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Channel: Freeman 雑記帳・広島
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『破天荒、奇跡の成功ニトリビジネス㉓ 移入役員を放出す』

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今日の画像は、70歳を迎えてまだ歌いたいとセルフカバーアルバムを出す『高橋真梨子』、昨日DeNA戦で初完投勝利を飾ったカープ『アドゥワ誠投手』。そして、私のトレッキングコース『緑の牛田山の縦走路』『縦走路から見た高速5号線の建設現場』『広島市内の風景』です。すっかり若葉の緑が濃くなってはや初夏の様相です。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


■■中学、高校、大学で、勉学の結果が思わしくなくいわゆる『劣等生意識』を持っているキミ、心配するな、あなた以上の劣等生が世の中に出れば大成功した例もあるのだ。その筆頭に『ニトリの創業者似鳥昭雄さん(76)』がいるのだ。本当、似鳥さんは劣等生で高校大学と卒業さえ危ぶまれた人物。が、今や年間1兆円の売上を目指す大家具チェーンの親分になっている。そのニトリをここまで成長させた『破天荒な似鳥昭雄』の実像を追う。


★★★1980年代から途中入社した大手量販店出身者が取締役の過半数を占め、発言力を増すばかり。ニトリの低価格路線を修正し、次第に商品価格を引き上げるようになった。私にも『余計な口は出さないように』『方針がブレると困るから、店にも行かないように』と言って来る。中途組の役員たちに権限を奪われた私は鬱状態に陥った。

ある日、私と量販店出身の常務が締めているネクタイが同じバーゲン品だった。笑顔で『同じネクタイだね』と話しかけると、常務はいきなり自分のネクタイを外し、踏みつけた上でゴミ箱に放り投げた。怒りが爆発した。『こんな人達に会社は任せられない』。一人ひとりの問題点を見つけ出し、大半の量販店出身者は辞めてもらった。

やはりニトリの生命線は『安さ』だ。分かりにくい接客をするより、『安い』を前面に出せば売りやすい。問屋の目をかいくぐって製造元から直接仕入れをしていたが、80年代からは海外からも仕入れを始めた。もっとも貿易のイロハも知らず、台湾や東南アジアの家具工場を電話帳片手に回っていた。

所詮は素人。輸入を始めると、トラブル続きだった。台湾で仕入れた椅子を販売すると、顧客から『座った途端、椅子がバラバラになって頭をぶつけた』などクレームが多く寄せられた。調べると、含水率が問題だった。湿度が高い台湾では壊れない椅子でも湿度が低い北海道では水分が抜け、足が細くなり、隙間が出来てしまう。他にもテーブル、ソファなど日本人仕様でない商品は不具合が多かった。


それでも海外仕入れに余念のない私を見て、社員は『現地に女性がいるんじゃないか』など噂を立てる。展示会へ出向いても余計な商品を買わせまいと、お目付役を同行させる。実際に苦情は数知れず、社員の気持ちが分からない訳でもないが、あまりに保守的だ。トップは長期的な視点で考える。社長業とは社員という『抵抗勢力』との闘いであると痛感している。

仕入れで試行錯誤しているうち、旭川市近郊の『マルミツ木工』の松倉重仁さんと出会った。もの作りの考え方など、気も合い、海外などにも一緒に出かける仲になった。そんな松倉さんが、ある日飛び込んできた。『いとこの会社に買収されてしまう。私も解雇されてしまうので助けてほしい』と言う。新聞発表は3日後で、時間はない。一肌脱ごうと思い、ゴルフ中の北洋相互銀行の常務の元へ押しかけ、支援を願い出た。

だが常務は『役員会にかけないとダメなので、私の一存では無理』と断る。私は執念深い。ゴルフカートにくっつき、『今までの付き合いもある。返事を今すぐ欲しい』と粘った。根負けした常務は『あなたが責任を持つならお任せする』と自らの進退を賭けてくれた。87年にマルミツに出資した。

マルミツは親会社にずいぶん吸い取られ、赤字体質さった。ニトリの傘下に入ると一気に黒字化した。少し先だが、マルミツ買収で海外調達先が広がり、ニトリの成長に多大な貢献をした。

だが、一つ心配があった。ペガサスクラブの渥美俊一先生だ。先生は小売が工場を所有することを禁じていた。怖いのでしばらく、先生には報告しなかった。(参考:似鳥昭雄筆『私の履歴書』)


■■日本代表監督『森保一』、U-17日本代表監督『森山佳郎』、J1名古屋監督『風間八宏』、J1大分監督『片野坂知宏』、J2大宮監督『高木琢』、昇格請負人J3北九州監督『小林伸二』、FC今治監督『小野剛』、福岡などの監督をした『松田浩』・・・・・。この人達は全員サンフレッチェの出身である。前身のマツダサッカークラブの時代からの人達もいる。この人材を見出した人こそマツダサッカークラブ総監督、サンフレチェGMを務めた『今西和男さん(77)』。

集英社が、今西さんの足跡、育成した人材を追った『育将』を2016年に発刊している。ただ、今西さんは最後の時期に『FC岐阜』の社長に就任された。まさに泥にまみれた時代だった。なぜこんなクラブを引き受けたのか、詳細はつまびらかになっていない。心配は過去からの累損を個人で引き受けた総額3億円の負債。この処理がどうなったか、不明である。その『育将』の実像の証言を綴る。いずれも肩書は2016年の『育将』発刊当時のもの。


★★★『育将・今西和男㉓ 小林伸二「ストライカー育成法の原点は『広島』にある」 』 
門徒たちが語る師の教え 清水エスパルス監督 小林伸二(1)

小林伸二。昇格請負人である。そのキャリアにおいて、過去指揮を執ったJ2の大分トリニータ、モンテディオ山形、徳島ヴォルティスをすべてJ1にステップアップさせている。特筆すべきはそれらがみな、初昇格であるということ。すなわちクラブにとって経験のない未踏の頂に導いており、その価値は極めて高い。そして今、小林はオレンジ色のジャージ に身を包み、清水にいる。Jリーグ開幕時にオリジナル10として、華やかにスタートを切ったエスパルスはサッカーの町の誇りを掲げ、いくつものタイトルを奪取してきたが、2015年に年間リーグ順位17位に転落し、ついにJ2に降格してしまった。名門が陥ったこの窮地を救うためのオファーが切り札のところに届けられたのである。

開口一番だった。 小林は『ポイチ(森保 一)、高木(琢也)と続いて、(連載が)久保(竜彦)や李(漢宰)と若い世代に向かったので、もう僕らには取材は来ないだろうなと思ってました』。【育将・今西和男】の連載を読んでくれていたのだ。『そうしたら、風間(八宏)、マツ(松田浩)と来ているから「年寄りが来たから、来るかな」と思いながら待っていました。ありがたいですよね。やっぱり今西さんから受けた薫陶は自分も大きかったですから』。

島原商業で九州初の全国制覇(高校総体)を成し遂げた後に、大阪商業大学に進んで大学日本一も経験した小林が、1983年にマツダに進路を固めたのはやはり今西の勧誘が大きかった。FWで勢いよく突っ込んでいくスタイルを見て『弾丸みたいな選手』と評価した今西は、東京教育大(現・筑波大)時代の先輩である上田亮三郎(大商大監督)に家庭環境などを聞いたうえで、広島のマツダが長崎の実家に近いという利便性を説いて獲得に成功する。小林が配属された職場は課長が今西、主任が高田豊治(後にJヴィレッジ副社長、現東日本国際大学サッカー部監督)とまさにサッカー部の直属であったために、チーム改革の情報が伝わってくるのも早かった。

『今度、オランダからオフトという監督を連れてくるぞ』。1984年のことである。小林は島原商業時代に高校選抜で、スイスのベリンツォーナで行なわれた大会に出る際に、オランダで1週間キャンプをしたことがあり、その時にオフトにコーチングを受けていた。若かったオフトが左足から繰り出すフリーキックがすごく上手かったという記憶があった。 そのオフトが来日し、指導を始めた。他のマツダの選手同様に、そこで小林が受けた衝撃は大きかった。


『オフト監督はサッカーにおいて、すべてが具体的なんですよね。言葉もそうなんです。一番初めに言った言葉が、タイミング、アングル、ディスタンス。要するに機会(間)、角度、距離ですよね。タイミングが悪くないか、距離として遠くないか。真後ろだった角度はアングルが変わることで、三角形を作れて1つ前が見えるというような、そういうサッカーの構築。まず個人技術があって、次に個人戦術、それがグループ戦術に変わっていくための言葉をオフト監督は話すわけです。そういうキーがものすごく多くて、サッカー観が変わりました。僕は一応高校でも大学でも日本でトップのところではやりましたけど、じゃあ実際、そこまで考えてサッカーをしていたかということになると、そこまでないわけですよね。ただし、出会ったのが24歳ですから、もったいなかった』。

オフトはチーム戦術のみならず、技術指導も新鮮だった。当時のフォーメーションは4-3-3で、小林はトップウィングをやっていた。ここでオフトはウィングの抜き方や持ち方を教えてくれた。『ステップだけじゃなくて肩を入れろ!』自身が左でドリブルして、ターンや方向を意識しながら、ボールを浮かして抜くところを見せてくれた。小林はトップとサイドをやってきたので、今西の言う『弾丸」』よろしくスペースに走り込む動きはできていた。一方で、下りてボールを収めたり、ましてやターンをする動作は苦手であったが、この指導で体得していった。相手DFを背負った状態でターンができれば、一気に視野が広がってワイドに展開できる。実はここで小林が教わった楔としての技量が、連綿と日本のストライカーたちに伝授されていったのである。

まずは高木琢也。小林が現役を退いた後、コーチ1年目に高木がフジタから移籍してきた。『あの当時、今西さんがサッカーも全体を動かす練習だけではなく、野球のように個人指導があってもいいんじゃないか、そういうことを言われたんです。お前はFWだったし、高木とは同郷だし、高木をストライカーとして育てるために個人指導してみたらどうなんだ、という提案をいただいたんです』。そこから小林と高木のまさにマンツーマンのストライカー養成指導が始まった。郷原のグラウンドでチームの全体練習を午前中に終えると、ランチを取って午後は鯛尾に移動して、たった2人で楔の練習を繰り返した。DFを背負った状態でのボールの受け方やターンの仕方を延々とやり、それが終わると小林がクロスを入れてヘディング。苦手なボールの受け方と落とした後のコントロールをみっちりとやった後は、必ず高木の得意なメニューで気持ちよくトレーニングを締めるということを心がけた。


練習だけではなく、当時珍しかったスカウティング活動も行なった。試合をすると高木だけを追いかけてビデオで撮り、終了後に高木と映像を見て、タイミングやアングルを何度も確認した。すると約半年後に大きな結果が出た。強豪日産に3-1で勝利するのであるが、この試合で高木が大活躍した。楔からのターンやヘディングでゴールを量産したのである。これを大きな機会として高木は日本代表まで登り詰め、『アジアの大砲』として巣立っていった。小林は結果的に代表監督として舞い戻ったオフトに、自分が受けた指導を通して成長させた高木というFWをプレゼントしたとも言えようか。

『今西さんは高木をうまくフジタから獲ってくれて、個人指導の重要性を説かれて、自分は駆け出しのコーチだったのに、同郷であるということもあって担当させてもらいました。それは幸せでしたね。ボールのタッチという意味では僕もあまりうまくはなかった。でも、オフトに出会ってそれを意識することが少しずつできるようになった自分があるから、伝えやすいんですよね。自分が丁寧に出すことによって、相手も集中してトレーニングするし、長くなって集中が切れたら、もう終わる。それで週何回か続けていくだけで、簡単に成果が出たのでビックリしました』。

高木だけではない。小林が指導したのはその後、大分時代の高松大樹、船越勇蔵、山形での豊田陽平、長谷川悠……。『この指導を15年ほどやっていますけど、ストライカー指導の原点・ソースは広島にあって、それは自分の中ですごく生かさせてもらっています』。(参考: 集英社刊『育将』)

◇小林さんは、現在J3北九州の監督をしている。J2からJ3に降格した北九州をJ2に戻すためである。現時点で勝点17でトップを走っている。まさに『昇格請負人』の面目躍如ではある。


★★<高橋真梨子、70歳『まだ歌いたい曲ある』 ソロ50周年初のセルフカバーアルバム来月発売。歌手の高橋真梨子(70)が、6月12日に初のセルフカバーアルバム『MariCovers』を発売する。1979年から84年までに発表した初期の11曲を、大人のアレンジに変えて再レコーディングした。バンド『ペドロ&カプリシャス』の2代目ボーカルとして、73年に『ジョニィへの伝言』でレコードデビュー。半世紀近くを第一線で駆け抜ける高橋が、今作への思いを語った。音楽が人生そのものだ。『すごくはないのよ。(私には)これ(=音楽)しかないんだから』。短いフレーズの中に、歌い手としての信念と覚悟が感じられた。

『ペドロ&カプリシャス』の2代目ボーカルを務め、バンドを離れた後は、78年に『あなたの空を翔びたい』でソロデビューした。ポリシーは『謙虚に歩む』。毎日の積み重ねが、第一線で走り続けてこられた要因。高橋は『その通りで、ここまで来ちゃいましたね』と穏やかな口調で語った。

長いキャリアの中で、セルフカバーアルバムを出すのは初めて。『レコーディングは必死でしたね。この年でまだ歌っているんだと思いながら。哀愁が湧く感じで歌ったかな』。世代に関係なく、安らぎの時間として聴いてほしいという思いから、このアルバムの企画がスタートした。代表曲『for you...』を手がけた作詞・大津あきら、作曲・鈴木キサブローによる『BAD BOY』(81年)、柳ジョージ作曲の『この気分が好きよ』(82年)など、80年前半までの11曲が35年以上の時を経てリアレンジされて収録される。

『(当時と比べたら)キーも下がる。歌も上手じゃないじゃない?(自分自身を)否定ばかりしないで、「今の年齢ならこれぐらいかな」と思ってみようと思ったの。70歳。若いもんだと思っていても、実際は年を取っている。今回レコーディングをして、70歳の、今の自分を認める初めての機会になりましたね』。

NHK時代劇『御宿かわせみ』の主題歌『祭りばやしが終わるまで』(83年)はレコーディングから36年間、ライブでも披露していない楽曲だった。『最初はあまり好きな楽曲じゃなかった(笑い)』が、リクエストが多数寄せられ、収録曲に決めた。初めて作詞・作曲した『Mary’s Song』(80年)は作詞家目線に立った時に思うところがあり、2番の詞を書き直して収録した。


音楽プロデューサーで夫のヘンリー広瀬氏(75)は『オリジナルを超えていると思う。若い頃にできなかったものが芳醇であり、熟成と呼べる。ビンテージの感じはワインと同じでしょう』。高橋は『澱が出ていたら困るわね』と笑った。
シングル『for you...』(82年)がロングヒットした。『桃色吐息』(84年)を始め、『ごめんね…』『遥かな人へ』『五番街のマリーへ』など多数の代表曲を持つ。『音楽の殿堂』と呼ばれる米ニューヨークのアポロ・シアター(大ホール)では日本人唯一、3回公演(93、08、16年)を達成。17年のNHK紅白歌合戦に出場し、68歳9カ月という紅組歌手としての最年長記録を持つ。

インタビュー中、何度も『70歳だから』と口にした。年齢を言うことに抵抗がないという『私がババアだっていうことを知ってもらいたいの』と語るが、その言葉とは裏腹に、自らを律して日々を過ごす。全ては、ステージに立ち続けるためだ。
 
力維持のため、入浴中のバタ足は欠かさない。『以前はすんなりと5分いけたけど、この頃は疲れてきちゃって、3分でもきついかな。バタ足をやると、腹筋も使うからいいのよ。何もしなかったらすぐに体力が衰えて入院かなというぐらいの感じになる』。好物の肉を食べてたんぱく質を摂取し、最近は体重が2キロ増えたという。

トップアスリートのように、コンディションづくりに最善の注意を払う。プロとして当然のことをやっているだけ。そこに特別な感情はない。『ストイックだとは思わないわ。郷ひろみさんを始め、ストイックな方は他にもたくさんいる。いつになるかは分からないけど、いずれは辞めないといけない時が来るんだから』。

過去には、リハーサルで全く声が出ないという経験もあった。『結局、本番になると出るんだけど、その前に全く声が出なかった。そうすると、朝からワーワー。「出ない、出ない、出ない」って(笑い)。声が出なくなるのは想像しただけですごく恐怖。朝起きて、急に出なくなることだってあるかもしれない。それが一番怖い。歌は生ものだから、いつどういうふうになるか分からない』。


昭和と平成の2つの時代を股に掛け、令和時代に入った。23年にはソロ生活50周年を控えるが、高橋は『先のことはあまり考えていないですね』とサラリと言った。幸いなことに体力、気力ともに維持できている。音楽への情熱が衰えない限り、生涯現役を貫くつもりだ。『まだ歌いたい曲がある。レコーディングをしていてこの曲も歌いたい、この曲もやってみたいというのが出てきた。「MariCovers2」もやってみたい。この作品で、今の「高橋真梨子」を感じてほしいわ』と軽快に話す。

◇41年連続全国ツアー 計700万人突破へ
高橋は、6月16日の埼玉公演(川口総合文化センター)から全国ツアー(20か所34公演)を行う。79年の初ツアー以来、41年連続43回目の開催。6月22日の千葉公演(市川市文化会館)では観客動員700万人を突破する予定。『アンケートを取ると、初めてご覧になる方が結構いらっしゃる。想像できないわ。長く歌って回数もやっているから、そのぐらいはいくかなと思ったけど。よく調べるわね』と話した。

◇高橋 真梨子 1949年3月6日、福岡市出身。70歳。ジャズプレーヤーの父親の影響で、14歳からジャズを学ぶ。レッスンのため16歳で上京。高校卒業後、博多に戻り、ライブハウスで歌う。『ペドロ&カプリシャス』のリーダー・ペドロ梅村の誘いで再上京。94年英ロイヤル・アルバート・ホール公演。シングル39枚、オリジナルアルバム32枚発表。NHK紅白歌合戦計6回出場。趣味はゴルフ、スポーツ観戦。血液型A。(参考: スポーツ報知)


私は、ペトロ時代からの高橋真梨子のファンである。今でも『五番街のマリー』を歌いながら、里山を歩く。カラオケ盛んなりし頃には、『桃色吐息』を18番とし、17番にNHKがメルハンメル中継のテーマ曲とした『遥かな人へ』。報知の記事では、福岡県出身となっているが、生まれたのは広島県廿日市町。たまたま私は福岡に転勤で3年住んだ。その折、キャバレー『白い森』というのがあって、ここのバーのママが高橋真梨子のお母さんがマネージしていたと聞いた。そして白い森で演奏するバンドのトランぺッターが父親だったとも。最近You-tubeで、高橋が歌う加山雄三の『君といつまでも』を聞いた。とても加山の歌いとは異なるが、あのややハスキーで、ぶっきらぼうな歌いがとても魅力的だった。

今『白い森』の跡地には『マル源』のビルが建っている。時代は変わる。

他の歌い手の歌を集めたアルバム『耖機↓供戮とてもよい。『星の流れに』『真珠の首飾り』『ジェラシー』『さよならはダンスのあとに』などなど魅力的な歌が集めてある。今、私のPCの中にMP3で入っているので、早速聞き始めてみる。いいねえ、高橋真梨子・・・・。


★★<★★<マリナーズ菊池『松やに』疑惑>今季から大リーグのマリナーズでプレーする菊池雄星投手が、投球の際に禁止されている松やにを使用したという疑惑が、米国で話題になっている。ただ米メディア内では『菊池の罪は使ったことではなく、隠せなかったこと』と同情する声がある。その理由とは。

問題となったのは、菊池が8日に敵地ニューヨークで先発したヤンキース戦。この日は、六回途中まで被安打ゼロの好投を見せていた。移籍後最長イニングとなった八回、地元スポーツ局の『YESネットワーク』が、菊池の表情をアップで放映。そこには、帽子のつばの裏が茶色く汚れている様子が映っていた。ヤンキース番記者のツイッターによると、同チームのブーン監督も八回、菊池の帽子に何らかの物質が付いていることに気付いていたという。ただ、審判団に抗議はしなかった。

この疑惑に対し、米メディアは、批判的に報じない姿勢が目立つ。NBCスポーツは配信記事で『どのチームの投手も様々な度合いで松やにを使っている。しかし打者は気にしていない。球が滑りにくくなり、打者の頭へ向かってこないからだ』と言及。AP通信は『彼はおそらく、ほんの少し悪さをしただけ』とした上で、『野球界の秘密の一つ』と報じている。

過去には2014年、ヤンキースに所属していたピネダ投手が、首筋に松やにを塗っていたとして、試合中に退場処分となった。このときは、相手チームだったレッドソックスの監督が抗議していた。その後、ピネダ投手は大リーグ機構から、10試合の出場停止処分を科された。

そうだったのか、『松やに』は使用禁止だったんだねえ。知らなかった。


★★<カープの企業業績>カープの球団業績が報道されていた。以下。
  2018.12期  売上高 189億円   純利益 9億円
  2017.12期        188           12

18年シーズンは82勝59敗2分けで、球団史上初の3リーグ3連覇。主催72試合の入場者数は223万2,100人で5年連続で球団史上最多を記録。売上高も過去最高を更新。スタジアム投資に注力する。赤字を補填してくれる親会社も持たないのにこの業績、ご立派だなあ。


★★<カープ、アドゥワの完投勝利で3位、貯金1>昨日のカープ-DeNA戦。カープ先発のアドゥワ誠(20)は、9回を110球、8被安打、無四死球、自責点1の好投で、デビュー以来発完投で初勝利を挙げた。打っては鈴木の3ラン、自らのテキサスヒット、捕手磯村の3安打など打棒に助けられ、スコアは8-1の大量差。見事なり、『アドゥワ誠』だ。高卒3年以内の完投は球団では09年の前田健太(3年目)以来の快挙だ。

アルジェリア2世のアドゥワには、育て上げた父親の苦労は絶するものがある。アルジェリア人の父親が日本に到来したのは、中東での受け入れがなく、アジアでもマレーシア、香港などが東の果てだったが、それでも受け入れがなく、日本に流れ着いて来たものと思われる。

日本での生活を続けるには、筆舌に尽くしがたい苦労が多かったと推察する。今、息子誠君が堂々たる投球を見せる成長ぶりに、涙しておられることかとも思う。誠君、親孝行をしろよ!

昨日は『母の日』。カープナインは、ピンクの帽子にピンクの文字のユニフォームを着て、世の母親さん達に感謝の意を評した。アドゥアは、元バレーボール選手で強豪実業団ダイエーに在籍していた母・純子さんへの恒例の贈り物。今年は感謝のメッセージを記したピンクユニホームと記念の勝利球に決まった。『小さいころから迷惑をかけてきて、少しは恩返しになった』。開幕戦に勝って以来の貯金と同率3位への浮上も呼び、母の日が特別な節目になった。とても爽やかだったねえ。ヒーローインタビューでは、アドゥワ、磯村、鈴木の3人がお立ち大に。そしてそろって母親への『俺やったよー』だった。首位とのゲーム差『3』。いい位置に来たカープではある。明日からのヤクルト戦に連勝し、交流戦へのスタートアップとしてほしいねえ。

試合後、緒方監督は『アドゥワでしょう。最後までよく投げてくれた』とプロ初完投を飾ったアドゥワを絶賛。『イニングの入りが課題だったけど、今日は低めにしっかり修正できていた。ゴロを打たせるのが持ち味の投手。うまく緩急でカーブを使えていたし、真っすぐも強さが出ていた』とたたえた。バッテリーを組んだ磯村についても『いいリードをしていたし、打つ方も良かった。ナイスバッテリー!」』と褒めちぎった。

攻撃にも手応えを感じたようで、『初回の誠也(鈴木)の3ランがものずごく大きかった。良い攻撃を緩めることなく1点1点と、非常にうちらしい攻撃ができた』とうなずいた。貯金に関しては、『そういうのはいい。一戦一戦、カープの野球をやっていくだけ』と引き締めていた。

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