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Channel: Freeman 雑記帳・広島
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『破天荒、奇跡の成功ニトリビジネス㉒ 道内ネットで規模拡大』

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今日の画像は、この夏の参院選比例区で立憲民主党から立候補すると発表した『筆談ホステス』として知られる前東京都北区議、斉藤里恵さん(35)。そして、江田島、古鷹山~クマン岳縦走のため乗った船からの、宇品港から切串港までの瀬戸内の風景です。途中似島、峠島を近くに見ます。

障害者の方が議員になることには大賛成だな。是非とも頑張ってほしい。


■■中学、高校、大学で、勉学の結果が思わしくなくいわゆる『劣等生意識』を持っているキミ、心配するな、あなた以上の劣等生が世の中に出れば大成功した例もあるのだ。その筆頭に『ニトリの創業者似鳥昭雄さん(76)』がいるのだ。本当、似鳥さんは劣等生で高校大学と卒業さえ危ぶまれた人物。が、今や年間1兆円の売上を目指す大家具チェーンの親分になっている。そのニトリをここまで成長させた『破天荒な似鳥昭雄』の実像を追う。


★★★派手な夜遊びを続けているうち、身に覚えのない噂が飛び交い、突然刑事から『恐喝犯から数千万円脅し取られたのか』と尋問された。いくら釈明しても刑事はなかなか信用しない。どこかに恐喝犯とつながる『隠し口座』があるのではないかと執拗に調べ上げられた。

1ヵ月ほど過ぎ、刑事も『シロ』であることをようやく認めた。操作終了後『ああいう噂は大体当たっているのだが、珍しいことだ』と首をかしげていた。事業が軌道に乗り、度を過ぎた夜遊びが招いた疑惑。当時『夜中の3時前に帰るのは男じゃない』と放言し、飲み歩くことを自粛することは全くなかった。

今で言う働き盛りの『アラフォー』。1980年代は出店が続き、気分も高揚していたのだろう。札幌だけでなく、旭川市、函館市、岩見沢市と道内全域にニトリ家具は広がった。中でも函館は大きな転換点だった。

函館の候補地は、量販店が集積している国道沿いの絶好の場所だ。だが交渉は難航する。交渉役は私とエアドーム店の出店でお世話になった多田康郎さんと、ニトリの店舗開発部の社員。何度も押しかけたが、造園業を営む女性地主の近江小波さんは拒否。『大して利益が出ている会社じゃない。イチトリ、ニトリ、命取り。ワケの分からないところには貸せん』と息子さんに話していたようだ。きっぱりと断られ、多田さんらは湯の川温泉に一泊し、残念会を開いた。

それでもあきらめなかった。残念会の翌朝、多田さんが1人で近江さんを訪ねると、『まだ帰ってなかったのか』と驚き、家に上げてくれた。そして『ニトリではなく、多田さん。あんたに貸すよ』と了承してくれた。最終契約の段階で私も函館へ出向き、近江さんと面会した。


交渉中、近江さんは『取引銀行はどこですか』と聞く。私が『北洋相互銀行です』と答えると、『拓銀と取引がないところに貸せない』と白紙に戻ってしまった。当時、北海道での拓銀の地位は絶大。新興企業のニトリ家具が急に拓銀と取引出来るツテもない。むなしく札幌帰って間もなく、神風が吹いた。偶然にも多田さんの実兄が本社近くにある拓銀の支店長になる。本部に掛け合ってくれると融資はOK。1983年、函館店がオープンした。それまで1店舗当たりの年間売上高は5億円程度で、函館は6億円を目標に置いた。ところが蓋を開けてみると12億円とその2倍。これまで担保不足で資金調達に苦しんでいたが、函館の成功で資金繰りは好転した。

出店ペースが上がると今度は人材が不足してきた。チェーン経営の師匠の渥美俊一先生は『スカウトしないで急成長した会社はない』が持論。そこで外部から即戦力を集めるようになった。だがこのことが裏目に出る。大手量販店の出身者を常務に据えたところ、『古巣にいい人材がいる』と言われ、どんどん増やした。すると量販店出身者が8人の取締役のうち、5人を占めるようになった。

彼らは次第に社内での発言権を増し、低価格路線を否定するような政策を打ち出して行った。脇の甘さから再び追い出される危機を迎えた。(参考:似鳥昭雄筆『私の履歴書』)


■■日本代表監督『森保一』、U-17日本代表監督『森山佳郎』、J1名古屋監督『風間八宏』、J1大分監督『片野坂知宏』、J2大宮監督『高木琢』、昇格請負人J3北九州監督『小林伸二』、FC今治監督『小野剛』、福岡などの監督をした『松田浩』・・・・・。この人達は全員サンフレッチェの出身である。前身のマツダサッカークラブの時代からの人達もいる。この人材を見出した人こそマツダサッカークラブ総監督、サンフレチェGMを務めた『今西和男さん(77)』。

集英社が、今西さんの足跡、育成した人材を追った『育将』を2016年に発刊している。ただ、今西さんは最後の時期に『FC岐阜』の社長に就任された。まさに泥にまみれた時代だった。なぜこんなクラブを引き受けたのか、詳細はつまびらかになっていない。心配は過去からの累損を個人で引き受けた総額3億円の負債。この処理がどうなったか、不明である。その『育将』の実像の証言を綴る。いずれも肩書は2016年の『育将』発刊当時のもの。


★★★『育将・今西和男㉒ 上野展裕2』 
門徒たちが語る師の教え レノファ山口監督 上野展裕(2)
1991年、上野展裕ノブヒロは全日空に入社後もマツダでサッカーをやる意思を捨てきれなかった。『あの広島の風土の中でやりかったんです。今のカープもそうですけど、完成した選手を集めるのではなくて、育てて勝つというところが地方で根づいているじゃないですか。自分もそこで成長したかったんです』。上野は全日空の加茂周監督(当時)に移籍をしたいということを直訴した。まだチーム内においては不動の先発メンバーという立場ではなかったが、加茂はこんな例え話を言った。『お前な、戦闘機が出撃して10機飛び立って行ったとするやろ。何機帰ってくると思う』。『さあ、半分くらいですかね』『そうやろ。何機か帰ってけえへんのや。でも、次の出撃ではまた10機出さなあかんのや。分かるか?』『……分かります』。

年間を通じて戦うJSLのチームには選手層の厚さが重要であるという意味である。レギュラーではないが、必要な選手であるから残って欲しいという加茂の説得はあったが、それでも『すみません。出させてください』と節を曲げなかった。上野の志望は今西の耳に入り、面談をしようということになった。西が丘で行なわれる大学選手権の試合が終わったあとに本蓮沼の喫茶店で待ち合わせた。『この人が総監督の今西さんか』。初対面であったが、上野は熱い思いのままにマツダのサッカー部に入団したいという気持ちを伝えた。今西はひと言、『分かった』と告げた。『会社に対していろんな部署で調整して、入社してプレーをしてもらう』。くしくも高木琢也のフジタからの移籍とほぼ同じ時期となった。

『ところで』。ここで今西は意外な質問をぶつけてきた。『選手としての現役を終えたらどうするつもりだ?』えっ、入る前から引退後の話か、と思った。『まだそこまでは考えていません』と素直に答えた。『それなら指導者はどうだ? 辞めた後に指導者の道というのはいいぞ』。振り返ってみれば今西はすでにこの段階で上野の適性を見抜いてセカンドキャリアを提案していたと言えよう。


上野は移籍した92年にマツダで19試合に出場、Jリーグ開幕後はサンフレッチェ広島で現役を続けるも2年間でリーグ戦での出場はなく、94年シーズンの終了後に引退。現役選手としての大きな実績を残すことは出来なかったが、即座にサンフレッチェ・ユースのアシスタントコーチに就任する。ユースチームの練習は午後からなので昼前は空いている。すると今西は『お前、午前中がヒマなら勉強するか?』と聞いてきた。トップチームの監督ビム・ヤンセンのアシスタントにも就けということであった。例によって上野も入社直後から今西にマツダ本社での英会話教室への出席を推奨されており、語学は習得していた。外国人監督とのコミュニケーションには不自由しなかったので願ってもない機会であったが、それだけでもなく今西はクラブに掛け合って給料もアップしてくれた。

『そんな機会を与えてくださっただけでもありがたいと思っているのに、そうしたらさらに「2倍の仕事をするんだから、上げておくなって」。背筋が伸びました。後から知ったんですが、今西さんは移籍の際にも問題のないように全日空に移籍金を払ってくれていたんです』。

元に戻す。上野はその後、順調に指導者としての経験を重ねていく。2002年にはジュニアユースの監督としてサンフレッチェ広島育成の礎を作る。この世代では全国的に名前が知られた槙野智章(浦和)、森重真人(FC東京)らがいたが、特筆すべきはFWをやっていた森重のポジションを中学三年時に一列後ろに下げたことである。当時から槙野は饒舌で森重は寡黙だった。森重を中盤に下げると、本人は何も言わずに黙々と取り組んでいたが、選抜されたトレセンに見に行くとFWをやっていた。『あいつ、やっぱり前をやりたいのかな』。

卒団者を送る会のときに案の定、森重が最後に聞いてきた。『上野さん、僕をどうしてMFにしたんですか? 僕はFWをやりたいんです』。お前、1年経ってから聞くんか、はよ聞けやと思いながら『お前は読みがいいし、守備的なMFの方が向いていると思う。組み立てるのも上手だし、その方が将来的には絶対よくなる。前をやるにはちょっとスピードが足らないと思う』。この判断の正しさは、日本代表に上り詰めた森重のその後のキャリアで証明された。

上野のインタビューで印象的であったのが、かつての教え子について語る際の慈愛に満ちた表情であった。『2014年のブラジルW杯の初戦(対コートジボワール)を都合が悪くて、テレビ観戦できなかったんですよ。後で日本代表が失点したって聞いてそのときに「ひょっとして森重は中央からやられたんじゃないかな」ってチラって頭に浮かんだんです。録画をチェックしたらその通りで、こんなことを言うと何を偉そうにと叱られちゃうかもしれませんが「ああ、最後にちょっと離してしまう。あのときの課題が克服されていなかったなあ」と思いました』。


謙虚な上野であるから、間違っても『私が育てました』というような発言はしない。それよりも森重の中学生時代のプレーの記憶を辿りながら、手を離れた現在もその選手としての状態を思いやる言葉が自然に出てくるのだ。他にも思い出深い選手として石田聖雄マサオの名前を挙げた。槙野、森重と同期であるが、高校に上がる直前に父親を亡くした。経済的にも苦しい中、サッカーを続けたいという意思を聞いて山口県の多々良学園にセレクションに連れて行った。練習の前に少し時間があった。『聖雄、あそこにお宮があるから、神頼みやないけど、ちょっとお参りしてから行こうか』。グランドの近くにあった神社に2人で参拝してから練習に向かった。監督が『今、到着されたんですか?』と言うので『いえ、そこの天満宮にお参りしてから来ました』と答えた。すると意外な言葉が返ってきた。『では、もう練習を見る必要はありません。願をかけてまで来られるほどに真剣な気持ちでおられるのなら、石田君はうちで取ります』。

あっさりと入学が決まった。石田は多々良学園で3年を過ごした後、日本工学院F・マリノス、ザスパ草津などを経て、くしくも2013年にレノファ山口に入団している。1年で退団したため上野とはすれ違いであったが、山口のクラブに2人が入団したのも、あの多々良学園の横の神社の願掛けの縁ではないだろうか。
 
カテゴリーを昇格したクラブはその都度大きな葛藤に揺れる。次シーズンからはより高いレベルでの戦いを強いられるために、苦楽を共にしてきた選手たちを大量に放出して入れ替えなければならないのだ。J2にスピード昇格させた上野も指揮官としてまさにその葛藤の渦中にいる。『契約については悩みますね。強化の上では去年も半分の選手がいなくなりましたし、今年もそのくらいの血の入れ替えを迫られます。退団した選手も功労者ですから、ケアを十分にしてあげたいのですが、時間が限られていて出来かねているところもあります。今思うと、今西さんはこういう状況のときもよくやっておられたなと思います』。

今西がサンフレッチェを退団した若い選手を誰ひとりとして路頭に迷わせなかったのは、多くのJリーグ関係者の知るところでもある。上野もまたレノファで契約継続に至らなかった選手の次の人生のことを気にかけている。『今西さんはよくX軸とY軸の話をしてくれました。Xが理論でYが感情じゃ、わしはYに傾く傾向があるんじゃと。あと「チャーリー君(上野は自転車で練習場に通っていたので、チャリンコからチャーリー君と呼ばれていた)、これ読んでおけ」と言われて小学校の同窓会の会報を渡されたことがあります。読んだら、ご自身が原爆で負ったケロイドのことを書かれていたんです。4歳で足に大やけどを負って、水泳なんかするときはそれがすごく恥ずかしかった。でも今は何ともなくなったと。人は誰でもコンプレックスがあるが、それに打ち克つことが大事なんだということを教えてくださったのかなと思います。僕は今西さんが無名の選手を登用して、チームと一緒に成長させるのを見ていましたから。うちだと岸田(和人)なんかがそうですね』。

今のサンフレッチェ広島出身の指導者が活躍しているのは、ルーツがしっかりとあるからだと言う。『ヴィッセル神戸の安達社長がおっしゃっていたんですが、「英語が出来るしっかりとした指導者を探すと、いつも広島出身者に行き当たるんだ」と。その扇の要にいたのが今西さんだと思います』。(参考: 集英社刊『育将』)


★★<スリランカ、世界の要諦>インド洋の島国『スリランカ』への注目が、日本企業の間で高まっている。アジアと中東アフリカ、欧州をつなぐ海の要衝であることを生かし、輸出拠点とするケースが拡大。不安定な政治への懸念は残るが、安価な労働力に目をつけた製造業の進出が続く。

中国やインド、日本などが開発整備を競うスリランカ最大のコロンボ港。ガントリークレーンがひっきりなしにコンテナを貨物船に積んでいく。スリランカ沖合は世界のコンテナ船の半分が通る要衝だ。

『インドのムンバイ港を抜き、コンテナ貨物の取扱量は南アジア最大の港となった』。スリランカ政府の港湾局関係者はこう胸を張った。アジアで最大級のハブ港のシンガポール港と比べ、米国や欧州への輸送時間が短く、費用も安上がりという利点を強調する。

佐川急便を傘下に持つSGHDは2014年、現地の物流大手エ『クスポランカ』を買収。インドやバングラデシュなど20-カ国に拠点を持ち、この物流ネットワークの活用も狙いだった。主に手掛けているのは、欧米のアパレルブランド製品の輸出。『中近東やアフリカへのアクセスが抜群の場所。地の利を生かして事業拡大を図りたい』と話す。

日本企業でスリランカ進出の先駆けと言えるのが、1973年に中部マータレーに食器工場を作った『ノリタケカンパニーリミテッド』だ。『安価で優秀な人材と、原材料となる良質な土が取れた』と現地法人の社長は語る。ノリタケ製洋食器の9割を生産して、40カ国に輸出する『食器のマザー工場』に育った。

スリランカは北海道の8割ほどの面積に2千万人が暮らし、市場としては大きくはない。だがノリタケは14年、コロンボに旗艦店をオープン。スリランカを訪れる最大の観光客、隣国インド人が国内の売り上げの4割を占めるようになった。17年にはカレーを小分けするスープ皿など、インド人向けの商品を開発。13億人の巨大市場インドとの間に結ばれているFTAを生かし、輸出も始めた。

JETROによると、進出日経企業数は09年に内戦が終結してから8年間で5割増え、82社に。安い労働力を生かして加工や組み立てをする輸出型の企業が多いと言う。製造業だけでなく、世界遺産や海岸など南国ならではの観光スポットに恵まれたスリランカでは内戦終結後、観光客が年々増え、17年までの5年間で2倍以上の212万人になった。

通信販売の埼玉県上尾市の『ベルーナ』は昨年7月、南部ゴールにリゾートホテルをオープンし、観光需要の取り組みを狙う。コロンボにも20年の完成を目指すホテルやマンションを建設中だ。


ただ、懸念されるのが不安定な政治。シリセナ大統領は昨年10月、首相を突然解任して新首相を任命したものの、前首相が抵抗して混乱した。1カ月半の政争でスリランカルピーは下がり続け、対外債務返済負担が増して財政難に陥った。

南部ハンバンドタ港は中国からの多額の投融資で整備され、日本やインドの政府は中国の軍港に転用される懸念をぬぐい去れないでいる。だが、この港は日本の中古車や韓国の自動車が運び込まれ、アフリカや中近東へ向かう貨物船に積み替えられる中継拠点としても活用し始められた。政治不安をよそに、この港の更なる活用を探る日系企業も出ている。そして今回のISによるテロが観光産業をt友進にダメージを受ける。これをどう乗り切るかもスリランカの力量が試されていると言える。

かつて、定年後海外生活のすすめがはやったころ、スリランカ政府は『1,500万円の預金があれば障害生活は保障される』と宣伝していたのを覚えている。が、その後内乱があり、昨今の政情不安、テロがあり、一般的にはちょっと、という国になっているだろうなあ。


★★<トラック、長時間運転もう限界 迫られる物流網見直し >トラック運送業界が、違法な長時間労働の是正に向けた対応について荷主に理解を求め始めた。長距離を1人の運転手で輸送する従来の仕組みは一段と難しくなった。荷主はサプライチェーンの再構築を迫られている。

中国・九州の書店で4月以降、一部の雑誌や書籍の発売日がそれまでより1日遅れ始めた。首都圏で金曜日に売り出す雑誌が、週末を挟み翌週の月曜日にようやく店頭に並ぶケースもある。書籍の取次会社で構成する日本出版取次協会に、複数の運送会社から相次いで届いた切実な訴えがきっかけだ。『東京から現地の配送拠点への輸送が運行管理・労務管理上、法令違反の状態にある。輸送スケジュールを変更せざるを得ない』という。

九州向けの場合、これまでは関東の取次会社の倉庫を午後2時ごろに出発すると、翌日午前中には鹿児島や熊本まで届いていた。ただ厚生労働省は運転手の1日の拘束時間を(1)原則13時間以内(2)連続運転は4時間以内、にそれぞれ抑えるよう定める。九州のある運送会社は『きちんと法令を守ると到着は夜中になる。グレーな運用でやってきたが、このままでは事業を続けられない』と打ち明ける。出版物の輸送に限らず、運送業界では違法な長時間労働が常態化していたのが実情だ。トラック業界は全国で6万社以上がひしめき、今なお過当競争が続く。

特に中堅以下の業者は拠点や運転手の数も少なく、休憩時間を削って長距離を1人で走らせることで売り上げを確保してきた。『仕事を得るため、極端に安い運賃を提示する悪質業者の常とう手段だった』(中堅運送業者)。長引くデフレの下で経費の抑制を迫られた国内企業は、業務の効率化に向け在庫の削減や納期の短縮を進めてきた。こうした体制を支えたのがトラックドライバーの法令違反の長時間労働だった。立場の弱い運送会社は『非合理な時刻の到着を強いられたり、荷主の都合で長時間待たされたりする例があった』(国土交通省)。


かつては勤務時間が長くてもいいから多く稼ぎたい、というドライバーが少なくなかった。人手不足で他の職種の賃金も上がり、そんな運転手は減った。物流コンサルタントの船井総研ロジ(大阪市)は『長時間運転を強いて運転手が辞めたら運送会社が困る。法令違反にも問われるリスクも背負う』と指摘する。

物流会社の意識も変わった。藤倉運輸(東京・足立)の藤倉泰社長は『積み下ろしまでの待ち時間があまりに長く、断った大手荷主の仕事もある』と打ち明ける。長時間労働は過労死や交通事故を招く。国交省は2017年7月、荷主の主体的な関与が認められた法令違反には、運送会社の処分を待たず荷主に是正を求めるようにした。荷主も長時間の運転を求めにくくなった。長距離輸送の法令順守には、複数の運転手で輸送を分担するか、運転時間を厳密に区切るしかない。ドライバーを増やせば運送会社の人件費は膨らみ、運賃増として荷主に跳ね返る。運転時間のルールを守ると、出版物同様に荷主は納期を遅らせることを受け入れる必要も出てくる。

持続可能な供給網に向け、荷主と運送会社が連携し長距離輸送時の負担軽減を模索する動きも出てきた。富士運輸(奈良市)はニトリホールディングス子会社のホームロジスティクス(札幌市)と組み、浜松市に設けた拠点で3月から『中継輸送』を始めた。荷台を着脱できる車両を使い、東西から到着したトラックがそれぞれ荷台を積み替えて引き返す。運転手はその日のうちに帰宅できる。富士運輸の松岡弘晃社長は『運転手1人では600~700キロの輸送が許容範囲。それを超えるとワンマンで運ぶのは厳しい』と話す。荷主は長距離の輸送手段を確保でき、運送会社も運転手が日帰りで働ける点を求人でアピールできる。荷主の利便性のみを追求した供給網は成り立たなくなっている。

テレビニュースで、運転手の過労を防ぐために最近はフェリーを使う運送トラックが増えて、港では行列待ちと報道していたなあ。環境はどんどん変わるなあ。いいことだ。


★★<自民大阪、唐突な維新融和路線 「もう終わり」市議ら猛反発>『民意を得た維新と連携を目指す。従来の立ち位置を変えていく』。自民大阪府連の新会長が会見の冒頭で訴えたのは、不倶戴天の敵であるはずの維新との関係改善だった。

ダブル選で完敗しただけでなく、安倍晋三首相も応援に駆けつけた衆院大阪12区補選で維新候補に膝を屈した自民府連。府議・市議選でも議席を減らし、『解党的』とまで言われた現状について、この日就任した衆院議員の渡嘉敷奈緒美会長は『負けは神様がくれた贈り物』と表現。『対立からは何も生まれない』と維新への歩み寄りを明確に打ち出した。

会見に先立って行われた府連の総務会では、都構想の住民投票容認について賛成多数で承認を得られたと強調したが、大阪市議団を中心に維新へのアレルギーは強い。ある自民市議は渡嘉敷氏の融和路線について『全体会議では一切そんなこと聞いていない。国会議員は自分らの選挙のことだけ。府連はもう終わりや』と猛反発した。

維新の松井一郎代表は渡嘉敷氏の発言について『自民の市議団、府議団からそんな話聞いたことない。渡嘉敷さんにどれだけのガバナンス(組織統治)力があるのか』と疑問を呈した。

ただ、公明党大坂支部はすでに住民投票の実施を容認しており、自民だけ孤立した対立した策は取れないのが現実。自民弱し、大阪府ではあるなあ。自民の政策で日本は現実、こんなプアな国になってしまった。この現実に目を覚まさない国民もまた操吊人形だと思うねえ、拙者は。

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