Quantcast
Channel: Freeman 雑記帳・広島
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1093

名スカウト列伝木庭教⑩『私設スカウト上原屋に見出された、山本浩二外野手』

$
0
0










★今日の画像は、広島市北にある里山『白木山~中深川縦走』です。〇劃此↓3合目、5合目前の急登、5合目から中尾山方面、セ劃困ら可部方面、山頂から広島市内方面、中深川への縦走路、┰珍標高530mから広島市内、広島の自動車メーカー・マツダから世界に先駆け中国で新発売されたSUV・CX-4。

★★1957年の夏、広島市民球場が完成した。球場で賑やかな完工式が執り行われたが、広島市長がヘリコプターで舞い降りてきて、これにはスタンドにいた木庭教サトシもびっくりしたものである。この当時、専門のスカウト職を置いている球団は少なかった。広島で『私設スカウト』というべき役割を果たした人物がいる。今風に言えばボランティアである。上原清二という。福々しい好々爺という風貌の老人だ。市内の的場町やホテルなどに貸衣装店『上原屋』を出店し、手広く事業を営んでいる。上原は球団と言うより、元南海ホークスの監督、鶴岡一人個人の『私設スカウト』だった。上原は鶴岡と広島商業時代の同級生であり、親友だった。戦後、鶴岡が南海の監督になると、いい素材を求め、家業をほっぽり出して中国地方を歩いていた。

時代は飛ぶが、広島カープの黄金時代の主砲、山本浩二も上原との因縁浅からぬ選手である。山本獲得を巡っては勿論木庭も関わり合いがある。山本浩二が廿日市高校2年生、エースで4番を打っていた時、上原が最初の発見者となっている。きっかけはこうだ。『廿日市高校なんて部員が14、5人しかおりゃあせん。広島じゃ弱いチームなんじゃが、当時、取引先のクリーニング屋の親父が野球部の監督をしよった。これがよく、いい選手がおるからと言うんじゃが、いつ行ってもそんな者おりゃあせん。ところが、今度は気に入ってもらえるけえ、是非来て見てくれ、自信があるんじゃ。そういうことで足を運んだわけじゃな』。投球は特に目を引くほどのものではない。が、バッティングは高校生離れしていた。上原は早速鶴岡にご注進に及んだ。

山本浩二が3年になった夏。鶴岡が平和台での試合の帰りに墓参りに広島に立ち寄るから、廿日市の子を見てみたいと。大監督の来校に廿日市高校は大騒ぎになった。そして山本もコチコチになり、ピッチングでは暴投し、バッティングでは打ちやすいボールが来るのに、ボテボテのゴロかポップフライしか打てなかった。練習が済んで、鶴岡は山本にこう声をかけた。『甲子園を目指してやっとるそうじゃね。頑張りなさいよ』。即『プロ』という声はかからなかったのである。これが広島入りの運命の分かれ目となった。

山本はその後法政大学に進学する。この進学は奇しくも、上原、鶴岡の勧めによるものだった。法大に進んだ山本は、外野手に転じ、田淵幸一(のち阪神)、冨田勝(のち南海)と共に三羽烏を形成し、法大野球部の黄金時代を担ったことはよく知られている。彼らが4年生となった時、三羽烏の進路がスカウト達の最大の関心事だった。山本については、上原―鶴岡ラインが強いことも知っていた。承知の上で切り崩すのがスカウトの仕事である。上原の自宅にも何度か訪れている。広商の同窓生でもあり、先輩の上原は木庭に遠慮がなかった。山本を譲ってくれと切り出す木庭に一蹴し断った。

なお、この年はドラフトが始まって4年目。12球団の中で2番クジを引いた広島が1位で山本を指名し、すんなり入団が決まった。入団の契約については他のスカウトが担当している。自由競争の時代なら間違いなく山本は南海入りしていただろうと、木庭も上原も言う。

★木庭教: 1926~2008年。享年81歳。山本、水沼、三村、池谷、金城、正田、らの獲得に辣腕をふるい、また達川、高橋、川口、大野、長嶋、紀藤など埋もれていた無名選手の獲得に努力し、カープ黄金時代の礎を築いた功労者。  (参考:後藤正治著『スカウト』)

★先日広島市の北に位置する白木山~中深川を縦走した。帰路、芸備線に乗ると、真向かいにヤンママ2人が乗り込んで。各々小さな子2人を連れている。ほほえましい光景。やっ、と見ると、1人のヤンママの買い物バッグが目に入った。そして、驚いた。そのバッグのサイドに収められた週刊誌を見て。なんと、女性自身でも週刊女性でもなく、『週刊文春』だったのである。さて、彼女が文春スクープ『甘利大臣疑惑』に触発され週刊文春を選んだのか。そうではなかろうやっぱり『ベッキー不倫騒動』のスクープでこの週刊誌を選んだのだろうなあ、と推測される。週刊誌発刊部数で、69万部強とトップを走る文春。新聞、テレビメディアが報じないニュースに迫り、ヤンママまで取り込んだブランド力に感嘆、感心ではあります。

★産経新聞加藤達也元ソウル支局長著『なぜ私は、韓国に勝てたか』を読む。序文に知らなかった事実がこうある。『私は雑誌「正論」(14年9月号)に「性搾取大国韓国の不都合なる真実」と題した論文を書いた。ここでは、朝鮮戦争の休戦後、在韓米軍基地の近くに「基地村」と呼ばれる売春街が設けられ、米軍を相手に売春をしていた韓国人女性らが、韓国政府を相手に国家賠償を求めたニュースを取り上げ、日本の「従軍慰安婦」については、あれほど熱狂的になる韓国政府や韓国マスコミがこの問題では沈黙を守ったままであることを批判した。この「正論」が発売されたのは、今回問題となったコラムが出る直前の14年8月1日だった。韓国政府、朴大統領が問題視していたのは、本当は、こちらの論文ではなかったのか。論文に気づいた当局が私の動きを注視し始めた矢先に、「渡りに船」のように、あのコラムが出たのではないか』とあります。

そして、日本は『法治国家』であるが、韓国は表の顔と裏の顔が違う国で、中国が法の不整備もあって要人や担当官の恣意通りの行政を行う『人治国家』と揶揄されるが、韓国は国民の『感情』を忖度する『情人国家』だと喝破しています。

韓国経済の勃興期には、鉄鋼も自動車も電機もITも日本に教えを請うため土下座までした韓国だが、今日本を追い越す勢いになり当時の『恩顧』を忘れた『恩知らず国家・国民=韓国』でもあります。
かつて、韓国全土をくまなく歩き、ある意味親コリアファンだった私も『慰安婦問題』や『加藤事件』により、徹底的な嫌コリア派になりました。極論すれば、日本は韓国から得るものは一つもなく、韓国は日本がなくなれば未来はない国とも。もう韓国などと手を携える必要を感じません。南北統一もお題目程度で、南北の経済格差が激しい現在、統一は韓国の重荷にこそなれ、統一による国家的意義はどんどん薄れていると思う次第です。

★舛添の旦那、君子豹変す、ですねえ、情けない。アメリカ出張でお供共々第一ファーストを使ったり、15万円のスイートに泊まったり、はまだ許せる範囲でした。が、2年連続家族と正月に温泉ホテルに泊まり、その費用を『会議費』として政治資金から支出していたと。温泉ホテルでは『会議などありませんでした』と回答。木の上に登った豚になった舛添旦那、もう寿命も間近いでしょうねえ。人間、なれぬ器に座るとこうも人間が変わるものかと、大変感心する次第です。

★昨年9月の『鬼怒川大洪水』。被害も甚大で、復旧には大変な時間と労力がかかりました。地元自治体常総市の職員も不眠不休の活動を続けました。その結果、なんと自治体職員の中には残業代込みで月収が100万円を越す人が続出したと。市民の多くが被害に遭い、田畑、家屋の復旧に大変な費用負担が覆い被さる一方、市の職員給料100万円超は、残業時間が実際にあったとても市民感情からすると何やら役得を得たようにも見えますねえ。災害被害時の労働時間認定は非常時ということを勘案し、自治体と職員団体の間で常識的な線で折り合いを付けるべきではないでしょうか。熊本地方の自治体の方々には、常識の判断を切にお願い申し上げます。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1093

Trending Articles