★今日の画像は、引き続き『中島美樹夫さん』の水彩画集です。.愁法璽譟璽好押璽爐謀仂譴垢襯咼献腑鵐帖璽螢好癲▲泪張LM55、RX-7、ファミリア・プレスト、ぅ泪張聖偉悒肇薀奪、ヅ玄┝爾卜つ金島さん。
★★広島カープが初優勝を決めたのは、1975年、129試合目、10月15日の後楽園球場、対巨人戦である。長嶋巨人の船出の年でもあったが、ジャイアンツは球団史上初の最下位に終わった。試合は、外木場、新浦の投げ合いで終盤にもつれ込んだが、9回表、ホプキンスが決定的な3ランホームランを放ち、広島が4―0とリード。その裏、巨人最後の打者、柴田勲の打球は、レフト水谷のグラブにつかみ捕られた。午後5時18分、暮色迫る夕刻だった。マウンドにあったのは、サブマリンの速球投手、金城基泰。この投手こそは、木庭教サトシの長いスカウト人生の中で、『スカウト冥利につきる』選手だった。
広島カープが初優勝を飾る5年前の1970年、金城基泰はドラフト5位でカープに指名されている。大阪此花商高という全くの無名校の出身である。木庭と金城の出会いには、偶然の邂逅カイコウであったが、ある野球人の『橋渡し』が存在する。夏の全国高校野球県大会に、見たいと思った選手がいて足を運んだが、食指が動かなかった。席を立って出口に足を向けたところ、声をかけられた。『お久しぶり、木庭さんじゃないですか』。赤ん坊を背負った男がにこにこしながら顔を向けていた。細身の、柔和な感じを与える人物である。『おいおい、西原じゃないか。お前さん、堺でスポーツ店をやっとると聞いておったが、相変わらず野球が好きなんじゃのう』『いや、今日は半分仕事なんです。次の試合まで居って下さいよ。此花商高の2年制なんですが、速い球を投げる子がいるんです』『ほう、そうかい』と答えて座り直した木庭ではあったが、ほとんど期待はしていなかった。
試合が始まり、此花商高のピッチャーが投げ始めた。長身の、ひょろっとした感じの若者だった。アンダースローで、ゆっくりとしたフォームから離れた球はグーンと伸びてくる。ただ、暴投あり、デッドボールありで、コントロールはからっきしない。まるで草野球のピッチャーが投げているようだったが、迫力はある。木庭の眼がぎらつき始めた――。木庭のそんな様子を、赤ん坊を背負った男はにやにやして眺めていた。
西原恭治、西鉄ライオンズ及び広島カープに所属したキャリアがある。現役引退後、野球界からは足を洗い、大阪・堺市内でスポーツ用具店を営んでいる。入団同期に鉄腕・稲尾和久がいる。稲尾が大投手になって行く一方で、西原は低迷した。店に、韓国居留民団の役員が訪ねて来た日がある。韓国で開かれる国民体育大会に在日同胞野球チームの一員として参加してくれないか、という話だった。気楽な気持で引き受けた。これがきっかけとなり、毎年夏に行われている在日高校生の母国訪問チームの監督も引き受けるようになった。この行事に関わってから、『店の仕事半分、訪問団の仕事半分』が西原の日々となった。住之江球場での木庭とのおよそ10年ぶりの再会は、西原にとってそんな日々の中の出来事だった。
住之江球場で金城基泰を初めて見た木庭は、その後、何度か此花商高を訪ねている。試合を観ていると、金城の威力ある荒れ球にはまったく手が出ない。俺の球が打てるか、打てるなら打ってみろ、ただし、行き先は球に訊いてくれ、というようなピッチングである。西原を通じ、金城の周辺情報も収集していた。性格は、ピッチングの通り、一本気の若者のようだ。木庭はますます惚れ込んだ。3年生の夏、木庭の『期待通り』、此花商高は大阪府大会の一回戦で敗れる。スポーツ新聞にも金城の名前は全く出ないし、スカウト仲間から名前が聞かれることもない。ただし、蛇の道はヘビである。金城によれば、カープ以外に2チームから接触があったと言う。阪神とヤクルト。
金城自身は、自身プロで通用するとは到底思えなかったし、法政大学へ橋渡ししてくれる人がいて、法政への進学がまとまりつつあった。高校時代甲子園に縁がなかった分、東京6大学で活躍してみたいという希望が沸々と湧いて。この年、1979年のドラフト戦線は、高校生では甲子園のアイドルとなった簑島高校の島本講平、岐阜短大付属の湯口敏彦、広陵高校の佐伯和司が三羽烏と呼ばれていた。それどれドラフト1位で、南海、巨人、広島に指名され、入団している。金城は広島に5位で指名された。以降、年末、カープへの入団が決まるまで、木庭と金城の攻防が続いた。
指名をした翌日、木庭は初めて金城の自宅を訪れた。実家は建設業を営んでいた。それまで、金城本人との接触は一切していない。不機嫌そうな顔立ちで、金城は現れた。法政大への進学を決めていた若者は、プロ球団のスカウトと会うのも嫌だったのだ。木庭はすでに金城が法政大への進学を決めていることを知っていた。難航は予期していた。木庭は指名に至ったいきさつを述べ、金城は大学進学の希望を語った。木庭にしてみれば、大学への進学、社会人への進路希望などは、いわば挨拶代わりの常套句でしかない。たとえ決まっていても、スカウトにとっては、『入学式、入社式が終わるまでは蓋は閉まらない』のだ。父親は息子の意向を認める、自由主義者であった。
何度かの接触、面談があった、が話に進展はなかった。師走も押し迫った日だった。甲子園の旅館に泊まっていた木庭は、金城の家に電話をかけた。潮時と踏んだのである。もしプロ入りをしたいなら、明朝電話をくれ、こちらからはもう連絡はしない、と言った。『最後通牒』を発した訳であるが、針に魚がかかったと読んでいた。金城が最後までこだわっていたのは、プロ入りすることによって、自分のために奔走してくれた監督の好意を踏みにじってしまうことだった。それはいい。大人の思惑など考えず、自分が行きたいと思う道に進め――という監督の言葉で踏ん切りがついた。『お世話になります』――翌朝、予期した電話があった。18歳の若者は老練なスカウトにまんまと籠絡されたのだった。
金城基泰のプロ野球人生は波乱に富んでいた。木庭の期待以上の活躍を見せてくれたと同時に、肝の冷やすような出来事もあった。2年間の二軍暮らしを経て、3年目10勝を挙げる。4年目、カープの初優勝の前の年であるが、20勝を挙げてチームの稼ぎ頭となった。下手投げは、左バッターに弱いとされるが、王貞治に対しても真っ向勝負が金城の持ち味だった。
その年の暮れ、よく働いたご褒美として球団は外木場と金城を別府温泉に骨休みに送り出した。ところが、10月12日、現地で知り合った人の車の助手席に座っていた。別府港に知人を迎えるため。ところが車はセンターラインで対向車と正面衝突の事故を起こした。顔に布団とガラスのかけらが数多刺さった。別府から広島の東洋工業付属病院に運ばれ、絶対安静が続いた。両眼が傷つき、眼球の摘出も必要か、と心配された。が、なんとか医師の努力、成果により退院までこぎつけた。特殊なコンタクトレンズをはめた。『野球』という文字が再び点灯したのはこの日以降である。
古葉監督は『お前抜きで頑張っているが、投手陣は火の車だ。もし出来るならばだけど、調整してみてくれんか』『やります』、二つ返事でそう答えた。6月、広島球場の大洋戦でリリーフ登板し、8月神宮のヤクルト戦ではリリーフに立って勝ち星を挙げた。失明の危機を乗り越え、金城は見事復活した。後トレード先の南海ではリリーフエースとなり、晩年は韓国の野球も体験した。プロ生活17年、過不足のない現役生活と言えるだろう。
1975年10月15日。先発外木場の後を受けた金城は、8回裏、1アウト、ランナー1、2塁で後楽園のマウンドに立った。真っ直ぐ、真っ直ぐ、さらに真っ直ぐを投げた。気力だけでは復活していた。9回表、金城がヒットでランナーに出る。大下がバンドで送り、三村がフォアボール。そして、3番ホプキンスが3ランホームランを打った。金城は初優勝の勝利投手となった。
カープの初優勝の年から言えば20年後になる1995年3月末、甲子園で選抜大会が開かれていた時期だった。『よう元気かい』。そう言って、金城が経営する蕎麦屋の暖簾をかき分けて入ってきた人物がいた。懐かしい顔だった。老けられたなぁと思ったが、口調も表情も、その醸し出しているものも以前のままだった。『先頃ね、昔、僕を騙してくれた人がね、雨で仕事にならんとかで訪ねて来てくれましたよ・・・』。金城は懐かしそうに微笑みを浮かべ、語った。
★木庭教: 1926~2008年。享年81歳。山本、水沼、三村、池谷、金城、正田、らの獲得に辣腕をふるい、また達川、高橋、川口、大野、長嶋、紀藤など埋もれていた無名選手の獲得に努力し、カープ黄金時代の礎を築いた功労者。 (参考:後藤正治著『スカウト』)
★京都市に日本初の路面電車が開業したのは明治28年のこと。その後、全国各地で開業が相次ぎ、最盛期には65都市、82業者の路面電車が走っていました。しかし昭和30年代に入ると次々と廃止に追い込まれます。が、広島や長崎では戦後の復興のシンボルとして人々の心のさせになりました。現在走っている都市は、東京、松山、函館、岡山、高知、富山、鹿児島、そして広島、長崎です。
★川崎市で中学生を殺害した18歳の少年の地裁判決『4年~6年半の不定期刑』だと。人一人を殺しておいて、こんな軽微な刑とは。少年法の規定にもよるのでしょうが、人の命が軽すぎる昨今。殺人には重刑で望むべきです。犯罪者の人権や社会復帰問題だけが優先され、殺された人の人権がないがしろにされている昨今と強く感じます。
★ブリュッセルでのテロ。ISの仕業とは分かっているが、マホメットは殺人指令をした教祖なのかなあ。不思議。勝手にイスラム教の名を騙り、テロにいそしむIS国。撲滅がまた難しいのだろうなあ。でくの坊のシリア大統領が無能で無知で無力だから。ロシアもこんな大統領に加担するのではなく、ISを潰すべく力を注ぐべきでしょう。が、ルーブルが大暴落した今、もうISなどに関わっていられない、金がない、がロシアの実情でしょうねえ。テロ問題はまだまだなが~く続く予感ですねえ。