★今日の画像は、オリックスで活躍するルーキー山岡投手(広島瀬戸内高校―東京ガス)。瀬戸内高校は野球の名門校ではないが、強豪校の一つ。私がホームコースにしている牛田山縦走で登る際、瀬戸内高校の野球グラウンドを見ながら登る。土曜日も日曜日も、汗をかく高校生達がグラウンドでプレーしている。毎日このように励んでも、甲子園は遠い。本当にプロになるには人一倍の努力+基礎的身体能力がないと無理だとつくづく思う。そして、梅雨の花、アジサイです。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
★★昭和57年正月明け、輝子は前年に行ったジンバブエのお土産を持って遊びに来た。私は大学一年生で19歳だった。この頃の父は鬱病がひどく、夕方まで寝ていて、夕食の席でも一言もしゃべらず、辛そうな表情を変えることがない。『どうして宗吉はこんなふうなのかねえ。由香が不憫でしょうがないわ』。輝子は本当に情けなさそうに言った。その様子を見ていて、私の方が悲しくなった。
見るに見かねた輝子が、『全く宗吉はいつまでも鬱病で仕方ないわね。海外の暑い所に連れて行ったら治るかも知れません』、と突如言い出して、昭和57年4月、輝子と父母と私がバンコクに行くことになった。ツアーではコネクティングルームを申し込んでおり、父母で一部屋、輝子と私で一部屋を使うことにしていた。父は私と輝子の同室を心配していたが、何の問題も起きなかった。輝子は部屋野中でもテキパキと片付けものをして、『お婆さん』という素振りを見せない。
翌朝、チャオプラヤ川の水上マーケットに行くと言う。ガイドが『今日は旧正月で、子供達が通りかかった舟に水をかける習慣の「水かけ祭」があります』と言った。水上マーケットの水路を過ぎて、次第に土産舟はいなくなり、両岸に民家が建ち並ぶ一帯に入って行くと、10人ほどの子供達が川に潜って遊んでいる。と、その時、バケツの水が『バシャーン』と私達に掛けられた。一瞬、何が起こったのか分からない。輝子も髪から水をしたたらせながら憮然として言った。『何ですか、これは』。船頭のオヤジは言葉も通じず、ニコニコしているだけ。そうこうするうちに、顔にガツンと石が当たった。すごい衝撃だった。『痛いーっ!』。石だと思って袋を見ると、氷だった。
一度ホテルに戻り、服を着替える羽目になった。私達はブーブー言っていたが、輝子は気に留めていない様子だった。その日の午後はバンコク市内にある寺院を見学した。翌日は、日帰りでパタヤビーチに行く予定だったが、輝子は『海に行っても泳がないから、私はホテルで少し用を片付けます』と、一人ホテルに残った。私は何の疑問も持たなかったが、輝子の水泳好きを知っている父にしてみれば異例のことだった。後に、父は『おばあちゃまの老いを初めて感じた』と言っている。
タイ旅行から帰ると、あんなに元気だった輝子は、次第に弱音を吐くようになった。スーツケースが重いだの、お供で来てくれだのと。『おばあさまは、前々からインド洋に浮かぶ楽園、セイシェルに行きたいと思っているんだけど、宗吉、あなたたち一家で一緒に来てくれない?』。父の家に来る度に同じことを言われる。ついには母が、『おばあちゃまもご高齢ですから、今のうちにご一緒しましょうよ』と、タイ旅行の翌年、私が大学3年を控えた昭和58年の春休みに、また輝子と父母の4人で、セイシェルに行くことになった。実はこれが輝子の最後の海外旅行になるのだが、その時はそんなことは全く考えられなかった。
海で泳ぐのは、輝子と父母と一緒に行ったタイのパタヤビーチ以来だった。沖で泳いていたドイツ人夫妻が近くに寄ってきて、ドイツ語で母に何かを尋ねた。母は、その昔、ハンブルグにいたのでドイツ語が話せる。私はその姿を見ながら、母に何を話したか聞いた。『あのご夫婦はセイシェルに1ヵ月滞在ですって。私達が一週間のツアーだと言ったら、あんなに遠い日本から来て、たった一週間ですか。信じられません、って。ママ達の方が、一ヶ月も滞在出来るなんて信じられないわよね』。
輝子が亡くなった後に聞かされた話だが、セイシェルの最終日、私と輝子がホテルの庭を散歩している時、母がたまたま輝子と私の部屋の絨毯にある小さな黒い汚物を二、三個発見した。『あなた、大変!ちょっといらして!』。母は汚物をティッシュペーパーで拭き取りながら思った。『輝子お母様は来年、メキシコのカンクンに行きたいとおっしゃていますけど、ご無理なのではないかしら』と。父も思わず胸打たれてその場に立ちすくんだと言う。 (参考: 斎藤由香著『猛女と呼ばれた淑女』)
★オリックスの新人ドラ1、山岡投手の評価が高い。12戦先発、3勝6敗と黒星が先行しているが、その旧内容は見事、との評価。勝ち数に反比例するがごとく、防御率は2.54となかなかのもの。先発試合中、9試合でクオリティースタートを記録。後半戦の結果次第では十分新人王の有力候補になりうる。山岡は、広島の瀬戸内高校から東京ガスを経てオリックスへ入団。交流戦で、オリックスの試合で山岡の投球を見たが、低めに決まる直球に力があり、とても好感が持てた。広島の高校野球戦では、巨人の田口と投げ合った仲だろうなあ。カープの活躍もいいが、広島出身のプロ選手が活躍するのもうれしい限り。その筆頭はソフトバンクの柳田、だろう。おっと、まだいたねえ、横浜の投手石田。県工~法大~横浜、の履歴。横浜先発の一角を担う石田にも応援をしたい。そう言えば、昨年のドラフトでハムが1位指名した堀君。田口の後輩、新庄高校卒の堀投手。いつ試合に出てくるかが、大変楽しみだ。
★ドイツで行われた、安倍首相とトランプ大統領の会談で、アメリカ側が『日本の自動車市場の非関税障壁が問題だ』と指摘し、規制緩和を求めた。トランプ側は自動車分野を個別に取り上げ、安全や環境基準などの非関税障壁が、米国車の日本市場への参入を妨げているとの認識を示した。今更何言ってんだい、とそっくりその言葉を返したいねえ。今年フォード、来年クライスラーと、日本市場から撤退する米自動車メーカーの意気地のなさを非関税障壁へ難癖をつけるとは。GMだって、年間販売台数はたったの1,000台そこそこ。売る気もない自動車なんか、市場が右下がりの日本では売れないねえ。韓国車が日本から早々と撤退したのがいい例だ。額に汗して努力しない限り、新市場での成功はない。
★公明党は国政で自民党と組み、与党の一角を担っている。『自民党政策をチェックする機能を発揮する』でその存在感を示すと。なら、聞くが、加計学園問題で公明党はどういうチェック行動をとったのか。一体どういう存在感を示したのか説明してほしい。すくなくとも、道義的に首相のお友達の加計学園だけが獣医学部の新設を認められるような施策を打つこと自体を止める必要があっただろうに。それは首相としての国民に対する正義感でもあり、国のトップとして持ち続けなければならない信頼感の維持であったはず。公明党は一体現政権で、どういうチェック機能を果たしているのか教えてほしいなあ、山口党首殿。
★政治家は失言すると、たびたび『誤解を招きかねない発言だった』などと釈明する。最近では、東京都議選の演説で発言を問題視された稲田防衛相が、記者会見で30回以上『誤解』を連発した。『防衛省、自衛隊、防衛大臣としてお願いしているんじゃないかという誤解を招きかねない。自民党として応援しているという真意について誤解を招きかねない』と。聞く方のせいなのか、開き直っているのか、けむに巻こうとしているのか。政治家の言葉は頻繁に『誤解』されるほど軽くはないはずだが―。
国語辞典編纂者の飯間浩明さんは、『稲田さんは「誤解」の意味を誤解している』と指摘する。三省堂国語辞典によると『誤解』とは、『間違えて違った意味に受け取ること』。飯間さんは、メガネ屋で店員から『ムショクですね』と言われた客が、『俺は無職ではない。公務員だ!』と起こった場合を例に挙げる。『無色』のレンズでいいか確認したという真意が、間違って客に『無職』と伝わってしまった、というような例を指すと。
政治家が失言するたびに『誤解だ』と釈明することは繰り返されてきた。古くは中曽根首相が1986年に『アメリカには黒人などがいるから日本より知識水準が低い』と発言した際、『いろいろ誤解も受け、アメリカ国民の感情を傷つけたことは申し訳ない』と弁明した。西成東大教授は、政治家が『誤解』という言葉を使う場合、『本来の意味とは離れ、詭弁になっていることがあるので、だまされないよう注意が必要だ』と話す。まさに、稲田防衛相の場合この『詭弁』がもっとも適切にあてはまる、と拙者は考える。
ライターの武田砂鉄さんは、『言っている当人達も、「誤解」という言葉に無理があることは分かっているが、素直に非を認めると立場が危うくなるので「誤解」でうやむやにしている。それを放置してきたメディアや有権者の責任は重い』と話す。『誤解』という言葉は、日常生活やビジネスの世界でも、人間関係のいざこざやもめごとを穏便に済ませるために使うことはある。だが、『政治家の言葉は一般人とは比べものにならないほど重い。自分の思いや考えを言葉で訴え、有権者の支持を得たり、有権者を説得したりするのが重要な仕事だからだ』と武田さんは言う。『それがうまく出来ないのは、政治家として実力不足ということ。それなのに謝るどころか、「誤解」だと言って聞き手のせいにしてしまう。要するに有権者は盛大にバカにされているのだ』と。まさに、稲田大臣など、弁護士としての能力は別として、政治家としての素質、資質に疑問を抱くのは拙者だけではないだろうなあ。
★ノーベル平和賞を受賞した中国の民主活動家『劉暁波さん』が死去した。末期癌だったと。1ヵ月余り前に刑務所から厳重に警備された病院に移送されたが、拘束下に置かれたまま61歳で死去した。中国共産党王朝は、世界に対して真っ黒な十字架を背負うことになった。重き癌病を負った劉さんを、治療に向かわせることなく、手のほどこしようがなくなった末期症状で病院に送り込むなんて、無罪の人間に死刑を施行したのと同じほどの重さを持たせる。心ある中国国民も、共産党政府のやりかたに反心を抱いている人達も多いだろう。『反国家罪』と言えば、何でも許されるとまさに誤解している中国官憲達の終焉も遠くないだろうなあ。第二次世界体制の終焉と共にその絶大なる権力を剥奪され、犯罪者の烙印を押されたドイツのナチ親衛隊、日本の憲兵隊などそれに類するなあ。しかも、中国では劉さんの死去の報を報道制限にかけ、国民に知らせる義務さえ遮断している。もう人権を全く無視したナチ並の国になった中国共産党国家ではある。
香港では中国政府の出先機関の建物前で追悼集会が開かれた。民主派団体が主催する集会を訪れた人びとは、それぞれ白い花を劉さんの写真の前に供え、冥福を祈った。『中国共産党に殺された』と。劉さんが妻・劉霞さんに残した最後の言葉は、『お前はしっかり生きなさい』だったと。中国に香港があることが唯一希望の星であろうか。寂しいなあ。
劉さんが亡くなった遼寧省の病院は記者会見で『肝臓がんは早期発見がむつかしい。外国の専門医も我々の治療を高く評価した』と述べた。が、ちょっと待って、肝臓がんの発見は『血液検査』で可能だ。初期の発見が可能であれば、現在肝臓がんの治療はさして困難ではない。しらじらしいなあ。それとも中国共産党国家では、刑務所に入れた犯罪人には健康診断を行わないのだろうか。これこそ人権蹂躙だ。
★新聞の投書欄に、『学びの機会 戦争に奪われた』と題した、79歳の女性の投書が掲載されていた。女性は、敗戦色の濃い1945年3月、家族で旧満州に移住。翌年5月に引き上げたと。敗戦による避難生活が続いたため、一つ下の学年に復学した。そして高校入学を心底願いながらも経済面で断念せざるを得なかったと。母に『なぜ満州へ行ったの』と尋ねると、『日本の中枢があちらに移行するから、よい教育が受けさせられると思って』と言われた。以後、中卒を学歴として過ごし、子供も産んだが、当時親の学歴を記入する欄があり、後悔したとも。40歳を過ぎて通信制の高校へ入学。4年間の高校生活では子連れで修学旅行へ傘下した。年を重ねての学びは大変だったが、素晴らしい先生、学友に恵まれ充実した生活だった。感謝している。現在は皆が若いうち教育を受けられる時代だ。この平和が続きますように願う日々だ、と。
敗戦間近な時期にも、国は移民を満州に送り混んでいたのだなあ。食糧難、冬の寒さの厳しさ、そして敗戦後の帰国への厳しい環境を乗り越えられたこの女性の芯の強さに感動すると同時に、国家・政府は国民をダマシてでも、目標へ突き進む組織、集団であることを再認識した。加計学園などの茶番を見ていると、一層その感を強くする。
★広島駅前再開発でタワービルが出現した。上層部はマンションとして売りに出しているが、住友不動産はいまだ分譲広告を流している。ということは、この3月にオープンしたタワーマンションは即日完売ということにはならなかったのだなあ。この後、来春には広大跡地に600戸を超す超タワーマンションの発売が控えている。が、広島の市場でこれほどの高額マンションが左から右へと売れるもんかなあ。他人事ながらちょっと心配ではある。