★今日の画像は、アフリカでボランティア活動をする『プラ子こと、栗山さやかさんが手掛けているモザンビークの小中学校教育活動』などの模様です。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
さやかさんは、元渋谷109ショップの店員。OL、フリーター後、2006年からバックパッカーとして60カ国を貧乏旅行。現在モザンビーク北部の町でNPO『協会アシャンテママ』の活動をしながら、現地の国立医療学校を卒業。現在モザンビーク北部の主として子供たちの教育に関し協会活動をしながら、隣国マラウィ南部の小さな村でも活動をしている。具体的には小中学校の校舎を建て、子供たちを入学させ、教育用具を準備し、また生活面での改善活動に取り組んでいる。活動資金は日本の募金活動から得ており、その額は年間500万円弱。物価の違いがあるとは言え、厳しい財政状況ではある。平成27年には、社会貢献支援財団から表彰を受けている。拙者も時折スズメの涙ほどの些少なカンパをしているが、この輪が広がればいいと思い、このブログに取り上げました。栗山さんの現地報告のブログは以下。http://purako.jugem.jp/
★★真夏のある日、会社訪問から疲れ果てて帰って来ると、マルチーズのコロが庭で同じ場所をグルグル回っている。獣医さんに聞くと、老犬になり、三半規管が衰えて自分の居場所が分からなくなっているのだと言う。私が6歳の時飼ってもらったコロはもう18歳になっていた。耳も悪く、コロ、コロと呼んでも気付かない。あんなに元気で庭を走り回っていたコロが弱ってきたのと同時に、輝子も次第に元気がなくなった。伯父の家でふさいでいる日々が続いた。
それでも8月には中軽井沢の別荘に来ると言うので父と母は喜んだ。国内旅行はそれが最後になった。9月末には女子学習院の同窓会、常磐会に伯母に付き添われて出席した。常磐会はダンスホール事件で除名されていたが、戦後復帰を許されたらしい。それ以降、輝子は一度も外出することがなかった。
10月初め、輝子は右脇腹に痛みを訴え、千駄ヶ谷にある林医院に入院した。ところが、一向に良くならないばかりか、胆嚢の腫れと痛みが増して行くため、11月14日に回復手術をした。病理検査で肉腫だということが判明し、伯父茂太は林院長から覚悟しておくよう言われた。
私は大学の授業が終わると、家に帰り、母が作ったゴマ豆腐やコンソメスープをタッパーに入れて病室に届けた。輝子はレストランやホテルも超一流を好んだので、『おばあちゃま、これは「吉兆」のお豆腐ですから、どうぞ召し上がって下さい』と、嘘を言うと、輝子は『まあ、おばあさまが好きな吉兆なの?結構ですこと』と、弱々しく微笑んだ。私はそのいたずらっぽい笑みを見たくていつも同じ言葉を使った。
輝子にサントリーの内定を取った報告をした日、病院から帰ると、コロがまた庭で同じ所をグルグルと回っていた。18歳のコロはすっかり弱り、食欲もなく、白内障が進み、目が見えない状態だった。抱き寄せてソファで膝上に座らせると、安心したのか『クン』と鳴いた。私がコロの頭をなでていたら、熱い液体を膝に感じた。『あっ、コロがお漏らしした!』。抱き寄せるとグッタリと目をつむり今にも死にそうだった。丁度、その時外出先のデパートから母の暢気な電話が入った。『由香、何か買って帰るもの・・・』『ママ、それよりコロが大変!お漏らししたの。死んじゃいそう。早く帰ってきて!』。私は電話を切ると、書斎にいる父に向かって叫んだ。『パパーッ!コロが死にそう!早く来て!早く!』。その晩、コロは死んだ。
コロが死んで、私は何も手につかなくなった。私は妹を失ったかのようで、朝起きると泣いて、食事をすると泣いて、お風呂でも泣いて、ベッドに入ると一緒に寝ていたふわふわのコロを思い出し、一日中、メソメソしていた。一方の輝子は、次第に食べ物は何も受け付けなくなり、容体は急激に悪化していった。新しい年を迎えるのは厳しい状況だった。
そんなある日、私の卒論提出は1月上旬に迫っている。目次と序章だけようやく完成した。タイトルは『茂吉短歌に於ける肉体性』とした。
第一章 味覚
第一節 死と食
第二節 孤独と食
第三節 病と食
第二章 嗅覚・・・
ある日、輝子を見舞った後、父と小田急線で帰る途中、新宿で『由香と一緒に外出することなんてないから、映画を観よう』ということになった。父と初めて一緒に見る映画だった。家に帰ると母に、『何を観てきたの』と聞かれ、『伊丹十三のお葬式を観てきた』と答えると、『いやあねえ。こんな時にそんな映画を観てきて。他の映画にすればいいじゃない』と叱られた。それでも12月11日、病床で89歳のお誕生日を迎えた。すでに体は痩せ細り、話す言葉も少なくなり、すっと目を閉じたまま点滴を受けていた。12月16日の夕方、家に伯父から電話がかかってきた。輝子の容体が急変したらしい。父は普段着からわざわざ背広に着替えた。私は卒論にかかりっきりで、母は『本当に悪かったら、すぐに電話するから』と私に言い残し、父と車で病院に向かった。
随分と時間が経った頃、病院にいる母から電話があった。おそろしくゆっくりとした口調だった。『由香、今からママが言うことをよく聞いてね。おばあちゃまがお亡くなりになったから、今から言うものを用意してちょうだい。それから何か黒っぽい服に着替えてハイヤーを呼んですぐにいらっしゃい』。私はその瞬間、父母と一緒に行かなかったことを悔やんだ。あんなに元気だった輝子が死ぬなんて考えられず、伯父からの電話にも『危篤』という実感が沸かなかったのだ。ハイヤーが家に来るまでの時間、食卓を見回すといつもと違って、家は広々と感じられて暗くて寒い。病院にかけつけると、みんなが廊下で嗚咽していた。
葬儀では、葬儀委員長の谷川徹三先生の大変格調の高い弔辞の後に、入江侍従長の弔辞が続いた。『お亡くなりになった齋藤輝子さんは大変ユニークな方で、どなたでも一生のうち一度しか許されないお歌会始の儀に、あの方だけ二度出席されたんです』。みんな、その言葉にビックリ。何と、女子学習院のOB会である常磐会の宴会の時に、当時の皇后様にじかにお願い申し上げ、それで皇后様が『齋藤を』とおっしゃって下さったので、『二度ご出席されました』。そんないかんにも輝子らしい秘話が紹介され、弔問客から笑いが漏れた。
次の阿川弘之先生は、『クイーン・エリザベス鏡す罅戮撚I佑らホノルルへ航海した時の話をされた。それは父と輝子の一緒の旅で、他には平岩弓枝さんや獅子文六さんの奥様も乗り合わせていた。輝子は船上の料理を評して『どうしてこんなにまずいのか。キャビアとフォアグラの他は一皿ごとに味が落ち、厨房にまづくする係がいるのではないかと思えるほどね』と毒舌を吐く。そして『阿川さん、ざる蕎麦か何かないの?』と言った。阿川先生のユーモア溢れる語り口に弔問客が爆笑した。
(参考: 斎藤由香著『猛女と呼ばれた淑女』)
★昭和34年に流行った、スリーキャッツが歌った『黄色いさくらんぼ』。さくらんぼは、ピンクか赤、というのは今の時代の常識。が、この当時、さくらんぼは雨に当たると実が裂けるため、きいろい色の状態で早めに収穫し、店頭に並んでいた。今は、ハウス栽培で、天井に薄いビニールの幕を張って実が雨に当たらないように工夫し、さらに、一枝に実る実の数も制約するなどしておいしいい、大きな、そして真っ赤なさくらんぼが店頭に並んでいる。むかし、むかし、そのむかしには、さくらんぼって、店頭では『黄色』だったんだねえ。知らなかった。
★日韓政府が文書を交わし、問題は終結したはずの『慰安婦問題』がまたぞろ頭を持ち上げてきている。そんな中、『慰安婦問題の虚構性』を糾弾する手紙を日米の政治家宛てに書いた韓国の古老がいる。在米の韓国系米国人古老は、日本統治時代の朝鮮で生まれ、そこで教育を受けた。年齢は90歳に近い。戦後、韓国の名門大学へ進み、在米の大手企業に勤めた。2年前、米国のケネディ駐日大使あてに手紙を書いたのは、アメリカで慰安婦問題を巡って『事実でないこと』がまかり通っているという事態を、どうしても見逃せなかったからだ。
『強制連行され、日本軍の性奴隷になった20万人もの婦女子』『かつてないほど残酷な20世紀最大の人身売買』・・。マイク・ホンダの議会活動・・。『日本人の名誉は貶められるばかりだ』。ケネディ大使への手紙は、事実の分析を踏まえた虚構性の根拠を箇条書きにしている。●狭い朝鮮半島から20万人もの婦女子を大衆の抵抗もなく強制連行できるはずもない、●済州島で『慰安婦狩り』などを記した吉田青治の本が1989年に韓国で翻訳されるまでこうした『話』は聞いたことがない、●もし、実際にこうしたことが行われていたなら朝鮮にいた欧米の外交官、宣教師、メディア関係者らが何等かの報告をしていたはずだ―。
『当時は「おしん」の時代ですよ。家が貧しいために、身を売られた若い女性は日本人にも朝鮮人にもいました。私も当時、朝鮮語の新聞で慰安婦募集の広告を目にした記憶があります。「親権者同伴、戸籍抄本持参で業者がいる旅館まで来るように」と書かれていたのが印象的でした』。さらに、『強制連行などの話は客観的に分析すれば、あり得ないと分かるでしょう。それなのに日本政府は事なかれ主義で謝ったり、お金を出したりした。アメリカで事態を放置すれば、在米日本人、日系人、日系企業、旅行者・・、子々孫々までに禍根を残すことになると思います』。彼の思いとは裏腹に、アメリカでの事態は悪化する一方。歯がゆさが募るばかりだ。『僕は部外者。動いたのは義侠心のようなものかな。本来なら日本人自身がやるべきでしょう。特に当時の朝鮮にいて実際に見聞した日本人たちがもっと声を上げて、今こそ真実を証言すべきですよ』。韓国人の古老はこう語った。森友学園、加計学園での政府対応をみていると、何ごとも『事なかれ主義』に見える政府・官僚たち。その偏った、傷ついた精神こそがこの『慰安婦問題』をも曲げているのだと、思われる。(参考:産経新聞)
★オバマ政権下で国務副長官を務めたトニー・ブリケンさんは、北朝鮮の金正恩体制の崩壊に備え、日米韓や中国などが『事前協議をすることが非常に重要だ』と語り、在任中に中国側に協議を持ち掛けたが、応じなかったことも明らかにした。
ブリケンさんは、正恩が権力掌握のため、政権幹部らの粛清を急速に進めていると分析。粛清対象となった幹部らが先に行動を起こす可能性があるとして、テロやクーデターに踏み切る可能性がありうるとの見方を示した。こうした事態に備え、関係国が一致して対処出来るように、ヽ忙楡澆隆浜↓軍の派遣方法、J紊療J △砲弔い道阿剖┻弔垢詆要性を訴えた。在任中、中国政府高官と会談した際に、協議を呼び掛けたという。中国側も関心を示していたが、北朝鮮政府を刺激することを恐れ、具体的な協議に発展しなかったと。これらの北朝鮮対策は、トランプ政権にも引き継がれていると証言している。
まあ、北朝鮮問題は早晩というか、いずれ決着がつくだろう。現在韓国新政権は対話姿勢を打ち出しているが、いつものことながらこれは成功しないだろう。時とエネルギーの浪費にしかすぎない。本格的に中国が乗り出せば事態は大きく変わるが、まだその時期ではないだろうなあ。
★春夏秋冬、四季を通じて庭園を楽しませてくれる『新宿御苑』。新宿御苑の歴史は、徳川家康が江戸に入った翌年の天正19年(1591)にさかのぼる。譜代の家臣、内藤家2代目の清成は、多年の功労と江戸城西門警固の功績を認められ、現在の新宿に屋敷地を拝領した。その際、家康は清成に馬を走らせて回れるだけの土地を授けると言い、その結果、東や四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保にまでおよぶ広大な土地を賜ったと伝えられている。これが新宿御苑のルーツだ。石高3万石余りの大名としてはもとより、江戸の中でも非常に大規模な賜邸であったことから、その所在が『内藤町』と命名された。元禄11年(1698)に、幕府は内藤氏の広大なこの下屋敷の一部を返還させて、町屋とともに馬継の施設を設け宿駅とした。これが甲州街道最初の宿駅で、内藤家の屋敷跡に新設されたため『内藤新宿』と呼ばれた。明治の時代になり、政府が内藤家から土地・家屋を買い上げ、牧地、農場試験場などを設置、庭園であった新宿御苑は市民への観覧へ提供され、現在に至っている。
★家田荘子著『昼、介護職。夜、デリヘル嬢。』を読む。夫婦離婚し、介護の仕事で子供を養っているが、とても収入が追いつかない女性。介護職では、老人たちの身の回り、下の世話まで多岐にわたる。セクハラなんて日常茶飯。90歳になっても男の欲望は消えない。それらをひらり、ひらりとこなす介護職。で、収入を増やそうと、夜、デリヘルに応募したら年齢制限にかかってことごとく失敗。が、広島のカサブランカ・グループでは、熟女用のデリヘル・五十路マダム、を持っており、ここで救われた。やってることは、介護職とイーブンのもの。尻を触られ、セクハラを受ける介護職の延長線上にデリヘルがある。カサブランカに登録している現役は広島を中心に中国地方、大阪まで広がり、800人程度。卒業者は4500人程度。すごいことだ。
『風俗は、一番自分の恥ずかしい部分をさらす仕事かもしれない。ならば介護職は、相手の一番恥ずかしい部分をさらさせる仕事ではないだろうか。認知症の利用者さんたちは、家族が見たくないこと、知りたくないことまで介護職の人たちにさらしているのだ。こんなに大変な仕事なのに低賃金で、看護師さんほど職業的地位が高くなく、まだまだ市民権を得ているとは言いがたい』(著者、家田荘子)
★生涯医師、聖路加国際病院名誉院長の『日野原重明さん』が亡くなられた。享年105歳。2月ごろ、TVに生出演され、まだまだやらなければならないことがある。110歳までは生きると、意気軒高でした。ご冥福をお祈りします。 合掌