★広島を元気にした男たち―明治・大正期の財界人群像◆ 悵翕豺七』
広島の歴史を知らない市民が多くなった今、広島を育てた先人の努力と工夫を我々は新しく紐解き、その先人の偉功に対し感謝と喝采をささげなければならない、と私は思う。そのため、ここに『財界人群像』を記す。
★今日の画像は、北朝鮮の商店にいっぱい並ぶ『日本製種類』と、かわいく美しいデージー、バラルゴニューム、ギンギアナム。いずれがあやめか、カキツバタか。花っていいですねえ。北朝鮮は日本の常識では考えらえない国なんだねえ。飢餓で国民が飢え死にする多発する可能性が高い現在、この国の政府はなんらの手立てもせず、一部高官が贅沢三昧。これって、やっぱ『金北朝鮮独裁王朝』のなせる業だねえ。
★★『伊東幸七』 天保12年1841生、大正11年1922年12月没、享年82歳 肥料商、綿商、広島商業銀行頭取
広島市平和公園の西側の堺町を渡す『本川橋』がある。幕末のころ、この本川橋が洪水で流失した。広島藩では、西国街道の要衝に架かっている橋だけに、早急な復旧を目指したが、何分にも財政にゆとりがなく、架橋の費用が賄えなかった。その時、猫屋町で雑貨百般の問屋を営なんでいた『猫屋』から、架橋の費用を出資するとの話が決まり、現在の形をした鉄製の橋が完成したのであるが、広島藩では『猫屋』に対して大層の恩義を感じ、この橋を『猫屋橋』と名付けたと言われている。その猫屋は、広島にお城が築かれた頃、猫屋九郎衛門兼鎮という者が住みついて商売を始めたことから『猫屋町』と名付けられたとも、浅野家が安芸の国に領地替えの折和歌山かた従ってきたとも言われている。明治維新後、廃藩置県や新制度による社会体制の中で、広島藩内の豪商と言われた大方の店が没落、猫屋もその例にもれず商店としての名前を消してしまった。そして『猫屋橋』もいつの間にか『本川橋』と改称されたのである。しかし『猫屋町』の町名だけは現在も残されているのが唯一の救いとも言えよう。
猫屋町は本当に小さな区画で、本来なら本川町○丁目、となるべきところ、町名が残されていることは、広島市の町名改革でも一議論あって残されたものと推測される。猫屋町に連なる旧塚本町や堺町筋には、かつては広島を代表するような商家が軒を並べていた。その中でも特に塚本町の四天王と呼ばれる4軒の商家があった。それは、森川脩蔵(金融業)、海塚新八(肥料・金融業)、松本清助(肥料・会社役員)と『井東幸七』である。奇しくもこの4人がいずれも養子というのも不思議な縁だが、他家から新しい血が入ったことで、その家に活気を注入し、家業の繁栄に繋がったものと見られる。
伊東家のものもとは、安芸郡狩留家村(現白木町)の住人茂兵衛が、安政年代(1854~1860)に広島に出て来て、猫屋町に居を構え『三国屋』の屋号で肥料や綿仲買商を始めたことに由来する。茂兵衛に子がなかったので、佐伯郡井口村の屋号『東屋』から利助を養子にもらった。利助はその後二代目茂兵衛を襲名し、明治維新後、平民の苗字の付与により、地名の井口の『井』と屋号東屋の『東』をとって『井東』を名乗るようになった、と言われている。二代目茂兵衛にも子がなかったので、佐伯郡草津村に住む、弟の山口幸助の子幸七を養子としたが、井東家はこの幸七の代に広島城下でも有数の商家へと成長した。
幕末から明治にかけて、広島城下では、特に綿の栽培が盛んで、そのための肥料として、干鰯という肥料が多用されていた。この肥料の販路をさらに広げるために幸七は、太田川の舟運を利用して、祇園、古市から可部、さらに加計方面の農家へと売りさばいた。そして、その売上代金で、その地で作られた野菜や炭・薪などの日用品を舟に積み込んで広島へ運び帰って販売するという、二重に商売を手掛けて財をなした。
明治17年、広島にとってはお城の建設以来とされた『宇品築港』が計画され、その発起人には当時広島を代表する実業家が名を連ねているが、幸七も当然加わっていた。さらに明治26年、広島米綿取引所が設立されるにあたり、幸七は肥料商と併せて綿商を営んでいた関係で、その発起人にも名を連ね、設立に尽力しているのである。同年末の広島市内の所得税納税者が新聞に発表されているが、その総数800余人のうち商業者は413人で、その中で40円以上の納税者は8人であった。このうち幸七は2番手にランクされている。^妥槌十吉、伊東幸七、3つ与携、だノ媛貼ΑΑ
しかし幸七は、この財力を自家所有することなく、すすんで慈善事業に向けたのであった。その一つが、真宗信徒への聞法布教のために設立された『闡教部センキョウブ』という仏教布教団体に対して惜しみなく資金を提供し、その事業の活況を促した。この『闡教部』は明治4年、『講』として結成され、『十人講』と呼ばれており、小学校の建設や火葬場の設置などに尽力していた。が、この時期資金難にあえいでおり、同じ志の松本清助らと共に、役員となって運営に携わった。幸七らの参加でその活動は一層活発になり、明治33年7月には、財団法人として認可を受けている。広島で初めての牛乳会社を設立してその収益を闡教部の資金に回したりしているが、この牛乳会社が現在の『チチヤス乳業』へと発展したものである。現在広島地方では、浄土真宗門徒が多いのは、闡教部などの布教団体の活動、活躍によるものとも言える。
明治29年6月、幸七は払い込み資本金5万円で『広島商業銀行』を設立し開業させた。日清戦争で潤沢となった広島市内の商業資金の円滑な循環を図る一端とするためのものであると同時に、銀行からの収益を『闡教部』の運営に当てるという目的もあった。そして大正3年には、広島実業銀行を合併している。前年12月に金融恐慌が始まり、実業銀行が預金の取り付けに遭ったことから、その救済もあって県知事らの斡旋で合併したもの。さらには山口県に支店を出すなど、積極的西天網を拡大していった。
当初、銀行の事務所は幸七の自宅の二階に置いていたが、業務の拡張で狭くなり、大正2年、塚本町61番地に店舗を新設した。現在はマンションとなっているが、本川橋西詰めの角地で、ルネッサンス様式でレンガ作りの建物は当時としては斬新なもので、その威容を誇っていた。広島商業銀行は、大正9年10月、広島県内7銀行の合併による芸備銀行の設立に参加して、24年余の歴史に終止符を打った。設立された芸備銀行は、その後幾多の銀行を合併・買収して現在の広島銀行に至っている。
幸七は、厚い信仰心と奇特な心がけを信条として家業を経営し、広島財界に大きな名を残して、大正11年12月31日、除夜の鐘の音を聞きながら永眠した。享年82歳で、その亡骸は己斐町の菩提寺『善法寺』に葬られている。現在幸七の名前を留めるものとしては、厳島神社への参詣道の鳥居下に据えられている狛犬に『塚本町 伊東幸七』と刻まれているのが見られる程度である。
(参考: 田辺良平著『広島を元気にした男たち』)
★カープ鈴木が、オールスターを挟みやや不調気味。ホームランも途絶えて。打点王争いもロペスの後塵を拝する状態。気分もすぐれないのか、凡退すると、ベンチでヘルメットを投げ捨てるしぐさなどが見られた。が、30日のヤクルト戦は違った。1-0の6回、1死1、2塁で大松の安打に反応よくホームに返球し、捕殺・ランナータッチアウトを記録すると、その裏、2番手山本から21号3ラン、8回にも左前2点打で71打点で並んでいた横浜ロペスを突き放した。お立ち台では『最高で~す!』を2連発。試合はカープが14-1で大勝。60勝に一番乗りし、2位阪神との差を10に。そして先発岡田が9勝目を挙げ、いよいよ次期エースの風格を備えてきたねえ。まっこと素晴らしいカープのナインではあります。
★浦和のペトロビッチ監督が、チームの低迷から解任された。現在9勝2分9敗の8位。特に総失点36と破たんした守備には改善の兆しが見えず、就任6年目にして『ミシャ政権』は幕を閉じた。浦和がJ2降格の危機に瀕した時、サンフレッチェを辞めたミシャに即声をかけ、その後槙野、柏木、西川などサンフレから6選手を奪取し、浦和レッズならぬ『浦和サンレッズ』と揶揄された。リーグ優勝を狙ったものの、獲得タイトルは昨季のルヴァンのみ。よくやったと言えるのか、リーグ杯未冠の監督は寂しく消えた。
★中国からの密入獄者『ヒアリ』で大騒ぎの全国の貿易港。フマキラーなど殺虫剤企業の株はうなぎのぼりだそうだが。いないのかしら、ヒアリの天敵。オーストラリアにアリを主食とするトカゲがいたなあ。あんなの移入し、港で飼えば、ヒアリを自然に退治してくれるのではないかえ。どうだろう、厚労省殿。
★今、日本全国の空き家は、なんと820万戸にものぼる。賃貸で貸そうにも借り手が不足。が、65歳以上の借り手にとっては難関の極み。ほとんどの不動産屋で高年齢を理由に断られる。病気、死亡などのトラブルの面倒さなどが影響しているらしい。が、これに風穴をあけようというベンチャーも出現。日常管理から、コンタクトまでITを駆使して借主の状況がチェックできるシステム。人の裏行く花の道になるか、な。
★高校野球、西東京選抜は、東海大菅生が早稲田実業を6-2で破り、甲子園に駒を進めた。107本塁打、高校生記録タイの清宮の夏も終わった。清宮の行方については多くの関心を集めているが、周辺状況からすると大学進学の線が有力だと。まあ将来的にはプロ入りするだろうから、ここは慎重に考えてほしいねえ。ハンカチ王子、斉藤祐樹の二の足を踏まないように。カープには、丸、鈴木という高卒レギュラーが大活躍。丸は、入団後必死で頑張った結果とその間の苦しみを吐露している。一流選手になるには、どこの場にいようと人一倍の努力と精進が必要ということだねえ。
★『ル・マン』。世界の王者トヨタが参戦するも優勝は手にできないでいる。広島の自動車メーカー・マツダは1991年、『マツダ787B』を駆使し、日本車で初の優勝を遂げた。が、その後RE車の参入規格が厳しくなり撤退。そして、今、また、マツダがル・マンを見据えたマツダ・レーシングの野望が見え隠れする。それはマツダの北米モータースポーツ部門であるマツダ・モータースポーツが、先ごろ『マツダ・チーム・ヨースト(Mazda Team Joest)』の誕生を発表したことによる。デビューレースは2018年1月の米デイトナ24時間を予定している。
マツダは2017年のIMSAに、DPi(デイトナ・プロトタイプ・インターナショナル)に分類される2台のマシンを投入している。DPiはル・マン24時間レースをシリーズの一戦に含むWEC(世界耐久選手権)のLMP2とシャシーを共有している。WECのLMP1はシャシーもエンジンもボディワークも何もかも自動車メーカーが独自に開発しなければならないが、IMSAのDPiはシャシーを開発する手間が省け、自動車メーカーにとっては負担が軽くなる。WECよりもお手軽にトップカテゴリーへの参戦が可能なのだ。
DPiは2017年からIMSAに導入された規格だ。キャデラックは6.2L・V8自然吸気エンジンを搭載したDPi-V.Rを開発。ニッサンDPiは、GT-Rが搭載する3.8L・V6ツインターボをベースとしたエンジンを搭載しているのが特徴。マツダはRT-24Pと名付けたDPi車両を開発し、参戦。市販車でおなじみの『魂動デザイン』を取り入れたダイナミックかつ流麗なスタイリングが特徴だ。エンジンはイギリスのAER(Advanced Engine Research)が開発した2.0L・直4直噴ターボを搭載。キャデラックや日産と違って、量産エンジンとの関連は希薄だ。シャシーはアメリカのライリー・テクノロジーズとカナダのマルチマチックが共同で開発したMK30をベースとしている。
マツダはそのスピードソースにシーズン途中で別れを告げ、ヨーストに鞍替えしたのだ。よほど大きな野望がなければ、できない決断だ。ドイツに本拠を置くヨースト・レーシングは、プロトタイプカー・レースの名門である。1999年からはアウディとパートナーを組み、ル・マン24時間(2012年以降はWEC)に参戦。2016年にアウディが撤退するまでの間、ル・マンで13回優勝し、WECのタイトルは2回獲得している。アウディの撤退とともに活動の場を失ったヨーストは一体、次はどことパートナーを組むのか……。
マツダ・チーム・ヨースト発表の1週間前、アキュラ(ホンダのプレミアムブランド)がアメリカの名門ペンスキーと組んで、2018年のIMSAにARX-05と名付けたDPi(エンジンは量産ベースの3.5L・V6直噴ターボ)を投入すると発表した。これもビッグニュースに違いないが、アキュラ×ペンスキーのパートナーシップが霞むほど、マツダ×ヨーストのパートナーシップにはインパクトがある。
マツダは2018年に向けた開発に集中するため、2017年の残りのIMSA戦は欠場すると発表した。2018年シーズンで頂点に立つのが、マツダ・チーム・ヨーストの短期的な目標であるのは間違いない。だが、それはあくまでも、大きな野望に向けた布石でしかない。
その野望とは、ル・マン24時間への復帰である。マツダは4ローター・ロータリーエンジンを搭載した787Bで、1991年に日本の自動車メーカーとして初めてル・マン24時間を制した。2017年の時点でも、ル・マンで優勝した唯一の日本の自動車メーカーである。そのマツダが、ル・マンの優勝請負人とも言えるヨーストと手を組んだのだ。両者のパートナーシップは、マツダのル・マン復帰に向けた布石と見るのが自然だろう。マツダが創立100周年を迎える2020年が怪しい……。
★都議選中、週刊文春に『加計学園から200万円違法献金』とすっぱ抜かれた下村自民党幹事長代理。下村幹事長代理は、200万円は20万円10人分を集めて献金してもらったもの。違法ではなく、選挙が終わったら詳しく説明し、文春には名誉棄損で訴える、と宣もうた。が、その後詳しい説明は一切なし。代わって、上脇神戸学院大教授らが『受領学を政治資金報告書に記載しなかったのは政治資金規正法違反だ』として、本人と会計責任者ら3人に対する告発状を東京地検に提出した。また、加計学園以外の支援者から12~14年に受け取った政治資金パーティー券の購入代金1,419万円についても、不記載や虚偽記載があるとしている。一体、下村君は何をやってるんだろうか。選挙中だから詳しい説明は省き、選挙終了後にきちんとする、と公言した。なのに、何もしなくて、反対に告訴されるんだから、もう幹事長代理の名刺なんか返上したらどうだい、まったく。
★トランプ政権の新しいスカラムッチ広報部長が、スクープ報道への圧力を加え始めた。『誰が情報を漏らしたか』。米誌ニューヨーカーによると、スカラムッチ部長は7月26日夜、同誌記者に電話をかけ、情報源を明かすよう迫ったと言う。記者はこの日、トランプ夫妻や保守系FOXニュースの著名キャスターらと密かに会食したことをすっぱ抜いていた。保守系メディアと政権の蜜月ぶりを示す密会を知られたくなかったスカラムッチ部長は不機嫌そうに『漏らしたのはプリーバスだろう』と、対立して後日更迭された首席補佐官の関与を疑い、激しく追求したが、記者は回答を拒否。スカラムッチ部長はプリーバス補佐官を口汚く罵り、電話を切ったと。何か、広報部長として絶対的な資質欠落者をトランプは任命したもんだなあ。恐らく近いうちスキャンダルに泥まみれになるだろう。
と、何と7月31日のNYタイムズが『トランプ大統領がスカラムッチ広報部長の解任を決めた』と報じた。21日に指名されたばかりで、指名かたたった10日間の命だった異例のスピード解任スカラムッチ。スカラムッチはプリーバス首席補佐官と対立、トランプはプリーバスを更迭したが、後任のケリー前国土安全保障長官が、スカラムッチを解任するよう大統領に強く要請したらしい。トランプ政権も混乱の極み。2年後の中間選挙までの命と拙者はかねてから予想していたが、共和党の主力筋の動き次第ではそれより短命に終わる可能性も出て来た。ホワイトハウスもこの記事を追認する『スカラムッチが辞任』と発表した。