今日の画像は、令和元年の初日、午前10時の開店と同時にトランペット演奏隊のファンファーレが鳴り響き、祝い酒が振る舞われた『松屋銀座』と、心を躍らせる『ヒヤシンス』です。令和を祝う催しものが全国あちこちで行われました。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
■■中学、高校、大学で、勉学の結果が思わしくなくいわゆる『劣等生意識』を持っているキミ、心配するな、あなた以上の劣等生が世の中に出れば大成功した例もあるのだ。その筆頭に『ニトリの創業者似鳥昭雄さん(76)』がいるのだ。本当、似鳥さんは劣等生で高校大学と卒業さえ危ぶまれた人物。が、今や年間1兆円の売上を目指す大家具チェーンの親分になっている。そのニトリをここまで成長させた『破天荒な似鳥昭雄』の実像を追う。
★★★2号店の経営が思わしくなく、わらにもすがるような気持で参加した米国視察ツアーで、間違いなく覚醒した。米国のようjな豊かな生活を日本で実現したい。そのための企業に育てようという明確なビジョンが芽生えたのだ。
ライバル店の出店で苦しんだが、やられたらやり返す。札幌の当座南北に的を囲むように店舗網を作ろう。豊かな生活実現の前に相手を潰してやる。まずは10店だ。早速3号店を作ろうと札幌市麻生に好物件を見つけた。
その土地は好立地で、流通企業などにとっては垂ぜんの的。ただ、『難攻不落』の土地としても有名だった。地主の4人兄弟が所有しており、売却話になかなか首をふらない。お願いに行くと、地主の長男が段ボール箱に山のように入った名刺を見せる。そこで『私は米国のような豊な暮らし作りをお手伝いしたい。この土地はその拠点にしたいんだ』と熱弁を振るった。視察ツアーでの話をして、写真など見せ、『言い値で買います』と伝えた。
すると地主が納得して、兄弟を説得してくれた。もっとも坪35万円だった。相場より15万円ぐらい高い。土地代は当時の似鳥家具の年間売上高の半分近くに達するが、採算のことも考えず、購入を決めた。お陰で周辺の不動産会社から『相場を壊す』と文句も言われた。
資金はなかった。それどころか仕入れ代金の支払いを繰り延べしてもらうような状態で、倒産の噂も立った。北洋相互技巧へ出向き、融資をお願いした。初めは断られたが、『いい場所だから』とすがり、地主相手と同じように米国の話をしながら、説得に説得を重ねた。
交渉事は断られてからスタートだと考えている。大半は3回断られたら、やめてしまう。私は4回目からが本番だと考えるようにしている。そのためには、愛嬌と執念が大事。これはヤミ米販売時代の母の指導のお陰だ。融資は認められ、1973年、10台分の駐車場を備えた安売りイメージを出すためだけに『卸センター』を掲げてきたが、まっとうな商売にしようと思い、その看板を下ろした。
オープン時に隣の敷地を借りてチャリティーオークションをした。北海道で人気の漫才師を司会者に起用したら、初日は大混雑。やはり最高の場所だった。融資してくれた銀行の支店長が『これで助かった』と胸をなで下ろしていた。1年目は初期投資でさすがに赤字だったが、2年目には黒字化に成功した。
日本を豊にするための事業の拡大。そのためには30歳からは厳しい時代を迎えるだろう。そこで荒行に耐えられるように断食道場に入った。水だけの生活をしていると、最初3日間は苦しいだけ。ところが4日目に入ると、色々な事が頭を駆け巡るようになる。厳しかった両親や兄弟、社員のお陰で生かされているんだと。涙が止めどもなく流れ、その思いをメモに残した。
仕事というものは、エゴやプライドによって相手の立場を忘れてしまうと失敗する。45歳まで断食を続けているうちにそんな境地に達し、顧客のために自分をゼロにする心づもりが芽生えた。
(参考:似鳥昭雄筆『私の履歴書』)
■■日本代表監督『森保一』、U-17日本代表監督『森山佳郎』、J1名古屋監督『風間八宏』、J1大分監督『片野坂知宏』、J2大宮監督『高木琢』、昇格請負人J3北九州監督『小林伸二』、FC今治監督『小野剛』、福岡などの監督をした『松田浩』・・・・・。この人達は全員サンフレッチェの出身である。前身のマツダサッカークラブの時代からの人達もいる。この人材を見出した人こそマツダサッカークラブ総監督、サンフレチェGMを務めた『今西和男さん(77)』。
集英社が、今西さんの足跡、育成した人材を追った『育将』を2016年に発刊している。ただ、今西さんは最後の時期に『FC岐阜』の社長に就任された。まさに泥にまみれた時代だった。なぜこんなクラブを引き受けたのか、詳細はつまびらかになっていない。心配は過去からの累損を個人で引き受けた総額3億円の負債。この処理がどうなったか、不明である。その『育将』の実像の証言を綴る。いずれも肩書は2016年の『育将』発刊当時のもの。
★★★『育将・今西和男 ハンス・オフトを招聘した男』
のちの日本代表監督ハンス・オフトを招聘した男
組織を育む(2)
今西は現役を引退した後、サッカーから離れてマツダでの社業に専念していた。約7000人の若い社員が暮らすマンモス独身寮の管理運営の仕事を完遂した後は、車の販売に回り、ここでもトップセールスを記録して社内的な評価も高まり、厚生課長になった。そんな今西に、再びサッカー部に戻って来いという声がかかったのは、1982年のことであった。かつて日本リーグ不滅の4連覇を誇った名門は、この時期、三菱、日立、古河の丸の内御三家に加え、台頭著しい日産、読売クラブの新興チームにも押されて低迷していた。『この苦境の立て直しを託せるのは、今西しかいない』と推したのは本社取締役総務部長の小澤通宏であった。東京教育大の先輩であり、メルボルン五輪の日本代表選手であった小澤も、また会社からサッカー部再建のために部長を要請されていたのである。小澤は社員の自治を尊重するような形で7000人もの寮生を統率した今西の手腕を買っており、片腕として欲した。
『当時の東洋工業が膨張していく過程で、中国6県ないしは九州から労働力として若い人を集めました。他の会社では寮の中でバクチをしたり、未成年が飲酒をしていたと聞いていましたが、そういうことを許してはいけない。この若い人たちの人間教育が重要で、とにかくしっかりと寮で育てようというのが社是としてありました。社長の松田恒次さん、耕平さんは、ふるいにかけて優れた人だけを伸ばすというのではなく、全員をしっかり伸ばすんだということを言っていましたからね。
そういう場所に、今西が柱として会社から据えられたわけです。お前が考えてまとめろと。これはものすごく大変な仕事だったわけです。東洋工業は技能養成校という学校を抱えていて、ここは工業高校のように文部省(当時)管轄ではなく、労働省(当時)管轄なんですね。他校との交流や校内の文化祭とかがなくて、社会への窓が開かれていない。だから情操教育として、寮でサッカーをしたり、音楽を聞かせたり、英会話を学ばせたりして、いろいろな経験を積ませました。難しい10代の若者ですよ。それらも含めて見事にやった。私は元々、今西のリーダーシップ、指導力に目をつけていましたから、それでサッカー部に再び引っ張り込んだわけです』。2014年にサッカー殿堂入りした小澤はそう振り返った。
今西は副部長という肩書で13年ぶりにサッカー部に戻って来た。しかし、1983年、マツダはついに日本リーグの2部に降格してしまう。『新日鉄も2部に落ちて、勢力図が変わってきたんですね。ホンダが宮本征勝さんを監督にして、ちょうど強くなってきた頃です。ブラジル人選手を何人か入れてね。選手のレベルを比較して、これはヤバイと思い、最初は他のチームの分析をやったわけです。どうして日産が強くなったのか。これからは、もう会社もサッカーを中心に仕事をする選手を認めてもいいんじゃないかと思って進言したんですが、最初は「マツダは文武両道で行くんだ」と聞き入れてもらえなかったですね』(今西)。
こうなったら、今西、お前が監督をやれ、43歳でいきなり監督をやれと言われて戸惑った。それでも自分がサッカーで、この会社に入れてもらったことを考えると、言下に断るわけにはいかない。恩返しのつもりで奉職しようと腹を括った。『分かりました。しかし、自分が今から現場を指導するのは無理です。このチームを救えるのは、外国人指導者ですよ。それも選手の技術の高い南米型ではなくて、ヨーロッパの人材です』。今西は総監督の立場を取りながら、実質的な指揮官はコーチに据える外国人指導者に任せようと考えていた。『その人材はいるのか?』。プロ化する前の日本リーグのチームでしかも2部リーグに降格したばかりである。当然ながら予算はない。今西にはひとつ腹案があった。
ヤマハ発動機でコーチをしていたあのオランダ人なら、可能性があるのではないか。1982年に2か月だけ、2部のヤマハを指導したあの男はその短期間で劇的にチームを変えていた。1部に昇格させたうえ、天皇杯で優勝させたのである。13年間、現場から離れていたとは言え、日本サッカーそのものはウオッチし続けていた。そんな今西が初めて見るモダンなスタイルをヤマハは構築していた。『ハンス・オフト』という名前を会社に出した。元々、今西はオフトの存在を早い段階から掴んでいた。教育大の1年先輩で清水東の監督をしていた勝沢要から、高校選抜を率いてヨーロッパ遠征をした際にオランダ・ユースの優秀な指導者に世話になったという話を聞いていた。それがオフトであった。北米マツダの副社長を務めて海外経験の豊富な小澤も、すぐに賛成してくれた。
『これからいい選手をたくさん取ることはできない。それなら監督に賭けて、組織で勝っていこう』。今西は1984年の1月にベルギーに飛び、マツダのブリュッセル支社でオフトと向き合った。オフトが暮らすオランダのザイストからは、車で1時間半の距離であった。4月の開幕に間に合わせるためには、もう決めてしまわなくてはならない。条件も預かってきた。オフトとは虚心坦懐に話し合った。
――私はこれまで選手、指導者としては大きな仕事をして来られなかった、だから、あなたの力が必要と考えてやって来た。ヤマハでいくらもらっていたのか、今それに対して、マツダが出せるのはこれがマックスである。実質的に、あなたにはプロの監督として現場を任せるが、チームのグランドデザインは、私の担当なので、選手採用については私も権限がある……。
オフトもまたギラギラした目で、自らの出自から情熱的に語った。
――自分の父親はアフリカ系の黒人で移民としてオランダに来た、なぜならば、オランダがヨーロッパでは比較的差別が少ないからだ、自分はいろいろなものと闘いながら生きてきた。日本のサッカーにはディシプリン(規律)が、まだ足らないと思う。
腹を割った話し合いは実を結び、のちに日本代表監督に就任するオフトは、推定約1000万円の年俸でマツダの指揮官として来日することが決まった。(参考: 集英社刊『育将』)
(ハンス・オフト)
1947年6月27日、オランダ生まれ。本名はマリウス・ヨハン・オフト。現役時はフォワードで、オランダ1部フェイエノールトに所属。28歳で現役を引退し、指導者の道を歩み始める。1982年、JSL2部ヤマハ発動機に2か月の短期間コーチとして来日。1984年、今西に請われて、JSL2部マツダSCの監督に就任。翌年に1部昇格を果たし、天皇杯も制した。1992年、外国人として初の日本代表監督に。国際大会で好結果を出し、1993年ワールドカップアメリカ大会アジア最終予選に臨むが、最終戦でイラクと引き分け、本戦出場はならなかった。その後はジュビロ磐田、京都パープルサンガ、浦和レッズなど、Jリーグの監督を歴任した
★★<インドネシア、首都移転 閣議決定>インドネシアのジョコ大統領は、同国の首都を、ジャワ島にある現在のジャカルタから島外に移す方針を閣議で決めた。政治と経済、人口の一極集中で、将来の国の発展が妨げられることを理由に挙げている。ただ、移転にかかる費用をどう捻出するかなど課題は多く、実現できるかは見通せない。
ジョコ氏は閣議で『ジャワ島の交通渋滞や環境汚染も深刻だ』などと移転の必要性を訴えた。閣議の後、国家開発企画庁の長官は、移転には最大466兆ルピア(約3.6兆円)の費用が必要とし、『大事業で実現には5~10年はかかる』と説明。民間資金も活用する資金計画を作るよう指示を受けたとした。
同長官によると、ジャカルタの渋滞で年に100兆ルピア(約7870億円)の経済損失があるといい、移転には移転計画を練る新たな担当省庁が作られるという。
日本もかつて東京への一極集中を排除するため『遷都』を検討し、候補地を3地区に絞った経緯がある。利害得失の関係者、特に政治屋から大反対のコールが大きくなり、断念した。が、途上国は日本の失敗を見ており、自分達は日本の失敗に付き合ってはおられないと、舵を切ったねえ。このようなことが続き、途上国が先進国を追い抜くんだねえ。見事なり、インドネシアだ。
★★<年金はどんどん減らされる! 老後破産しないために『死ぬまで働く』>少子高齢化は日本経済を衰退させるだけではない。年金財政も悪化させる。現役世代が支払う保険料で今のシニア世代を支えるという仕組みのため、少子化が進めば進むほど、年金制度の維持が難しくなるからだ。
◇年金が満額もらえなくなる可能性も
『現在、国民年金の場合は、満額でも6万4941円。平均では5万5000円ぐらいです。サラリーマンや公務員は、これに厚生年金がプラスされます。受給額は給与の額と加入期間によって変わりますが、総務省の調査では、夫婦2人で平均22万円といわれています。ところが25年後には、受給額が今より2割減になる、という試算が厚生労働省から出ています。いまの40代以下の人たちが年金をもらうころが心配です』。
こう教えてくれたのは、経済ジャーナリストの荻原博子さんだ。『さらに、年金の支給開始年齢を68歳に引き上げるおそれがあるうえ、満額もらえなくなる可能性もあります。「マクロ経済スライド」と、2016年に成立した“年金カット法案”(年金制度改革関連法案)の影響です』。
年金の支給額を抑制するマクロ経済スライドは“(年金は)100年安心”の美名のもと、2004年に決定したもの。加えて、この仕組みを強化するため、2021年に施行される年金カット法案では、年金の支給額を賃金変動と物価変動の低いほうに合わせるように変えられる。年金の自動カット装置が仕掛けられたのだ。
『これらによって今後、国民年金なら年およそ4万円、厚生年金ならば14万2000円も減らされる可能性があるといわれています』。それでも今、年金を受給している人ならば、それほど心配する必要はない。『生活費を22万円必要としていた人も、年をとればとるほど食費などの負担は少なくなります。介護の不安も、寝たきりで「要介護5」になったとしても介護保険制度がありますから、月3万6000円の負担でOK。65歳以上の住民税非課税世帯ならば、支払い上限はさらに下がって2万4600円です』。
◇老後も働くことがオススメ
年金が目減りしていく将来に、われわれはどう備えればいいのだろうか?『いちばん大切なのは借金をなくすこと。そしてしっかりと貯金することです。経済的知識の乏しい庶民が、投資はしてはいけません。老後の資金対策として、銀行や郵便局ですすめる投資信託の46%が“損”をしていると、金融庁が昨年3月に報告しています。あれから株価は相当下がっていますから、現在はもっとひどい状況でしょう』。
もし年金を増やしたければ、自営業の人なら付加年金に加入しよう。これは国民年金保険料に月400円をプラスして納めるというもので、10年間支払うと年2万4000円の加算額を死ぬまでもらえる。年金受給後、わずか2年で払った金額を回収できる計算なのでかなりお得だ。
『もし仕事を続けていくのならば、65歳以降に年金を受け取る“繰り下げ受給”を。1か月遅くするごとに0.7%が加算されます。上限の70歳まで繰り下げした場合、総受給額の損益分岐点は81歳。つまり81歳以降まで生きればお得ということです』。だが、これらの取り組みより、老後の資金作りにもっとおすすめしたいことがある、と荻原さん。それは“老後も働く”ことだ。大和ネクスト銀行の調査によると、働くシニアの手取り額は月収5万~10万円未満が23.8%と最多。少ないとはいえ年金と合わせれば、生活に余裕が生まれる。
『働くことの魅力はお金だけではないんです。人間関係も生まれ、社会とつながっていられる。自由なお金があればイキイキと余裕を持っていられます。なにも、がむしゃらに働く必要はありません。時給700〜800円台の仕事でも十分でしょう』。老後の職場としておすすめなのは、介護施設。多くの高齢者がお世話になるところだが、施設のよしあしは外見だけではわからない。事前に働けば実際の様子が見えてくるし、さまざまな情報が得られ、そこで働く人たちの本音や人柄もわかってくるからだ。
◇ シニアが働くうえで、気をつけたいことがある。
『夫が60歳以降も嘱託などで会社に残り、働く予定という奥さまもいるでしょう。その場合は要注意。年金と給料の合計が月28万円を超えると、65歳以前でも受け取れる厚生年金の一部がカットされてしまうのですが、実は、これを避ける裏ワザがあります。働く時間を正社員の4分の3未満にとどめてください。正社員からはずれて、社会保険に加入しないことです』。ただし、この在職老齢年金の廃止を国が検討中という報道も。今後も年金制度の変化には注意が必要だ。
なんともせわしない世の中になるねえ、ホントウに。
★★<FCV価格引き下げ目標―経産省>水素を使って走る燃料電池車FCVについて、経済産業省は、2025年までにHVとの価格差を現状の300万円から70万円まで縮める目標を決めた。経産省はFCVを30年までに80万台まで増やす目標を掲げており、価格低減を図ることで普及を目指す。
自動車メーカーやエネルギー業界、学識者らでつくる経産省の協議会で決めた。FCVは昨年末時点で2,926台の普及に止まる。主要なシステムである燃料電池のコストを、25年までに足元の4分の1となる1kw当たり5千円まで引き下げるなどし、FCVの価格低減に繋げる考え。経産省は、技術開発支援や燃料電池への補助金などで側面支援をする。
本当に、究極の無公害エンジンFCVだからねえ。是非実現し、世界のリーディングカントリーとなってほしいねえ、日本には。そうすると、世界の自動車市場の覇権を取ることが出来て、日本経済の復権に繋がる。部品点数も多いし、雇用へも寄与するねえ。ガンバレFCVだ。