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Channel: Freeman 雑記帳・広島
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『破天荒、奇跡の成功ニトリビジネス⑯ トラブルは続々と続く』

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今日の画像は、栃木県足利市の『満開のあしかがフラワーパークのフジ棚』と、愛らしい花『クロッカス供戮任后K榲法⊇奸花爛漫の10連休ではあります。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


■■中学、高校、大学で、勉学の結果が思わしくなくいわゆる『劣等生意識』を持っているキミ、心配するな、あなた以上の劣等生が世の中に出れば大成功した例もあるのだ。その筆頭に『ニトリの創業者似鳥昭雄さん(76)』がいるのだ。本当、似鳥さんは劣等生で高校大学と卒業さえ危ぶまれた人物。が、今や年間1兆円の売上を目指す大家具チェーンの親分になっている。そのニトリをここまで成長させた『破天荒な似鳥昭雄』の実像を追う。


★★★スカウトした営業部長による1974年(昭49)、の倒産の危機。私の経営の甘さから起きた問題だ。数少ない社内の仲間4人に『闘うから』と宣言した。社長なのに他の社員の目を逃れるようにこっそりと調査を始めた。証拠を集め、不正した社員を一人づつ辞めさせていった。勿論営業部長側は脅してくるが、『潰せるならどうぞ』とかわす。

会計士を入れ、経理をチェック。1年ぐらいで不正を犯した社員を一掃し、横領した経理部長と営業部長も解雇した。融資を渋る銀行にも事情を説明し、『内部の問題があり、何とか立て直します』と説明した。残った社員は5人と1/4に減った。面白いことに社員数が激減しても売り上げは落ちず、利益率が大きく改善した。

70年代は本当にドタバタの連続だった。思い出深いのは75年に開業した札幌郊外の南郷店だ。資金は乏しく、土地を借り、安い費用で店を作るしかない。そこで思いついたのが米国視察で見かけた東京ドームのような日本初のエアドームの店で、米社とドームを輸入する契約を結んだ。

ところがドームの価格は想像以上に高い。しかもオープン2ヵ月前なのにドームが届かない。代理業者の手違いで代金が未払いのままだったからだ。船便では間に合わない。テレビで宣伝も初めており、オープン出来なかったら信用問題になる。米軍機をチャーターして緊急空輸を実施するハメになり、500万円もかかってしまった。


そこで北海学園大学の同級生の多田康郎さんに設計工事を頼み、『これでお願い』と指を4本立てた。ドームが予想以上に高く、40万円のつもりだったが、多田さんは400万円と思いこんでいた。そうとは知らず、多田さんは北海学園の野球部の後輩などを集めて、設営もしてくれた。支払の段階で気付いたが契約書もなく、お金もないので40万円のまま。多田さんは責任を取って設計会社を退職してしまい、私は多田さんの独立を支援することになった。今もニトリの店舗設計などをお任せしている。

トラブルは続く。厳寒の12月、徹夜続きで何とかドームの店は完成した。喜びもひとしおだが、オープンの朝、社員から電話が掛かってきた。『社長、店がありません』。意味が分からず現場に駆けつけると前日の大雪でドームが潰れていたのだ。社員だけでは足らず、問屋やメーカーにお願いして、除雪作業に取り掛かった。

お客さんは集まってきたが、商品の多くはドームの倒壊で損傷している。そこで銘打ってオープンした。『開店記念 傷物 半端物大会』。これが大成功だった。その日から問屋やメーカーから傷物を仕入れて、オープン3日間は大繁盛した。

だが、その後は失敗だらけ。ライトをつけても店内は明るくならないので、サーチライトをつけたが、目に入ると、とてもまぶしい。そこで『下を向いて入ってください』と店内放送をすると、『杖をついて歩けと言うのか』などと怒りを買う。しかもサーチライトの店内で購入した家具を持ち帰ると、色が違って見える。しょっちゅうクレームが来るので店内に100本位街頭を立ててみたが、改善しない。このためいちいち店の外に商品を出して、色を確認していた。(参考:似鳥昭雄筆『私の履歴書』)


■■日本代表監督『森保一』、U-17日本代表監督『森山佳郎』、J1名古屋監督『風間八宏』、J1大分監督『片野坂知宏』、J2大宮監督『高木琢』、昇格請負人J3北九州監督『小林伸二』、FC今治監督『小野剛』、福岡などの監督をした『松田浩』・・・・・。この人達は全員サンフレッチェの出身である。前身のマツダサッカークラブの時代からの人達もいる。この人材を見出した人こそマツダサッカークラブ総監督、サンフレチェGMを務めた『今西和男さん(77)』。

集英社が、今西さんの足跡、育成した人材を追った『育将』を2016年に発刊している。ただ、今西さんは最後の時期に『FC岐阜』の社長に就任された。まさに泥にまみれた時代だった。なぜこんなクラブを引き受けたのか、詳細はつまびらかになっていない。心配は過去からの累損を個人で引き受けた総額3億円の負債。この処理がどうなったか、不明である。その『育将』の実像の証言を綴る。いずれも肩書は2016年の『育将』発刊当時のもの。


★★★『育将・今西和男亜 屮廛蹇徂嵌宏を口説く』  
毎年ドイツに渡り、「プロ」風間八宏を口説いた
門徒たちが語る師の教え 川崎フロンターレ監督 風間八宏(1)

1994年1stステージでのサンフレッチェの戴冠を語るとき、今西はマツダ時代からこつこつと築いてきたチームの育成・強化の結実を勝因として挙げる。その中で『あれの獲得が特に大きな転機だった』と振り返る人材が『風間八宏』である。

清水商業在学中に同世代に類を見ない突出したタレントとして、マラドーナがMVPに輝いた1979年のワールドユース日本大会に出場した風間のところには、すでに高校卒業時に実業団、大学を問わず、ほとんどの主要チームが勧誘に来ていた。風間が学校から帰宅すると、母親が営んでいる磯料理の店のカウンターにはずらりとスカウトが並んで、飲みながら待っていた。母は女手ひとつで長男の自分を筆頭に3人の息子を育ててくれていた。風間には4歳年上の姉がいたが、彼が1歳のときに白血病で亡くなっていた。母がそんな悲しみの中で、自分たち兄弟を養ってくれているのを知っていた。だからこそ、早く楽をさせてあげたい。『俺は進学はないな』と考えていた。

進路を決めなければならなくなったある日、清水商業高校監督の大滝雅良に体育館の教官室に呼ばれた。『おい、結局お前はどこに行きたいんだ』。関東大学1部リーグの名門校をはじめとして10校を超える大学が入学の勧誘に来ていた。受ければ受かる。私学であれば『○○大学に行きたい』と言った瞬間に進学が決まってしまう。一計を案じた。『はい、東大ですね。もしくは慶応の医学部です』。とたんに大滝のパンチが飛んで来た。


『てめえ、大人が真面目に心配してやってるのにふざけんな!』と本気で怒られた。受けても落ちるだろうというところを狙う作戦は失敗した。しばらくすると、清水東の勝沢要監督から『筑波に行かないか』と言われた。『これだ』と思った。東京教育大を前身とするこの国立大は、実業高校からはまだ推薦を取ったことがないという。ここなら落ちるだろう。『はい、受けます」』と答えて受験に向かった。科目は面接と筆記作文である。落ちる気マンマンであったが、面接官がやたらと商業高校のことばかり聞いてくるので、思わずカチンとなった。それからは周囲が驚くほど理路整然とした受け答えをして高評価を受けてしまった。反骨心に火がついたことで作文も同様にロジカルな筆致で持論を展開して、気が付けば、筑波大蹴球部の実業高校からの入学第1号となっていた。結果的に風間は今西の後輩ということになった。

プレーにおいても後に『中盤でアシストの前を組み立てることのできる天才』と称賛される技術の高さはカレッジサッカーの枠を超えており、大学1年で日本代表に選出される。2年、3年と進級するにつれて『今度こそ』という日本リーグの各チームの風間争奪戦が激しくなった。当時の筑波大の監督は松本光弘で、今西の教育大時代の1年後輩にあたる。今西は松本を通しての会談を申し出た。当然マツダに欲しい人材だと考えていた。しかし、風間からは『お会いできません』という回答が戻ってきた。

『走るスピードは滅茶苦茶速いというわけではないが、風間は少し見るだけで、ボールコントロールが上手いしクレバーな選手というのはわかっとった。リーダーシップもある。わしが直接会ってチームのことを説明して何で来て欲しいのかを説明しようと思っとったんじゃが、残念ながら断られて会えんかった。生まれ育ちと高校が静岡で、大学が関東じゃから、やっぱり広島には縁がないのかとも思った』(今西)。

一方、このときの心境を風間はこう語る。『実はもう自分は大学を卒業したら西ドイツ(当時)に渡ろうと決めていたんですよ。代表にもなっていたし、このまま日本リーグに入ってレギュラーになる。そうしたら目標がなくなってしまう気がしていた。だから本気でヨーロッパでサッカーをやりたかった。行く気持ちがないのに、今西さんにお会いするのはその方が失礼だと思っていたんです。そりゃあ、貧乏な学生でしたから、会ってメシはご馳走になりたかったですが(笑)』。


風間は1984年5月、西ドイツに忽然と旅立つ。恩師である松本の紹介でブンデスリーガ1部のレバークーゼンのテスト参加のメドが立ったのである。インターネットどころか、ファックスもまだ普及していない時代である。出発は直前に言われた。『明日もう行くしかないそうだが、どうする?』『わかりました』。森岡理右部長は翌日、東京駅の喫茶店で記者も何名か集めて待っていてくれた。『立て替えて買っておいた。これがチケットだからこれで行け』。ユースの頃から海外遠征は頻繁に行っていたが、1人で渡航するのは初めてだった。風間はその南周りのチケットで40時間かけてフランクフルトに降り立った。 
 

代理人も通訳もいない。冷戦時代であるから欧州連合体などという発想もなくて、当然ボスマン協定(EU圏内のプロサッカー選手に契約満了後の移籍の自由を保証)も存在しない。チームの外国人枠は2名しかない。契約書も自分で翻訳して交渉しなくてはならない。そんな環境下で5年間揉まれ続けた。しかし物怖じはまったくしなかった。3つ目のクラブ、ブラウンシュバイクでは監督のウベとよく大喧嘩になった。たいていは風間がぶつかっていった。『なぜ、ホームもアウェーも同じプランで試合をしなきゃいけないんだ。俺たちは』『ここにマラドーナはいるのか』『いなくても出来るだろう』『カザマ、お前は何だ! どっちが監督なんだ』『あなただ』『だったらいい』。

どれだけ怒鳴り合っても、ウベは風間を使い続けた。ふだんはコミュニケーションもろくに取らず、あいさつくらいしか交わさない。風間が靭帯を損傷して手術した際も見舞いに来たウベは励ましもせず、『お前の契約もあと半年だからな』とだけ言い残して帰っていった。『この野郎!』と思ったが、3ヶ月して復帰したら、すぐに先発で使い出した。調子が上がらず風間自身が納得できない出来であっても使い続けた。そのうちパーンとはじけるようにパフォーマンスが元に戻った。ウベはプレーや判断については心が折れそうになるくらい厳しい言葉を投げかけてくるが、絶対に人格を責めるようなことは言わなかった。

『ふと、思ったんです。俺が監督だったら、こんなにガミガミ言ってくる選手は使えねえだろうな。でも使う。つまり、俺とお前は別に友達じゃないけど、ここで同じ仕事をするんだ。それについてはすごく言うが、それ以外はどうでもいいんだってことなんですね』。サッカー先進圏ヨーロッパのプロフェッショナリズムを身体で受け止めていたことになる。西ドイツに渡った風間を今西はずっと注視し続けていた。いつかはチームに呼びたいと思っていたのだ。年に1度は渡独してチームや身体の状態を聞いたり、ときには当時のマツダの監督であったオフトを伴って来た。オフトはマツダで何をテーマに指導しているかを伝えてきたが、風間にしてみれば、非常に基礎的なことすぎて、興味がそそられるものではなかった。


『自陣ゴール前ではミスしちゃいけない、中盤は前に持っていく、最後FWはチャレンジしてもいいです。でも今、そんな話をされてもなと。後から思えば、オフトさんは本当にチームの現状をしっかり把握していて正しかったというのがわかった。でも、当時の自分は今西さんに「申し訳ないけど、この監督とは俺は無理だ。面白みを感じない」と言ったんです』。そうこうしているうちにマツダが2部に落ちてしまった。今度は今西が慎重になってしまった。『ドイツでバリバリやっている選手を日本リーグの2部に来てもらうわけにはいかんと思ったわけです』。
 
ところが、1989年、風間は『行きます」』という回答をしてきた。幾多の1部のチームからのオファーを断って、今西のマツダを選んだその根拠がプロらしいものであった。(参考: 集英社刊『育将』)

(風間八宏)
1961年10月16日、静岡県生まれ。1979年、清水商業高校在学時に日本で開催されたワールドユース選手権で活躍し、注目を浴びる。筑波大に進学し、19歳で日本代表に選ばれた。卒業後は海外でのプレーを希望し、JSLのチームの誘いを断り、渡独。西ドイツのバイエル・レバークーゼンと契約。その後、5年にわたって、ドイツでプレーした。1989年帰国して、マツダSCに所属。Jリーグ発足を機にチームはサンフレッチェ広島となり、キャプテンとしてチームを牽引した。1995年、広島を退団し、再度渡独。1年間プレーして、現役引退した。1997年桐蔭横浜大学サッカー部の監督に就任。一方で解説者として、人気を博した。2008年母校・筑波大学のサッカー部監督に就任。2012年より、川崎フロンターレ監督を務める(現在名古屋グランパス監督)。


★★<『ひきこもり』、83歳父、53歳の息子のため貯金する>全国で61.3万人。40~64歳の中高年ひきこもりの広がりが内閣府の調査で明らかになった。老いていく親とひきこもる子の孤立と困窮は80代の親と50代の未婚の子の所帯の困難という意味で『8050問題』とも呼ばれる。どう支援して行くのか。新たな社会問題となっている。

『今年も忘れずに、八十路、五十路の庭に春を届けてくれて、ありがとう』。愛知県の男性(83)は3月、庭に咲いた梅の花の写真と共に、そんな言葉をSNSに投稿した。長期ひきこもりの息子は53歳。カーテンを閉め切った自室で母親が準備した食事を取る。もう30年くらい両親と食卓を囲んだことはない。近所の目がある日中は外出しない。買い物は夜間に遠方のコンビニまで買いに出かける。

男性は、大手メーカーで部長を務め、高度成長期を担った『猛烈社員』だった。『我が家は順風満帆』と思っていた環境が変化したのは、高校生だった息子に対人恐怖症の症状が出てからだ。親子で大学病院に通った。1日1万円かかる精神療法の施設に息子を入れたこともある。

退職後は70代までひきこもりの家族会活動に打ち込んだ。『8050』所帯となった今の懸念は『親亡き後』だ。息子が1人で生きなければならない期間を35年と計算。『餓死しない』蓄えを残そうと、ボーナスの半分は貯金してきた。国民年金の保険料はずっと親が払っている。最後は息子より2歳年上で独り身の兄に託すほかないと思っているが、笑顔の消えた兄の心中を思うと切ない。

国や自治体に望むのは、長期ひきこもりの子の登録制度など、善意の公的介入を制度化することだ。髪に白いものが交じってきた50代の息子。『なんとかこういう子達が生きられる世の中にしてほしい』。ほとんど家や自室から出ないひきこもりの人にとっては、『親亡き後』に生活保護などの公的支援に自らが繋がることは極めて高いハードルになる。コンビニなどでの買い物などは出来る人であっても、役所の窓口などで交渉や申請をするのは容易ではない。このため、自宅で困窮したままになるケースが高い。


KHJひきこもり家族会連合会は3月、全国3ヵ所で『8050問題』をテーマにした連続シンポジウムを開催した。伊藤正俊共同代表は『ひきこもりは若者問題として捉えられがちだ。しかし家族会には本人が60代という家族共倒れを心配する相談も寄せられている。そうした現状を知ってほしい』と話す。

中高年ひきこもりの人がサポートを得るまでには、支援対象が30代までに限られる『年齢の壁』や、課題が複数の部署にまたがる『縦割り行政の壁』があるとも指摘されてきた。一部の自治体では『壁』をなくす取り組みを始めている。

岡山県総社市では、認知症や生活困窮の相談を受けた高齢者の家に、ひきこもる中高年の子がいた事例が数多くあった。そこで2年前、家族関係や就労など様々な相談を一つの窓口で引き受ける『ひきこもり支援センター』を設立。対象年齢の上限はない。社会福祉士と臨床心理士が電話やメールで相談にのり、訪問もする。

現在のところ相談実績は10~30代が中心。しかし、民生委員らによる市の調査では、ひきこもる人は市内に少なくとも207人、年齢は10~80代まで幅広く、まだまだニーズはあると見る。『ひきこもりは個人や家族の問題と捉えられ、偏見は根強いが、社会全体の課題』と話す。

東京都はこれまで、ひきこもり支援事業を青少年・治安対策本部が所管、相談対象は『おおむね34歳まで』と限定してきた。長期高年齢化が進む中で方針を転換。新年度には所管を福祉保健局へ移し、年齢制限をなくした。

大きな社会問題になりつつあるんだねえ。あの小さな高梁市でも207人もいるとは驚きだ。広島市だと2,070人になるのかな。両親も大変だが、本人自身、人間としての尊厳が発揮できない人生を送ることになり、誠に残念だ。世相の移りゆくスピードが格段に速くなった現在、それについていけない人、嫌悪をもようす人、なんとか支援を輪が広がればいいねえ。


★★<1000万人超が深刻食料不足 “北”の農業生産最低に>北朝鮮の2018年の農業生産が過去10年間で最低となり、1,000万人以上が深刻な食料不足に陥っていると国連機関が発表した。

WFP(世界食糧計画)などが4月までに行った調査によると、北朝鮮では2018年、高温や洪水などに加えて、肥料や燃料の不足が重なって、農業が大きな打撃を受けた。WFPは、農業生産がこの10年間で最も少ないおよそ490万トンにとどまり、およそ1,010万人が深刻な食料不足に陥っていると発表した。

食料の配給がさらに減ると、一部では飢餓状態になる可能性があると分析したほか、子どもや妊婦の栄養不足が懸念されるとして、国際的な支援が必要だとしている。

1千万人が食料不足ということは、2,500万人の2人に1人は、食料欠乏状態だということか。それにしては、テレビ報道で映る北朝鮮の人達は笑顔がたえず、まるまると太っている人が多いがなあ。裏道で食料を調達してるのかなあ。波乱も抗議も暴動も起きない北朝鮮、飢餓状態でも国は安全なんだなあ。可哀想になあ。


★★<トランプ、FBなどに不満連発 極右らのアカウント規制強化で>トランプ米大統領は、ソーシャルメディア企業に強烈な不満を示すツイートを連発した。フェイスブック(FB)やツイッターが分断や憎悪を助長するようなメッセージを出す極右論客らのアカウント規制を強化していることを巡り『ソーシャルメディアによる米市民の検閲を注意深く監視している!』と警告した。

FBは2日、極右思想や陰謀論を掲げる政治評論家アレックス・ジョーンズ氏ら6人と1団体のアカウントの永久削除など新たな措置を発表した。米メディアによると、個性派俳優ジェームズ・ウッズ氏のツイッターアカウントも最近ブロックされた。

しっかし、よくもこんなアンフェアで独断的な人物を大統領としてあがめているなあ、米国民は。アメリカをよくも『民主国家の先進国』だと言ったもんだ。


★★<カープ、巨人3連勝を逃す、鈴木100号放つ>カープ12連戦の真っただ中、巨人3連戦を終え、2勝1分けで終えた。残念なのは、昨日の3試合目。9回まで3-2とリードしていながら、クローザーの中崎が失点し同点に。さらには、延長12回の裏、1アウト満塁となり、サヨナラの絶好の場面に野間、菊池が凡退し白星にならなかった。特に野間はその前の打席でバンドも失敗しており、高い値段のミスが相次いだ。が、まあ、あれほど泥道を味わったカープが曲りなりにもほぼ5割の勝率に復活したのだから、良しとしなければならないなあ。鈴木が最近よく打つと思っていたら、いつの間にやら打撃トップにと。見事なり鈴木誠也ではある。今日はチーム最年少記録、100号を放った。

打った本人も驚く一撃だった。1点を追う初回。広島・鈴木は2死一塁から、一時逆転の9号2ランを放った。外角低めいっぱいの直球を右中間席へ。『まさか本塁打になるとは。抜けるかなという打球がそのまま入りました』。江藤智の25歳0か月をしのぐ24歳8か月の球団最年少記録で、チーム24人目の通算100号に到達。こいのぼりが舞う5月5日に決めた。

鈴木は自身をあくまで中距離打者だととらえる。『ホームラン打者だと思ってプロに入っていないし、本塁打を打つためにやってるわけじゃない。何でこんなに打てるんだろうというのが正直な気持ち。100本はうれしいですが、こればかりに走らず自分の打撃を続けたい』。謙遜でなく本心から打ち明けた。

チームは今季初のドロー。昨季は一度もなかったフランスア、中崎を4連投させる“禁じ手”を繰り出して戦い抜いた。緒方監督は『まだ12連戦の残りが3試合あるから、できるなら間隔を空けたかったけどね。でも全員が勝ちを求めていく中で、頑張ってもらうところは頑張ってもらう』とキッパリ。マツダではここ3カード、8勝1分けの無敗。4番のメモリアル弾がコイを踏ん張らせた。

さあ、今日から最終中日3連戦。まずアドゥアが先発。前回のような四球連投さえ防げれば、いい投球になると思うねえ。ナイジェリアのハーフ、頑張って、古郷に錦を飾っておくれな。

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