今日の画像は、レースクイーン・オブ・ザ・イヤー'18-'19を受賞した北海道出身の『林ゆめさん(23)』、カープ巨人戦で10連勝を導いく同点ホームランを打った『鈴木誠也』。そして気持をなごませてくれる花『スイセン検戮任后N咾気鵑蓮IT起業に勤務しているときにスカウトされたとのこと。やっぱ東京に出なくっちゃだめなだねえ。田舎では芽が出ない。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
★★★何故、VWトゥアレグとポルシェ・カイエンのようなことが起こるのであろうか。ブランドにはそのブランドが歴史的に築いてきた価格帯のイメージ、即ち『クラス感のポジショニング=縦軸』というものが存在するからである。
たとえば、セイコーと言えば普通は3万円くらいからせいぜい30万円くらいまで、というイメージではないだろうか。50万円のセイコーといったらかなり高く感じるはずだ。オメガなら20万円から100万円といったところか。ロレックスなら60万円から300万円くらいで、いくらロレックスとはいえ、500万円を超えたら買う人はばったり少なくなるだろう。パティクフィリップスやブレゲなら最低でも200万円。1,000万円以上でもそれほど驚かない。
この前述べたセイコーとロレックスの事例もこれで説明がつくと思う。この『価格帯イメージ』を超えると、どんなに良いものであっても選ばれにくくなる。車で言えば、フォルクスワーゲンVWならせいぜい400万円くらいまで、という印象だろう。ところが、ポルシェなら1,000万円以上で当たり前だ。だからカイエンとトゥアレグのケースでは、中身が同じでも、VWで700万円だと高く感じるが、ポルシェで850万円なら割安感を感じるのである。最も、多くの人は中身が同じとは気付いていないのだが。
VWは2002年、フェートンという1,000万円級の大型高級車を発売した。上級モデルには技術の粋を集めたW12気筒エンジンを搭載した力作であった。このフェートン、日本市場には導入されなかったが、発売時のジュネーブ・モーターショーで実車を見ることが出来た。丁寧に細部まで良く作られており、メルセデス・ベンツやBMW7シリーズと比較すると見るからに質感が高く、ハードウエアの優位性は明らかであった。
ところが、これが全く売れなかったのである。年間2万台の生産計画に対してわずか6,000台という低調ぶりだった。競合のメルセデス・ベンツSクラスの当時の販売台数は年6万台余りなので、その10分の1。売れない理由はブランドイメージ以外に見当たらない。製品の出来云々より、1,000万円を超えるVWなどあり得ない、とマーケットが判断したと言うことだ。
面白いことに、話はこれで終わりではない。VWはこのフェートンの台車やエンジンを利用して、1998年に買収した『ベントレー』ブランドの新型車を開発したのだ。ベントレーは戦前から名声のある超高級車ブランドである。価格的にはフェートンより大幅に高く設定されたにもかかわらず、大ヒットモデルとなった。これが2003年に発売された2ドアクーペ『コンチネンタルGT』である。2005年には4ドア版の『フライング・スパー』も発売され、これも大ヒットとなってイギリスのベントレー工場だけでは需要を賄いきれなくなり、一時はドイツのドレスデンにあるフェートン工場でも生産を行ったほどである。
アメリカでのベントレーの販売台数は、2003年の437台から2004年は2,394台と、5倍以上に跳ね上がった。翌2005年にはさらに1,000台以上増えて3,654台を販売している。ヨーロッパでも、2003年の376台から2004年は3013台と、8倍に跳ね上がった。2005年にはアメリカとヨーロッパの販売台数だけで、フェートンの販売台数を凌駕するほどのヒットぶりである。
日本での価格は1,990万円で、2,000万円超が当たり前のベントレーとしてはとても割安感のあるモデルだった。日本でもベントレーの販売台数は10倍余りに跳ね上がった。さらに100%VWの技術で作られた初めてのベントレーでもあったので、それまでのベントレーに比べ信頼性が高く、実用に耐えるモデルだったこともポジティブに受け止められた。日本でも、プロ野球選手や芸能人の間で一時大ブームになった。当時巨人の現役だった清原選手が買ったことで一気に流行したと言われる。
これも1,000万円のVWならとんでもなく高いが、2,000万円のベントレーならかなり安く感じるという、製品そのものの出来とは全く違ったところの判断が売れ行きを決めてしまったのである。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)
■■『玉置宏の「昔の話で、ございます」Α.蹈ビリー時代、ジョージ川口さんの鞄は札で溢れた』
昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。
★★★昭和33年(1958)には日劇で初めてロカビリー・ショー『ウエスタン・カーニバル』も2月に開催された。渡辺プロダクション、渡辺晋プロデューサーとマダム・ロカビリーと呼ばれた渡辺美佐子夫人の仕切で、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、寺本圭一、柳家金語楼を父に持つ山下敬二郎などが中心になったこのカーニバルは、若者達に熱狂的な支持を得て、記録的な入場者数を打ち出すなど大盛況だった。当時、巷のジャズ喫茶には若い女の子が群がり、明け方までロカビリーのリズムに酔いしれるという状況を反映し、ジャズ喫茶の人気者を勢揃いさせたこの公演が、新しい世代の音楽としてのロックの存在を、一躍世間にも知らしめた。
思い異起こせばそれから遡ること5年前、昭和28年(1953)には同じ日劇で、後に坂本九の『上を向いて歩こう』などのヒット曲で知られる作曲家でピアニストの中村八大、中村と共に以前『渡辺晋とシックス・ジョーズ』で演奏していたテナーサックスの松本英彦、ドラムのジョージ川口、その後美空ひばりの専属となるベースの小野満の4人で結成された『ビッグ・フォー』の旗揚げ公演が行われ、日本のジャズ界に一大旋風を巻き起こした時代があった。
途中熱狂したファンでステージが壊れ、中村さんの弾くピアノが横倒しになるほどの過熱ぶりや、ギャラも破格でかけそば1杯20円の時代に10日間で400万円。現金払いの100円札を足で押し込んでボストンバッグに入れたなどの伝説も出来たが、彼らの公演はジャズを単なるダンスホールの音楽から大衆の音楽へと飛躍させ、後に続く多くのジャズメンにも大きな影響を与えた。
後にジョージ川口と対談した時に改めて聞くと『玉置さん、100円札を足で押し込んだのは伝説ではなく事実ですよ。運ぶ途中ファスナーが張り裂けたらどうしようかと、気が気じゃなかった』と、笑っていた。
この昭和20年代後半のジャズブームから、30年代後半のロックブームへと時代が揺れ動く中で、まさにこの新星の如く現れたのが若き『坂本九ちゃん』だった。九ちゃんの実家は私と同じ川崎で、玉置米穀店の上得意でもあり、九ちゃんのお母さんとも面識があった。その母親が『ロッテ歌のアルバム』が始まって間もない7月頃、私に直接聞きたいことがあると訪ねてこられた。九という名前は本名の大島九からとったもので、9人兄弟の9番目ということで名付けられたそうだが、母親には末っ子として目に入れても痛くないほどの可愛がりようだった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)
★★<『誰かが動くだろう』に指揮官激怒、大分片野坂監督>『何となく試合をこなすのでは負ける。自分に矢印を向けなければいけない』。18日、明治安田生命J1リーグ12節・清水戦を1―1で引き分けた後の大分トリニータの片野坂知宏監督の言葉だ。『今日の試合は見せるに値しない。油断があった。試合の入り方が悪く、自らピンチを招いた。判断が悪かった』と悔しさをあらわにし、『こういう試合をしているとJ2に落ちる』と選手に伝えたという。
チームは7試合負けなしで3位。申し分ない結果であるが、片野坂監督にとっては試合内容、選手のパフォーマンスに納得いかなかったのだろう。今季もGKを含めた最終ラインから攻撃を組み立てる大分だが、そのパスワークを支えているのは選手のポジショニングだ。誰かがボールを持てば、何人もの選手が顔を出してくる。
例えば、ボランチがさばけるパスが横パスだけだと、相手が横ズレして追い込んでくれば、徐々にパスコースがなくなってしまう。だが、トップ下の選手が、相手が追い込んできたときにDFとDFの間に顔を出すことで、ボランチや最終ラインの選手から相手の狙いの逆をつくパスを引き出せる。さらに、前の選手を追い越して、途切れずにパスコースを作れる。
ただ、清水戦のように相手が最終ラインやボランチへの圧力を強めてきた時に、少しでもポジショニングが悪くなると、選手が顔を出してもパスコースがなく、結局センターバックやGKに戻して大きく蹴る形になってしまう。失点はGKに戻すパスをカットされたものだった。清水戦では、選手全員に言えたことなのだが、もう少し味方を気遣って動けば苦しい状況は減っただろうし、バランスを見ながらパスを引き出し、リズムを作れていたはずだ。
片野坂監督の目指すスタイルは、ポジションを取り直し続け、ボールをつなぎ、相手ゴールに運ぶ。各自が『ここに動けばこうなる』という予測を怠らないことで成り立つものだが、『誰かが動いてくれるだろう』という空気がチームに蔓延したことに指揮官は激怒したのだ。快進撃により、サポーターや伝える側にも『勝てるだろう』が伝染した。低迷する清水だから当然勝つだろう……。そこに隙ができ、あぐらをかいてしまったのかもしれない。
『もっとシンプルにテンポよく回す必要があった。反省しかない』(島川俊郎)、『相手がどうこうではなく自分たちの出来が悪かった』(岩田智輝)、『今日みたいな試合をしないように気持ちを切り替えたい』(藤本憲明)。片野坂監督の叱咤激励を受け、選手たちは起こった事象に対し、全ての原因の矢印を自分に向けていた。現状に甘えず、さらなる努力の先に勝利がある。プロとは厳しい世界だと改めて痛感した。
この事は、大分より、よりサンフレに言える言葉ではなかろうか。前々節の仙台戦で、80分過ぎからだらしないディフェンスで2失点し、」逆転負けしたサンフレは、より大分のスピリットを学ぶ必要がある。
★★<身勝手が過ぎるトランプ政権『国連パレスチナ機関は解体すべき』、>米国は22日、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)について、解体すべきだとの見方を示した。
米政府で中東和平を担当するジェイソン・グリーンブラット外交交渉特別代表が、国連安全保障理事会で『UNRWAの事業モデルは、パレスチナ人の役に立っていない』と指摘。UNRWAは『一時しのぎ』であり、事業をパレスチナ難民の受け入れ国や非政府組織(NGO)に移行する時が来たと述べた。
UNRWAは1949年に国連総会によって設置された機関で、パレスチナ自治区とヨルダン、レバノン、シリアに暮らすパレスチナ人約500万人に教育と医療サービスを提供している。だが、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相はかねて、UNRWAがイスラエルを敵視していると批判。難民問題を永続化させているとして、事業停止を要求していた。
トランプ米政権は昨年、UNRWAには欠陥があると主張し、支援金の拠出を全額停止。イスラエルとパレスチナの新たな和平案の準備を進めてきた。米国は来月25、26日にバーレーンで中東和平構想に関する経済会合を開く。グリーンブラット氏は、米国の新和平案について「パレスチナ人の豊かな未来を開く可能性」があると主張しているが、パレスチナ側はこれまで米国案を拒否し、エルサレムをイスラエルの首都と認定したトランプ政権との接触を断っている。
2000年以上前に国を無くしたユダヤ人のために、無理矢理パレスチナ人を追い出し、イスラエルを建国した英米政権は一体世界倫理を何と考えるのか。ユダヤ人の建国を許すなら、世界の多くの少数民族、とりわけチベット属などは独立させるべきである。またクルド人の国を建国しなかったのは、英仏の戦時後政策のミスである。英米中の野放図なやり方が世界の平和を乱している。
★★<首相になれば『日本変革』=自民・小泉進次郎氏> 自民党の小泉進次郎厚生労働部会長は、東京都内で講演し、『この国に必要なのはスピード感を持った変革だ』と語った。出席者から、将来首相に就任した場合に目指す国づくりについて問われ、答えた。
ただし、自身が首相に就任する可能性に関しては、『なんとかこのまま行きたいという人が本当に多い中、大胆に変えることに血道を上げ、スピードも伴って変えたいと訴える男には出番がないのではないか』と述べた。
次世代を担う首相として、是非進次郎さんにはトップを取ってもらいたいねえ。もう次世代には生きていない輩は、引退、引退だ。60歳以上、国会議員立候補厳禁だね。本当に。日本丸をどうしてくかについて、マクロから舵取りする人間は今の閣僚達にはないな。特に麻生ぼっちゃんなど、麻生ボケして、福岡の乱など起こすんだから。あの鳩山由紀夫ぼっちゃんと何ら変わらないボケ老人だ。
★★<大阪人気じわり、本社転入の企業数 23年ぶり高水準>大阪から本社を転出する企業は減り、転入する企業は増えている
2018年に大阪府へ本社を移転した企業は174社で、23年ぶりの高水準だったことが帝国データバンク大阪支社の調査でわかった。逆に府から転出した企業は191社で、過去26年間で最も少なかった。25年大阪・関西万博の決定や、カジノを含む統合型リゾートの誘致計画などで、大阪経済の盛り上がりに期待する企業が増えたためとみられる。
帝国データによると、首都圏への一極集中が進むなか、大阪から出て行った企業は02年には312社にのぼり、ピークとなった。1982年以降、大阪から転出する企業の数が、転入する企業を上回る『転出超』の状態が続いているが、18年はその差が最も縮まり、17社だった。
業種別では、ビルメンテナンスやコンサルティング、福祉などの「サービス業」が転出、転入ともに3割以上を占め、最も多かった。工場や店舗などを持たないケースが目立ち、移転しやすかったとされる。年商規模別では、転出、転入ともに10億円未満の比較的小さな企業が全体の7~8割を占めた。100億円以上の企業も転出で7社、転入で11社あった。
転入元の都道府県としては1位が兵庫(68社)、2位東京(29社)、3位京都(19社)、4位奈良(11社)、5位愛知(6社)で近畿5府県からの移転が6割を占めた。転出先でも1位が兵庫(56社)、17年に最多だった東京は2位(47社)。3位奈良(21社)、4位京都(19社)、5位福岡(6社)と続いた。
帝国データバンクは「近年は大阪で訪日外国人客が大きく伸び、ビジネスチャンスが増えたことも背景にある」とみている。
いいねえ、大阪人気は。やっぱり、太閤さんのお陰かな。
★★<カープ 2年ぶり10連勝で2桁貯金へ王手>
セ・リーグ 広島8―3巨人 ( 2019年5月24日 東京D )
カープが2位・巨人との首位攻防3連戦初戦に8―3で勝利を収め、2017年4月以来2年ぶりとなる10連勝。2桁貯金に王手をかけた。 初回に1点先制された広島は直後の2回、主砲・鈴木がバックスクリーン右に14号ソロを放って同点。4回には先頭のバティスタが左中間スタンドへ特大の10号ソロを放って勝ち越すと、死球出塁の鈴木が二盗を決め、会沢の左中間二塁打で生還。さらに2死三塁から暴投でこの回3点をもぎ取った。
4―3と1点差に迫られて迎えた7回には2死から代打・坂倉が右中間へ二塁打を放ち、捕逸で三進。続く野間のセーフティースクイズが決まって貴重な追加点が入ると、8回にはバティスタのこの試合2発目となる11号ソロに西川も2号ソロで続いて4点リード。9回にも1点を加えた。特にバティスタの2本目は、左中間スタンド後方の『KIRIN』看板を直撃し、賞金100万円とビール1年分をゲットした。100万円の使い道を聞かれると『お母さんにプレゼント…する』と答えてスタンドのボルテージは頂点まで高まった。
7回には3番手一岡が危険球により退場になるアクシデントもあったが、九里、フランスアがパーフェクトリリーフ。最後はセーブの付かない5点リードながら守護神・中崎を投入して逃げ切った。とにかく、誠也、バティ、西川の3、4、5のそり踏みホームランが見事だった。
巨人は初回、坂本勇の14号ソロで先制。1―4で迎えた5回には炭谷の2号ソロと坂本勇の1試合2発となる15号ソロで一度は1点差まで詰め寄ったが、そこまでだった。
床田は、ここのところホームラン病だねえ。5回までに、ソロを3本。うち坂本に2本。ホームランなど打った記憶のない炭谷にも打たれた。どれも甘い真ん中辺りのボール。しっかり薬を飲んで、ホームラン病を直して欲しいなあ。この試合、カープのパーフェクトリレーに対し、巨人のリリーフ陣は出てくる投手がみな失点するという、カープにとっては嬉しいリリーフ達であったなあ。今日は、ジョンソンとメルセデス・ベンツの投げあいだなあ。カープはメルセデスを打つと思うよ、本当に。
カープの10連勝は今季最長で、2桁連勝は2017年4月以来、2年ぶり7度目。過去、2桁連勝した年は1984年(12連勝)優勝&日本一、16年(11連勝)優勝、71年4位、89年2位、94年3位、17年優勝。Aクラスを外したのは71年のみ。期待するねえ、巨人以外未達成のリーグ4連覇を。
10連勝は、やっぱり嬉しいねえ。DAZNの見逃し配信で、ポイントを2回ほど見返したねえ。見事なりカープのチーム力ではあるな。長野がドームでヒットを打ったのも良かった。ほほえましい。
今日も、中国スポーツ新聞は売れるだろうなあ。