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今日の画像は、スケボー日本選手権で初優勝した『平野歩夢』。そして、カープ地元線観戦に、マツスタへ赴くカープファン達です。この道は別称『カープロード』とも呼ばれており、広島駅からマツスタまでの800mの間を歩きます。さらには好き好きのひいき選手のユニフォームを着て、老若男女、幼児まで歩け歩けの大行進です。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
平昌に続き、東京五輪でも活躍してくれそうな『平野歩夢』ではあります。たのしみだねえ。まさに平野君を見ていると『好きこそものの上手なれ』を地で行っているようですねえ。お父さんのアシストも万全ではああるが、見事だと思います。
■■中学、高校、大学で、勉学の結果が思わしくなくいわゆる『劣等生意識』を持っているキミ、心配するな、あなた以上の劣等生が世の中に出れば大成功した例もあるのだ。その筆頭に『ニトリの創業者似鳥昭雄さん(76)』がいるのだ。本当、似鳥さんは劣等生で高校大学と卒業さえ危ぶまれた人物。が、今や年間1兆円の売上を目指す大家具チェーンの親分になっている。そのニトリをここまで成長させた『破天荒な似鳥昭雄』の実像を追う。
★★★1980年代後半、北海道全域にニトリの店舗は広がり、道内での知名度は定着した。『いよいよ本州進出』と行きたいところだが、どうも足がすくむ。ある日、社員の前で『北海道のために頑張りましょう』と挨拶すると現在のニトリ社長の白井俊之ら79年入社組の4期生らが反発する。『日本に米国並の豊かな生活をもたらすのがニトリの目的ではないですか。このまま北海道に留まっているつもりですか。全国展開しないのなら、私達は辞めます』。
これには反省した。社長の意思を超え、4期生を中心に『会社を発展させよう』という自主性が芽生えていたのだ。まだニトリの年間売上高は100億円にも満たず、利益率も5%程度。出店を加速するにはまだまだ経営の体力が乏しい。だがこの時ばかりは社員に背中を押された。進出を決めた。
決断したら早い。店舗の開発部隊を派遣し、まず千葉県松戸市、流山市、旭市、茨城県土浦市の4ヵ所の土地を押さえた。手付け金も2億円近く支払った。ところが本州進出を決めた80年代後半はバブル期。工事費や材料費はぐんぐん上昇し、1店舗当たりの建設費が坪40万円と、それまでの2倍以上かかる。
これではいつまでたっても赤字が続く。ペガサスクラブの渥美俊一先生に相談すると『状況が悪いときに撤退する勇気を持たないから、会社はダメになる。一時的な損失を出しても退く勇気は必要だ』と諭してくれた。迷いに迷った揚げ句、4ヵ所の地主に出店中止を申し入れた。実施に違約金は高かった。地主の元へ出向き、『半額にしてもらえませんか』と頼むと、『ふざけるな。契約通り中止したなら2倍払え』と怒られる。何度頭を下げても聞き入れられない。北海道ではしぶとくお願いすれば、聞き入れてもらえることもあったが、関東は厳しい。松戸はすでに基礎工事が始まっていた。結局、経常利益が6億円の時期に4億円の違約金を支払う羽目になった。
本州進出を再度決めたのは93年。90年代初めにバブルがはじけ、土地代や建設費が低下してきたからだ。この頃には札幌証券取引所の上場を果たし、労働組合も結成し、会社としての体裁も整いつつあった。1号店の場所は茨城県勝田市。地主は幼稚園の経営をしいる方で、ニトリのことなど一切知らない。いつものように『日本を豊にしたい。ここを起点に店をたくさん出します』と持論をぶつと、好印象を持ってくれた。
ただ、真向かいにニトリの3倍となる2,000坪の家具店がある。やはりためらったが、『ここで逃げたら、いつになるか分からない』と思い直し、出店を決めた。オープン後、目標通りの売り上げと利益を確保。94年には仙台市にも出店を果たすなど、全国区への足がかりが出来た。
ニトリが出店を加速出来たのは地主のお陰だ。函館店の地主の近江さんなどは本州の地主を自ら車で店を案内してくれる。オーナーには株主になっていただくと同時に、毎年オーナー会を開いて、ニトリの負担で北海道知床・大沼、京都などに招待している。(参考:似鳥昭雄筆『私の履歴書』)
■■日本代表監督『森保一』、U-17日本代表監督『森山佳郎』、J1名古屋監督『風間八宏』、J1大分監督『片野坂知宏』、J2大宮監督『高木琢』、昇格請負人J3北九州監督『小林伸二』、FC今治監督『小野剛』、福岡などの監督をした『松田浩』・・・・・。この人達は全員サンフレッチェの出身である。前身のマツダサッカークラブの時代からの人達もいる。この人材を見出した人こそマツダサッカークラブ総監督、サンフレチェGMを務めた『今西和男さん(77)』。
集英社が、今西さんの足跡、育成した人材を追った『育将』を2016年に発刊している。ただ、今西さんは最後の時期に『FC岐阜』の社長に就任された。まさに泥にまみれた時代だった。なぜこんなクラブを引き受けたのか、詳細はつまびらかになっていない。心配は過去からの累損を個人で引き受けた総額3億円の負債。この処理がどうなったか、不明である。その『育将』の実像の証言を綴る。
いずれも肩書は2016年の『育将』発刊当時のもの。
★★★『育将・今西和男㉔ 小林伸二3』
門徒たちが語る師の教え 清水エスパルス監督 小林伸二(3)
サンフレッチェ広島ユースの初代監督となった小林伸二は、創設3年で早々と全日本ユースカップ優勝という快挙を成し遂げた。4年目が過ぎると、今西はこの逸材を次にトップチームのスカウトに配置変換させる。日本一という結果を出した現場指導者をなぜ、1年後に編成部門の管轄に入れたのか。今西はこう述懐する。
『スカウトいうもんは、まずは選手を見るわけですが、それ以上に高校、大学の指導者とのコミュニケーションが大事な仕事なんです。小林には、さらにもっと多くの指導者と交流して、学んで欲しかったんですわ。見方を変えるいうんかな。若いうちはひとつの仕事だけではなくて、いろんなセクションにつけると後々になって、総合的に全部の力が伸びて行くんです』。
小林自身はこの時期、スカウトを担当したことで『人を大事にすること』を学んだという。『選手を取りに行くと、どんな選手もプロになる前に、いろいろなコーチや監督の指導を受けていると感じます。いわば、そんな愛情や情熱をかけられてきた人間を預かるわけですから、丁寧に人生に寄り添わないといけないと考えるわけです。それは現場指導でも生きる。今西さんには、得意分野で伸びていく前の準備をさせてもらったと思いますね』。小林は1997年、98年とスカウトを担当し、1999年にはナショナルトレセンの中国地域の指導も担当する。やがてトップの若い選手を育てたいという気持ちに駆られて、アビスパ福岡のサテライトの監督に就任する。
『これも今西さんに言って、広島を出してもらいました。ある部分、無理を聞いてもらったところがありますから、恥ずかしいことをしないように、近況報告は欠かさずに結果を出していきました』。福岡の若手を伸ばすと、今度は大分トリニータからオファーが来た。2002年日韓W杯の開催地として、ゼロからチームを立ち上げて、J1昇格を狙っていた大分は育成の重要性を痛感していたのである。2001年に大分のサテライトの監督として、2年契約で迎えられた。ここで高松大樹、松橋章太という若いFWの指導にあたる。特に高松は、多々良学園高校時代から中国トレセンで注目しており、うれしい再会でもあった。
小林が担当した大分のサテライトチームは短期間で強くなっていった。J1のチームとやっても負けないのだ。3月11日に始まったサテライトリーグCグループでは初戦のセレッソ大阪に2対2で引き分けると、以降4月15日のガンバ大阪(3対0)、4月22日のヴィッセル神戸(3対0)、5月13日のサンフレッチェ広島(3対2)と、すべて格上のチーム相手にハイスコアを叩きだして3連勝を飾る。
その直後、小林の人生において2回目の『青天の霹靂』が起こる。夜も深まりつつある午後9時頃、クラブのスタッフから電話が入り、都町の中華料理屋に来て欲しいという。何だろうと駆けつけると溝畑宏、立石敬之、柳田信明、藤原司、小澤正風……当時のトリニータの主だった役職の人間がほとんどいた。そこで当時のGMであった溝畑から『明日から、トップチームの監督をやってくれ』と言われるのである。W杯開催を翌年に控えて、J2からJ1への昇格を目指しながら、チームは苦戦をしていた。第11節を終えた段階で6勝5敗、7位(昇格圏は2位)という成績であった。フロントは1999年、2000年と2年連続で3位、わずかの差で昇格を逃してきた石崎信弘監督に3年目を託していたが、5月12日のモンテディオ山形戦の敗戦を受けて解任を決めたのであった。小林にすれば寝耳に水であった。
『えっ、俺なのっていう感じですよ。トップチームはイシ(石崎)さんがJ1に上げられるものだと思っていましたし、まったく関心がなかったですから』。とにかく窮地を救って欲しいということで、次の3試合を監督代行という形で登録されて指揮を執った。すると、ここで3連勝してしまう。3試合目はW杯を開催する通称ビッグアイ(現・大銀ドーム)のこけら落としであった。29,226人の大観衆を飲み込んだ京都とのこの試合も、高松のビッグアイ初ゴールに続き、梅田高志、佐藤一樹が得点を決める見応えのある内容で3対1と圧勝した。負けが込んでいた頃は、『せっかく作ったスタジアムで恥ずかしい試合をするな』とピリピリしていた剛腕、平松守彦知事も破顔一笑で大いに満足したコメントを寄せている。
インスポンサーのペイントハウスの星野初太郎社長も、このV字回復の結果を受けて代行を外して、正式に小林をトップの監督として迎えることを決意した。『ただ自分として、純粋に教えられることを教えようとしただけです。でもね、コーチと監督はまったく違うんです。監督になると誰もしゃべりに来なくなるんです。それまでだったら、全体練習終わったら「個人練しようか」とか、こっちからも言えるし、「伸二さん、こういうのお願いします」と選手からも寄ってくる。「お前、それはいいアイデアだから監督に言ってみろよ」と伝えると「いや、監督には言えないから、伸二さんから言ってくださいよ」となったり、気さくに話せる。
ところが、監督になると誰も何も言ってくれない。で、孤独になると俺の練習はダメなのかな、このままじゃいけないのかな、と思ってしまう。怖いんですよ、ひとりぼっちで。そこでまた生きてくるのが、今西さんの時代に受けたメンタルトレーニングなんです。そういうときは、監督が自分の方から寄っていって情報を取るんだと。変なプライドに振り回されずに「今日のトレーニングどうだった」とか聞いていく。そういう経験をしながら、あの年は進んでいましたね』。小林はまた裏方スタッフとの交流も密に図った。当時の社員だった豊東和夫は『いろんな監督が来られましたが、早々に若い社員全員と、大分川でバーベキューする会を開いたり、食事に招いてくれたのは伸二さんが初めてでした』と言う。
2001年、途中で監督を引き継いだ小林のトリニータは第2クールでは暫定1位にまで上昇する。若いチームは運動量も豊富で、ラインを高くしてボールを奪うスタイルが機能して、指揮を執り出してから8試合無敗という好成績を生んだ。この年は結局、6位で終わるが、翌2002年は強化予算を削られながら、サンドロ、有村光史など効果的な補強を断行する。ヘッドコーチの現・五輪代表監督の手倉森誠と組み、キャプテンには中盤で声の出せる浮気哲郎を指名した。ラインを引き気味にして守備を固め、むしろ前のスペースを作って、アンドラジーニョの飛び出しや西山哲平のドリブルを生かすスタイルは奏功し、ついにJ2優勝を達成、大分にとっての悲願であったJ1昇格を決めた。
小林の『J1昇格請負人』という軌跡はここから始まったと言えよう。最後に、かつてのサンフレッチェからこれだけの指導者が育っている理由は何かと聞いた。『今西さんが偏った見方をしていなくて、懐が広いんですよね。風間八宏だったり、松田浩だったり、私だったり、若手の森保だったり、いろんなタイプを取ってきて、それに合ったものを提供してくれているんですね。「お前ら、全員こうだ」ではなくて、それぞれ違ったソースを分けて与えているんです。ある程度伸びると、違う仕事に挑戦させたりして、さらに伸ばす。決めつけずに押しつけずに伸ばす。それは今の自分の指導にも影響を与えてくれています』。(参考: 集英社刊『育将』)
★★<『日本製鉄』誕生 箏价掴会長を輩出した国内鉄鋼首位の新日本製鉄と、パナソニックや関西電力と共に関西財界の『御三家』と称された国内3位の住友金属工業が合併し、『新日本住金』が発足して6年半。社名は『日本ニッポン製鉄』へと再び変わった。名門企業の住友金属工業に由来する『住金』の名は消えた。旧新日鉄は、官営八幡製鉄所などが合併して1934年に誕生し、戦後の50年の財閥解体まで続いた『日本ニホン製鉄』の系譜を汲む。読み方は異なるが、『日本製鉄』の表記が70年ぶりに復活する。
『合併後に加わる企業の「DNA」も取り込めるような社名に変えることにした』。昨年5月の記者会見で、新日鉄住金進藤社長(現会長)は社名変更の理由をそう説明した。傘下に迎えた国内4位の日新製鋼や、特殊鋼大手の山陽特殊鋼などを包摂する社名にしたという訳だ。英文の社名も『NIPPON STEEL&SUMITOMO METAL』から『NIPPON STEEL』と短くなった。海外で拡大路線を薦めるには『日本発祥の会社と明確にした方がいい』と判断したと言う。
『改名の時期が速すぎる』(旧住金出身社員)との声もあるが、橋本新社長は新日鉄と住金の統合は『人の融和も含めて終わった』と話す。『対等の精神』を掲げて合併した新日鉄住金の発足時の取締役は、新日鉄出身が10人、住金出身が5人だった。今は社外取締役を除く11人中、住金出身者は1人だけだ。
合併時の高炉は計14基。効率化のため旧新日鉄の君津の1基を2016年に閉鎖し、北九州市の旧住金の小倉の1基も20年をメドに閉じる。合併時の計画では、3年後をメドに年1,500億円規模の統合効果を目指したが、統合効果は累計で2,000億円以上にのぼる。
両者が関係を深めたのは、瀕死の日産自動車に乗り込んだゴーン会長が1999年に鋼材調達の見直しを打ち出した『ゴーン・ショック』がきっかけだった。日産への納入から締め出された住金に新日鉄が手を差し伸べて02年に資本提携。その10年後に合併した。『新日鉄が主導権を握るのは当たり前』(住金OB)との声もあるが、元住金幹部は『住金色を早くゼロにしたかったのだろう。日本製鉄への社名変更は賛成出来ない』と憤る。
旧住金の看板商品『シームレスパイプ』を製造する和歌山周辺の古い資材倉庫には『住金の鋼管』という表記が今も残る。70代の和歌山製鉄所のOBは『社名が変わるのは寂しい。地元の人はずっと、製鉄所を「住金さん」と呼び続けると思います』と言った。
★★<ニトリが不況を経るにつれ成長した理由、似鳥昭雄会長に聞く>このブログで今綴っている、ニトリの似鳥昭雄さんが週刊ポストのインタを受けている。以下。
平成の30年間、バブル崩壊以降の日本経済はデフレ不況のトンネルを抜け出せない時期が長く続いた。その荒波をものともせず、32年連続増収増益と右肩上がりの成長を遂げたのが、家具やインテリア雑貨を手がける『ニトリHD』だ。同社を率いる似鳥昭雄会長(75)は“経済予測の達人”として財界に名を轟かせている。彼は混迷深まる経済、激動する企業環境の下、時代を読む力や競争を勝ち抜いていく慧眼をどう身につけたのか。さらに新しい元号を迎えた日本経済はこれからどう進んでいくのか―─詳しく訊いた。
◇悪戦苦闘の40代
──32年連続増収増益、つまりニトリは平成の間ずっと成長を続けてきたことになります。
似鳥:平成元年(1989年)当時は私も45歳と若かった。その年の9月に札幌証券取引所に株式上場しました。その2か月前に父(義雄氏)を亡くしており、会社としても私個人にとっても大きな転機でしたね。上場当時は、店舗が18店、売上高は132億円、営業利益が8億7800万円、社員数は248人だった。ホームグラウンドの北海道を出て本州に展開するには、まだまだという状況です。それが30年後のいま(2019年2月期)は、店舗が576店、売上高で6081億円、営業利益が1007億円、社員数は1万2668人になった。会社とともに平成を駆け抜けてきたという感じです。
──当初は苦労もあったのでは?
似鳥:40代はなかなか苦しかった。『100店舗・売り上げ1000億円』と公言しながらも、利益も店舗数もなかなか増えませんでした。それでも『いかに安く商品を提供するか』という信念は変えなかった。そこで考えたのが、問屋ではなくメーカーからの直接仕入れ、さらには海外からの輸入を増やすことでした。1985年のプラザ合意による円高もあり、『海外から安く買える、チャンスだ』とアクセルを踏みました。とはいえ、当時は商品の品質が悪く、お客様からのクレームの嵐で返品の山。1989年頃まで大変な思いをしています。あまりにクレームが多いものだから、辞める社員も続出しましたが、私はそれでも『ウチが生きる道はこれしかない』と、輸入に軸足を置く考えを貫きました。ただ、当時の新卒採用者が、入社3年を経ずして半分以上辞めていったのは堪えましたね。
──どのようにして品質改善を成し遂げたのでしょうか?
似鳥:実現していくには設備投資が要る。メーカーに何度もお願いして、『将来、おたくからたくさん買うから投資してくれないか』と粘り強く依頼していった。そうやって4割近くあったクレーム由来の返品を、まず3年で半分にし、5年で1割以下にした。10年で標準並みといわれる3%にまで返品率を下げることができた。いま、当社の開発輸入品の比率は90%以上です。誰もが気軽に買える商品価格と高い品質・機能を両立させるには、従来のSPA、いわゆる製造小売業と呼ばれる事業モデルだけではダメで、そこに物流機能をプラスした。商品の企画や原材料の調達から、製造・物流・販売に至るまでの一連のプロセスを、グループ全体でプロデュースしていく『製造物流小売業』を確立したのです。
◇『不況こそ大チャンス』
──バブル崩壊、金融ビッグバン、リーマン・ショック後の大不況もあった中でも成長し続けた理由は?
似鳥:好況と不況は繰り返します。バブル時は従来比で土地も建物の価格も2倍に上がる。しかし、不況になれば半値になって元に戻る。この法則がわかったので、景気のいい時は投資は半分に控え、逆に不景気になったら投資を2倍にして土地も建物も積極的に取得していく。この繰り返しで、世間とは逆を行くのがセオリーだと考えています。1993年に土地バブルが完全にはじけたわけですが、その後、土地も建物も3割から5割も値が下がり、そのタイミングで本州に進出した。それが1993年です。2008年9月のリーマン・ショック、これは予見していましたし、その備えもしていた。2008年の年明け早々に手持ちの外国債券を全部売却し、5月には取り扱い商品の1000品目で値下げ宣言をした結果、想定を大きく超える規模で売れました。そしてリーマン・ショック以降、3か月おきに波状値下げを実施し、これまたよく売れたんです。
先を読む秘訣は、次に景気が悪くなるのはいつかを常に調査し続けることに尽きます。景気が悪くなったほうが、当社にとってはチャンスが多い。投資がしやすくなり、優秀な人財も採用できるからです。逆に景気が良い時は好材料が生まれない。もちろん、好況であれば多少、業績数字は上がりますが、そういう時は同業他社もみんな上がる。不況下では、さすがにウチも前年比伸び率は鈍化しますが、競争相手は大きく水面下に沈み、場合によっては倒産してしまうこともある。要するに、不況を経るたびに当社は市場占有率がアップしていったのです。
──そうした景気の先を読む力は、どうやって養ったのでしょう?
似鳥:米国経済を定点観測することです。世界経済を牽引しているのは米国だし、時代の最先端をいくので変化のスピードも速い。ですから、40代の頃から毎年5月と10月の年2回、必ず米国の市場動向を視察に行きます。年間約1200人の社員を引き連れて、米国で研修も行なっています。米国の現状を見れば、日本の10年から15年くらい先がおおよそ見えてきます。米国で起こっていることは一旦丸飲みし、真似てみて活かせるものは活かし、そうでないものは捨てていく。とにかく、半年おきぐらいの間隔で米国へ毎年毎年行って、肌でその変化、潮流を感じることが大事です。
──米国の動向で、最近特に注目していることは?
似鳥:ネット企業はリアル強化へ、リアル企業はネット強化へというトレンドですね。アマゾンがホールフーズという食品スーパーを傘下に収めましたが、一方で、ウォルマートはM&Aも含めてネット分野に力を入れ、どんどんネット関連の売上げを伸ばしている。つまり、ネットとリアルの巨人同士がお互いの得意分野を侵食しているわけです。一方、その狭間で苦しむ企業は倒産の憂き目に遭うケースが増えています。家電量販店は最たる例で、書店も一部の小さなところしか残っていない。米国で起こったことは必ず、日本、ひいては世界中に伝播していくと見ています。
これが、あの学業不良、成績最下位学生だった似鳥昭雄さんの現在だ。学校時代の成績なんて、社内に出れば半分程度した効果はない。取り分け、出身校の上下など何の役にも立たない。私が長く勤めた会社では、東大、京大卒の人達が左右にたくさんおられたが、その人達が全員社長や役員になったわけではない。ある有名校出身者は哀れな末路を得たのも見ている。決して、学業が劣るから、社会生活でも劣るということにはならないのだ。学業不振の諸君、この似鳥昭雄さんの現実をよくよく見て、これからの人生をバラ色にしてくれたまえ。
★★<高給取り目指すならバイオテク企業、平社員も富裕層>米バイオテク業界では、一般社員も富裕層だ。
ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)がマイログIQから提供された数百社に上る米主要企業の年次開示資料を調べたところ、医療セクター、そしてS&P500種指数採用企業全体でも、社員の給与が最も高い企業はバイオテク業界に集中していた。
多発性骨髄腫の治療薬を手掛けるセルジーンは、平均社員の年収が26万3237ドル(約2900万円)と、同業界およびS&P500種採用企業の中で最も高かった。セルジーンに続いたのが、バーテックス・ファーマシューティカルズで、平均社員の年収は23万2178ドル。同社は嚢胞性線維症や感染症の治療薬を開発する。
バイオテク企業は通常、社員数が少なく、専門の医療・科学研究者に依存している。バーテックスの社員数は約2300人で、大半が米国に拠点を置く。セルジーンの社員数は約7000人。バーテックスは開示資料以上のコメントを控えた。セルジーンはコメントの要請に応じていない。インサイト(社員数約1400人)は、平均年収が22万8006ドル。同社広報担当は、社員の大半は研究・開発(R&D)で、通常は給与が一段と低い製造関連の社員を抱えていないと述べた。
高額給与のバイオテク企業の中で社員数が上位に入るギリアド・サイエンシズは、社員数が1万0500人、平均年収は16万3963ドルだった。同社はコメントを控えた。
もし、生まれ変わって人生がやり直せるなら、狙うのはバイオ、だなあ。それもアメリカかスイスの。
★★<足らぬ『ボルト』 建設遅れ拡大>建物の柱や梁を結びつける『ボルト』が不足し、建設工事の遅れが相次いでいる。2020年開催の東京五輪関連や都心再開発に伴う建設工事が首都圏で増加。需要拡大の供給が追いつかず、地方都市でも子育て施設や橋などの整備の遅延が起きている。ボルトの品薄は続く見込みで、市民生活や経済活動への支障が増えそうだ。
不足感が強いのはビルや橋などで鉄骨の接合に不可欠な『ハイテンションボルト=高力ボルト』。メーカーに注文しても『年内に届けるのは無理』と言われたとの声もあるほどだ。昨夏まで発注後長くても3カ月ほどで手に入ったもの。
市民生活に密接な施設やインフラの工事に影響が出ている。山口では、本土と瀬戸内の周防大島を結ぶ大島大橋の補修工事が当初の計画から2カ月延び、6月末に完了する見込みだ。必要なボルト1万6千本のうち、2千本の調達が遅れているためだ。
滋賀県近江八幡市では、社会福祉法人が目指していた認定こども園の開園が当初予定の19年4月に間に合わなかった。園舎の工事が遅れ、子供の受け入れは20年4月にずれ込む見通しだ。ボルトを多く使う大規模工事があまりない地方都市でも不足が目立つ。『ゼネコンに比べ確保が遅れている』とlの問屋筋の見方がある。
昨年に日本政府の認定を受けた韓国製ボルトで、不足を補う動きが一部に出ている。が、輸入品になじみがない建設会社も多く『想定より広がっていない』様子だ。
たかが、ボルト、されどボルト、だなあ。恐らく製造メーカーは、淘汰の歴史で限られており、急激な需要増には対応出来ないのだろう。まあ、この建設ラッシュも来年夏の五輪後には後退し、秋風が吹くようになるだろうなあ。今が盛りだよなあ。
★★<シリアで石油危機>内戦下のシリアで先月以降、燃料不足が深刻化し、市民生活を圧迫している。イラン敵視政策を強める米トランプ政権が、イラン産原油のシリアへの禁輸措置を強化したためだ。軍事的優勢を確実にしたアサド政権だが、国内の不満は高まっている。
市民らによると、アサド政権は4月中旬、国土の6割に上る支配地域を対象に、政府の補助金が入った廉価な石油の販売を車一台当たり月100リットルまでに制限し始めた。状況は今月も改善せず、各地で数百メートルに及ぶ給油待ちの車列が出来ている。都市部のバスの便数も減り、タクシーの乗車価格は2~3倍に高騰している。
北部のアレッポで裁縫業を営む男性(33)は、ミシンを動かす発電機に入れる燃料がなく、一時休業を余儀なくされた。今月に入り工場を再開したが、補助金対象外で6割以上高い石油を購入し、不足分を補っている。4月中旬に首都ダマスカス中心部の給油所で並んで燃料を手に入れた教師(55)は、『8年も戦争で苦しんで来たのに、今度は燃料不足で息つく暇もない。もううんざりだ』と言う。
産油国のシリアは内戦前には、欧州諸国に輸出していた。だが、内戦でユーフラテス川東側の主要な油田地帯をISに長期間奪われた。一帯は現在も米国の支援を受けるクルド人の武装組織の支配下にあり、生産能力が制限されている。
地元メディアによると、シリアの石油生産は、内戦前には日産35万バレルだったが、現在は2万4千バレルにまで低下。国内消費量の10万バレルには遠く及ばないと言う。これまでイランがシリアに日量6万バレルを提供していたらしい。だが、トランプ政権はイラン核合意から離脱に伴い、イラン産原油の禁輸措置を再開。イラン原油を積んだタンカーがシリアに来られない状況が続いていると言う。困ったもんだねえ、シリアは。
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今日の画像は、スケボー日本選手権で初優勝した『平野歩夢』。そして、カープ地元線観戦に、マツスタへ赴くカープファン達です。この道は別称『カープロード』とも呼ばれており、広島駅からマツスタまでの800mの間を歩きます。さらには好き好きのひいき選手のユニフォームを着て、老若男女、幼児まで歩け歩けの大行進です。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
平昌に続き、東京五輪でも活躍してくれそうな『平野歩夢』ではあります。たのしみだねえ。まさに平野君を見ていると『好きこそものの上手なれ』を地で行っているようですねえ。お父さんのアシストも万全ではああるが、見事だと思います。
■■中学、高校、大学で、勉学の結果が思わしくなくいわゆる『劣等生意識』を持っているキミ、心配するな、あなた以上の劣等生が世の中に出れば大成功した例もあるのだ。その筆頭に『ニトリの創業者似鳥昭雄さん(76)』がいるのだ。本当、似鳥さんは劣等生で高校大学と卒業さえ危ぶまれた人物。が、今や年間1兆円の売上を目指す大家具チェーンの親分になっている。そのニトリをここまで成長させた『破天荒な似鳥昭雄』の実像を追う。
★★★1980年代後半、北海道全域にニトリの店舗は広がり、道内での知名度は定着した。『いよいよ本州進出』と行きたいところだが、どうも足がすくむ。ある日、社員の前で『北海道のために頑張りましょう』と挨拶すると現在のニトリ社長の白井俊之ら79年入社組の4期生らが反発する。『日本に米国並の豊かな生活をもたらすのがニトリの目的ではないですか。このまま北海道に留まっているつもりですか。全国展開しないのなら、私達は辞めます』。
これには反省した。社長の意思を超え、4期生を中心に『会社を発展させよう』という自主性が芽生えていたのだ。まだニトリの年間売上高は100億円にも満たず、利益率も5%程度。出店を加速するにはまだまだ経営の体力が乏しい。だがこの時ばかりは社員に背中を押された。進出を決めた。
決断したら早い。店舗の開発部隊を派遣し、まず千葉県松戸市、流山市、旭市、茨城県土浦市の4ヵ所の土地を押さえた。手付け金も2億円近く支払った。ところが本州進出を決めた80年代後半はバブル期。工事費や材料費はぐんぐん上昇し、1店舗当たりの建設費が坪40万円と、それまでの2倍以上かかる。
これではいつまでたっても赤字が続く。ペガサスクラブの渥美俊一先生に相談すると『状況が悪いときに撤退する勇気を持たないから、会社はダメになる。一時的な損失を出しても退く勇気は必要だ』と諭してくれた。迷いに迷った揚げ句、4ヵ所の地主に出店中止を申し入れた。実施に違約金は高かった。地主の元へ出向き、『半額にしてもらえませんか』と頼むと、『ふざけるな。契約通り中止したなら2倍払え』と怒られる。何度頭を下げても聞き入れられない。北海道ではしぶとくお願いすれば、聞き入れてもらえることもあったが、関東は厳しい。松戸はすでに基礎工事が始まっていた。結局、経常利益が6億円の時期に4億円の違約金を支払う羽目になった。
本州進出を再度決めたのは93年。90年代初めにバブルがはじけ、土地代や建設費が低下してきたからだ。この頃には札幌証券取引所の上場を果たし、労働組合も結成し、会社としての体裁も整いつつあった。1号店の場所は茨城県勝田市。地主は幼稚園の経営をしいる方で、ニトリのことなど一切知らない。いつものように『日本を豊にしたい。ここを起点に店をたくさん出します』と持論をぶつと、好印象を持ってくれた。
ただ、真向かいにニトリの3倍となる2,000坪の家具店がある。やはりためらったが、『ここで逃げたら、いつになるか分からない』と思い直し、出店を決めた。オープン後、目標通りの売り上げと利益を確保。94年には仙台市にも出店を果たすなど、全国区への足がかりが出来た。
ニトリが出店を加速出来たのは地主のお陰だ。函館店の地主の近江さんなどは本州の地主を自ら車で店を案内してくれる。オーナーには株主になっていただくと同時に、毎年オーナー会を開いて、ニトリの負担で北海道知床・大沼、京都などに招待している。(参考:似鳥昭雄筆『私の履歴書』)
■■日本代表監督『森保一』、U-17日本代表監督『森山佳郎』、J1名古屋監督『風間八宏』、J1大分監督『片野坂知宏』、J2大宮監督『高木琢』、昇格請負人J3北九州監督『小林伸二』、FC今治監督『小野剛』、福岡などの監督をした『松田浩』・・・・・。この人達は全員サンフレッチェの出身である。前身のマツダサッカークラブの時代からの人達もいる。この人材を見出した人こそマツダサッカークラブ総監督、サンフレチェGMを務めた『今西和男さん(77)』。
集英社が、今西さんの足跡、育成した人材を追った『育将』を2016年に発刊している。ただ、今西さんは最後の時期に『FC岐阜』の社長に就任された。まさに泥にまみれた時代だった。なぜこんなクラブを引き受けたのか、詳細はつまびらかになっていない。心配は過去からの累損を個人で引き受けた総額3億円の負債。この処理がどうなったか、不明である。その『育将』の実像の証言を綴る。
いずれも肩書は2016年の『育将』発刊当時のもの。
★★★『育将・今西和男㉔ 小林伸二3』
門徒たちが語る師の教え 清水エスパルス監督 小林伸二(3)
サンフレッチェ広島ユースの初代監督となった小林伸二は、創設3年で早々と全日本ユースカップ優勝という快挙を成し遂げた。4年目が過ぎると、今西はこの逸材を次にトップチームのスカウトに配置変換させる。日本一という結果を出した現場指導者をなぜ、1年後に編成部門の管轄に入れたのか。今西はこう述懐する。
『スカウトいうもんは、まずは選手を見るわけですが、それ以上に高校、大学の指導者とのコミュニケーションが大事な仕事なんです。小林には、さらにもっと多くの指導者と交流して、学んで欲しかったんですわ。見方を変えるいうんかな。若いうちはひとつの仕事だけではなくて、いろんなセクションにつけると後々になって、総合的に全部の力が伸びて行くんです』。
小林自身はこの時期、スカウトを担当したことで『人を大事にすること』を学んだという。『選手を取りに行くと、どんな選手もプロになる前に、いろいろなコーチや監督の指導を受けていると感じます。いわば、そんな愛情や情熱をかけられてきた人間を預かるわけですから、丁寧に人生に寄り添わないといけないと考えるわけです。それは現場指導でも生きる。今西さんには、得意分野で伸びていく前の準備をさせてもらったと思いますね』。小林は1997年、98年とスカウトを担当し、1999年にはナショナルトレセンの中国地域の指導も担当する。やがてトップの若い選手を育てたいという気持ちに駆られて、アビスパ福岡のサテライトの監督に就任する。
『これも今西さんに言って、広島を出してもらいました。ある部分、無理を聞いてもらったところがありますから、恥ずかしいことをしないように、近況報告は欠かさずに結果を出していきました』。福岡の若手を伸ばすと、今度は大分トリニータからオファーが来た。2002年日韓W杯の開催地として、ゼロからチームを立ち上げて、J1昇格を狙っていた大分は育成の重要性を痛感していたのである。2001年に大分のサテライトの監督として、2年契約で迎えられた。ここで高松大樹、松橋章太という若いFWの指導にあたる。特に高松は、多々良学園高校時代から中国トレセンで注目しており、うれしい再会でもあった。
小林が担当した大分のサテライトチームは短期間で強くなっていった。J1のチームとやっても負けないのだ。3月11日に始まったサテライトリーグCグループでは初戦のセレッソ大阪に2対2で引き分けると、以降4月15日のガンバ大阪(3対0)、4月22日のヴィッセル神戸(3対0)、5月13日のサンフレッチェ広島(3対2)と、すべて格上のチーム相手にハイスコアを叩きだして3連勝を飾る。
その直後、小林の人生において2回目の『青天の霹靂』が起こる。夜も深まりつつある午後9時頃、クラブのスタッフから電話が入り、都町の中華料理屋に来て欲しいという。何だろうと駆けつけると溝畑宏、立石敬之、柳田信明、藤原司、小澤正風……当時のトリニータの主だった役職の人間がほとんどいた。そこで当時のGMであった溝畑から『明日から、トップチームの監督をやってくれ』と言われるのである。W杯開催を翌年に控えて、J2からJ1への昇格を目指しながら、チームは苦戦をしていた。第11節を終えた段階で6勝5敗、7位(昇格圏は2位)という成績であった。フロントは1999年、2000年と2年連続で3位、わずかの差で昇格を逃してきた石崎信弘監督に3年目を託していたが、5月12日のモンテディオ山形戦の敗戦を受けて解任を決めたのであった。小林にすれば寝耳に水であった。
『えっ、俺なのっていう感じですよ。トップチームはイシ(石崎)さんがJ1に上げられるものだと思っていましたし、まったく関心がなかったですから』。とにかく窮地を救って欲しいということで、次の3試合を監督代行という形で登録されて指揮を執った。すると、ここで3連勝してしまう。3試合目はW杯を開催する通称ビッグアイ(現・大銀ドーム)のこけら落としであった。29,226人の大観衆を飲み込んだ京都とのこの試合も、高松のビッグアイ初ゴールに続き、梅田高志、佐藤一樹が得点を決める見応えのある内容で3対1と圧勝した。負けが込んでいた頃は、『せっかく作ったスタジアムで恥ずかしい試合をするな』とピリピリしていた剛腕、平松守彦知事も破顔一笑で大いに満足したコメントを寄せている。
インスポンサーのペイントハウスの星野初太郎社長も、このV字回復の結果を受けて代行を外して、正式に小林をトップの監督として迎えることを決意した。『ただ自分として、純粋に教えられることを教えようとしただけです。でもね、コーチと監督はまったく違うんです。監督になると誰もしゃべりに来なくなるんです。それまでだったら、全体練習終わったら「個人練しようか」とか、こっちからも言えるし、「伸二さん、こういうのお願いします」と選手からも寄ってくる。「お前、それはいいアイデアだから監督に言ってみろよ」と伝えると「いや、監督には言えないから、伸二さんから言ってくださいよ」となったり、気さくに話せる。
ところが、監督になると誰も何も言ってくれない。で、孤独になると俺の練習はダメなのかな、このままじゃいけないのかな、と思ってしまう。怖いんですよ、ひとりぼっちで。そこでまた生きてくるのが、今西さんの時代に受けたメンタルトレーニングなんです。そういうときは、監督が自分の方から寄っていって情報を取るんだと。変なプライドに振り回されずに「今日のトレーニングどうだった」とか聞いていく。そういう経験をしながら、あの年は進んでいましたね』。小林はまた裏方スタッフとの交流も密に図った。当時の社員だった豊東和夫は『いろんな監督が来られましたが、早々に若い社員全員と、大分川でバーベキューする会を開いたり、食事に招いてくれたのは伸二さんが初めてでした』と言う。
2001年、途中で監督を引き継いだ小林のトリニータは第2クールでは暫定1位にまで上昇する。若いチームは運動量も豊富で、ラインを高くしてボールを奪うスタイルが機能して、指揮を執り出してから8試合無敗という好成績を生んだ。この年は結局、6位で終わるが、翌2002年は強化予算を削られながら、サンドロ、有村光史など効果的な補強を断行する。ヘッドコーチの現・五輪代表監督の手倉森誠と組み、キャプテンには中盤で声の出せる浮気哲郎を指名した。ラインを引き気味にして守備を固め、むしろ前のスペースを作って、アンドラジーニョの飛び出しや西山哲平のドリブルを生かすスタイルは奏功し、ついにJ2優勝を達成、大分にとっての悲願であったJ1昇格を決めた。
小林の『J1昇格請負人』という軌跡はここから始まったと言えよう。最後に、かつてのサンフレッチェからこれだけの指導者が育っている理由は何かと聞いた。『今西さんが偏った見方をしていなくて、懐が広いんですよね。風間八宏だったり、松田浩だったり、私だったり、若手の森保だったり、いろんなタイプを取ってきて、それに合ったものを提供してくれているんですね。「お前ら、全員こうだ」ではなくて、それぞれ違ったソースを分けて与えているんです。ある程度伸びると、違う仕事に挑戦させたりして、さらに伸ばす。決めつけずに押しつけずに伸ばす。それは今の自分の指導にも影響を与えてくれています』。(参考: 集英社刊『育将』)
★★<『日本製鉄』誕生 箏价掴会長を輩出した国内鉄鋼首位の新日本製鉄と、パナソニックや関西電力と共に関西財界の『御三家』と称された国内3位の住友金属工業が合併し、『新日本住金』が発足して6年半。社名は『日本ニッポン製鉄』へと再び変わった。名門企業の住友金属工業に由来する『住金』の名は消えた。旧新日鉄は、官営八幡製鉄所などが合併して1934年に誕生し、戦後の50年の財閥解体まで続いた『日本ニホン製鉄』の系譜を汲む。読み方は異なるが、『日本製鉄』の表記が70年ぶりに復活する。
『合併後に加わる企業の「DNA」も取り込めるような社名に変えることにした』。昨年5月の記者会見で、新日鉄住金進藤社長(現会長)は社名変更の理由をそう説明した。傘下に迎えた国内4位の日新製鋼や、特殊鋼大手の山陽特殊鋼などを包摂する社名にしたという訳だ。英文の社名も『NIPPON STEEL&SUMITOMO METAL』から『NIPPON STEEL』と短くなった。海外で拡大路線を薦めるには『日本発祥の会社と明確にした方がいい』と判断したと言う。
『改名の時期が速すぎる』(旧住金出身社員)との声もあるが、橋本新社長は新日鉄と住金の統合は『人の融和も含めて終わった』と話す。『対等の精神』を掲げて合併した新日鉄住金の発足時の取締役は、新日鉄出身が10人、住金出身が5人だった。今は社外取締役を除く11人中、住金出身者は1人だけだ。
合併時の高炉は計14基。効率化のため旧新日鉄の君津の1基を2016年に閉鎖し、北九州市の旧住金の小倉の1基も20年をメドに閉じる。合併時の計画では、3年後をメドに年1,500億円規模の統合効果を目指したが、統合効果は累計で2,000億円以上にのぼる。
両者が関係を深めたのは、瀕死の日産自動車に乗り込んだゴーン会長が1999年に鋼材調達の見直しを打ち出した『ゴーン・ショック』がきっかけだった。日産への納入から締め出された住金に新日鉄が手を差し伸べて02年に資本提携。その10年後に合併した。『新日鉄が主導権を握るのは当たり前』(住金OB)との声もあるが、元住金幹部は『住金色を早くゼロにしたかったのだろう。日本製鉄への社名変更は賛成出来ない』と憤る。
旧住金の看板商品『シームレスパイプ』を製造する和歌山周辺の古い資材倉庫には『住金の鋼管』という表記が今も残る。70代の和歌山製鉄所のOBは『社名が変わるのは寂しい。地元の人はずっと、製鉄所を「住金さん」と呼び続けると思います』と言った。
★★<ニトリが不況を経るにつれ成長した理由、似鳥昭雄会長に聞く>このブログで今綴っている、ニトリの似鳥昭雄さんが週刊ポストのインタを受けている。以下。
平成の30年間、バブル崩壊以降の日本経済はデフレ不況のトンネルを抜け出せない時期が長く続いた。その荒波をものともせず、32年連続増収増益と右肩上がりの成長を遂げたのが、家具やインテリア雑貨を手がける『ニトリHD』だ。同社を率いる似鳥昭雄会長(75)は“経済予測の達人”として財界に名を轟かせている。彼は混迷深まる経済、激動する企業環境の下、時代を読む力や競争を勝ち抜いていく慧眼をどう身につけたのか。さらに新しい元号を迎えた日本経済はこれからどう進んでいくのか―─詳しく訊いた。
◇悪戦苦闘の40代
──32年連続増収増益、つまりニトリは平成の間ずっと成長を続けてきたことになります。
似鳥:平成元年(1989年)当時は私も45歳と若かった。その年の9月に札幌証券取引所に株式上場しました。その2か月前に父(義雄氏)を亡くしており、会社としても私個人にとっても大きな転機でしたね。上場当時は、店舗が18店、売上高は132億円、営業利益が8億7800万円、社員数は248人だった。ホームグラウンドの北海道を出て本州に展開するには、まだまだという状況です。それが30年後のいま(2019年2月期)は、店舗が576店、売上高で6081億円、営業利益が1007億円、社員数は1万2668人になった。会社とともに平成を駆け抜けてきたという感じです。
──当初は苦労もあったのでは?
似鳥:40代はなかなか苦しかった。『100店舗・売り上げ1000億円』と公言しながらも、利益も店舗数もなかなか増えませんでした。それでも『いかに安く商品を提供するか』という信念は変えなかった。そこで考えたのが、問屋ではなくメーカーからの直接仕入れ、さらには海外からの輸入を増やすことでした。1985年のプラザ合意による円高もあり、『海外から安く買える、チャンスだ』とアクセルを踏みました。とはいえ、当時は商品の品質が悪く、お客様からのクレームの嵐で返品の山。1989年頃まで大変な思いをしています。あまりにクレームが多いものだから、辞める社員も続出しましたが、私はそれでも『ウチが生きる道はこれしかない』と、輸入に軸足を置く考えを貫きました。ただ、当時の新卒採用者が、入社3年を経ずして半分以上辞めていったのは堪えましたね。
──どのようにして品質改善を成し遂げたのでしょうか?
似鳥:実現していくには設備投資が要る。メーカーに何度もお願いして、『将来、おたくからたくさん買うから投資してくれないか』と粘り強く依頼していった。そうやって4割近くあったクレーム由来の返品を、まず3年で半分にし、5年で1割以下にした。10年で標準並みといわれる3%にまで返品率を下げることができた。いま、当社の開発輸入品の比率は90%以上です。誰もが気軽に買える商品価格と高い品質・機能を両立させるには、従来のSPA、いわゆる製造小売業と呼ばれる事業モデルだけではダメで、そこに物流機能をプラスした。商品の企画や原材料の調達から、製造・物流・販売に至るまでの一連のプロセスを、グループ全体でプロデュースしていく『製造物流小売業』を確立したのです。
◇『不況こそ大チャンス』
──バブル崩壊、金融ビッグバン、リーマン・ショック後の大不況もあった中でも成長し続けた理由は?
似鳥:好況と不況は繰り返します。バブル時は従来比で土地も建物の価格も2倍に上がる。しかし、不況になれば半値になって元に戻る。この法則がわかったので、景気のいい時は投資は半分に控え、逆に不景気になったら投資を2倍にして土地も建物も積極的に取得していく。この繰り返しで、世間とは逆を行くのがセオリーだと考えています。1993年に土地バブルが完全にはじけたわけですが、その後、土地も建物も3割から5割も値が下がり、そのタイミングで本州に進出した。それが1993年です。2008年9月のリーマン・ショック、これは予見していましたし、その備えもしていた。2008年の年明け早々に手持ちの外国債券を全部売却し、5月には取り扱い商品の1000品目で値下げ宣言をした結果、想定を大きく超える規模で売れました。そしてリーマン・ショック以降、3か月おきに波状値下げを実施し、これまたよく売れたんです。
先を読む秘訣は、次に景気が悪くなるのはいつかを常に調査し続けることに尽きます。景気が悪くなったほうが、当社にとってはチャンスが多い。投資がしやすくなり、優秀な人財も採用できるからです。逆に景気が良い時は好材料が生まれない。もちろん、好況であれば多少、業績数字は上がりますが、そういう時は同業他社もみんな上がる。不況下では、さすがにウチも前年比伸び率は鈍化しますが、競争相手は大きく水面下に沈み、場合によっては倒産してしまうこともある。要するに、不況を経るたびに当社は市場占有率がアップしていったのです。
──そうした景気の先を読む力は、どうやって養ったのでしょう?
似鳥:米国経済を定点観測することです。世界経済を牽引しているのは米国だし、時代の最先端をいくので変化のスピードも速い。ですから、40代の頃から毎年5月と10月の年2回、必ず米国の市場動向を視察に行きます。年間約1200人の社員を引き連れて、米国で研修も行なっています。米国の現状を見れば、日本の10年から15年くらい先がおおよそ見えてきます。米国で起こっていることは一旦丸飲みし、真似てみて活かせるものは活かし、そうでないものは捨てていく。とにかく、半年おきぐらいの間隔で米国へ毎年毎年行って、肌でその変化、潮流を感じることが大事です。
──米国の動向で、最近特に注目していることは?
似鳥:ネット企業はリアル強化へ、リアル企業はネット強化へというトレンドですね。アマゾンがホールフーズという食品スーパーを傘下に収めましたが、一方で、ウォルマートはM&Aも含めてネット分野に力を入れ、どんどんネット関連の売上げを伸ばしている。つまり、ネットとリアルの巨人同士がお互いの得意分野を侵食しているわけです。一方、その狭間で苦しむ企業は倒産の憂き目に遭うケースが増えています。家電量販店は最たる例で、書店も一部の小さなところしか残っていない。米国で起こったことは必ず、日本、ひいては世界中に伝播していくと見ています。
これが、あの学業不良、成績最下位学生だった似鳥昭雄さんの現在だ。学校時代の成績なんて、社内に出れば半分程度した効果はない。取り分け、出身校の上下など何の役にも立たない。私が長く勤めた会社では、東大、京大卒の人達が左右にたくさんおられたが、その人達が全員社長や役員になったわけではない。ある有名校出身者は哀れな末路を得たのも見ている。決して、学業が劣るから、社会生活でも劣るということにはならないのだ。学業不振の諸君、この似鳥昭雄さんの現実をよくよく見て、これからの人生をバラ色にしてくれたまえ。
★★<高給取り目指すならバイオテク企業、平社員も富裕層>米バイオテク業界では、一般社員も富裕層だ。
ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)がマイログIQから提供された数百社に上る米主要企業の年次開示資料を調べたところ、医療セクター、そしてS&P500種指数採用企業全体でも、社員の給与が最も高い企業はバイオテク業界に集中していた。
多発性骨髄腫の治療薬を手掛けるセルジーンは、平均社員の年収が26万3237ドル(約2900万円)と、同業界およびS&P500種採用企業の中で最も高かった。セルジーンに続いたのが、バーテックス・ファーマシューティカルズで、平均社員の年収は23万2178ドル。同社は嚢胞性線維症や感染症の治療薬を開発する。
バイオテク企業は通常、社員数が少なく、専門の医療・科学研究者に依存している。バーテックスの社員数は約2300人で、大半が米国に拠点を置く。セルジーンの社員数は約7000人。バーテックスは開示資料以上のコメントを控えた。セルジーンはコメントの要請に応じていない。インサイト(社員数約1400人)は、平均年収が22万8006ドル。同社広報担当は、社員の大半は研究・開発(R&D)で、通常は給与が一段と低い製造関連の社員を抱えていないと述べた。
高額給与のバイオテク企業の中で社員数が上位に入るギリアド・サイエンシズは、社員数が1万0500人、平均年収は16万3963ドルだった。同社はコメントを控えた。
もし、生まれ変わって人生がやり直せるなら、狙うのはバイオ、だなあ。それもアメリカかスイスの。
★★<足らぬ『ボルト』 建設遅れ拡大>建物の柱や梁を結びつける『ボルト』が不足し、建設工事の遅れが相次いでいる。2020年開催の東京五輪関連や都心再開発に伴う建設工事が首都圏で増加。需要拡大の供給が追いつかず、地方都市でも子育て施設や橋などの整備の遅延が起きている。ボルトの品薄は続く見込みで、市民生活や経済活動への支障が増えそうだ。
不足感が強いのはビルや橋などで鉄骨の接合に不可欠な『ハイテンションボルト=高力ボルト』。メーカーに注文しても『年内に届けるのは無理』と言われたとの声もあるほどだ。昨夏まで発注後長くても3カ月ほどで手に入ったもの。
市民生活に密接な施設やインフラの工事に影響が出ている。山口では、本土と瀬戸内の周防大島を結ぶ大島大橋の補修工事が当初の計画から2カ月延び、6月末に完了する見込みだ。必要なボルト1万6千本のうち、2千本の調達が遅れているためだ。
滋賀県近江八幡市では、社会福祉法人が目指していた認定こども園の開園が当初予定の19年4月に間に合わなかった。園舎の工事が遅れ、子供の受け入れは20年4月にずれ込む見通しだ。ボルトを多く使う大規模工事があまりない地方都市でも不足が目立つ。『ゼネコンに比べ確保が遅れている』とlの問屋筋の見方がある。
昨年に日本政府の認定を受けた韓国製ボルトで、不足を補う動きが一部に出ている。が、輸入品になじみがない建設会社も多く『想定より広がっていない』様子だ。
たかが、ボルト、されどボルト、だなあ。恐らく製造メーカーは、淘汰の歴史で限られており、急激な需要増には対応出来ないのだろう。まあ、この建設ラッシュも来年夏の五輪後には後退し、秋風が吹くようになるだろうなあ。今が盛りだよなあ。
★★<シリアで石油危機>内戦下のシリアで先月以降、燃料不足が深刻化し、市民生活を圧迫している。イラン敵視政策を強める米トランプ政権が、イラン産原油のシリアへの禁輸措置を強化したためだ。軍事的優勢を確実にしたアサド政権だが、国内の不満は高まっている。
市民らによると、アサド政権は4月中旬、国土の6割に上る支配地域を対象に、政府の補助金が入った廉価な石油の販売を車一台当たり月100リットルまでに制限し始めた。状況は今月も改善せず、各地で数百メートルに及ぶ給油待ちの車列が出来ている。都市部のバスの便数も減り、タクシーの乗車価格は2~3倍に高騰している。
北部のアレッポで裁縫業を営む男性(33)は、ミシンを動かす発電機に入れる燃料がなく、一時休業を余儀なくされた。今月に入り工場を再開したが、補助金対象外で6割以上高い石油を購入し、不足分を補っている。4月中旬に首都ダマスカス中心部の給油所で並んで燃料を手に入れた教師(55)は、『8年も戦争で苦しんで来たのに、今度は燃料不足で息つく暇もない。もううんざりだ』と言う。
産油国のシリアは内戦前には、欧州諸国に輸出していた。だが、内戦でユーフラテス川東側の主要な油田地帯をISに長期間奪われた。一帯は現在も米国の支援を受けるクルド人の武装組織の支配下にあり、生産能力が制限されている。
地元メディアによると、シリアの石油生産は、内戦前には日産35万バレルだったが、現在は2万4千バレルにまで低下。国内消費量の10万バレルには遠く及ばないと言う。これまでイランがシリアに日量6万バレルを提供していたらしい。だが、トランプ政権はイラン核合意から離脱に伴い、イラン産原油の禁輸措置を再開。イラン原油を積んだタンカーがシリアに来られない状況が続いていると言う。困ったもんだねえ、シリアは。