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Channel: Freeman 雑記帳・広島
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『広島学3 生き残った「ヒロデン」のわけ』

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<広島学を30回、毎日更新アップします>
★今日の画像は、カナダ・ボンバルディアの『Cシリーズ』。この機種は米デルタ航空に納入が決まったが、ボーイングから不当価格輸出として提訴され、調査を受けたいたものの、晴れて無罪放免になった。ボーイングはこのボンバルディアの100~150座席のCシリーズと真向から対決する厳しい局面に立ったことになる。あっぱれなりボンバルディア、対して残念なり40機の発注キャンセルを受けたMJRなり、だ。そして、新宿区役所からJR南口までの夜景。しっかしすごいねえ、回転で稼いではいるんだろうが、『かけそば260円』とは、とても東京とは思えん。右下をクリックすると、大きな画が見られます。

★★1960年代に入ると、モータリーゼーションが著しく進み、広島でも路面電車は徐々に厄介者扱いされるようになった。クルマの走行を妨げ、渋滞のもとになると言うのが、その大きな理由だった。道路が慢性的に渋滞することによって定時運行が難しくなり、利用者の数も激減し始めた。そして、昭和44年(1969)の大阪を皮切りに、路面電車は川崎市、神戸市、東京都区部、横浜市、名古屋市、仙台市、福岡市、京都市など、大都市で次々と廃止されていった。

これに対し、大正9年(1912)に開通し、100年近い歴史がある広島の場合、『ヒロデン』に対する市民の思い入れはことのほか強かった。利用者数も最盛期に比べると少なくはなっているが、ここのところ目立った減少はない。創業当時、広島の路面電車は、幅18mの道路を造成することを条件に営業が許可された。つまり、広島の街自体、路面電車が作ってきたようなものだ。古くから住んでいる人達にとって、路面電車はそれこそ生活の一部であった。

しかし広島でも昭和40年代になると、その廃止が取り沙汰されるようになった。だが、この時安易に廃止しなかったことが、今から考えると『正解』であった。広電は市や警察に対し、路面電車存続の方向で説得を続けていた。広島県警もこれに呼応し、当時路面電車が多く残っていたヨーロッパに調査団を派遣、現地の実情を調べた。それにより分かったことは、路面電車こそが都心部の交通渋滞を緩和する役割を担い得るということであった。路面電車を廃止して車線を増やすのは簡単だが、その場合、代わりの輸送手段を確保しない限り、渋滞はさらにひどくなるのだ。


『代わりの輸送手段』というとすぐ地下鉄を思い浮かべる。しかし、広島市の中心部はもともと太田川河口部の三角州や海を埋め立てて出来上がった軟弱地帯のため、当時の技術では地下鉄の建設が困難とされた。そうした事情もあって、一時期は認めていた路面電車軌道内へのクルマの進入を禁止したり、信号機の表示方法を変えたりすることで、なんとか存続に成功した。昭和40年代に早々と全国各地で廃止された路面電車は、ほとんどが自治体の交通局が運営する『公営』であった。その点、広島の場合は経営母体が民間の広島電鉄だったし、街とのつながりを考えると、あっさり廃止することなど、とても出来なかった。

広電の前身である『広島電気軌道』が設立されたのは明治43年(1910)だが、同社の発起人に名を連ねていたのは大林芳五郎(大林組創業者)、片岡直輝、岩下清周など、すべて関西の経済人だった。日露戦争後の不況のため、地元の経済界で資金を工面することが出来なかったからである。その後、大正6年(1917)に広島電気軌道は広島瓦斯と合併、広島瓦斯電軌となったが、昭和17年(1942)に、交通事業部門が広島電鉄として分離独立、それを機に、形としては大林組の傘下から抜けることになった。

とは言え、昭和40年代、全国各地の路面電車が事業の廃止を余儀なくされる中、広電が命脈を保つことが出来たのは、傘下を離れた後も大林組と陰に陽につながりがあったからだろう。その上、廃止騒ぎから40年が経過した今日、なんとか踏みとどまったことが、はからずも、都市における公共輸送手段の近未来像を提示するという結果を生んだ。特に、今世紀に入り、CO2排出量の削減など、地球環境保護の問題がクローズアップされてからは、その存在にますます注目が集まりつつある。
(参考:岩中祥史著『広島学』)


★<松田耕平追想・外木場義郎>昭和39年(1964)、NTT九州からカープに入団した時、当時は松田恒次社長で、その後耕平社長に代わられました。最初に社長から言われたことは、『野球人であると同時に、一社会人として立派に通用する人間になるように』という言葉でした。私は自分の野球人生の中でこの言葉を励みに、また育ちゆく選手達にも教えてまいりました。

思い起こせば昭和50年(1975)、初優勝した時、耕平社長は私をオーナー室に呼んで、『よく頑張ってくれた。君のカープへの思いと優勝への執念があったからこその優勝だ。本当にありがとう』と何物にも勝るねぎらいの言葉をかけてくださり、私も腕が折れてもいいと思って投げてきたかいがあったと思いました。そしてタイトルを取った3人―大下剛史さん、山本浩二さん、外木場義郎、にコスモロータリー車をプレゼントしてくださったのです。しかしその代償は大きく、投球数300イニング以上投げた身体に十分な手当が出来ず、次の年に肩を痛めてしまい、思うようなピッチングが出来なくなってしまいました。まさに私の野球生命はあの優勝と共に終わってしまったのです。

カープが弱小球団と呼ばれていたころ、今の選手には思いもつかないようなこともありました。そんな時の思い出ですが、昭和43年、初めてオールスター戦に出場した時のことです。その頃のオールスターといえばいつも巨人中心で、他のチームの選手はベンチの中で角の方に座っていました。東京でオーナーが開いてくださった食事会で、このことが話題となりましたが、ここでオーナーは『君たちは、カープを代表して出ているのだ。だから堂々と真ん中に座りなさい』と、励ましてくだしました。この言葉がどんなにうれしかったことか。それからは堂々と真ん中に座れるようになりました。


トレーニングに必要なマシン等、他の球団より早く整えたり、アメリカの野球を勉強させに選手を生かせたり、そういえば沖縄キャンプもカープが最初でした。47年には、アリゾナ、ツーソンで大リーグのインディアンスに合流してキャンプを張りました。オープン戦でNYジャイアンツの一流選手、ウイリーメイズ、マッコビーに出会った時、非常に身体のバランスの良い選手だと思ったことをよく覚えてインす。この時、インデアンスのコーチとしてジョー・ルーツ氏がおられ、後に彼が監督としてカープにやって来ることになろうとは、私は夢にも思っていませんでした。すでにこの時、オーナーの脳裏には彼を監督として招聘する計画があったのだと思います。

ルーツ監督になり変わったことは、遠征に行く時、選手が思い荷物を自分で運ばなくてもよくなったこと。これにより体力を十分に温存させることが可能となり、ベストコンディションで試合に臨むことが出来ました。そしてもう一つ、選手達を一番変えたのは『精神的にプライドを持て、自分達はプロの野球選手なのだ』というルーツ監督の言葉です。オーナーの取り入れたこのルーツ監督の意識改革が、初優勝の原動力になったと言えます。体調のすぐれない中でも、カープのころが気になり、試合を見にきておられました。カープが優勝することを期待され、新オーナーとスタッフ、選手達に夢を託し、球場のあのオーナー室でいつも見守られていることと思います。オーナーありがとうございました。(参考:『松田耕平追想録・外木場義郎』)


★<JRレールが破断>新幹線の車台に亀裂が入ったままで走り、世間を震撼させたJR。今度は神奈川県湯河原の東海道本線のトンネル内にあるレールが破断し、4cmの隙間が出来ているのが点検中に見付かった。どうもJRの施設全体、そして日本全国の人工創造物が疲弊し、老化しているのではないか。かつてアメリカにその兆候が見られ、橋が突然陥落したり、道路が陥没したりしたが、日本もその後を追っているような気がするねえ。ご注意、ご注意。


★<ホンダ2輪>あの新型大型プレミアムツアラー、ホンダの『ゴールドウイン』が発売10日で、月間販売計画500台を超える、540台を受注したそうだ。1,800ccで確か280万円くらいだったと思う。乗用車より高いバイクが、こんなに売れるなんて、やっぱ、老人ライダーが、この世の見納めにとオーダーしてるんだろうねえ。あのフィアレディZのモデルチェンジの際にも、老人オーナーの注文が多かったと言うから。まあ平和だねえ、日本国は。


★<会社四季報>東洋経済新報社が発刊する『会社四季報』。上場会社の財務内容、事業の先行きなどを解説した、まあ株式投資の参考資料。が、なんと新年号が前年同期比5割増だと。すごいことだねえ、株式取引が人気を得ている証拠だ。が、拙者も株式取引はしているが、会社四季報は買わない。SBIでは、電子版がネットで閲覧できる。紙の四季報を見るより優しい。これって意外に穴場なんだねえ、すごいことだ


★<直列6気筒DE>自動車のトレンドはすべからく『EV』に向いている。が、世界で唯一、エンジンの燃焼効率を極限まで高める研究開発をしている、広島の自動車メーカー『マツダ』。DEで従来圧縮比が18程度だったものを、なんと14に引き下げ、排ガスを防止し、またガソリンで12程度だった圧縮比を常識外の14に引き上げ、低燃費高出力を実現した。

そのマツダが、隠し球として驚きの『低排出ガスの直列6気筒DE』の投入計画があることが判明した。同時に夢の超希薄燃焼ガソリンエンジン『SKYACTIV X』の量産に入る。このエンジンの圧縮比は『16』。一部点火を利用するが、ほとんどは無点火を常用する世界初のエンジンだ。1次エネルギーを考慮したCO2排出量で、電気自動車を上回る環境性能を実現する。EVの流れに逆らうごとく、燃焼技術に磨きをかけるマツダ、明すごい冒険ではある。


『DE 6気筒直列エンジン』は、2020年の量産を目指した開発が進行中。主力のSUVである、次期『CX―5』から採用し、『アテンザなどに採用を拡大する』。複数の関係者が明らかにしたそうだ。現行DEは、排気量が1.5リットルと2.2リットルの直列4気筒。次世代ディーゼルで6気筒に増やし、3.0リットル程度にアップサイジングする。大衆車専業のマツダにとって戦略転換を意味し、悲願の高級路線にいよいよ舵を切る。ほとんどのメーカーのDEは排ガス処理で高価な後処理装置の尿素SCRを搭載している。マツダのDEは、燃焼技術の改良で、後処理のない、世界一クリーンなDEを供給搭載している。この燃焼技術の優位性をさらに生かし、世界自動車戦争を生き抜く構えである。すごい挑戦だなあ、ガンバレ、広島のマツダ!

★<NECリストラ>もう日本の弱電業界は、シャープや東芝のリストラで終わりと思っていたら、伏兵がいた。『NEC』、昔は日本電気と称していたが、通信から進展し、PCの初期段階には『88?』で躍進したが後が続かなかったねえ。NECは撤退の歴史かも知れない。今回も、家庭用リチウムイオン蓄電池から撤退すると。そして国内8万人のグループ従業員のうちから3,000人の希望退職を募ると。8万人に対して3千人の希望退職、一体何のためにやるのかしら。意味不明な数字。やるなら5千人以上、1万人レベルでやらないと経営効果はないよね、NEC社長殿。


★日産、三菱、ルノー連合の2017年の世界販売が1,060万台となり、初めて1千万台を超え、世界第2位に浮上した。首位はVWの1,074万台で2年連続。1,038万台のトヨタは2位から3位に後退した。トヨタが3位以下になるのは、6年ぶり。が、実質トヨタグループ入りしているマツダ、スバルを入れれば、260万台程度上積みになるから、この両者を一気に抜くね。恐るべし、トヨタだ。


★先の日曜日、天候が悪く山歩きを休んだ。その代わり、昨日時々晴れ、という天気予報につれられて、午後里山歩きを。最高気温が6度という告知故、用意万端出かけた。が、登りの南斜面で14度を上回る暖かさ。広島の気象台がある江波山よりも相当高い牛田山268mの山頂でも10度前後とまったく寒さはなし。一体、この予報、どこと間違ったのか。まあ予報だから、ずれることもあろうが、これはひどかったねえ。税金で食ってる気象庁関係の各位、ハチマキを締め直しておくれ。

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