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Channel: Freeman 雑記帳・広島
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『チキンラーメン生みの親「安藤百福伝⑧」 「名古屋に中華交通技術専門学校を設立」』

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『奈良県大峰山系大普賢岳山麓の氷瀑』と、海外音楽アーティスト『興行収入ランキングА戮任后31位 トランス・シベリアン・オーケストラ、32位 シルク・ドゥ・ソレイユ「Totem」、33位 ケヴィン・ハート、34位 シャナイア・トゥエイン、35位 デイヴ・マシューズ・バンド。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★★泉大津で最初に始めたのは、製塩業である。私には塩作りの経験はない。疎開している時に、赤穂の塩田が近くにあって、それをじっくり観察したことがあるが、その程度である。全くの素人さったのに、何故か自信があった。

構内には戦火を免れた古い建物が残っていて、それを工場や宿舎に利用した。薄い鉄板が放置されていたので、これを材料にして、自己流の製塩法を考えた。泉大津の浜一面に、見渡す限り鉄板を並べた景色は壮観だった。鉄板は海側を高くし、陸地の側を低くした。日差しを浴びて火傷をするくらい熱くなった鉄板の上に海水を流す。この作業を何度も繰り返すと、次第に塩分が濃縮される。最後に、たまった濃縮液を大釜に入れて煮詰めると出来上がりだ。普通の塩田より、このやり方の方が能率的だった。

しかし、最初は失敗の連続だった。露天だから、雨が降ると濃縮液が流されてしまう。ある時などは、電気がショートして付近一帯が停電し、電力会社から大目玉を食らった。これは後で、若者の一人がいたずらをして、配電盤にカニを突っ込んだためと分かった。塩はともかく作ることが出来た。当時は貴重品であり、泉大津市民に無料で配って大いに感謝された。余った塩は、一部市販した。製法のせいで塩には少し色がついていたので、ゴマや海苔を入れてふりかけにした。

また、漁船を二艘買い、沖合でイワシを捕った。魚群が、それこそ鰯雲のように沸き上がった。私達は、連日の豊漁にわいた。家内までが船に乗り、若者達と一緒にはしゃいでいた。そんな姿を見るのは何年ぶりだろう。平和のありがたさが身に染みるようだった。生きているイワシを、むしろの上に広げて乾燥させた。材料が新鮮なため、上物の干物になった。ほとんどは近所に配って喜ばれた。


動機、内容といい、企業活動とは言い難い。若者達には、当時としては決して少なくない金額を支給した。給料ではなく奨学金のようなものである。募集するとたちまち百数十人が集まった。やっていることは社会奉仕に近かった。

塩作りと漁業に精を出す一方で、私は名古屋に『中華交通技術専門学校』を設立することになった。製塩事業と同じように、有為の若者を集めて、彼らに食と技術を身につけてほしいと思ったのである。自動車の構造や修理技術、鉄道建設の知識などを総合的に習得出来る学院を目指した。全寮制で食事がつき、授業料は取らなかった。

佐藤栄作さんから『これまで日本は中国に迷惑をかけた。中国は広いから、民生の安定のためには鉄道、自動車など交通整備が必要になる。将来、技術協力出来る人材を養成してはどうですか』と言われたのが設立の契機になった。また田中龍夫さんは、南満州鉄道・満鉄勤務の経験から鉄道事業に造けいが深かったので、知恵を借りた。トヨタ自動車の隈部専務には、自動車の車体、エンジン、シャーシーなどを教材として無料で提供してもらい、名古屋大学からは講師を派遣してもらった。多くの人の好意に支えられてのスタートだった。

1948年(昭23)9月、私は泉大津市に『中交総社』を設立、翌年に『サンシー殖産』と商号を変え、大阪市北区曽根崎に移転した。サンシー殖産はやがて長い休眠状態に入るが、58年に『日清食品』として甦ることになる。(参考: 2001年9月・日経新聞『私の履歴書』。07年没、享年96歳)


★★いよいよ『平成』も終わる。『昭和』はどんどん遠くなる。その昭和の歌謡界で、是非ともアップしておきたい人、『西条八十さん』。西条さんは、早稲田大の仏文の教授でありながら、童謡や校歌、歌謡曲の作詞も行って、同僚らから『堕落だ』と厳しく攻められた。なら、大衆のためだと、教授職を投げ打つ。そして作詞と仏文の研究を貫きとおし、幾多の名曲を生み出した。(「荒鷲慕いて」「誰か故郷を想わざる」「春よいずこ」「お島千太郎旅唄」「熱砂の誓い(建設の歌)」)


『西條八十─.灰蹈鵐咼△能薀劵奪「花言葉の唄」』
コロンビアに移ったが、周囲の眼は固く、ヒットも出ない日々が続いた。江口夜詩がコロンビア本社に掛け合って、アメリカとヨーロッパの視察旅行を了承させ、一緒に行かないかと八十を誘った。4カ月の旅だ。一度アメリカも見てみたかったし、エドワードの了解をもらって出かけることになった。出発直前、池田不二男という若いディレクターに新曲の作詞を頼まれた。八十は渡航準備にあわただしい中、『花言葉の唄』という歌を書いた。『咲いたらあげましょ あの人に』と言う文句が最初に浮かび、それに合わせて詞を付けた。
◇『花言葉の唄』
 可愛い蕾よ きれいな夢よ 乙女心に よく似た花よ
 咲けよ咲け咲け 朝露夜露 咲いたらあげましょ あの人に

『こんなもんでいいかな』。このところスランプで自信を無くいている八十は、若いディレクターにお伺いを立てるように尋ねた。『とっても素敵だと思います。最後の「咲いたらあげましょ あの人に」という文句が効いていて、流行語になる要素があります。そこでご相談なんですが、僕が曲を付けてもいいでしょうか』。池田は作曲家でもある。感性が豊な青年なので任せてみることにした。果たして、出来上がった曲を聴くと、ワルツの調子を生かした期待以上の美しいメロディだった。歌は松平晃と伏見信子のデュエットで、新興キネマの映画『初恋日記』の主題歌になることも決まり、二人の歌手は主演も努める。吹き込みはアメリカへ出発した後の予定なので八十は立ち会えなかった。


視察団一行は、サンフランシスコに上陸、飛行機で東海岸へ。ニューヨークを拠点に、ワシントンなど東海岸の都市を行脚した。その間に日本から、『花言葉の唄』が大ヒットしたとの報が届いた。日本中の花屋が、『咲いたらあげましょ あの人に』という歌詞を宣伝文句に使っていると言う。『流行語になる』と言った池田の予言が当たった。

コロンビアへ移籍後、初の大ヒットに気分を良くしてヨーロッパへ向かった。視察団一行はフランスからイギリスへ向かうのだが、八十だけは単身パリに向かった。留学以来なので、ゆっくり滞在して当時の友人達と旧交を温めるつもりでいた。ところが、読売新聞社と朝日新聞社からベルリン・オリンピックの観戦記と詩を依頼されたため、パリには1日しか滞在出来なかった。到着した翌日が入場式で、ヒトラー総統を始めとするナチス首脳陣をすぐ近くで見ることが出来た。水泳の女子200m平泳ぎで、前畑秀子選手がドイツのゲネンゲル選手とトップ争いをして、見事に金メダルを獲得したレースも見た。最も印象に残ったのは棒高跳びで、西田修平と大江秀雄がメダル争いをしたが、雨の仲、日没になるまで決着がつかず、先輩である西田が二位、大江が三位になった。後に銀と銅のメダルを半分づつにしたメダルに作り替え、『友情のメダル』として日本国内でも話題になった。

帰国したのは9月中旬で、留守の間に八十を喜ばす出来事があった。門田が門田ゆたかのペンネームで発表した『東京ラプソディー』が大ヒットしていたのである。八十の弟子らしく、『東京行進曲』のように東京の盛り場風景を描いており、最初に銀座を持ってきて、しかも柳まで読み込んだ。
◇『東京ラプソディー』
 花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で
 待つは君ひとり 君ひとり 逢えば行く ティールーム
 楽し都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京


八十の旅行中、レコード業界に大きな変化があった。『西條さん、ホワイト社長は日本から引き揚げると言ってます』。秘書エドワードの所へ帰朝報告に行くと、いきなりそう言われた。欧米の資本家達は、国粋主義にひた走る日本を見限って撤退する方針だと言う。今後、日本から出て行く外資系の会社はさらに増えそうだ。それが欧米との戦争の前触れでなければいいが。八十の胸の中に大きな不安が、暗雲のように湧いてきた。  (参考: 吉川潮著『流行歌・西條八十物語』)

☆☆前畑の金メダル。オリンピックがある毎に、NHKが当時の『前畑ガンバレ、マエハタがんばれ・・』を登場させる。この西條の物語を読むまで、私は前畑を男性だとばかり思っていたなあ、女性だったんだ。朝知恵だ、我ながら。


★★<IT大手のリストラ組 人手不足でも転職難しい?>富士通とNECがそれぞれ2千~3千人規模の早期退職を発表するなど、大手企業でリストラが続く。人材サービス各社は優秀な人材が転職市場に大量流入すると喜ぶ。一方で『転職は難航するケースも多そうだ』との声も上がる。

転職市場が活況な中、全く転職先が見つからない人は少なそうだ。行き先としては人手不足に悩む中小企業やスタートアップが多くなるとみられる。ただ分業が確立した大手と異なり、社員数が少ない中小は1人で幅広い分野の業務ができる人材を求めている。このミスマッチから『大手から来た人材は使えない、と感じる中小企業が増えてきている』と人材大手の幹部は漏らす。

給与も転職のネックとなりそうだ。各社の早期退職の対象となっている45歳以上は、年功序列を基本とする賃金体系の中で本来の業務能力に比べ高い給与をもらう例が多い。『200万円くらいの年収減を覚悟しないといけない例が多いだろう』(転職サイト大手責任者)。

子供の教育費や住宅ローンを抱えている人も多く、早期退職は簡単な決断ではない。『そもそも自分の強みやキャリアの希望について考えた経験もない人が多い。転職先の決定までに時間がかかりそうだ』と各社は話す。

もっとももっともだ。私も早期退職で再就職した組だが、幸い中小企業の社長に次ぐ仕事の会社に入った。そこで、今度は採用する立場。ある職種に応募してきた人、慶大文学部卒、大手損保会社勤務。社長の車の運転をさせると、社長は車酔いをしたと。何が出来るか聞いたが、確たる具体的な答えがない。結局1週間の試用期間でお払い箱になったねえ。まあ、本当に使い物にならなかった人ではある。これで慶応卒かとびっくりもしたがね。


★★<『出る杭は基本的には打たないですけど……』 松本人志が鶴瓶に語る、若手に嫉妬していた頃>
『どうも、よろしくお願いします』。都内某所の対談会場に入ってきた鶴瓶さんは、初対面の私に向かって、まるで昔からの知り合いであるかのように人懐っこい笑顔を浮かべた。

『文藝春秋』1月号からスタートした対談連載『松本人志 Creator×Creator』。第2回の対談相手として登場したのは、笑福亭鶴瓶さんだった。鶴瓶さんといえば『誰とでも親しくなれる』達人。一方の松本さんは『人見知り』で知られている。そんな対照的な2人が、顔をあわせることとなった。

さすがは鶴瓶さん。松本さんの到着を待つ間に他愛もない雑談が始まった。私はベストセラーとなった『遺書』の連載担当をはじめ、かれこれ30年近く松本さんと仕事をさせていただいている。そのことを鶴瓶さんに伝えると、『それなら松本と、食事も時々行くん?』という質問が。『一度もない』と答えると、とても驚かれた。

松本さんが会場に到着すると、すかさず『なんで行かへんねん』とツッコミを入れる鶴瓶さん。すると松本さんが私を見て一言。『そんな、ねえ。そんなんじゃないっすもんね』。がーん。ずっとファンなのにー!(泣)


◇笑いに嫉妬がない
そんなこんなで始まった対談。松本さんが『生まれかわったら鶴瓶さんになりたい』と公言しているのは有名な話だが、その“リスペクト”を感じる場面があった。
松本: 鶴瓶さんって、人間何回もやってる感じがします。普通1回とか2回、犬とかをはさむじゃないですか。それが5回くらい人間やってるから、悟ってるんですよね。
鶴瓶: おもしろないと思うもんは、おもしろないけど。
松本: 出る杭を、絶対打たないじゃないですか。僕も基本的には打たないですけど、でもやっぱり『ちょっとそこまで出てこられても』って、若手に思う時期もあったから。
鶴瓶: そんなに出てくるやつおらんやろ?
松本: でもやっぱり若いときは、多少ね。鶴瓶さんはずっと、笑いに対して嫉妬がない。

◇客を自分色にする
一方、東京進出の話題になると、共通点を見出すことができた。
鶴瓶: 俺も最初、アフロヘアにしてワーって出て、『こいつ何?』ってところから客を自分色にしていくことがすごい楽しかったね。ものすごいベタな笑いで受けてる人の後に舞台に出て、それとは違うことをずーっとやってたら、最後には客がこっちに来るっていう。あれは、楽しい。


松本: 忘れもしないのが、新人の頃の正月、(なんばグランド)花月。漫才ブームの終わりかけで普段はほとんど入ってないお客さんが、満杯なんですよ。正月は出演者がみんな忙しいから、順番がぐっちゃぐちゃで。そしたら、紳助竜介(島田紳助・松本竜介)、ダウンタウン、やすきよ(横山やすし・西川きよし)って順番のときが1回あって。紳助竜介が出てきたら、もちろんドカンって受ける。次、ダウンタウンっていうわけのわからんのが出てきたときの、客の残念感がすごいんですよ。でも次がやすきよだから帰れないんです。これは燃えましたよね。終わって、やすきよさんを袖で見て、勝ったなって。

◇芸能界を『いつやめますか?』
終盤では、松本さんが『(芸能界を)いつやめますか?』と切り出し、話は2人の『引退』に及ぶ。深刻になってもおかしくないが、最終的には見事に笑いに昇華させた。他にもテーマは、人見知り、『M-1グランプリ』、某有名女優……など。リズムのいい言葉の応酬は、必見だ。対談の全文は『文藝春秋』3月号 に掲載されている。


★★<朝鮮半島情勢 韓国は『あちら側』へ移った> 韓国軍艦による海上自衛隊機への火器管制レーダー照射や『徴用工』訴訟、慰安婦問題、旭日旗の排斥、竹島の不法占拠など、日韓関係には韓国が原因となった問題が山積している。 昨年暮れから日韓関係は最悪の状態といわれていたが、今度は韓国国会議長の暴言が飛び出した。日本人の対韓感情はさらに悪化している。

韓国の文喜相国会議長が米ブルームバーグ通信とのインタビューで、慰安婦問題の解決には日本の首相または天皇陛下の謝罪が必要だと唱えた。天皇陛下について『戦争犯罪の主犯の息子ではないか』と述べた。

日本の立憲君主である昭和天皇と天皇陛下に対する重大な非礼であり、到底容認できない。昭和天皇に対して、連合国軍総司令部(GHQ)ですら、こんなばかげたことは言わなかった。韓国の建国は先の大戦終結から3年も後の1948年で、日本と戦ったわけでもないのによく言えたものだ。三権の長の発言だけに日本政府は謝罪と撤回を求めて抗議しているが、韓国政府は一向に応じない。まもなく3月1日だ。今年は朝鮮半島における3・1運動から100年にあたる。韓国の反日行為は収まらないだろう。

日本政府は今、韓国に2つの対応をとっている。第1に、レーダー照射はじめ反日行為の非を認め、政策を改めるよう働きかけている。第2に、韓国との安全保障協力は維持しようとしている。


岩屋毅防衛相は1月、シャナハン米国防長官代行と会談し、日韓関係が悪化する中でも日米韓の安保協力による対北抑止力が必要との認識で一致した。河野克俊統合幕僚長は会見で、レーダー照射を韓国は認めるべきだとしつつ、『日韓の防衛関係は北朝鮮情勢をにらむと非常に重要だ』と語った。北朝鮮の核・ミサイルの脅威は少しも減じていないためだ。

2つの対韓政策の両立は難しいが、それ以外の選択肢はないだろう。ただ日本には、並行して取り組むべき課題がある。まず、『歴史問題はあるものの同じ陣営にいる韓国』という従来の認識を改めたほうがいい。
日本からみて韓国は法の支配や国際法の尊重など基本的価値観を共有できる国ではなくなった。2005年の『親日派財産没収法』という事後法の制定の時点ですでに価値観共有は怪しかったが、それが対外関係にまで及んでしまった。日韓合意をほごにした慰安婦問題や、国交の基礎である日韓請求権協定を顧みない『徴用工』訴訟への韓国の対応を見れば、近代的な条約体制を踏みにじって恥じない国になっていることが分かる。 韓国はもはや昔のように経済的に小さな国ではない。日韓の防衛費は肩を並べるようになった。にもかかわらず、韓国はまっとうな近代国家ではない姿をあらわにしている。

韓国は国防白書から『北朝鮮は敵』という文言を削除した。米韓同盟が結ばれているのも、日本が国連軍地位協定によって『朝鮮国連軍』による日本国内の指定基地などの使用を約束しているのも、北朝鮮から韓国を守る狙いがある。北朝鮮に極めて甘くなった韓国は、安保の基礎構造の前提を掘り崩している。


文在寅大統領は北朝鮮の核・ミサイルを温存させたままの制裁緩和を各国に働きかけて顰蹙を買っている。貿易依存度が高いこともあって、韓国の対中姿勢は文政権以前から過度に融和的だ。日米などを主軸とする、価値観を共有する国々の陣営(西側陣営)から韓国は離脱しつつある。

ことが深刻なのは、このような韓国の前近代化、脱西側化が民選大統領の政権下で進んできたことだ。韓国の国民が許容している動きなのである。日韓関係や朝鮮半島をめぐる安全保障の基礎構造を毀損する動きを韓国がやめない以上、日本の政府や企業は、転ばぬ先の杖として、米韓同盟の空洞化または終焉を想定した対応策を用意しておくべきだろう。(参考: 産経新聞榊原論説副委員長)

もう、韓国は仲間ではなく、対峙する敵だ。あらゆる面で、外交路線を修正してほしい。嘘八百を並べる韓国に、容赦の必要、支援、手助けの必要はさらさらに。まず第一に、『航空協定』を破棄してはどうらろうか。韓国のキャリアは干上がるだろうに。


★★<韓国、日本を敵対国に>韓国文大統領は堂々と『親日清算』を宣言し日本を『敵対国』と認定した。『親日』を静寂するそうだ。なら、早速日本も『敵日』を掲げる国の民の『ビザなし入国』を撤去すべきだ。『ビザなし渡航』は友好国の国民に与えられた権利であり、『敵対国』には与えるべきではない。堂々と撤去しておくれ、河野外務大臣殿。


★★<施設長を殺害した青年>東京の児童施設の施設長を殺害した青年、22歳、施設で育ったそうだ。本人の責任でもないのに、施設で育ったという経緯からか、仕事も1ヵ月で辞め、アパートも引き払い、流浪の生活をしていたようだ。それを『恨み』に思ったのか、100円ショップで包丁を買い、施設に入って、最初に出会った施設長を刺殺した。

施設で育った子供達は、確かに人生の不幸の道を歩んだだろう。が、そこから新しい道、光を求めてポジティブな生活をしている人は多い。大分前になるが、渋谷再開発のビル建設の現場のテレビドキュメントがあった。ビルの建築には、高いところでの鉄骨などを組み、溶接する『とび職』の人が欠かせない。ここに登場したのは24歳の青年だったが、彼は施設で育ったと。そして高校卒業後、この仕事についたとも。さらに、この仕事で熟練しトップクラスになると月給は100万円ほどになると。自分はそれを目指して日々勉強だと、とても明るく爽やかに話していた。嬉しかったねえ、このような話を聞くのは。人生、両親が健在でも必ずしも幸せな生活を送るとは思えない。あの10歳の少女を殺害した両親は、子供を育てる資格がなかったのだ。人生、様々であるし、まさに『塞翁が馬』である。殺人は残念だねえ。

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