令和元年、5月1日。新時代、『令和』の幕開けです。
今日の画像は、今日から「令和」、『令和天皇のご成婚時の姿』と、29日の試合で超スーパープレーを見せた『巨人・ライト陽岱鋼』。そして、可愛い花達『キカタバミ』『シロカタバミ』『ツバキ』の花々です。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
■■中学、高校、大学で、勉学の結果が思わしくなくいわゆる『劣等生意識』を持っているキミ、心配するな、あなた以上の劣等生が世の中に出れば大成功した例もあるのだ。その筆頭に『ニトリの創業者似鳥昭雄さん(76)』がいるのだ。本当、似鳥さんは劣等生で高校大学と卒業さえ危ぶまれた人物。が、今や年間1兆円の売上を目指す大家具チェーンの親分になっている。そのニトリをここまで成長させた『破天荒な似鳥昭雄』の実像を追う。
★★★1967年(昭42)、12月に開業した『似鳥家具卸センター北支店』だが、4ヵ月経っても、売上は全く伸びない。妹が高校から帰ると配達を手伝ってくれるぐらいで、従業員を雇う余裕はない。もとも平日は客も少なく、ろくに努力もせずに漫画雑誌などを店で読みふけっていた。配達のために午後4時には一旦シャッターを下ろしてしまう。すると『商店街としては困る』と言われる。
店の2階で寝泊まりしていたが、お金がなく、食べるものにも困る始末。1日3食、15円の即席麺ばかり食べていたら、かっけになり、視力も低下してしまった。にこにこ笑って接客していると、歯茎から出血し、気味悪がられる。見かねた母が店に訪れ、食事の面倒を見てくれるようになり、何とか体調は戻った。だが、相変わらず商売はうまくいかない。理由は私の性格。緊張して初対面の客とまともに商談が出来ないのだ。
窮状をみかねた母がある日、こんな提案をしてきた。『結婚すればいい。そうすれば炊事洗濯だけでなく、販売も配達も手伝ってくれる』と言う。好きな女性を連れてこいと言うので、大学時代からの知り合いでお気に入りの女性を母に紹介した。すると母はこう言う。『あの子はいい娘さんね。でも美人はお客さんから嫉妬されるから』と認めず、『愛嬌があり、丈夫で長持ちする人を連れてきなさい』と言う。
お見合いの数はわずか数ヶ月間で7回。ただ、こちらが気に入っても『長時間労働で親と同居』と言う過酷な条件で結婚してもらえる人は少ない。その年の春、8回目のお見合いで出会ったのが今の家内の百百代だ。
百百代は北海道興部町出身で、札幌市の洋裁学校で勉強し、妹とアパートに住んでいた。その大家が母の友人という関係から縁が生まれた。2回ほど会ったが、百百代は『好きな人がいる』と断ってきた。実は結婚するには早すぎるという理由だった。ある時実家に戻ったところ、何故か百百代が父と母と一緒にいる。どうやら両親の眼鏡にかなったようだ。
父は『いいお嬢さんじゃないか。結婚しろよ』と迫る。断って来たのは相手のはずだが、百百代は父母の熱心な説得に応じて、実家を訪ねて来たと言う。何より家具店を切り盛りすることに興味を覚えたそうだ。両親は『朝までに返事しろ』と強硬で、結局結婚を決めた。24歳の私と20歳の百百代は68年6月16日、札幌ロイヤルホテルで式を挙げた。結婚式を含め、2人で会ったのはたった3回だ。
家内は愛想がいいだけでない。何でも高校時代は『女番長』だったそうで、度胸も満点。商売上手で年間700万円の売上高が採算ラインだったが、結婚1年目から1,000万円に達した。居住スペースだった2階も売り場にして、2年目には1,500万円にまで伸びた。
私は配達と仕入れに専念出来た。実はこの役割分担が似鳥家具卸センターが成長する原動力になった。もし私が販売がうまかったら、ただの優良店に終わっていた。私が仕入れや物流、店作りに集中したことで企業として羽ばたくことが出来た訳だから。(参考:似鳥昭雄筆『私の履歴書』)
■■日本代表監督『森保一』、U-17日本代表監督『森山佳郎』、J1名古屋監督『風間八宏』、J1大分監督『片野坂知宏』、J2大宮監督『高木琢』、昇格請負人J3北九州監督『小林伸二』、FC今治監督『小野剛』、福岡などの監督をした『松田浩』・・・・・。この人達は全員サンフレッチェの出身である。前身のマツダサッカークラブの時代からの人達もいる。この人材を見出した人こそマツダサッカークラブ総監督、サンフレチェGMを務めた『今西和男さん(77)』。
集英社が、今西さんの足跡、育成した人材を追った『育将』を2016年に発刊している。ただ、今西さんは最後の時期に『FC岐阜』の社長に就任された。まさに泥にまみれた時代だった。なぜこんなクラブを引き受けたのか、詳細はつまびらかになっていない。心配は過去からの累損を個人で引き受けた総額3億円の負債。この処理がどうなったか、不明である。その『育将』の実像の証言を綴る。いずれも肩書は2016年の『育将』発刊当時のもの。
★★★『育将・今西和男 李 漢宰1』
李漢宰『サンフレッチェ広島で世界観が広がった』
門徒たちが語る師の教え FC町田ゼルビア 李 漢宰(1)
李漢宰(リ・ハンジェ)が倉敷朝鮮初級学校4年のときにJリーグが開幕すると、創成期の爆発的なブームが日本列島を包んだ。民族学校における校技ともいえるサッカーに熱中していたハンジェは当時、在日で初めてのJリーガーになった申在範に憧れて、申の所属するジェフ市原を応援していた。それでいて自身の将来について描いた夢は、プロ選手になることではなかった。
幼少期から人一倍民族心の強かったハンジェのそれは、在日朝鮮蹴球団に入り、ゆくゆくは北朝鮮代表に選出されて、日本代表と試合をすることであった。自分にとってのヒーローはジーコ、リトバルスキーといった世界的なスーパースターではなく、あくまでも在日のサッカー選手たちだった。その気持ちは揺らぐことなく持ち続けていたが、広島朝鮮高級学校の2年のときに入団を志していた蹴球団が諸事情によって解散してしまう。目標を失ってしまったハンジェは進路を考え直した。そのときに改めて思い浮かんだ希望が、Jリーガーだった。しかし、広島朝高は予選の下馬評は高かったものの、インターハイや高校選手権に出場できたわけではなく、ハンジェ自身も知名度は低かった。朝鮮高級学校から直接Jリーグのチームに入った選手は誰もおらず、自信はあったとしても、自分ひとりの力ではアプローチできるものではなかった。
ところが、監督に相談すると、サンフレッチェ広島の練習参加の話が即座に舞い込んできた。『チームに入ってのプレーを見てみよう』とすぐに腰を上げてくれたのが、強化部長の今西だった。今西には、その半生において在日朝鮮人、さらには在日のサッカー選手に対する特別の思いがあった。広島に原爆が投下され終戦を迎えてから2年後、1947年に市内の矢賀小学校に入学すると、近所の朝鮮人集落の人々が、快活だった今西少年をとても可愛がってくれたのである。ミシンを踏んで生計を支えてくれた母親がフェアな性格で、日本人も朝鮮人も分け隔てなく接して、破れた生地などを縫ってあげていた。近郊の二葉山に遠足に行くときは、金山さんという朝鮮人の上級生が『和男、お前はまだ小さいけえ。山登りはしんどいじゃろ。俺がおぶっちゃるけえ、背中に乗れ』と言ってくれて、わざわざ背負って登ってくれた。優しい金山さんが大好きだった。以来、まったく何の偏見も差別感情もなく、朝鮮人と付き合ってきた。
1959年に東京教育大学(現・筑波大学)に入学すると、ここでまた大きな出会いがあった。今西は合格通知をもらうと同時に、サッカー部のマネージャーから『やる気があるのなら、合宿をやるから3月21日までに甲府に来い』という連絡を受けた。当時の教育大は新学期が始まる前に山梨で強化合宿を張っており、新入生にも声をかけていたのである。受験から解放された今西はボールが蹴りたくてたまらず、すぐに向かった。サッカーを始めたのが、高校2年生からということで、最も技術が伸びる小学生時代にボールを触っておらず、自分でもテクニックがないことはわかっていた。4歳のときに被曝した左足にはケロイドが残り、動きも不自由であった。しかし、そんなハンディを吹き飛ばすように、身体を張ったディフェンスと何者も恐れない勇猛果敢なスライディングは他を圧していた。練習中にアキレス腱や膝を何度も削られようが、立ち向かっていった。そんな新入生に声をかけた4年の先輩がいた。
『おい、オマエ、ちょっとポールを持って来い』。それが朝鮮人のリ・ドンギュウだった。『オマエはすごい勇気がある。でも、勇気だけではサッカーはできない。トラップとボールのコントロールを身に付けろ』。それから、毎日マン・ツー・マンで今西に指導を施してくれたのである。ドンギュウはこれより5年前、東京朝鮮高校が高校選手権で全国3位になったときのキャプテンであった。そのテクニックは関東大学1部リーグの中でも出色で1年の時からレギュラーを獲得していた。18歳の今西は、そんな大先輩に入学前から個人指導を受けて感動していた。ドンギュウはその後、過労から結核に冒されて、西新井病院に入院するも、チームが2部に降格しかけるとベッドを抜け出して参戦。最後の法政大学との試合でゴールを決めて、教育大の一部残留の救世主となった。
『この先輩に学べば、自分がこれからもっと成長できるぞ、という実感が湧いた。ドンギュウさんが卒業されてからも教えを請いたいと思っていたもんじゃ』。しかし、別れは早くやって来た。1960年10月、前年12月より始まった在日朝鮮人の北朝鮮への帰国運動で、ドンギュウはピョンヤンへ渡る決意をする。在日のほとんどが38度線より南の出身であったが、北朝鮮政府、日本政府、赤十字が推し進めたこの運動は約9万4千人を縁者のいない北朝鮮に“帰国”させている。なぜ、ドンギュウが帰国するのか。チームメイトたちは敢えて多くを聞かなかったが、この恩人のために精一杯の誠意を込めた送別会を開いて見送った。今西はたった1年しか一緒にプレーが出来なかったが、ドンギュウのことは大きな影響を与えてくれた人物として、尊敬の念をずっと持ち続けて来た。その気持ちは在日のサッカー選手を応援していこうという思いに昇華していった。
練習に来たハンジェに対しても、親身になってアドバイスを送った。『プレーは、ええときはえんじゃがな、悪いときの波がすご過ぎるんじゃ。そこを直せ』。グサリと刺さったが、自覚すべきこととして身に染みた。家庭環境も学校もずっと在日のコミュニティの中で生活してきたハンジェにとっては、サンフレッチェの練習参加は、初めての日本人社会への越境と言っても過言ではなかった。当時をこう振り返る。『恥ずかしい話、どこかで日本人は敵だっていう気持ちの中で、それまで僕は生きてきたので、初めて練習で上村健一さんに「俺も在日の人にお世話になってるんだ。自由にやっていいから、お前の力を全部出せ」と言われて、すごくありがたかったです。入団するきっかけになったのも上村さんです。紅白戦でゴール前のFKになったときに「自信があるんだろう? 蹴れ」と言ってもらえたんです。決める自信はあったので、蹴りたいとは思っていましたが、それを言い出せなかった。今の本田圭佑なら言ったかもしれませんが(笑)。僕はそこまで図太くなかった。そうしたら。上村さんが「蹴れ。遠慮するな」「はい」。そして、ゴールを決めて入団まで至ったんです。
ただ、その過程にはサンフレッチェ広島というチームが今西さんの作ったチームで、リ・ドンギュウさんをはじめとする在日の人たちとの関わりが深いチームだったということで、僕をすんなり受け入れてくれたんです。それと本当に衝撃的な言葉だったのが、2回目くらいの練習のときに、それも上村さんに言われたんですけど、「お前は日本人に差別されていると思っているかもしれないけど、逆なんだぞ。お前らが壁を作って差別している部分もあるんだぞ」と。その言葉を聞いたとき、衝撃的過ぎて。そんなこと今まで思ったことなかったので。ただ、ドンピシャで間違ってない言葉ですよね。自分たちが知らない間に逆に差別しているところもあるって。そこで僕の世界観が一気に広がった。そういう日本人と朝鮮人のフラットな関係も今西さんとドンギュウさんの出会いからだと思います。今西さんは「俺が今あるのはドンギュウさんがいたからだ」と僕によく話してくれました』。
後にハンジェが北朝鮮代表としてピョンヤンに向かうと、国内で最も権威のあるサッカー解説者として活動するドンギュウと出会う。『君がハンジェか? 今西から話は聞いている。あいつは本当に下手クソだったが、熱い気持ちを持っていた。だから目をかけたんだ。困ったことがあれば、何でも言ってくれ』と優しく話しかけられた。(参考: 集英社刊『育将』)
李 漢宰(り・はんじぇ)
1982年6月27日、岡山県生まれ。広島朝鮮高級学校から、2001年サンフレッチェ広島に入団。翌年、プロデビューを果たし、北朝鮮U-23代表にも招集され、釜山アジア大会に出場した。2004年には北朝鮮A代表にも選ばれ、翌年のW杯アジア最終予選では日本代表とも戦った。2010年J2コンサドーレ札幌、2011年J2FC岐阜、2014年J3FC町田ゼルビアに移籍。キャプテンとして、J2昇格を目指すチームを牽引している
★★<トランプ氏の『うそ』1万回突破=昨秋以降に急増>米紙ワシントン・ポストは29日、トランプ大統領が就任後に発信したうそや誤解を招く表現が、就任828日の4月27日で1万111回に達したと報じた。1日平均12回超に上る。特に昨年秋以降は、中間選挙前に政治集会を頻繁に開いたり、メキシコ国境の壁建設に絡んで移民問題をめぐり持論を展開したりした結果、うそも急増しているという。
同紙は特設コーナー『ファクトチェッカー』で、事実と異なるトランプ氏の発言やツイッター投稿をまとめている。半分以上が政治集会での発言を含む演説などで飛び出したもので、ツイッターへの間違った書き込みも1,800回超。対中貿易関連だけで100回を超えるなど、同じ内容の発言を繰り返した結果、全体の数が膨らんだ側面もある。
日本には『ウソつきは泥棒の始まり』と言う言葉があり、小さい頃から『ウソをつくな』を厳しくしつけられた。が、アメリカにはこのような言葉はないんだろうねえ。『ウソつきでも大統領』なのだなあ。情けない国だよ、本当に。いくらお金持ちでも、倫理観や摂理のない国に住む気はないねえ、残念ながら。
★★<三陸の海産物、海外販売に注力『ヤマナカ』>石巻市にある水産加工業の『ヤマナカ』。東日本大震災の被災地から水産加工の海外販売に力を入れている。既に売り上げの45%を輸出が占めるが、国内の人口減を見据えて、輸出先の拡大を狙う。海外では被災地の水産物の輸入を規制する国がなお残るが、国際的な食品衛生管理基準『ハサップHACCP』の認証取得などで、受け入れられる条件を整える。
『韓国がダメでも米国のコリアンタウンがある』。高田社長は三陸の代表的な水産物であるホヤの販売開拓に力を入れている。日本では刺身で食べるホヤは、韓国ではコチュジャンとあえてご飯のおかずになる。震災前、宮城特産のホヤは韓国に大量に輸出されていたが、東京電力原発事故をきっかけに韓国は禁輸を続ける。
ヤマナカは2019年3月に米国で現地調査をし、コリアンタウンでは韓国のホヤを使っているが、供給が不足していることを突き止めた。韓国が宮城県や福島県など8県の水産物の輸入を禁止している措置は続くが、米では輸入を制限していない。ヤマナカは調達と同時に米の韓国系企業2社から受注を獲得した。
08年設立のヤマナカは地元の業界でも新参組だが、ホタテやカキなどの貝類やホヤの扱いに強味を持つ。魚類を扱う水産会社に比べれば規模は小さいが、海外比率は45%と高い。海外輸出に力を入れるため、17年6月には補助金を含めて8億円超を投資し、ハサップ対応の新しい工場を建設した。海外ではハサップ認証がないと取引できないことも多いと。新たに設備を導入して、食中毒や異物混入を防ぐ仕組みを整えた。
ハサップ対応を訴えて、ベトナムや台湾でホタテやカキの販路開拓に成功。18年7月には米国向けのハサップ認証を取得して、ホタテの米国輸出を始めた。東南アジアから新たな引き合いもあると言う。高田社長は『三陸の水産物を売り込むことで風評被害を払拭したい』と意気込む。ホヤで活路を開きつつあるが、もう一つの主力商品である養殖ホタテは、ここ数年は不漁が続く。粘り強い取り組みで反転攻勢を待つ。
韓国だけが輸出先でない、という心意気、素晴らしいなあ。中国もあるし、東南アジアでは最近日本の食材について人気に火がつきつつある。この上げ潮に是非乗って欲しい『ヤマナカ』ではあるなあ。
★★<常に三菱UFJを意識した『三井住友』>三井住友銀行頭取に私が就任したのは2005年6月末。その3ヵ月後に三井UFJフィナシャルグループが発足し、従来の4メガバンクが3メガバンク体制に移行する。これは我々の地位が資産規模で『4メガ中2位』から、『3メガの3番手』に転落することを意味した。
旧財閥系の『三菱』と『三井・住友』。大阪でしのぎを削ってきた『旧三和(UFJ)』。二重の意味でライバル関係にあった両メガが一緒になった三菱UFJはおのずと強大だ。どう対峙するか。『One SMBC』といいうスローガンを打ち出した。平成銀行史は統合・合併の歴史である。その度に旧行の間で激しい主権争いが繰り返された。だが異業種ならともかく、銀行同士の統合では出身行の違いなどささいな話だ。皆が一致して顧客利益に貢献する。そこに活路を見出そうと訴えた。
勿論理念だけで人は動かせない。『対三菱UFJ』。国内外の戦略策定の席で常にその存在を意識した。そのうちの一つが中京地区での基盤拡充だ。トヨタ自動車とは旧三井銀行以来の深い繋がりがある。とはいえ、名古屋全体としては手薄。旧東海銀行の本丸では苦戦の連続だ。名古屋経済界の重鎮達とのある会食の席だった。『おたくももっと、こっちに手を入れてよ』。本気でけしかけられた。
分厚い優良中小企業群を反映し、日本で最も貸出金利が低い『名古屋金利』に尻尾を巻く銀行も多かった。そこで発想を変えてみた。個人業務の展開だ。11店舗を愛知県で新設した。07年には旧東海銀系列のノンバンクを巻き込んだ消費者ファイナンスの再編にも動いた。
1つ、頭取になる前からずっと考えていたことがある。『たとえゲタを履かせてでも・・・』。同年春の支店長会議での不規則発言は確信犯。女性積極登用は喫緊の課題との思いからだ。現在の当行の社員の半分が女性だ。生産年齢人口が減少に転じている中旧来の男性主導を見直し、女性の力を解き放たねば、会社の持続的成長など覚束ない。
1986年の男女雇用機会均等法施行の翌年入社した第1期女性総合職には注目してきた。その甲斐あり、3メガで初めて経営中枢を担う女性バンカーが今春誕生した。企業経営とは『ゴールのない駅伝レース』。任期中に当社を3メガ中2位に押し上げ、資本基盤を整えた上でたすきを繋げたのlはお客様と社員のみなさんのお陰だ。
一方、自分の頭取任期は6年限り。最初から決めていた。2011年1月、トップ交代を発表した。三井住友FGの北山禎介社長の後任に宮田孝一さん。銀行頭取の後は国部毅さん。相談せずとも北山さんとは一致していた。
新任の2人に共通するのは修羅場に強く泰然自若。その安定感が取引先の信頼に結びついているのではなかろうか。私はその4月からFG会長に専念することが決まり、あの日も頭取引退の挨拶回りをこなしていた。慌てて銀行にとって返し、緊急対策室のある5階まで駆け上がった。『3.11』の想像を絶する被害に震撼した。(参考: 奥正之筆『私の履歴書』)