今日の画像は、福岡の土産物として昨年1年間に最も売れたあんこまんじゅうとして、ギネス世界記録に認定された『博多通りもん』。そして、街中でよく見る花『マリーゴールド』です。花期も長く、今ではコスモス並みのポピュラーな花になりましたねえ。きれいです。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
★★★メルセデス・ベンツやロレックスは、その分野において『最高』というブランドイメージを広く一般に築き上げ、『富と成功のシンボル』となった。では、その分野における絶対的王位ともいえる盤石なイメージを持つブランドに対し、追いかける立場にあるブランドはどのような戦略を取るべきか。
BMWは、今ではメルセデス・ベンツと並ぶプレミアムブランドとして認知されているが、もともとはそうした位置づけのブランドではなかった。BMWは長い時間をかけて戦略的に地位を得ることに成功するのだが、その経緯を見てみたい。
BMWは、航空機エンジンを作るメーカーとして1916年に誕生した。1923年にモーターサイクルの生産、続いて1929年に自動車の生産を開始するが、最初のモデルはイギリスのオースチン・セブンという750ccの小型大衆車のライセンス生産であった。その後、独自開発を行うが、あくまで2000cc以下の小型車中心のラインアップであった。
戦前のBMWを代表する名車、『328』、2000cc・6気筒エンジン搭載、はモータースポーツで活躍したが、その生産台数は5年間で464台に留まった。更に、1939年にはナチスの命令により自動車生産を停止させられてしまう。航空機エンジンの生産に集中させるためである。
第二次世界大戦後は疲弊したドイツ経済の状況もあり、イタリアの超小型車イセッタのライセンス生産、エンジンはBMWのモーターサイクル用250cc、から事実用の復興が始まった。
その後、一回り大きいBMW600やその後継車BMW700が加えられたが、どれもモーターサイクル用エンジンを転用した非常に小さいモデルだった。この間、501、502という高級セダンや503、507という高級クーペも作られたが、生産台数はごく少数に留まった。
1960年代初頭まで、BMWは1000ccにも満たない超小型車がメインで、少数の高級車も作るといういびつな構造の会社であり、その財務内容は厳しいものであった。倒産寸前という状況の中、ダイムラー。ベンツへの身売り話も出たほどである。
その状況を打破するため、株式の30%を取得したクヴァント家の資金援助のもと、1961年に当時のメインストリームである1500ccクラスの車を開発したのである。これが『ノイエ・クラッセ(新しいクラス)』というコンセプトで作られたBMW1500である。全く新しい車台、全く新しいエンジンと全てが白紙から設計された。
普通のファミリーセダンとして開発されたが、全てが新設計だったことが幸いし、後輪に独立懸架サスペンションを持ち、エンジンもOHCという当時としては高性能のエンジン形式を採用した進歩的な設計だった。
結果、オーソドックスな4ドアセダンでありながらその走行性能は競合他社を凌駕するものとなり、その後の自動車設計に大きな影響を与えるほどエポックメーキングなモデルとなった。日産が1967年に発売したブルーバード510型はこのBMW1500の設計思想に大きく影響を受けたと言われており、技術的に極めて類似したものとなっている。
イタリアのミケロッティによる外観デザインはモダンかつエレガントで端正な佇まいで、それも高い評価に繋がってこのBMW1500は大ヒット作となる。エンジンバリエーションは1600、1800、2000と増え、高性能ニーズにも対応した。
1966年にはこの1500をベースに、廉価でコンパクトボディの2ドア版BMW1600-2も追加された。そのスタイリングは1500より更に軽快かつスポーティで、走りも一層スポーティなものとなり、また大ヒットとなった。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)
■■昔、昔、その昔、人気テレビ番組『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。
★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」亜]俺奮Δら三波春夫と村田英雄が登場』昭和33年(1958)は、浪曲の世界でも大きな出来事があった。浪曲界の期待の星、村田英雄さんが歌手としてデビューを果たしたのだ。
昭和4年(1929)、佐賀県の浪曲師の家に生まれた村田さんは5歳で初舞台を踏み、7歳で酒井雲に弟子入り。13歳で酒井雲坊を名乗り、天才少年浪曲師として騒がれた。以後九州を中心に旅回りをしていたが、昭和26年(1951)に上京。27年には浪曲新人最優秀賞を受賞。この年に村田英雄と改名した。
そして、昭和32年浅草国際劇場の浪曲大会に出演したのが、ラジオの文化放送番組のプロデューサーの目に留まり、文化放送の『連続浪曲』のレギュラーになった。その村田さんの口演『江戸群盗伝』を耳にしたのが、作曲家・古賀政男さんだった。古賀さんは、その瞬間、当時テイチクから売り出し中の同じ浪曲出身歌手・三波春夫さんの対抗馬はこの声しかないと閃き、すぐコロムビアに打診。村田さんにも直接電話で、歌手に転向するよう説得した。
古賀門下生になった村田さんは、『明るい声』の三波さんに対して『暗めの重厚な声』を売りにすることで、レッスンが始まった。さらに、啖呵も切れる、語りも抜群なのを生かして、歌はストーリーのある原作もので行くことに決定。そこで、日本人なら誰でも知っている題材がいいと起用されたのが、長年浪曲台本を書いてきて、この世界を書かせたら天下一品の吉野夫二郎さん。作曲は勿論古賀政男さんで、昭和33年、ついに村田さんのデビュー曲『無法松の一生』が出来上がった。
後の私のインタビューでも『男とあらば、ああいう人間になりたい。荒々しい中にかいま見える男の美学。無法松は、日本人の一番好きな男性像じゃないですか』と、村田さんは熱く語った。歌手としての初舞台も同じ年、有楽町の日劇で行われた『コロムビア歌謡大行進』。古賀先生のアイディアで、車夫の扮装で人力車を引いて登場し、やんやの喝采を浴びた。
浪曲界出身の二人、三波春夫、村田英雄の関係は、最初から何やら波乱含みだった。生まれは三波さんが大正12年、村田さんが昭和4年と、三波さんが年上なのだが、浪曲界の芸歴では、村田さんが5歳で初舞台を踏んだのに比べて、三波さんは昭和16年に16歳で日本浪曲学校に入学、1年半後に、南条文若と名乗り浪曲界入りした訳だから、村田さんの方が先輩になる。
しかも、村田さんは浪曲界では立派な真打ち。片や三波さんは、終戦後は旅回り一座の浪花節語り。落語家で言えば、師匠と付き人くらいの、大きな格の開きがあった。ところが三波さんは昭和32年に『メノコ船頭さん』で1年早くデビュー。同じ年に出した『チャンチキおけさ』『船方さんよ』の両面が大ヒットして、一躍人気歌手の仲間入りを果たしていた。
この二人は、仕事場や宴席で顔を合わす機会が多かったが、性格的に真反対の二人には雲行きも怪しくなった。まずゴルフ。三波さんが、上野の『聚楽』の会長の後押しで名門『小金井カントリー』のメンバーになった。それで、三波さんが『村田君、僕が予約するから一緒に小金井を回りましょう』と誘ってくる。が、名門クラブほど会員とビジターの差は大きい。もともと親分肌の村田さんとしては、その違いに満足は出来なかった。が、いかな村田英雄でも、小金井の会員にはなれなかった。
そんなところへ、確かあれは『明星』で、お正月の記念グラビア撮影だったが、三橋美智也、三波春夫、村田英雄の3人が九段の料亭に集まった。金屏風を背に、三波さんが一番年上というおkとで真ん中にして、3人が紋付き袴姿で並んだが、カメラマンの『本番行きます』の声の直後、真ん中の三波さんがすっと背伸びしちゃった。それが両端の二人に分かった。大人げないと思ったのか、さすがに二人はその時何も言わなかったが、後で三橋さんが私に『玉ちゃん、やっこさん背伸びしやがった。村田さんも知っていたよ。金輪際、一緒には撮らないと怒ってた』と話してくれた。三波さんと村田さんの犬猿の仲はこの時決定的になった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)
★★<博多通りもんが『最も売れたあんこまんじゅう』ギネス認定>福岡の土産物として人気の菓子『博多通りもん』が、昨年1年間に最も売れたあんこまんじゅうとして、ギネス世界記録に認定され、福岡市のJR博多駅前で、製造・販売する明月堂の秋丸真一郎社長に公式認定証が贈られた。
2018年の売り上げは75億9126万1769円。今年で創業90周年を迎えた明月堂が記念に申請し、ギネス社が新たに創設した『最も売れている製菓あんこまんじゅうブランド』の部門で認められた。
『博多通りもん』は、1993年発売。3年余りの研究・開発を経て、バター、生クリームの洋菓子の素材と和菓子の伝統を融合させ、しっとりした食感の『西洋和菓子』のジャンルを作った。販売エリアを福岡都市圏に限定した戦略で、旅行者や出張者の定番土産に成長し、現在は年間約6400万個を生産する。
秋丸社長は『認定は喜ばしく、誇らしい。100周年へ向け、地域に愛されるお菓子作りをしたい』と意気込んだ。
93年の発売で、一位を確保するとは名月堂も見事なもんだねえ。私が福岡に住んだ時代にはなかった商品だ。お見事。
★★<高給で優秀新卒争奪戦、ソニー、AI開発730万円 くら寿司、幹部候補1,000万円> ソニーは、新入社員の初任給を引き上げる。プログラミング言語を使いAIなどの分野で新たなサービスを開発できる人材を採用するため、大学院修了など一部の新入社員の年収を能力に応じて最高で730万円と、現在の約560万円から3割程度上げる。デジタル分野での人材の獲得競争が世界的に激しくなっていることが背景にある。
今春の新入社員も全員7月から、給与を大卒で2万円増の月25万円、院修了で1万5千円増の月28万円に引き上げる。その上で、プログラミングが堪能な新入社員を中心に、入社後の仕事内容や評価に応じて人事評価で9段階中の4段階目にあたる『主任クラス』の等級に抜擢する。これまで新入社員は入社2年目の6月まで一律で『等級なし』だった。約400人いる新入社員で実際に等級が与えられるのは5%ほどと見込む。ソニー広報は『世界的な人材獲得競争に、危機感を持って対応していく』としている。
回転ずし大手の「くら寿司」は2020年春入社の新卒採用で、初年度から年収が約1千万円となる幹部候補生を10人募集する。平均年収の2倍以上の好待遇で、海外での店舗拡大に対応できる人材を集める狙いがある。
幹部候補生への応募は、ビジネスレベルの英語力を持っていることが前提。採用されれば、最初の2年間は国内店舗や本部の各部署、その後1年は海外店舗などで研修を受ける。その後、適性に応じた部署に配属され、部長職に相当する業務を担い、経営戦略の企画立案などにも携わる。将来的には、海外子会社の経営などに携わることも見据えているという。
通常の採用枠約220人とは別枠の募集。社員の平均年収450万円の2倍を超える収入を1年目から得ることになるが、2年目からは本人の実績に応じて額を増減させるという。
同社は米国で21、台湾で19の海外店舗を持ち、今後も毎年10店ほどのペースで拡大させる方針。こうした業務を担う経営感覚を持った人材は、社内でも公募などで募集しているが、『より若くて意欲があり、チャレンジングな方に来てほしい』と特別枠を設けた。
まあ、い人材を採ろうと思えば、おのずと処遇は引き上げる方向になるねえ。ソニーが抜きんでた報道だが、各社『タレント人材』には、一般総合職とは異なる賃金体系を組みつつある。あのインド工科大学人材の初任給は1千万円がずらりだから、日本の人材もそれに負けない能力と処遇が必要な時代になったということだろうなあ。自動車会社では、相当前から、『デザイナー』の報酬がタレント扱いされている。ワールドワイドな開発競争から、デザイナーはその筆頭タレントなのだなあ。世の中変わる。
★★<中国のテレビ市場失速 格安業者増殖で大荒れ、現地ルポ、格安テレビ街>世界最大の中国のテレビ市場が急失速している。2018年の販売総額は11%減と2年ぶりに大きく落ち込み、直近の1~3月も同16%減と歯止めがかからない。国内ではいまだ40ものテレビブランドが乱立する。最近は中古部品や不良部品を使う格安テレビが出回り、販売価格を大きく押し下げ、事業環境をさらに悪化させている。事態を探るため、中国で今、増殖する格安テレビの街を歩いた。
『おい、このテレビ、いるか?』。中国南部の中核都市、広東省広州市郊外の番禺(パンユウ)――。昼でも薄暗い古びたアーケード街を歩いていると、ぶっきらぼうに中年男性が声をかけてきた。言われるがまま8畳ほどの店をのぞくと男性数人が気だるそうに中国ドラマを見ていた。そのテレビを売ってくれるのだという。
見た目は新品だが、テレビにブランド名は無い。ただ、65インチの大型液晶パネルが韓国製であると知り、値段が高いとも思ったが、価格はなんと3千元(約4万8千円)。大手メーカーの3分の1程度と格安だった。雑然とした店の中を見回すと、京東方科技集団(BOE)や韓国サムスン電子など大手のテレビ用液晶パネルメーカーのロゴが入った発泡スチロールの箱がたくさん積み重なっていた。
中身は、京東方やサムスンなどの工場から横流しされた不良品や中古テレビから取り外した液晶パネルだという。そこでは、一枚一枚のパネルを裏側から光を当て、動作状態を確認し、ここに来るテレビ業者に卸す作業員の姿が見て取れた。この古びたアーケード街にはこうした液晶パネルのほか、電子基板などを含め部品の卸売業が50軒以上も軒を連ねていた。周辺にはここから部品を集めてテレビに仕上げる業者が点在し、一帯でいわば『格安再生テレビ工場』を形成していた。
18年、この番禺などで生産された格安の再生品のテレビが、中国で有名な通販サイトで大量に取引され、市場を荒らしたことが問題となった。再生品とはいえ、見た目は新品同然。多くは大手メーカーのロゴを偽った模造品だった。そのため政府も問題業者を排除し、事態は一端沈静化したかに見えた。だが、問題となった格安テレビを売る業者は今もこうして生き残っていた。理由は通販サイトの販路が途絶えても、農村部へトラックで運び、ノーブランド品として大量に売りさばく販路が健在で、もうかるからだった。
こうしたテレビ再生街はこの1年間ほどで中国で広がり、販価を押し下げ、大手メーカーの収益を圧迫するに至っている。あおりを受け、18年は大手の海信集団(ハイセンス)の純利益は6割減、康佳集団(コンカ)も9割減と急減した。中国調査会社の北京中怡康時代市場研究も、テレビは既に各家庭に行き渡り『需要の低迷に加え格安業者の流入で販売単価がかなり下がっている』と、業界が抱える二重苦を指摘する。
実際、同社の調べでは中国で販売するテレビ大手9社の中で、通販サイトにおける平均のテレビ販価が17年から18年にかけて上昇したのは、高級テレビの販売に絞るソニーとサムスン電子の2社だけ。一方で中・低級機を手がけるハイアールやハイセンスなど中国勢は最大10%強も下落した。
『今は、もう安ければ何でもいいわ』。最近、広州市内で引っ越しをした湖南省出身の20代女性は通販サイトでテレビを買った。ブランド名は『暴風』。全く聞いたこともないブランドだったが、32インチで600元(1万円弱)。大手メーカーの7割程度の価格が購入の決め手だったという。
世界のテレビ業界は再編が進んだ。だが中国の通販サイトではいまだに『暴風』や『夏新』といった中国人にもなじみの薄いブランドもずらりと並ぶ。こうした無名ブランドの多くは2000年代、政府が農村部へのテレビ普及に多額の補助金を付け、それ目当てに創業した、にわかメーカーが少なくない。競争力は高いはずもなくいまだゾンビのように生き残る。
だが今、そこにまた格安再生テレビなる薄利で稼ぐ新たな業者が増殖し、価格破壊をもたらし、市場をかき乱す。世界最大を誇った中国のテレビ市場は変質した。大手テレビメーカーでさえ体力がさらにむしばまれる構図ができ、先行きが見えない状況を迎えている。
テレビのように『コモディティ化(一般化)』が進む製品は、部品だけ集めれば、誰でも生産、製作できる。よってブランドによる差別化が難しい商品に成り下がり、メーカーは淘汰される。やがてスマホにもその時代が来るのではなかろうかな。PCもすでにその領域に入っているしな。
★★<西宮市長『公務員以前の問題』 市職員1年で7人逮捕に訓示>昨年度から1年余りで7人が逮捕されるなど兵庫県西宮市職員の相次ぐ不祥事を受け、同市の石井登志郎市長は5日、市役所で幹部職員約300人を集めて訓示し、『公務員以前に人としてあってはならないことが頻発している。危機的状況だ』などと述べ、綱紀粛正を訴えた。
西宮市では昨年、小中学校で児童や生徒を盗撮したとして教員2人が逮捕されたほか、職場で上司の財布から現金を盗んだ疑いで職員が逮捕された。
今年に入っても、1~2月に副主査2人が入札情報の漏えい事件で逮捕・起訴されて公判中。4月には小学校の調理師が同僚の財布から現金を盗んだとして逮捕される窃盗事件(不起訴)があるなど、懲戒処分も続いている。
こうした事態を受けて5日、石井市長は管理職らを招集。『われわれの仕事は(市民の)信頼があるからこそできる』と説き、『市民は市役所を選べない。信頼を回復する以外に道はない』と呼び掛けた。
石井市長は再発防止策を検討中としたが『制度や仕組みだけで不祥事は根絶できない。職員の仕事とは何かをしっかり意識してほしい』とも強調。その上で『一定の区切りがつけば私を含め特別職のけじめを示す』と自身にも処分を課す考えを明らかにした。
広島市でも市の高速道路公社が、二葉山トンネル工事入札に際して、大成建設と公社が入札額を巡り、官民談合した疑いがある。なのに、市長も県知事も公社理事長をかばう。なぜ大失態に対して毅然とした措置が出来ないのか暗い闇を抱える松井市政ではある。
★★<カープ、中村恭平>カープ背番号『64 中村恭平』。2010年のドラ2、30歳。8年間在籍しながらちっとも芽が出なかった。それは中村の年俸が証明している。なんと8年間グラウンド生活をしたのに、たったの『750万円』。新人の中村奨成800万円、高橋樹也900万円、飯田哲矢900万円、アドゥア2,200万円よりも低いのである。それもそのはず、リリーフで出て来ても必ず四球、ホームラン、失点を重ね、やっと一軍に上がったかと思うとすぐに二軍落ち。富士大出身の情けない恭平だった。
それが、今季グラウンド9年目にして覚醒した。今季、リリーフ登板14回、投球回数17.1、打者63人に投げ、被安打7、被本塁打1、奪三振21、与四球4、失点2、自責点2、そして防御率はなんと『1.04』。遅咲きとは言え、30歳で花開いた恭平君ではある。ちなみに恭平の暦年防御率をメモする。
2011年 4.05 2012年 4.85 2013年 3.96
2014年 1軍登板なし 2015年 10.80 2016年 5.40
2017年 1軍登板なし 2018年 7.53 通算病魚率 5.00
妻は女優で元グラビアアイドルの『清水ゆう子』。まあ、この成績で行くと、来年は少なくとも3千万円は超えるだろう。早く5千万円のラインを超えて、かみさん孝行しておくれな、恭平君よ。
昨夜のカープは、恭平君が見事なリリーフ。そして田中が復活の烽火で満塁ホームランを含む3安打5打点と、上から下まで打線にむらがなくなってきた。投げては調子がよくない大瀬良が丁寧に6回を122球も投げて、6勝目を飾った。とにかくツースリーの連発だった。が、よく辛抱したねえ。エースの鏡だ。
この試合、先発を外されたアドゥアが9回に登板。ヒット1本打たれたものの、ゼロ封で凌いだ。見事なピッチングだったねえ、アドゥア。また先発に帰っておくれな。
これからの交流戦、カープの存在は面白い、なああ。ソフトバンクに勝ち越して工藤監督をギャフンと言わせておくれ、緒方監督。