今日の画像は、『令和天皇就任の儀式』、『令和1年5月1日』の消印が押されたはがき。そして私の好きな『紫のビオラ』です。中にパンジーも混じっていますが、とても爽やかな花ですねえ。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
■■中学、高校、大学で、勉学の結果が思わしくなくいわゆる『劣等生意識』を持っているキミ、心配するな、あなた以上の劣等生が世の中に出れば大成功した例もあるのだ。その筆頭に『ニトリの創業者似鳥昭雄さん(76)』がいるのだ。本当、似鳥さんは劣等生で高校大学と卒業さえ危ぶまれた人物。が、今や年間1兆円の売上を目指す大家具チェーンの親分になっている。そのニトリをここまで成長させた『破天荒な似鳥昭雄』の実像を追う。
★★★家内の加入で似鳥家具卸センターは軌道に乗った。振り返ると『内助の功』のエピソードには事欠かない。結婚して間もない頃、“こわもて”の客が『値段を半分にしろ』と怒鳴りだしたことがあった。『それは出来ません』と家内が答えると、その人達は土足でソファの上に飛び乗り、真っ黒に汚してしまう。
家内は商品にならないので『弁償してくれ』と頼むと、逆に『俺を誰だと思っているんだ』とすごんでくる。家内も負けてはいない。お互いに言い争いをしていると、こわもてはついに根負け。『家に取りに来てくれたらソファ代は払うよ』と言う。そして家内はその人の家に行ってしまった。私は行き先がさっぱり分からず、一人でおろおろするばかり。
後で家内が戻り、いきさつを聞くと、思わず笑ってしまった。こわもての客の家にはドーベルマンが2匹いて、その犬に生肉を与えて、どう猛さを見せつける。少し家内をびびらせようと思ったのだろう。ところが家内はドーベルマンが肉を食らう姿を見て、冷静に『それ何の肉ですか』と聞いたと言う。当時は肉が貴重品で、牛肉でも豚肉でもめったに食べられず、つい好奇心が先に立ったのだと言うのだ。
こわもての客は『怖くないのか』と聞くと、家内は『肉が勿体ないですねえ』と答える。相手はすっかり拍子抜け。『お前いい度胸をしているな』と言われ、ソファ代を払っただけでなく、度々親類縁者や知り合いを紹介してくれ、お得意様になった。
家内は自動車の販売会社やジンギスカンチェーンの社長など、金回りのいい人に好かれる性格だったようで、似鳥家具売り上げは順調に伸び、少し余裕が出来た。
一方の私は腰が定まっていない。仕入れと配達が私の役目だが、レジから黙って金をかすめ、悪友達と居酒屋で飲んだり、パチンコ屋へ行ったり。まともにパチンコ屋へ行くとばれるので、店から100m離れたところに配達車を駐車していた。もっとも『似鳥家具』と書いてあるので、すぐに見つかり、どやされる訳だが。
美人のいる配達先でビールとおつまみが出た。そこに2時間ほどいついてしまった。しばらくして家内を車に置いて来たことを思い出し、戻ってみると家内はいない。慌てて家へ帰ったら『別れてやる』と激しい剣幕で、家出のための荷造りをしていた。この時ばかりは頭を地面にすりつけて許しを請うた。
ある日、一人の男性客が店を訪れ、『私は似鳥さんが広告会社時代に付き合っていた女性の父親です』と言う。その女性とは当時結婚してもいいと思っていたが、結局ひどい別れ方をしてしまった。その父親が1万円を差し出し、家財道具一式を売って欲しいと言う。実は別れた時に約束した慰謝料が支払われていないので、その分を家財道具で許してやろうというつもりだった。
私は再び家内に土下座し、過去の経緯を話した。すると怒らずに『それはあんたが悪い』ということになり、好きなだけ持ち帰ってもらうことにした。ほぼトラック1台分で、売り上げ1ヵ月分に当たる。配達後、家内はこう言った。『あんたの小遣い、今月からゼロよ』。(参考:似鳥昭雄筆『私の履歴書』)
■■日本代表監督『森保一』、U-17日本代表監督『森山佳郎』、J1名古屋監督『風間八宏』、J1大分監督『片野坂知宏』、J2大宮監督『高木琢』、昇格請負人J3北九州監督『小林伸二』、FC今治監督『小野剛』、福岡などの監督をした『松田浩』・・・・・。この人達は全員サンフレッチェの出身である。前身のマツダサッカークラブの時代からの人達もいる。この人材を見出した人こそマツダサッカークラブ総監督、サンフレチェGMを務めた『今西和男さん(77)』。
集英社が、今西さんの足跡、育成した人材を追った『育将』を2016年に発刊している。ただ、今西さんは最後の時期に『FC岐阜』の社長に就任された。まさに泥にまみれた時代だった。なぜこんなクラブを引き受けたのか、詳細はつまびらかになっていない。心配は過去からの累損を個人で引き受けた総額3億円の負債。この処理がどうなったか、不明である。その『育将』の実像の証言を綴る。いずれも肩書は2016年の『育将』発刊当時のもの。
★★★『育将・今西和男 李 漢宰2』
李漢宰『プロとして、あるべき姿を見せていきたい』
門徒たちが語る師の教え FC町田ゼルビア 李 漢宰(2)
2001年、ハンジェの本契約は母校の広島朝鮮高級学校で行なわれた。今西は『お前の練習態度やサテライトリーグでの活躍を見た。今は知られていなくても、将来お前は絶対にものになるから、契約内容を改めて同期の新人と比べても遜色の無い契約内容にした』と仮契約のときよりも高い条件でサインをさせてくれた。これには感激した。『正直、僕は高校生で、お金の感覚というのがまったく無かったんですが、その言葉が本当にありがたくて、このチームのために力になりたいと心から思えたんです』。
サンフレッチェ広島の同期入団選手は闘莉王、林卓人、西嶋弘之、寺内良太、河野淳吾、梅田直哉と他に6人いたが、今西の慧眼はまたも発揮された。全国的には最も無名であったハンジェは、サンフレッチェの在籍がその中で最も長く、9年を過ごした。節目となる10年目はクロアチア代表のミキッチの加入もあり『戦力外』ということになったが、ハードワークを厭わず、プレースキックも蹴れるユーティリティプレイヤーに対する他チームからの評価は高く、2010年にコンサドーレ札幌からのオファーを受けて移籍する。石崎監督からの期待もあり、新天地でのモチベーションは高かった。『自分にとっても選手として一番いい時期で、リ札幌でキャリアハイのパフォーマンスが出来るような自信がありました』。
しかし、希望に満ちたはずの2010年が意外なことをきっかけに暗転してしまう。コンサドーレの開幕前の1次キャンプはグアムで行なわれることになっていた。朝鮮籍であるハンジェは米国に入る場合、ビザ取得にかなりの時間を要する。そのことがわかっていたので『グアムに行くためのビザの手続きを早めにお願いします』と早々にクラブに頼んでいた。しかし、スタッフは米国と北朝鮮の関係を甘く見ていた節があった。『大丈夫だ』と言うばかりで、手配が遅々として進まない。本人も何度も札幌の米国領事館に足を運んでプッシュをかけたが、結局キャンプ出発の日が来てもビザは下りなかった。チームが温暖の地で1ヶ月のキャンプを張る間、寒い日本に一人で取り残されることとなってしまったのである。その上、練習場の確保も『まあ、ハンジェなら自分で出来るよね?』と言われてしまう。まだ雪が深い札幌での練習は到底無理である。
仕方なく上京し、伝手のある東京朝鮮高校の練習に参加する形でたった一人でトレーニングを開始した。最初はホテル住まいであったが、それを続けるわけにもいかず、小岩の知り合いのところから、毎日電車で北区の十条まで、ひと月の間通い続けた。チームとは2次キャンプの熊本で合流した。しかし、暖かいグアムでフィジカルをみっちりと鍛えてきた他の選手とのコンディションの差は歴然としていた。開幕までは、もう3週間しかない。気負い込んで負荷の強度を上げていったが、開幕の2日目にレギュラー組から外されてしまった。そこで取り戻さなくてはいけないという気持ちが余計に働いて、無理を重ねた。すると開幕後、サブで2試合出場した直後の練習試合のウオーミングアップ時に、ケガを負ってしまう。
『その段階でしっかり治してと切り替えることが出来れば良かったんですが、チームが求めてくれているんだから自分もやろうという気持ちが強くてプレーを続けました。完全でないのなら、休むというプロの選択が出来なかったのが、今思えば、経験が足らなかったかなと思います』。右膝に大きな違和感があったにもかかわらず、90分フルで試合に出てしまったのである。その後、軟骨が剥がれているという診断が出た。それでも、そこから1ヶ月膝に水が溜まるのもかまわず、ベンチ入りを続けた。これが致命的であった。悪化して手術をするに至るも、そこから一向に回復しなくなってしまった。
『リハビリしても治らない。ここまで追い込まれたのは初めてでした』。1年経っても完治せず、札幌では活躍が出来ないままに、契約満了で退団となった。サッカーを続けたいが、治療中の身ではどこからもオファーがかからない。自分からアプローチしてもダメだった。『どうしたいかを見つめ直すと、サラリーやチームのレベルは問題じゃない。僕はただサッカーがしたかった。そこでふと、思い出したんです。「あ、今西さんがいる」と』。今西はサンフレッチェの総監督を辞した後もクラブ顧問を務めていたが、2008年に請われてFC岐阜の社長に就任していた。
『ちょうど僕が札幌でケガをしているときに、岐阜との試合で、スタンドでばったり会ったんです。そのときに実はびっくりしたんです。ものすごくやつれていて、僕が知っている今西さんの顔じゃなかった。そんなに辛い経営状態の中、岐阜で頑張っているんだと。それに対して助けたいという気持ちと、もう一度サッカーをしたいという気持ち。一からやり直すには今西さんしかいない。それで何年かぶりに今西さんに電話したんです。今はこういう状態ですけど、サッカーがやりたいんですって。そうしたら、「ハンジェは広島から移籍してきて年俸も高いし、うちでは払えないんだ」と言われたんです。いや、僕はお金は要らないです。本当にもう一度サッカーがしたい気持ちだけでお願いしています。今はこんな膝なので動けない。ただ、必ず復帰して力になれる自信はあるので、何とかしてくださいと言ったら「わかった。一応スポンサーに聞いてやってみる」と。
そうしたらもう次の日です。電話がかかってきて、「オーケーだ」と。しかも「治ったらお前がやれるのはわかっているから、それまで治療に専念してくれていい」とまで言ってくれたんです。だから、僕が入団記者会見で述べた言葉というのは、今西さんにすべてをささげたいと。岐阜が低迷しているのも知っていましたし、何とか自分が復帰して、少しでも上の順位に持って行きたいという気持ちが強くて、覚悟は相当があったのを覚えています』。ハンジェは年俸が激減するも、懸命なリハビリで翌年には復帰を果たして、ボランチのレギュラーとしてチームを牽引する。
2013年、突然今西が志半ばで、経営責任を問われる形で解任を余儀なくされる。ハンジェは発表のあった試合後、一人で号泣した。多くの岐阜のサポーターやスポンサーが指摘するように、すでに経営が破綻していたようなクラブがJ2でやって来られたのは、途中から社長就任の依頼を受けた今西が火中の栗を拾ってくれたからである。しかも引き継いだ億単位の借金を背負わせたままの解任であった。ハンジェの涙はいつまでも止まらなかった。
今、FC町田ゼルビアでキャプテンとして、今西の意志を継いでいる。『ゼルビアに今西さんが係わっているわけじゃないですけど、やっぱり僕も似たように大事にしている部分があるんです。プロとして、社会人として、まずあるべき姿というのを大切にしたい。一人の人間として成長することで、チームへの還元というのはできると思うので、そこをもっとみんなが自覚を持ってくれるように引っ張っていきたいと思っています』。(参考: 集英社刊『育将』)
何故今西さんが、FC岐阜の社長になったのか、その理由は今だもって不明だ。誰が見ても尋常なクラブではなかった岐阜の社長に、誰に頼まれて就任したのだろうか。しかもそれまでの累損3億円を個人保証までして。FC岐阜は、正常な形での誕生ではなかった。いわゆる、自治体、スポーツ界、財界の支援なしで、サッカー好きが簡単に作ったクラブ。よってすぐに金欠病になり、累損を重ねたのだ。今西さんが岐阜の社長になって、最初にやるべき仕事が県庁とのパイプの修復、財界への支援周りなどであり、常識はずれのクラブだったのだ。姻戚関係で岐阜に知人はいない。残るはサッカー界、しかも今西さんの恩人か超重要人物からの依頼であろう。誰だったのだろうか、罪作りな人は。
★★<天皇陛下が、『即位後朝見の儀』で述べたお言葉>
日本国憲法および皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。
この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
顧みれば、上皇陛下にはご即位より、30年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心をご自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。
★★<10時間待ちも…令和初日の御朱印、明治神宮に大行列>東京の明治神宮では1日午前5時の開門直後から、令和初日の御朱印を求める人たちが行列を作った。予定より2時間半早く午前6時半から受け付けを始めたが、列は延び続け、正午ごろには一時、『10時間待ち』の看板が掲げられた。
2日前に仙台から上京した幼稚園教諭熊谷路子さん(43)は、小中学校の同級生で会社員の阿部亜希子さん(43)と午前7時前から並んだ。すでに数百メートルの列だったが、2時間待って入手できた。『令和の初日にぜひもらいたいと思っていた。特別な気持ちよさがある』と晴れやかに話した。
東日本大震災の当時、大きな被害が出た宮城県南三陸町の幼稚園に勤務していた。大津波警報を知らせる防災無線が響くなか、高台にあった園から園児たちを抱きかかえ、内陸へ避難させた。『本当に大変な思いをした。令和は穏やかな時間が過ごせると良い』と熊谷さん。阿部さんは『初心に帰って何事にも頑張れる気持ちになった。この日を忘れずに生きたい」』と御朱印を見つめた。
さいたま市から訪れた中里有花さん(51)と長男で小学6年生の颯人君(11)は約2時間並び、『令和元年5月1日』の日付が入った御朱印をもらった。御朱印集めが趣味という颯人君は『新しい時代の最初の日にもらえた。自慢できる』と笑顔を見せた。
明治神宮はこの日、代替わりに伴う人出を見込み、普段は休憩所として使っている場所を御朱印受け付けの特設会場にしつらえた。対応する神職や巫女らも平日の2倍の16人態勢で臨んだという。だが、午後6時10分の閉門時間を見据え、午後1時半の時点で受け付けを締め切った。担当者は『初めての経験。新しい時代に対する皆さまのお気持ちの表れでは」』と話した。
★★<新興化粧品ブランド、大手を脅かす>日用品市場で新興ブランドが花王や資生堂など大手の牙城を脅かしている。生産を外部に委託して自らは開発に特化。広告・宣伝もSNSを主体にすることで費用を抑えつつ、既存商品に飽き足らない若年層などにアピールする。社員7人でヒットを飛ばす企業も登場した。マス広告と大量生産を前提とした大手の戦略に転機を迫っている。
2010年設立の化粧品メーカー、東京の『フローフシ』は目元のメーク用品が主力だ。社員7人ながらアイライナーは花王や資生堂を凌ぎ、ドラッグストアで2割のシェアを持つ。売上高は100億円を超えると見られる。
特徴は品質へのこだわりだ。新しく発売した新ブランド『UZU』では、化粧筆の毛先部分に熊野筆など伝統職人の手もみを使う。創業者の今村洋士さんは『固定費が少ないため、高品質の商品も千円台の手頃な価格で提供出来る』と話す。
宣伝はSNSのみだが情報は瞬く間に拡散する。今年開設したブランドの公式インスタグラムのフォロアーは3.8万人。花王の『KATE』(7.4万人)や資生堂『インテグレート』(4.5万人)を猛追する。
手書きのような書体でブランド名をあしらったボトルがドラッグストアの棚にずらりと並ぶ。美容家電などを作っていた大阪市の『I-ne』が2015年に発売したシャンプー『ボタニスト』だ。植物素材を多く配合した成分とシンプルなデザインが特徴。ネット限定で売り始めたが、今では総合スーパーなどにも販路が広がる。ブランド単体の売上高は100億円以上になった模様だ。
ヘアケア製品市場には大手がひしめき、1割超のシェアを取れるブランドはわずかだ。全国の集計データによると、I-neはシャンプーで5.9%のシェアを占め6位。英欄ユニリーバや資生堂に肉薄する。ネット通販のシェアは更に高く、楽天では18年まで3年連続シャンプー分野のトップになった。
I-neは、先月、2千種類あるシャンプーとトリートメントの組み合わせの中から、利用者の髪質に合った成分の商品をアンケートを通じて薦めるサービスを始めると発表した。大西洋平社長は『500億円規模に育てたい』と意気込む。
都内に住む関絵理菜さん(30)はユニリーバ製品を使っていたが、SNSで見たボタニストのデザインにひかれて購入し始めた。『比較的高い価格帯(1千~2千円)も気にならない』と言う。
日用品は不特定多数の消費者にアピールするテレビCMを大量投入出来る大手が優位に立ってきた。ただ、状況は変わっている。マーケティング会社の調査によると、20~49歳の商品購入に参考とする情報として『同世代の友人・知人のお薦め=~42%』や『口コミサイト・まとめサイト=34%』が『テレビ=32%』を上回った。
『小さな巨人』はほかにもある。化粧品の口コミサイト『@コスメ』による18年の評価ランキングでは、10以上のカテゴリーで新興勢が大手ブランドを上回った。
大手も対応を急ぐ。花王は17年、ネット通販主体のヘアケアブランドを立ち上げるなど、性別や年齢を絞った『スモールマス』商品の開発を加速する。一方、新興ブランドにも『陳腐化』という課題はつきまとう。販路が広がれば希少性が薄れ、別の新興ブランドに顧客を奪われかねない。I-neは現在、ネット中心に中国などアジアに展開するが、今後は欧米市場への展開も検討する。フローフシも新ブランドを米国市場にも展開する。成長を続けるには販路や商品分野の継続的な開拓が不可欠だ。
今や、新規ビジネスの立ち上げには劇的な変化が起きている。一般人があの『クラウドファンディング』に参加し、成果報酬を受け取る面白さに目覚め、クラウドのHPは情報満載で、色とりどりになっている。まさしく、若者達が起業するに、アイディア一本で突進出来る環境が整いつつある。いい時代だ。若者達のエネルギーがリアルに社会を変える時代になったねえ。
★★<キャセイ黒字化も前途多難>香港のキャセイパシフィック航空は、2018年度の決算で3年ぶりに黒字を確保した。ただ本社の人員を600人削減するリストラ頼みで収益力の回復は道半ばだ。中国の航空大手が世界の主要都市へ路線を拡大し、香港のハブ空港の優位性が低下する構造変化も起きている。キャセイはLCC香港エキスプレスを展開するが、今後の成長路線に乗れるかは不透明だ。
『中国の航空会社との競争が激化しているが、成長を取り戻せた』。キャセイのスローサー会長はこう声明で復活を宣言した。前の期の12億香港ドルから一転して23億4千万香港ドル=330億円の純利益を計上し、久々の黒字となった。ビジネス需要の多い米ワシントン便などの新設で収入単価が改善し、貨物収入も19%増えた。
キャセイが赤字に転落したのは、16年12月期。原油価格の変動を回避する取引で多額の損失を計上したほか、得意とするビジネス客需要も中国景気の低迷のあおりを受けて減少した。
急速な構造変化も逆風となった。キャセイは香港国際空港を拠点に、世界50カ国・地域の200都市以上を結ぶハブ戦略を取る。香港は長年中国と世界を結ぶ『玄関口』の役割を担ってきた。一方、この数年は中国の多くの航空会社が中国人の旺盛な海外旅行、ビジネス需要をつかもうと海外路線を急拡大させた。その結果、中国人は香港を経由しなくても海外の多くの都市に行けるようになり、キャセイの強味を奪った。
赤字を受け、キャセイは17年に本社人員の600人削減を含め大胆なリストラを実施。18年は海外でもリストラを進め、ようやく黒字に繋がった。
そんなキャセイが成長に向けて繰り出す一手がアジアで急速に力をつけるLCCの取り組みだ。『香港エクスプレスの株式取得に向けて前向きな協議をしている』との方針を明らかにした。背景には香港人の底堅い日本人気がある。香港人740万人は毎年、およそ3人に1人が日本を訪れる。香港エクスプレスは東京、名古屋、大阪の三大都市に加え、広島や熊本、高松など多くの地方都市路線を持つのが強味。キャセイはそこに目をつけた。
オーストラリアの調査会社によると、18年のアジア太平洋の航空座席数に占めるLCCの割合は29%と、08年の14%から大幅に上昇した。LCCのシェアは30年までに5割を超えるとの見方もある。キャセイと香港エクスプレスは世界で運行停止が相次ぐボーイングの『737-MAX』は保有していたい。
私がもう随分昔、初めて海外旅行したフライトがキャセイだった。香港と台湾だったが、とても印象に残っている。当時の機材は『ダグラスDC8』。今やダグラスはマクドネルとの合併後、ボーイングに吸収合併され、名前ものこっていないメーカーだ。昨夏、スイスアルプストレッキングに出かけた際には、福岡発のキャセイを使った。往復、ブリュッセルへのオープンジョー、そして香港へのストップオーバーを使って7万2千円は安かったなあ。