Quantcast
Channel: Freeman 雑記帳・広島
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1093

『原爆供養塔物語③「供養塔の守り人・佐伯敏子さん」』

$
0
0








★広島市の平和公園には、住所氏名はあるものの引き取り手のない遺骨を納めた『原爆供養塔』がある。この供養塔の遺骨の身元調べにフリーライターの堀川恵子は東奔西走する。そのドキュメントが『原爆供養塔・忘れられた遺骨の70年』。本書は今年の『大宅壮一ノンフィクション賞』を受賞。その足跡と緻密なドキュメントは堀川の人類愛を限りなく表した書と言える。

★今日の画像は、私の山歩きホームグラウンド『牛田山286m』です。山根口から尾長山に登り、そこから牛田山へ縦走ピストン。8キロ弱の歩きですが、これが私の健康法。そして夏北アルプスへの鍛錬の場です。春先には、三つ葉つつじが満開になり心を安らげてくれます。本当に嬉しい里山、牛田山です。

★★ジャーナリスト堀川恵子が佐伯敏子さんと出合ったのは、1993年のことだ。原爆供養塔を目指して一目散に走って行くと、佐伯さんはいつも竹箒を片手に困ったような顔をして立っていた。『あんた元気なのはええけどね、ここはソオッと歩かなゃいけんよ。まだ大勢の人が眠っておられる場所なんじゃから』と。

現在の平和公園中央にある慰霊碑の回りには、被曝前には映画館やハイカラなカフェー、旅館が建ち並んでいた。東西を走る商店街にはビリヤード場、うどん屋、靴屋、薬局、楽器店に印刷所が軒を連ねていた。東の元安川の岸にある大きな舟着き場には、上流の村々や下流の島々から野菜や木材がどっさり届いた。川伝いに方々から物資が詰まる場所だから公設市場もあって、にぎやかな掛け声が辺りにこだました。そこは公園などではなく、人々の暮らしの息吹に満ちていた。あの日、瞬時に命を奪われた人たちが、足元にはまだ大勢眠っている。佐伯さんはいつも『ごめんなさい、ごめんなさい』とつぶやくように繰り返しながら、平和という名の冠を頂く公園の中をそっと歩いた。

原爆供養塔の前で、たくさんの人が佐伯敏子さんと出合った。人目につかぬよう、いつも静かに行動する本来の佐伯さんのありようとは対照的に、その記憶を語り継ごうとする人達の動きはどんどん広まっていった。佐伯さんの話を記録したミニコミ誌や証言集、そして文集の数はおそらく全国のあちこちに数万、いや十数万という単位を楽に越えてしまうだろう。晩年の佐伯さんを『広島の大母オカアサン』と呼ぶ人もあった。2015年、佐伯さんは96歳になる。

『似の島だけじゃない、まだまだ遺骨は広島の町のあちこちに埋まっとるんよ。供養塔だって外から見たら何も分からんじゃろう、あれと同じよ。最近じゃ、原爆死没者が20万人と簡単に言うけれど、20万人もの人死体を集めてみんさい。言葉では軽やかに20万と言うけれど、どれだけの山が出来るか、考えてみんさい。目の前に、その山があれば、少しは死者の気持も伝わるのかもしれんけど、誰も想像せんでしょう。あそこにいるのはみんな、殺された人達なんよ。死んだんじゃない、殺されたんよ。あの日、どうして自分が魚のように積み重ねられ、油をかけられ、焼かれんといけんかったのか、分からんまま眠っておられるんじゃから』。

佐伯敏子さんは、大正8年12月、現在の安佐北区緑井で産声をあげた。原爆投下の日は、前日姉の嫁ぎ先に泊まった関係で、自身は直接被爆をしなかったものの、爆心地から700mの市内に澄む母親を探し求め、また市内に住む兄たちを探し求め、連日市内をさまよった。しかし、被爆の不幸は敏子さん一家を絶滅の断崖に追いやった。19日に妹が、25日に長兄が、のたうち回る痛さを叫びながら亡くなった。30日には敏子さんと次兄が倒れ、被曝による病気が伝染病のごとく伝えられ、二人は牛小屋に移された。9月に入り、義兄が帰還し、首だけになった母をやっと探し当て、持ち帰った。眼鏡が溶けていたが、それが母の頭であった証拠である。そして次兄が9月15日に。その後数年のうちに亡くなった敏子さんの親兄弟親戚は13人にも上った。しかし、敏子さんを襲った原爆被害は想像に絶する。まず歯が全部ボロボロになって抜け落ち、身体は鉛のように重く、体重は28キロまで落ちた。その後卵巣癌、子宮癌も患う。

失意の中にあった敏子さんは、ある日、平和公園に立ち寄った。公園の片隅に、土饅頭と呼ばれる塚があった。その地下には、原爆で亡くなった何十万の人達が遺骨になって安置されていると聞いた。行方の分からないままの義父母、撞球場のおじさん一家、そしてあの日、自分に踏みつけられて叫び声をあげて亡くなった人達もみな、この土饅頭の下に眠っているのかも知れない。そう思うと、何かをしないではいられなかった。土饅頭の前で手を合わせる人はほとんどいない。草の一本、引き抜く人もいない。敏子さんは、自分の竹箒を置く場所を作り、周辺の掃除から始めた。無心で身体を動かしていると、心まで落ち着くような気がした。いつしか、それが日課になった。

ただ黙々と掃除をしていた敏子さんに転機が訪れたのは、とある穏やかな春の日だった。原爆供養塔の回りでは何人か顔なじみも出来た。そのうちの一人の男性が、地下室に入るための鍵のスペアを。『あんたにはいつも、本当はわしがやらんといけん仕事をもう10年もやってくれている。この鍵はわしの責任で渡すが、あんたなら中まで掃除してくれるだろう』と。

それからがまた敏子さんの転機になる。何万人にものぼる遺骨、その中に名前や住所らしきものが記載されているノートがあった。約2,000人分。これを敏子さんは書き写し、市役所に遺族への連絡を働きかけた。が、市役所は手が回らないと。やむなく敏子さんが勝手に縁者の行方を捜すはめに。が、手当たり次第と言ってもよいような探し方ではあったが、ぽつりぽつりと遺族が判明してきた。反対にすでに遺骨は帰っている、これが他人と言うのかというトラブルにも。

敏子さんの行動がその後、広島市を動かす。昭和50年、広島市は被曝30周年行事として、原爆供養塔の納骨名簿を一枚の大きな紙に印刷し、県内すべての市町村、そして全国の市役所や役場に発送した。広島市から送られた名簿は、一定期間、各役場の掲示板に掲示された。たまたま掲示板の前を通りかかって亡き人の名前を見つけたという遺族が、全国から難組も訪れた。この年だけで107人の遺骨が遺族の元へ帰っている。原爆供養塔が再建された昭和30年には、名前や住所が判明している遺骨は2,500人以上に上ったが、昭和50年には1,515人にまで減った。

原爆供養塔に行けば、佐伯敏子さんに会える―、こんな言葉が全国に広く知られるようになったのは、昭和55年前後からである。また、しゃべるのが不得手なので、ノートに書き留めてきた『遺書』を写し、これを原爆問題に関わりある団体に100冊以上送り届けた。時間と共に反応があり、東京の団体ともつながった。そしてこのノートは自費出版される。タイトルは『13人の死を見つめて』。

やがて80年代半ばから、東京や大阪を始め全国の学校が広島への修学旅行に力を入れるようになる。敏子さんの原爆供養塔の前に立ち、修学旅行の子供達に語る活動は、約20年続いた。中学や高校で話した子供達の何人もが、大学を卒業して新聞社や通信社に入ったり、学校の先生になったりして、原爆の問題に向き合っている様子を手紙で知らせてくれることが敏子さんにとって喜びのひとつになった。半世紀近く原爆供養塔のそばに立ち続けていた敏子さんの姿がぷっつりと消えたのは、1998年79歳を目前にした師走の頃だった。『どうやら倒れたらしい』。しばらくはこのような噂が流れたが、喪服姿の老女のことは、やがて人々の記憶から消えていった。

敏子さんは、現在郊外の老人保護施設に療養中で、健在である。98歳。原爆供養塔に収められた無縁の仏達に尽くした敏子さんの功績は計り知れない。

★やっぱり舛添旦那はウソをつき、その呪縛から逃れられなかったのだなあ。千葉木更津のホテルで正月に会議をしたと。その会議の相手の名前は最後まで公表しなかった。常識的に考えれば、旦那のこのピンチ、会議をした相手が名乗り出てもおかしくない状況。なのに最後まで知事の席を投げ打っても名前を明かさなかったことは、反対に明かせなかったのだろう。初動時期につい目先をかわすため『会議』と口からウソが出たのが旦那の生死を牛耳ったのだねえ。嘘つきとわかればもうこれは弁解の余地がないからなあ。世間を、メディアを見くびった旦那の敗北だねえ。しかしすごい、『週刊文春』。今年のダイヤモンド賞だねえ。他のメディアは一体何をしているのか、発表情報の垂れ流しで『調査報道』などどこにも見当たらない、少しは文春の爪の垢でも煎じて飲みたまえ。

★連日の逆転サヨナラホームランを放ったカープの『鈴木誠也(21)』。6月17、18日、対オリックス戦で。なんと史上10人目の快挙、球団では32年ぶりと。シーズン打率も312と3割をキープし、リーグ4位の強打者、すっかりカープの主力に定着。続く19日にも8回、勝ち越しのホームランを打って。カープの優勝に向け力強くプレーをします。いいですねえ、若鯉の活躍は。

★サンフレもカープに負けじと、対浦和戦では4-2の快勝、4位を確保。DF塩谷が2得点、オリンピックオーバーエージで選抜された名誉をプレーで返す律儀な選手。是非メダル獲得に奮迅の働きを期待します。

★鳩山邦夫氏の死去のニュースは世間を驚かせました。まだ67歳という若さ。が、最近の姿はかつてない激ヤセの体。一体邦夫氏に何が起こったのか。死因は報道されていませんが、推測情報ではガンか糖尿病ではないかと。いくら多額の資産を持っていても、やがて人は必ず死するという運命を如実に語っています。 合掌

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1093

Trending Articles