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Channel: Freeman 雑記帳・広島
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『プレミアブランド小話⑰ BMW、ブランドを定義す』

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雨不足深刻な水不足が顕在化して、水は枯れ底を見せている『東海地方、九州地方のダム』、BMWの飛躍のモデルとなった『ノイエ・クラッセ』。そして、私が初めて目にした花『クラスペディア(ゴールドスティック)』と、『白いハナニラ』です。クラスペディアは、黄色い小さい可愛い花で、花期は長そうですね。見事は花ではあります。

今日広島は雨。それも結構な量の降雨。異例ともいえる、市内中心部での避難命令が出ている。この雨が九州、東海の水不足緩和に寄与すれば、まさに神の雨になりますねえ。カープのナイターが心配だが、午前中は90%、午後は50%、夜は30%。午後の雨脚が退かなければ、試合は中止だろう。ここのところ陰りが見えるカープ投打。少し休んだ方がいいかもね。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★『ノイエ・クラッセ』は大成功を収めたが、その後BMWをどのように導くか。ノイエ・クラッセ以前のBMWは統一性のない商品ラインアップで、明確なブランドイメージは存在しなかった。そこでBMWは、この大成功したノイエ・クラッセという製品をたたき台として、BMWというブランドそのものを定義することにした。

ノイエ・クラッセが高く評価されたのは、普通のセダンであるにも関わらず先進メカニズムを持ち、走りがスポーティで運転を楽しめたことにある。このような特質を踏まえ、BMWを『運転を楽しむための車』と定義したのだ。それまでは運転を楽しむと言えばスポーツカーであったが、普通のセダンであっても運転を楽しめる、という点がユニークだった。そしてBMWは、その後発売される全てのモデルを、この『運転を楽しむための車』というブランドアイデンティティに則って開発して行くことを決意する。

当時のドイツ市場は高級車にメルセデス・ベンツ、大衆車にVWとオペル、ドイツフォードがあったが、どれも実用重視の車作りをしていた。せいぜい、一部にスポーティなモデルがある程度だった。アウディも存在していたが、これもまだ地味な中級実用メーカーにすぎなかった。ポルシェはあくまでスポーツカー専業のメーカーだった。その中でブランド全体として『運転を楽しむ』ということを打ち出したBMWは、明確にブランドキャラクターの『横軸』での独自のポジションを確立することになったのである。

BMWの車は『運転を楽しむ』というブランドアイデンティティを実現するためにサスペンションやエンジンにコストがかかる構造にすることで、通常より高コストになった。つまり、一般的な大衆車より高く売らざるを得なくなったのである。従って、ブランドキャラクターの縦軸のポジショニングはVWクラスよりは明確に上に設定する必要があった。そのため、ターゲット設定は横軸の独自性である『運転が好きでアクティブ』という特性に加え、縦軸では比較的裕福な層、アッパーミドル以上を狙うこととなった。はたしてそんな人はどれだけいるのだろうか。


そこでBMWが考えたのが、『グローバルマーケットシェア戦略』である。経済的に豊でありながら、運転を楽しむようなアクティブでライフスタイルを指向する層が、世界中どこでも一定の比率で存在する。ドイツにも、イギリスにも、アメリカにも、オーストラリアにも、少数でああるかも知れないが、必ずそのような層が存在するはずだと仮説を立てたのである。

BMWは、このターゲット設定をもとに戦略を練っていった。一つの市場において、幅広いラインアップで大きなシェアを取るのではなく、アイデンティティのはっきりした製品でターゲットを絞り込み、世界中の市場で限られた一部のシェアを取る。当時のBMWの世界シェアは1%程度であったので、仮に販売を2倍にしたとしても2%に過ぎないし、そもそも各国の事情に合わせて製品を作り分けられるほどの規模ではないのだから、ロジカルな戦略である。

ごく限られた顧客をターゲットにするのであるから、車そのものだけでなく『売り場』をそのターゲットの嗜好に相応しいものにする必要があった。そこでBMWは、世界各国の販売会社の整備を行った。1972年の南アフリカを皮切りに、販売会社の100%子会社化を進めたのである。

欧州主要市場の販売会社に続いて、1975年にはアメリカの販売会社を100%出資の子会社化し、日本でも1981年に海外メーカーとしては初めてのメーカー100%出資の販売会社、BMWジャパンを設立した。日本市場では、BMWジャパン設立前は年間3,000台ほどだった販売台数は、1990年には3万6,000台にまで増加した。10年で12倍に伸ばすことに成功したのである。

各販売店にも徹底したCIを持ちこんだ。ターゲット層の好みに合うように設定された。白を基調としたクリーンでシンプルかつ高品質なショールームは、世界中どこに行っても同じデザイン・フォーマットで統一されている。ショールーム内の展示車の並べ方にもルールがあり、必ず道路に対して平行に、かつ同じ向きに車を並べなくてはならない。BMW車の疾走する流麗なフォルムを外から感じられるようにするためだ。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)


■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。


★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」押∥腑劵奪函⊇嫺郎さんの「お富さん」』当時、三橋さんと同じキングレコードにいたもう一人の大スターが『春日八郎さん』だ。春日さんは大正13年生まれで、昭和23年にキングレコードの新人募集に合格したがなかなかデビューにチャンスがなく、岡晴夫さんなどの看板歌手と一緒に、前歌歌手をしながら荷物運びなどの裏方も日課として地方公演に明け暮れていた。ようやく昭和27年(1952)、デビュー曲の『赤いランプの終列車』が話題になり、第一線に登場した。

そして昭和29年、春日さんが巡業から帰ってくると迎えが来ていて、そのままスタジオ入りして吹込をして欲しいと。話を聞くと、春日さんがお世話になっていた岡晴夫さんがキングを退社し、マーキュリーへ移籍することになった。それで、岡さんに予定されていた歌が、急遽売り出し中の春日さんに回って来たという次第。

この歌は『お富さん』というタイトルで、歌舞伎の『玄冶店ゲンヤダナ』の話に出てくる、切られの与三郎にゆすられるお妾さんの名前かた取ったのだが、民謡調のウキウキしたリズムに乗せて歌った『お富さん』は、春日さんの張りのある高い声にもピッタリとマッチして爆発的なヒットとなった。春日さんは、岡さんの移籍という幸運をものにして、一躍スターダムに登り詰めたのだ。


その春日さんと三橋さんが、一度だけ夢の共演をしたことがある。これは会社創立40周年記念のイベントとして、キングレコードが企画した『春日八郎・三橋美智也・ゴールデンコンサート』で、会場の東京宝塚劇場は開演前から異様な雰囲気に包まれた。

というのも、テレビ中継もなし、ラジオの録音も取らないという、まさにファンのためだけに用意された夢の一夜だったからだ。6曲ずつ、持ち歌を交換して歌うコーナーがハイライトで、三橋さんの司会が私、お笑いのゲストが獅子てんや・瀬戸わんや師匠、春日さん側の司会が北条竜美さんで、お笑いが宮城けんじ・東けんじのWけんじさんという、VS形式の舞台構成だった。

キングレコードの両雄が、人気もヒット曲もちょうと肩を並べた時期だっただけに、その夜の盛り上がり方は尋常ではなく、私の司会の声がかき消されるほどの歓声が何度も沸き、夜遅くまで会場の回りは熱い空気に包まれていた。二人はこの共演を機に『春日先輩』『ミッちゃん』と呼び合うようになり、心を開いて語り会える関係が生まれた。

この後、三橋さんの紹介で、春日さんと村田さんも意気投合して、後に『ミッチー、ハッチー、ムッチー』の愛称で、世代を超えて人気となる『三人の会』へと発展して行った。

背筋をしゃんと伸ばし、美しく伸びやかな高音の魅力で本格派の演歌を歌い続けた春日さん。民謡をベースにしたコブシで、ハイトーンをきかせる三橋さん。浪曲出身らしい男の世界を力強く語りこんでいく村田さん。三者三様のスタイルが、歌好きには堪らない味を醸し、私も舞台の上で司会をしながら、演歌の黄金時代の再臨をたっぷりと堪能させてもらった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)


★★<1回食べたら病みつきになる『アパカレー』>3月10日から6月30日まで、アパが直接販売する『アパ直』1周年を記念したキャンペーン、『「アパ直」からなら、もれなく「アパ社長カレー」プレゼント』だ。『アパ直』からなら、比較なしで宿泊料金が『常に最安値』だと言う。確かに、アパ直のCMはインパクトの強さがある。

いや、『アパ!』という歌声が印象的な『アパホテルズ&リゾート』のCMも負けていない。更に一昨年、某俳優の不倫スキャンダルの『現場』として名前を取り沙汰されてからは、バラエティー番組でも連呼されたものである。

だが、それよりずっと前からバラエティー番組がお世話になっていたのは、『アパ社長』こと『元谷芙美子さん』だろう。『私が社長です』のキャッチコピーと、華やかで大きな帽子、色味のあるスーツ。ミニスカートから覗く脚で稼いでいるカンジが伝わって来る。『アパ』のアイコンと言っていいだろう。ホテルのアイコンにまでなるということは凄いことではある。

『アパ直』から予約して『もれなく』もらえる『アパ直カレー』だが、実はこのホテルを仕事で利用する芸能人から『本格派』『一回食べたら病みつきになった』『以来、通販で申し込んでいる』と大評判なのである。『差し入れに利用している』という某芸能人によれば、舞台の楽屋では、カセットコンロを利用している人も多いので、『弁当にあきる中日あたりに喜ばれる』とのこと。

『アパホテル&リゾート東京ベイ幕張』の名誉総料理長、岩崎さんもHPの動画の中で、『コク、まろやかさ、自然な甘み、絶妙なカレースパイスのブレンド』と自信を持ってオススメしている。『ホテルレストランの評価を決める特別な料理』とも言い、『人気NO1メニュー』と紹介している。

カレーショップとしての評価も高く、その『味』をレトルトパウチした『アパ社長カレー』は、超本格派。アンケート調査の結果、99.3%の人が『美味しい』と回答する『300万食達成』の『アパ社長カレー』。勿論、元谷社長の写真付きパッケージだ。(参考: 山田美保子筆『楽屋の流行ハヤりモノ』)


★★<『弟よロケットが上がったよ』>5月4日に、民間企業が単独が単独開発した小型ロケット『MOMO』3号機の打ち上げが成功した。その企業の社長で設計・製作をしたのが甥である。甥は小さい頃から工作が好きで様々な木工作品を作り、大学では工学部に進み、『鳥人間コンテスト』の人力飛行機の機体設計やロケット開発、その電子部品工作熱中していた。

大学院修了時には就職が決まっていたが、堀江貴文さんからロケットの打ち上げに参加しないかと誘われ、入社式当日に内定先を断って現在の会社に入社した。当然、親である私の弟はあきれた。しかし、自身も大手企業の管理職を辞めて市議会議員になっていたこともあり、最終的には認めた。残念ながら、弟は打ち上げを見ずに2015年に58歳で他界した。

打ち上げまでには資金調達や宇宙関連の法律への対応、少人数での旋盤機械を使った部品製作、高度な電子機器などの自作など、想像以上の困難があったと思われる。2回の失敗後の成功。打ち上げの成功の映像を見てうれしくて涙が出た。『弟よ、ロケットが上がったよ』。手を合わせて仏前に報告した。(参考: 朝日新聞『投書欄』)

58歳で他界された弟さんは、無念至極だっただろうなあ。でも、息子のプロジェクトが成功したのだから、天の界から微笑みかけてくれているだろうな。いい話だ。


★★<丸山議員の糾弾決議可決 衆院本会議>衆院は6日の本会議で、北方領土を戦争で取り返す是非に言及した丸山穂高衆院議員(大阪19区)について、直ちに進退判断を促す糾弾決議を全会一致で可決した。衆参両院の事務局によると、国会議員に対する糾弾決議は初めて。

決議では、丸山議員に対して『国益を大きく損ない、本院の権威と品位を著しく失墜させた』と指摘し、『国会議員の資格はないと断ぜざるを得ない』と厳しく非難している。5日に自民党や立憲民主党など与野党8会派が衆院に提出。糾弾決議に法的拘束力はない。

丸山議員は、3日に衆院議院運営委員会の高市早苗委員長(自民)に弁明書を提出した。議員の進退については『最終的には選挙での有権者の判断によるものだ』などと持論を展開し、議員辞職を改めて否定した。

まあ、みっともない悪あがきだねえ。それにしても、こんな劣悪な人物を推薦し、当選させた維新の会には道義的責任があるねえ。しっかりしろよ。


★★<シヤチハタ、『痴漢対策ハンコ』発売を検討 女性社員らが商品案練る>
◇痴漢根絶を目指して
シヤチハタ公式ツイッターは2019年5月27日、痴漢被害を念頭に『目指すべきはこの社会問題が根絶され、"護身用グッズが必要ない世の中"になる事です』などと投稿した。

痴漢をめぐっては、被害に遭ったという女性が2019年5月中旬、『無理に声出さなくていいんだよ。次痴漢が出たらそれで刺しな それなら持ち歩ける』などと安全ピンで撃退するようアドバイスされたとツイッターに投稿し、賛否を呼んでいた。

こうした議論を踏まえ、シヤチハタは痴漢対策グッズとして、安全ピンに代わる『ハンコ』を提案した。『最初にご提案できるのは従来のネーム印とほぼ変わりません。そして今後段階的に形にできればと考えております』と展望を明かし、最終的には前述した『"護身用グッズが必要ない世の中"』を目指すという。

投稿は約4000『いいね』を集め、『素早い対応に感銘を受けています。応援しています』『指輪型で手のひら側に印を向けられるものを作ってください』と賛同や要望が多数寄せられている。


◇ツイッター担当者が商品化へ奔走
シヤチハタ広報室は、『商品化に向けて現在議論中です』と話す。 構想のきっかけは、先の女性の投稿に寄せられた反応の中で『安全ピンよりはハンコの方が良いのでは』といった意見があったためだという。それを見たツイッターの女性担当者が実現に向け動き、現在は別の部署の女性社員と具体的な商品案を練っている。

シヤチハタが『痴漢対策グッズ』を手がけるのは意外とも思われるが、同社は以前から社会貢献に取り組んできた。 16年11月に発売した『手洗い練習スタンプ おててポン』は、子どもの手の平に"ばいきん"のイラストを押印し、印影が消えるまで石けんで手洗いすることで手洗いの練習ができる商品だ。

18年8月には、防災訓練をスタンプラリーで学べるプログラム『防災・減災スタンプラリー』を発表。東北大学と共同開発し、スタンプをおしながら避難経路を回り、楽しく防災・減災の知識を学べる。 痴漢対策用のハンコの商品化もこうした背景がある。同社は「SNSなどでのご意見をもとに、商品化に向けて議論していく」とした。

面白いねえ、痴漢対策の『ハンコ』。押されたら、1週間くらい消えないのだろうねえ。実現して欲しいなあ。

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