て理解したわけではないが、フランス語を習っていない上級生に解説するのが私の役目になった。

二高に入れば東大に入れると聞いていたので、初めから東大に行くつもりでいた。ところが行ってみると二高からは半分位しか東大に受からない。学制が切り替わる時期で、旧制高校だけでなく、専門学校からも東大を受けられるようになり、そのしわ寄せが旧制高校に来ていた。

中学に一度落ちた私はもう失敗は出来ない。寮は勉強する雰囲気にないため、3年生になると寮を出た。下宿先は夫を亡くした奥さんが子供と暮らす屋敷で、離れに二高生を下宿させていた。配給の時代に奥さんは教え子の実家から食糧を取り寄せ、下宿代以上の食事を出してくれた。勉強に専念出来る恵まれた環境である。


東大は就職を考え法学部に決めていた。迷ったのが入試の語学だ。二高のフランス語を最初に習った学年だけに東大受験に通用するか、みな不安で法学部をフランス語で受けようという者はいなかった。先生は『私の教え方が十分でなかったのか』と悲しい顔をされた。私は義憤を覚え、思わず『フランス語で受ける』と宣言した。

すると、よくしたもので試験当日、フランス語の問題は存外にやさしかった。英語は難しく、英語で受けたフランス語クラスの級友は不合格。私も英語なら落ちただろう。義理で受けたフランス語だったが、先生に感謝した。

二高は東北出身者が半分、残りは北海道と関東が半分ずつで各地の話を聞くのは新鮮だった。関東生まれの私にとって憧れだったのが京都や奈良など関西の文化だ。寮で一緒の横田辰雄君からお兄さんが大阪にいると聞き、1カ月ほどお邪魔して2人で京都や奈良の神社仏閣巡りをした。

自社巡りは意外な御利益があった。東大入試で『奈良時代の仏教芸術について論じよ』と出題されたのである。仏像と暮らす日々をひと月も送れば、論文はお手の物。フランス語といい、寺社巡りといい、人生、何が幸いするか分からない。横田君も無事、東大への切符を手にした。(参考: 『私の履歴書』)


★★<西野朗氏、岡田武史氏、佐々木則夫氏の殿堂入り決定>日本サッカー協会は、都内で理事会を開き、西野朗さん(64)、岡田武史さん(62)の元日本代表監督2名と、元女子日本代表監督の佐々木則夫さん(61)の日本サッカー殿堂入りの特別選考による推薦を承認した。これで殿堂入りは80人と2チームとなった。令和初の掲額式典は9月10日に行われる。

西野さんは指導者として、96年アトランタ五輪では日本を率いてブラジルを破る『マイアミの奇跡』を起こした。G大阪などを率いJ1では監督として最多の通算270勝。18年W杯ロシア大会では直前に急きょ日本代表監督に就任し、ベスト16に導いた。

岡田さんは97年10月に日本代表コーチから監督に昇格し、悲願のW杯初出場(98年フランス大会)を成し遂げた。07年11月に病に倒れたオシム氏の後を受け日本代表監督に再登板し、10年W杯南アフリカ大会でベスト16。日本協会では副会長も務め、18年にシニアアドバイザーに就いた。

佐々木さんは、07年に日本女子代表なでしこジャパンの監督に就任。11年女子W杯ドイツ大会優勝、12年ロンドン五輪銀メダル、15年女子W杯カナダ大会準優勝と、女子サッカーの発展に貢献した。

いずれの方も、日本サッカー発展、躍進に寄与されたねえ。異論はないはずだ。嬉しいニュースだねえ。


★★<70万円でも大人気 ライカ・小型フルサイズの魅力>ライカのコンパクトデジタルカメラ『ライカQ2』が人気だ。価格は税込みで約70万円というカメラなのだが、今予約を入れても約3カ月は待つという。ライカというとレンズ交換式でレンジファインダータイプの『ライカM』シリーズを思い浮かべるが、この『ライカQ2』はレンズ一体型かつオートフォーカスで誰でも気軽にライカの味わいを楽しめる。それが大人気の理由のようだ。2015年6月に登場した前モデルの『ライカQ』から約4年を経てのモデルチェンジとなっている。

そのスタイリングは極めて上質である。カメラを知らない人が見ても『なんかスゴい』と思ってしまうほどスタイリッシュで美しいフォルムだ。一切のムダがなくソリッドなデザインは使い勝手の良さにも繋がっていて、手にするだけで『撮る気』が沸いてくるはずだ。なお『IP52』という防じん防滴仕様となっている。過酷な用途には向かないが、生活防水程度の防水や、有害な影響が発生するほどの粉じんが中に入らないレベルの防じんを備えている。

『ライカQ2』の存在感はなかなかのものだ。約718gと手に重量がズシリとくるが、コンパクトなボディーとはいえセンサーはフルサイズフォーマットなので当然だろう。画素数は4730万と、ハイエンドのフルサイズ一眼と同等レベルだ。レンズ焦点距離は開放F値1.7の28mmだが、35mm、50mm、75mmとクロップ撮影が可能となっていて、高画素をうまく切り取って使えるようになっている。その切り替えも右手親指がかかるサムレスト左にあるボタンを押すだけでクイックに切り替わるので、とっさのシャッターチャンスでも安心である。ちなみにクロップした画角がライブビューに表示されるのではなく、選んだ画角のブライトフレームが28mmのライブビュー像にオーバーレイされる

写りも素晴らしい。ライカらしい落ち着いた絵作りというよりは、やや鮮やかで色のりが濃い味付けである。『フィルムモード』機能を使って自分なりにパラメーターを調整すれば、風景からスナップショット、ポートレートまで好みの画質を得られるはずだ。

無料でダウンロードできる『Leica FOTOS』というアプリでスマートフォンとの親和性も高まった。Bluetooth LEで常時接続できるので、『ライカQ2』で撮影した写真をすぐスマホに転送し、SNSなどにアップできる点も人気のひとつだろう。ライカというとクラシックで難しいというイメージもあるが、この「ライカQ2」は新しいライカのイメージを作る一台になると感じている。

やっぱり『ライカ』はプレミアムブランドだねえ。フジがこの高級コンデジ路線を歩んでいるが、ライカには勝てないだろうなあ。ご立派、ライカだ。


★★<チケット不正転売禁止法14日施行>音楽のライブやスポーツイベントなどのチケットを高値で転売することを禁止する新法『入場券不正転売禁止法』が14日、施行される。人気チケットは転売目的での買い占めが横行しており、同法は有償譲渡の禁止を明記するといった要件を満たしたチケット『特定興行入場券』について、転売を厳しく規制。罰則も定められており、利益目的でのダフ屋行為の抑制が期待される。

《転売はやめましょうね》。4月、ロックミュージシャン、YOSHIKIさんのツイッターへの投稿が話題を呼んだ。添付されていたのは、8月からスタートする自身のディナーショーのチケットを高額転売しているサイトの画像。1枚18万円と倍以上の値を付けているものもあるなど、明らかな高額転売だった。

チケットの高額での不正転売は、音楽業界にとっての死活問題とされてきた。路上などでのダフ屋行為は各都道府県の条例で禁じられている一方、インターネット上での転売は規制の対象外。音楽業界では、コンピューターの自動プログラムで販売サイトへのアクセスを繰り返してチケットを買い占め、不当な高値で転売する『ネットダフ屋』が続出し、購入希望者が定価よりも高い金額を払わないとチケットを入手できないケースが相次いでいた。

こうした状況に、ライブに足を運ぶ機会が減少するなど、業界の衰退につながることを危惧したコンサートプロモーターズ協会(ACPC)など4団体は平成28年8月、転売反対を表明する共同声明を発表。ホームページを開設して転売禁止を訴える傍らで、法整備に向けた働きかけも行い、同法の成立にも大きな役割を果たした。同法成立後、不正転売の数は減っており、ACPCの担当者は『ようやく法整備が追いつき、抑止効果も出始めている』と期待感を示す。

ただ、法施行後も、転売は完全に根絶されるわけではない。同法で規制の対象とするのは、特定興業入場券を正規の販売価格より高い値段で『業として』転売する行為。個人がチケットの二次流通サイトやネットオークションで転売する行為は、法規制の対象にはならない。

こうした条項や、SNSが不正転売の抜け道になる可能性も指摘されており、音楽業界では独自の二次販売網の整備や啓発活動を続けていく考えだ。ただ、高額で転売されても購入する一部のファンがいることも事実だ。

YOSHIKIさんはツイッターで、こう続けていた。《システムの強化はもちろん大切ですが、今後もいたちごっこになるでしょう。結局はモラルの問題だと思います》


◇規制の対象は?
どんなチケットが入場券不正転売禁止法の規制の対象となるのか。同法で転売を規制するには、有償譲渡禁止を明記する▽入場資格者を指定している▽販売の際に購入者の氏名や連絡先などを確認する-の3要件を満たす必要がある。スマートフォンなどを使った電子チケットも対象となる。

同法での規制が難しいチケットもある。本人確認を行わずに窓口などで購入可能なプロ野球やJリーグといったスポーツのチケットで、多くの人が当日券を求めるという特性上、この要件を満たすのは難しい。一方で、人気球団の試合では高額転売が常態化している現状もあり、対策が急務となっている。

転売については、所用や体調不良でイベントに参加できない場合など、一定のニーズがあり、同法は興行主側に「正規の再販システムを構築すること」を努力義務として課している。音楽業界ではすでに公式再販サイトが運用オープン。2020年の東京五輪・パラリンピックでも再販売サイトを運用する方針だ。

確か、カープの入場券もこの転売業者の標的となっており、その防止対策として球団は複数枚買う顧客に対しては個人名の確認を実施している。転売されたチケットでの入場を防ぐ措置だ。これはこれなりに防止効果がありそうだねえ。

『プレミアブランド小話㉕ ポルシェ、さらなる高収益の秘密』

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今日の画像は、年俸2億4千万円、5年契約12億円超の大型契約でレアル・マドリードに移籍を決めたFC東京の『久保建英(18)』と、東武東上線の川越駅で電車通学をしている地元の山村学園高校の女子生徒ら約90人が、ティッシュなどを通勤通学客に配って訴えた『痴漢防止街宣活動』。そして、夕日に映える『赤いチューリップ』です。広島市内明治橋東詰めの花でした。

本当、女子高校生が恥ずかしさも殴り捨て、駅頭でキャンペーンを張るとは、本当に『痴漢行為はイカン行為』だぞ、世の男性諸君。


★★★ポルシェのように、強い顧客との関係が築かれ、ロイヤリストが増えると、価格競争がなくなって大きな収益も期待出来るようになる。しかし、現在のポルシェの利益率の高さは、単にオーナー達のロイヤリティだけが理由ではない。

ポルシェには911の他に『ボクスター』というモデルがある。ボクスターは911がまだ空冷エンジンを搭載していた1996年にデビューを果たした。ポルシェ伝統の水平対向6気筒エンジンを水冷化した全く新しいエンジンを搭載し、リアエンジンの911とは異なり、多くのスポーツカーやレーシングカーが採用するミッドシップだ。エンジン排気量は当時の911の3,600ccに対し2,500ccと小さく、価格は595万円で、約1,000万円の911と比べると半値に近く、そのため当然のことながら911とは全く異なるポルシェ入門モデルとして受け取られた。しかし実はこのボクスター、その1年後に登場する水冷エンジン搭載の新型911と並行して開発された車だったのだ。

ポルシェはまず生産コストを下げるため、元トヨタの生産技術担当者を何人も雇った。トヨタ流の生産方式を導入することで、大幅なコストの削減に成功したのである。設計も効率化し、例えばボクスターの水冷エンジンでは、シリンダーヘッドは左右で共通のものを使えるような設計となっている。さらに、両モデルは共通の部品を多く使用することでもコストダウンを実現した。エンジンも共通の設計で、排気量は異なるが分解図を見てもほとんど違いがない。

はっきり異なるのは、フロントシートより後ろの部分だ。エンジン搭載位置に加えて、技術的な最大の相違点はリアサスペンションにある。ボクスターが前輪と同じストラット方式なのに対し、911はマルチリンクになっている。しかしこれも工夫がこらしてあり、それほど大きなコスト差にはならない。ボクスターとの違いはもう一つあって、911の標準型が普通のクーペなのに対して、ボクスターは電動開閉式のコンバーチブルトップが標準装備なのである。まあ、性能に合わせてブレーキやホイール、タイヤなど相違があるが、それほどのコスト差にはならないだろう。


これらの要素を総合的に判断すると、ボクスターと911の生産コストはほとんど変わらないか、あったとしてもごくわずかでしかないと推察出来る。

この推察が正しいとするならば、1998年に発売された新型911は、ボクスターと同じ値段、即ち600万円程度で売っても十分採算が取れるはずだ。それを前モデルと同じ1,000万円で売れば、収益が上がるのは当然である。空冷時代の911は、構造が複雑で生産に手間が掛かり、1,000万円で売ってもそれほど儲かる車ではなかった。が、ポルシェ社の収益は、このボクスター/新型911発売以降、劇的に改善されたのだった。

その後2回のモデルチェンジがあったが、3世代にわたって車作りの基本的な考えは変わっていない。この高収益が見込めるコスト構造を、2016年まで20年間変えることなく続けたのである。現在、911の年間生産台数は3万2千台。ボクスター/ケイマンの年間生産台数は2万4千台である。スポーツカーで世界で最も販売台数が多い『マツダMX-5 ロードスター』の生産台数は年間3万7千台なので、911とボクスター/ケイマンを基本的に同じ車種とすれば、ポルシェのスポーツカー生産台数ははるかに安価なマツダMX-5を大きく上回る。規模の経済に考えても、1台当たりのコストはかなり下げられるだろう。

このように説明すると、911は不当に高く、買う人が少なくなってしまうと思われるかも知れない。しかし、である。多くのポルシェファンは、『911こそ真のポルシェである』と固く信じている。

911は現在、最低1,244万円もするが、オーナーはその価格を納得して購入し、655万円からのボクスター/ケイマンとは明らかに異なるステータス感と乗り味を味わいながら乗っている。中古車の値落ちが少ないのも911の特徴で、どんなに古くても買い支える人がいるため、一定以下の金額からは下がらない。

カイエンやマカンも、車台はVWやアウディと共通ながらもポルシェらしいスタイリングを持ち、よりスポーティな乗り味を提供している。材料は共通でも、味付けはきちんといポルシェを感じるようになっている。だからこそ客は、生産コストとは関係なくより多くの金を払い、『ポルシェを買ったという満足感』を味わうことが出来るのである。ポルシェの顧客は高い価格にも拘わらず、非常に満足している人が多く、ポルシェは比類なき高収益を得られる。完璧なウィン・ウィンの関係が出来上がっているのだ。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★<『玉置宏の「昔の話で、ございます」㉕ 銀座では鶴田浩二より、強面作曲家がモテた』>昭和35年(1960)、橋幸夫君が初の新人賞を受賞した、第2回の『日本レコード大賞』に選ばれたのが『誰よりも君を愛す』だ。松尾和子さんと、和田弘とマヒナスターズが歌って、ビクターから発売された。

私が歌謡曲の仕事に入って、美空ひばりさんを別格として、強烈な印象を受けた初めての女性歌手が『松尾和子さん』だった。この松尾さんの歌謡界へのデビューのきっかけを作ったのが、作曲家の大御大・吉田正先生だ。

吉田さんは、招集されて満州にいた頃から作曲を始めており、昭和18年(1943)、野戦病院で闘病中に作った曲が、歌詞をアレンジされて日本に持ち帰られ、『異国の丘』というタイトルで大ヒットした。そして昭和24年(1949)からは、ビクター専属の作曲家として活動を始めたのだった。

街には『トリスバー』の看板が目立つようになり、銀座、赤坂、青山辺りの高級ナイトクラブは、銀座が退けて朝方まで、女性を伴ったプレイボーイで賑わっていた。飲み物は、ハイボール、流れる音楽はジャズばかり、だった。

そんな雰囲気の中でも違和感のない歌謡曲、いわゆる『ムード歌謡』という新路線の確立を目指した。ここで運命的な出会いをするのが、ポリドールの閉鎖で、当時ビクターへ移籍していた、売り出し中の二枚目映画スター『鶴田浩二さん』。

鶴田さんは酒が好きではなかった吉田さんに『ヨッさん、机に向かって書いた歌では大衆の心を掴むことは出来ないと思うよ。街中へ出て肌で感じたままを五線譜にぶつけなくちゃ』と、外へ出ることを勧め、連れだって、バーやクラブをハシゴして回ったのだ。


吉田さんは後に私に、『鶴田さんのお陰で、酒のうまさと楽しさを知ることが出来た。数年後には鶴田さんよりも強くなっちまってねえ。銀座の女性とずいぶんいい思いをしたもんさ。鶴さんよりもモテたことがあるんだから・・・』と、懐かしそうに話してくれたことがあった。

生前、『好きだった』など吉田メロディーでヒットを飛ばした鶴田さんに聞いた話では、吉田さんはいい子が出来ると、その子の名前を入れて歌を作ってあげたそうだ。『江梨子』『霧子のタンゴ』『夕子の涙』・・・なんて、確かにどれも銀座にいそうな女の子の名前ばかりだ。

後、当時の吉田学校を言われる、ムード歌謡の歌い手には、最初に『落ち葉しぐれ』の三浦洸一、次がフランク永井、マヒナスターズと続くが、昭和32年(1957)のフランク永井の『有楽町で逢いましょう』で、吉田さんのムード歌謡の存在は揺るぎないものになった。
  むせび泣く 夜の底から
  男を思う女の心の叫びが聞こえてくるような吉田メロディー
  淋しげな男の 女に寄せる想いも  胸に忍んでくる吉田メロディー
  瞳を閉じれば そこは夜  瞼のうらを染めるのは 夜の街角
  重ねるグラスに ふともれる  やるせない 吐息

このフレーズ、私が永年好んで使ってきた、吉田メロディーのナレーションだ。


★★<偽造はがき、大阪や兵庫で大量流通>兵庫県や大阪府の金券ショップなどに、日本郵便が郵便法に基づいて発行するはがきの偽造品が多数持ち込まれ、換金されていたことが分かった。はがきを押収した兵庫県警と大阪府警は、両府県を中心に多数の偽造はがきが出回っているとみて、郵便法違反や詐欺の疑いがあるとみて捜査している。

捜査関係者によると、偽造はがきは、日本郵便が発行するはがきとよく似た紙質で、一見してすぐには本物と区別がつかない品質だった。兵庫県内では、阪神間を中心に少なくとも数百枚の偽造品が確認されているという。

今年に入り、高齢女性が阪神間のリサイクルショップで購入したはがきが郵便局に持ち込まれ、偽造品であることが判明するケースなどがあり、多数の流通が発覚。両府県警は、何者かが、コピー機で偽造したはがきを金券ショップなどで売り、利益を得ていたとみて調べている。

切手が必要のないはがきは、日本郵便が規格を定め、郵便料金を表す図柄を印刷して発行している。

次々に現れる、新手の犯罪だねえ。オレオレ詐欺防止で犯罪が難しくなった輩が新開発した犯罪行為だろうなあ。そのパワーを正業に使えば、もっと効果があるだろうになあ。外した道はもう元へは戻らないのかなあ。可哀想だ。


★★<キリンHD府中町出身 坪井純子常務(56)>マーケティグ担当役員をしている。『一番搾り』は多くの人に好まれる自慢のブランドだ。一方で、色々なクラフトビールを楽しみたい人もいる。消費が二極化している。若い人の消費が体験型に向い『お酒は楽しい』と思ってもらうことがより必要になった。お客様の生活が変わる中、マーケティングも変わって行かないといけない。考える力がある人を育てていくのも私の仕事だ。

グループ会社だった商業・文化施設の横浜赤レンガで初めて社長を経験した。東日本大震災の時思ったのは、私達の事業そのものが世の中の役に立たなくてはならないということだった。

キリングループは今、それを『共有価値の創造CSV』と言っている。経営を続けていくために地域を活性化する。2月策定の新スローガン『よろこびがつなぐ世界へ』には、私達の商品が喜びになって人と人がつながるという意味を込めた。この大切さを学んだのが横浜赤レンガだった。

広島県府中町にはかつて広島工場があり、キリンビールと身近に育った。私はノートルダム清心女子中、広島大付属高で学び、宇宙飛行士になりたくて東京大へ進んだ。でも数学が難しくて諦め、生物化学を学んでキリンビールに入った。

キリングループには、広島県出身者や旧広島工場の勤務者達で広島東洋カープを応援する会がある。球場に行ったり、飲み会をしたりする。広島を出てからの方が『広島ラブ』になる人は多い。広島出身の人は一体感があるとよく言われる。

理系の頭で物事を考えることが多いので、休日には柔らかい頭にしたくて美術館によく行く。それと、就眠は何と言っても食べて、飲んで楽しむこと。

理学部卒がマーケティング担当とは、と思った。キリンって、柔らかい組織なんだねえ。お見事。だが、サントリーとの統合合併が成功しなかったのは、まさに世界制覇への千載一遇のチャンスを逃したと見るが、どうだろうかなあ。


★★<新疆・ウルムチ暴動から10年。続く>中国新疆・ウイグル自治区で漢族とイスラム教徒のウイグル族が衝突して197人(当局発表)が死亡した『ウルムチ暴動』から7月5日で10年を迎える。節目を前に、米国などから中国政府の民族・宗教政策への批判が高まっており、中国当局が反論に追われている。

『我々の理解ではウイグル族人口1,000万人のうち300万人近くが施設に拘束されているらしい』。シュライバー米国防次官補は会見でこう発言した。国連の人権高等弁務官などが指摘していた『100万人以上』という数字を3倍近くに増やした。これに中国側が強く反発した。『米国は偏見を捨て去り、新疆の問題を利用して中国の内政に干渉することをやめるよう促す』と。

米中貿易戦争が本格化した昨夏以降、米国は台湾や南シナ海などと同様に新疆ウイグル自治区の収容施設などへの批判を強めてきた。米メディアによると、『ファーウェイ』に続き、ウイグル族の監視に使われているとして中国監視カメラ大手の『ハイクビジョン』に対しても禁輸措置を検討中だ。

一方、中国側は『米国は政治目的で、中国のハイテク企業にいわれのない圧力をかけている』と反発。収容施設との批判については今年3月の白書で『職業技能教育訓練センター』であり、テロや過激主義に勧誘された人達を入所させていると説明する。

しかし、5月になって英国紙ガーディアンは、新疆ウイグル自治区の衛星写真などを分析した結果、ここ数年で20カ所余りのイスラム教の礼拝所モスクが取り壊されたと報じた。これに対しても『うわさ話を宣伝することに没頭しないように』と批判。中国が一部メディア、外交官にしか現地視察を認めていないとの批判には、『中国の法律を守り、相応の手続きを経れば、新疆へ行くことが出来る』と反論した。

中国では今年、ウルムチ暴動10年だけでなく、天安門事件30年、軍事パレードが予想される10月1日の建国70年などの節目を迎える。米国側も『来年の大統領選を前に対中国政策が強硬になる時期』に重なり、中国側は当分、守勢に回ることになりそうだ。

中国は、ウイグル族問題に限らず、チベット問題など少数民族問題を抱えている。南シナ海の占有など、まるでゴジラが地球を飲み込もうとする図にも見える。巨大化、肥大化した中国の明日はどんな姿に変貌するのだろうか、心配だ。


★★<瀬戸内移住(上) 起業の起点へ、大三島>広島県尾道市と愛媛県今治市を結び、開通20年を迎えた『瀬戸内しまなみ海道』。その中央に位置する人口6,000人の大三島(今治市)で『会社勤め』を続けながら移住と起業を実現した夫婦がいる。増田茂樹さん(35)、理絵さん(40)はそれぞれ東京や大阪に本社を置くIT企業の社員だ。理想の働き方と暮らしを求めて2016年春に移り住んだ。

午前6時に起きて浜辺を散歩し、自宅に戻り朝食を取る。ネット会計ソフトの『freee』(東京)社員の茂樹さんは、リモートワークでプログラミング業務を始める。大阪にある支社に出勤するのは2週間に1度。茂樹さんは『家族と過ごす時間が取れて充実している』と笑う。理絵さんは顧客管理システム開発『シナジーマーケティング』(大阪市)社員だが現在は育休中だ。

そんな島ライフを満喫する2人は17年12月、自宅近くの古民家を改装して一棟貸しの宿泊施設『オオミシマスペース』を開業。施設にはWi-Fi環境や4Kモニターを備えた作業場もある。『地域の未来のために若者が移住出来る環境を作りたい』(理絵さん)。

これまでに500人が宿泊した。企業の研修合宿やソフトウエア開発者らが新サービスなどのアイディアを短期間で競うイベント『ハッカソン』の利用もあった。コワーキングスペースやシェアオフィスの開設も3年以内をメドに検討。将来はプログラマーらが集う『IT村になれば』と言う。

しまなみ沿線は近年、移住や起業が相次ぐ。愛媛県によると、17年度の県外から今治市への移住者は346人で、県内最多だった。今治市は転出者が転入者を上回る社会減の状態が続いているが、移住者が増えたことで、ここ数年は社会減のスピードに歯止めがかかりつつある。


いよぎん研究センターでは『リタイア後、第二の人生を』という移住から、働き盛りの移住にシフトしている、と分析する。『サイクリングの聖地』としての知名度の高まりから、観光客を見込んだ飲食・宿泊業などの起業家の移住に繋がっている。移住者をよそ者扱いしない地域性や、移住者同士の横のつながりが強いことも起業家達をひきつける理由だ。

行政の移住促進策も後押しする。地方への移住に当たっては働く場所の不安が付きまとうが、愛媛県は17年に移住と求人に関する情報を一元的に発信するサイト『あのこの愛媛』を開設。島暮らしを1週間程度かけて体験する滞在ツアーも開催するなど、働く世代の移住促進に力を入れる。

理絵さんは『しまなみの島々は自然豊な割に人口もそこそこいる。大病院は橋で行けるし、通販も翌日に届く安心感がある。観光客が増えたが飲食店などはまだ少なく商機が広がる』と話す。移住者らのビジネスは、地域に変化の『種』もまく。建築家の伊東豊雄さんが代表を務める『大三島みんなのワイナリー』は、高齢化で増える大三島のミカンの耕作放棄地を活用し、ブドウ栽培に取り組んでいる。収穫したブドウはワインへと委託醸造しており、島の新たな特産品に育てる構想だ。

20年には島内に醸造所を開業する予定。島外の人が訪れて食事と一緒にワインを楽しみ、宿泊が出来るオーベルジュの建設も計画する。

いいですねえ、大三島。大三島の神社は由緒ある古い神社で、明治天皇も訪問されるとか聞いたけど、すごこことではあるな。


★★<久保建英、レアル・マドリード移籍 バルサのライバルに年俸2億4000万円>FC東京の日本代表MF久保建英(18)が、スペインの名門レアル・マドリードに完全移籍することが決定的となった。4日に18歳となり海外移籍が解禁。当初は古巣・バルセロナ復帰で基本合意していたが、条件面で歩み寄れず、好条件のライバルクラブ加入に気持ちが傾いたもよう。交渉は最終段階に入っており、既にメディカルチェックも済ませ、契約書にサインするのみ。

◇1年間はBチームで修行
スペインの名門2クラブによる“クラシコ”にまで発展した久保建争奪戦は『白い巨人』と呼ばれるレアルに軍配が上がった。久保建英は10歳で、バルサの下部組織に加入。世界中から集まったタレントの中でも輝きを放ち、現地でも高い評価を集めた。だが、国際サッカー連盟(FIFA)が定める18歳未満の外国籍選手獲得、登録違反のあおりを受け、2015年3月に帰国。FC東京の下部組織『U-15むさし』に加入後も順調にステップアップし17年には異例の16歳でトップ昇格を果たした。

当初は海外移籍が可能となる18歳になる今夏のバルサ復帰で基本合意していた。バルサ側は久保建英に年俸25万ユーロ(約3000万円)を提示し、下部組織出身選手の慣例となっている3部リーグ相当のバルサBでの2年間のプレーを求めていた。しかし、久保建英側は認めず、交渉は暗礁に乗り上げていた。

FC東京との契約は6月1日で満了。違約金なしで動ける身となった久保建英には、バルサ以外にも、レアルやパリ・サンジェルマン(フランス)、バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)といった欧州のビッグクラブから大型オファーが届いていた。一方、東京からの契約延長オファーも検討していたが、既に習得しているスペイン語圏のクラブであり、バルサのライバルへの加入を決断したとみられる。


レアルは条件面でバルサをはるかに上回る年俸200万ユーロ(約2億4000万円)、5年契約総額12億円超を提示。レアルも3部リーグ相当のセカンドチーム(RマドリードB)を保有しており、1年間はそこが主戦場となるが、トップチームが出場する今夏の全米ツアーには同行する予定だという。レアルの下部組織には15歳の中井卓大も所属しており、将来的には夢の日本人コンビ結成も実現するかもしれない。

日本国内では、プロ野球に一歩讓るJリーグ。しかし世界を舞台にすると、やっぱりサッカー、を証明し、若者の夢を膨らませた久保建英、お見事です。

いやー、ロナウド在りし日のレアルのファンだった拙者にしてみれば、嬉しい便りだ。6年前のマドリード訪問の際には、ホームスタジアム『エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ』へ地下鉄で行き、スタジアムツアーに参加した。確か料金は高く、22ユーロだったが、次々にファンが来場し、その人気の高さをうかがわせた。見事なピッチではあったなあ。なぜ、日本の名門サンフレッチェ広島には専用のスタジアム計画が何故12年もかかるんだろかなあ、広島市長の松井一実君。
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