今日の画像は、丸の内署の1日警察署長でレア車・マツダアテンザオープンカーに乗って手を振る『上白石萌音』。そして、江田島『古鷹山』への登山道です。昨夏の豪雨の爪痕があちこちにあり、こんな小さな渓谷でも根こそぎ登山道を流してしまったカ所がいくつかありました。自然の力はすごいと、改めて感じた次第です。この登山口がある切串の集落では、戦後間もない時に、山津波で90人を超える人が亡くなっている慰霊碑がありました。たかが、里山、されど里山ではあります。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
■■中学、高校、大学で、勉学の結果が思わしくなくいわゆる『劣等生意識』を持っているキミ、心配するな、あなた以上の劣等生が世の中に出れば大成功した例もあるのだ。その筆頭に『ニトリの創業者似鳥昭雄さん(76)』がいるのだ。本当、似鳥さんは劣等生で高校大学と卒業さえ危ぶまれた人物。が、今や年間1兆円の売上を目指す大家具チェーンの親分になっている。そのニトリをここまで成長させた『破天荒な似鳥昭雄』の実像を追う。
★★★1993年に本州に進出した翌年、買収した北海道旭川の近郊の家具メーカー、マルミツ木工を通じてインドネシアに現地法人を作った。だが進出までには曲折があった。
87年にマルミツに出資すると、社長の松倉重仁さんは、いとこが経営する家具メーカーを買収しようと持ちかけてきた。私は『国内は限界がある。海外へ出よう』と反対して、耳を貸さない。買収先はかつてマルミツを吸収しようとした会社だ。『遺恨じゃないか』と思いながらも、松倉さんの説得に根負けしてしまった。
了解したのはいいが、買収先の会社の社長は納入先の問屋と新会社を作ってしまった。残ったのは工場と半分の従業員と負債だけ。以降、毎年1億円の赤字を計上することになる。松倉さんも何とか立て直そうとシンガポールやタイから家具の部品を輸入し、旭川近郊で組み立てる仕組みを作ったが、なかなか業績は改善しない。l
当初、松倉さんの月給は120万円だったが、赤字なので毎年減らすうちに30万円まで下がってしまった。さすがに松倉さんは音を上げた。私は改めて海外での現地生産会社を提案し、松倉さんら15人をインドネシアに派遣した。
銀行の勧めもあって候補地はスマトラ島にあるメダン。平均月給は3千円でジャカルタより2千円は安い。丁度インドネシアでは外資規制も緩和され、現地法人をスマトラ島のメダンに設立。9千坪の敷地に工場を作り、95年から出荷を始めた。97年に本格稼働し旭川近郊の工場は閉鎖。松倉さんには『もう退路はないよ』と伝えた。
もっとも当初は社員がトイレに入ったまま出てこなかったり、部品は電線を盗んだり、トラブルだらけ。驚くことに重量1トンの重機までなくなったので、金属探知機を取り付けた。社員だけでなく、外からも窃盗犯がやってくる。このため2mだった塀を4mに高くした。すると今度は塀に穴を開けて入ってくるので、厚さを2倍にする。それでも懲りない窃盗団は地下に穴を開け、やってくる。
私はインドネシアに工場を作った時、パパイヤやヤシ、マンゴーの木を植え、食べるのが夢だった。その数は400本に及んだが、どうもこの木に登って姿を隠す犯人がいるようだった。犯罪の温床にするわけにもいかず、泣く泣く木を切ることにした。
それでも犯罪はなかなか減らない。実はガードマンにも原因があったのだから当たり前だ。8時間勤務の3交代制で、交代直前に何かが盗まれる。誰が犯人か分からないので、ガードマン全員を解雇したら、マシンガンを構えて『皆殺しにすると』と脅してくる。慌ててインドネシア海軍の関係会社に警備を頼んだら、犯罪は沈静化して行った。
取り締まりの強化だけでは犯罪防止に繋がらない。インドネシアは華僑の影響力が大きく、現地人は差別されていた。『ニトリは世界中で差別はしない』と宣言。数年で工場長や役員は全てインドネシア人だけになった。信賞必罰も徹底。皆勤賞を出す一方で、『3回問題を起こしたら解雇』というイエローカード方式を採用。ようやく現地法人は軌道に乗り始めた。
だが、97年秋、インドネシア工場を視察していると日本で重大な問題が起きた。メーンバンクの北海道拓殖銀行と主幹事の山一証券の破綻だ。(参考:似鳥昭雄筆『私の履歴書』)
■■日本代表監督『森保一』、U-17日本代表監督『森山佳郎』、J1名古屋監督『風間八宏』、J1大分監督『片野坂知宏』、J2大宮監督『高木琢』、昇格請負人J3北九州監督『小林伸二』、FC今治監督『小野剛』、福岡などの監督をした『松田浩』・・・・・。この人達は全員サンフレッチェの出身である。前身のマツダサッカークラブの時代からの人達もいる。この人材を見出した人こそマツダサッカークラブ総監督、サンフレチェGMを務めた『今西和男さん(77)』。
集英社が、今西さんの足跡、育成した人材を追った『育将』を2016年に発刊している。ただ、今西さんは最後の時期に『FC岐阜』の社長に就任された。まさに泥にまみれた時代だった。なぜこんなクラブを引き受けたのか、詳細はつまびらかになっていない。心配は過去からの累損を個人で引き受けた総額3億円の負債。この処理がどうなったか、不明である。その『育将』の実像の証言を綴る。
いずれも肩書は2016年の『育将』発刊当時のもの。
★★★『育将・今西和男㉕ 片野坂知宏1 最初の言葉は「感謝をしなさい」でした」 』
門徒たちが語る師の教え 大分トリニータ監督 片野坂知宏(1)
2016年、片野坂知宏は大分トリニータに13年ぶりに指揮官として帰ってきた。かつて日韓W杯の開催地に立候補するために意図的に創設され、県リーグからJリーグまで驚異のスピードで上り詰めたトリニータは2008年にはナビスコカップを制して、地方クラブの雄と称えられた。
しかし、そんなクラブも翌年からは下降の一途を辿り、2015年の入れ替え戦では町田ゼルビアに敗れ、J3にまで降格していた。カップ戦まで制した元J1クラブが3部リーグに落ちるのは、史上初という屈辱であった。この窮地を救う切り札として片野坂はオファーを受けた。すでにガンバ大阪でヘッドコーチとして高い評価を受けていながら、敢えてその座を捨てて古巣に馳せ参じた。J1の強豪からJ3への移籍である。おそらく環境や待遇面では、かなり厳しい変化があったと推察されるが、OBとして火中の栗を拾う決意は固かった。監督就任を決断すると、即座に恩師に報告の電話を入れたという。
『そうしたら、今西さんは「本当に大変な仕事だと思うけれど、何かあれば協力するから遠慮なく言ってくれ」とおっしゃったんです。考えてみたら、トリニータの創設にも今西さんは関わっておられたわけですから、そこに戻ってきたのも大きな縁を感じています』。母体がなく、まさにゼロから船出したこのチームは、スタートの段階からクラブ運営の経験豊富な今西和男を頼って、アドバイザーとしての指導を仰いでいる。当時の大分県サッカー協会トップは今西と東京教育大学時代の同級生であった篠永武(現・九州サッカー協会会長)で、そのパイプを活かしたのである。
今西は広島でGMの任にあっただけではなく、日本協会の強化委員会の副委員長という重責を担っていたが、大分でのこの大役をボランティアで引き受けていた。最初の選手セレクションにも出席し、チーム編成ではサンフレッチェから現役の選手や指導者をトリニティ(創設時の名称)に送り込んで、産声を上げたばかりのチームを駆け足で昇格させるために、献身的に支えていった。今西は、その意味でトリニータ創生期の育ての親と言っても過言ではない。だからこそ、片野坂は自らが指揮官として率いることの責任の重さを感じて、口にしたのであろう。
片野坂が今西と出会ったのは1989年、鹿児島実業高校3年のときであった。希望していた大学進学の道が残念なことに潰えてしまっていた。別の進路を鹿実の松澤隆司監督に相談すると、今西が総監督を務めるマツダへの入社を勧められたのである。松澤はそれまでにも今西と強い信頼関係にあり、ふだんから密接なコミュニケーションを取っていた。手塩にかけた教え子を預けるのならば、今西のマツダという考えがあった。 一方で、今西は松澤の指導を高く評価しており、鹿実の選手に対しては『責任感が強くて、自分の仕事をしっかりやろうとする。それも言われたままではなく、自分の頭で考えて行動できる地頭が鍛えられている』という印象を持っていた。キャプテンをしていた片野坂のプレーも当然注目しており、『スピードはそれほどでもないが、技術はあるしメンタルも強い。広島に来てくれるのなら、ぜひ欲しい』と考えていた。松澤から『片野坂をマツダで受け入れて欲しい』と言われて、躊躇はなかった。
入社して今西が片野坂に最初に言ったのが、『感謝をしなさい』ということであった。まず、育ててくれた親に対して。そして、サッカーを教えてくれた今までの指導者の先生に対して。そういう人たちのおかげで、今サッカーができることに感謝しなさいと説いた。『それから、たとえサッカーをやめた後でも、そのまま会社に残って仕事ができるように、今から考えて生活をしなさいと。僕はまだサッカーで成功するかどうかもわからない新卒の一年生ですし、本当にそこは大事だと思いました』。
研修ではデスクワークだけではなく、クルマを製造する現場での作業も学ばされた。塗装、板金、タイヤ交換……、突然大きなケガなどをして現役を辞めざるをえなくなっても、いろいろな職場で対応できるようにしておけという今西の指示だった。さらに初日の仕事が終わると、『社会人として仕事をして』というテーマでレポートを提出するように言われた。配属された部署はサッカー部の先輩である横内昭展、前川和也と同じセクションで、片野坂は遮二無二社業にも励んだ。実直な性格はここで培養された。『今思うと、高卒一年目の新人に対する教育という部分で、非常に重要なことを教えられたと思います』。
基礎をしっかり作るという教育方針では、サッカー選手に対する育て方も同様だった。いきなりJSLでデビューということではなく、最初はマツダのサテライトにあたるマツダSC東洋(当時は地方リーグの中国リーグに所属)でプレーをするように言われた。フィジカルを鍛えて社会人のレベルに慣れてからトップチームで出場させようという意図であった。この辺りは今西が東洋工業のマンモス寮の寮監時代に、何千人もの10代の新入社員たちと向き合ったことで蓄積した経験が活かされている。まず自分の将来をしっかりと認識させること、その将来に向けての努力の仕方を具体的に教えて、最後は不安を払拭させて、自信を持たせるのである。特に片野坂の場合は第一志望が大学であったために、余計に今西は今の環境を前向きに捉えるように気を遣ったという。
1993年、マツダがプロ化しサンフレッチェ広島になると、満を持していたかのように入団3年目を迎えた片野坂もトップチームのレギュラーに上り詰めていく。監督スチュワート・バクスターはさかんに『ディシプリン(規律)』という言葉を使ったが、その決め事の中で片野坂は左SBとしての動きを徹底的に仕込まれた。特にサイドでプレッシャーをかけられたときに、ノールックのように素早く叩くプレー(=ワンタッチフリック)の出し方は繰り返し教わった。
そのスキルがJリーグ開幕の初陣で見事に花開いた。同年5月16日、日本プロサッカーリーグの第1節サンフレッチェ対ジェフの前半開始1分であった。サンフレッチェのFKから前に運ばれたボールが左サイドで詰まって一度、中盤まで戻されてきた。『バックパスか……』。いったんトラップして組み立て直すと誰もが考えて、弛緩した空気がピッチ上を流れた。しかし、このボールを受けた片野坂は神経を研ぎ澄まし、次の瞬間に抜群のアイデアを発揮した。ダイレクトでペナルティエリアに絶妙のアーリークロスを入れたのである。ただひとり感じていたのは、ボランチの風間八宏だった。2列目から脱兎のごとく走り込み、DF2人の間を食い破って、見事なボレーシュートを叩き込んだ。
Jリーグにおける日本人による記念すべき初ゴールを記録したのは風間であるが、この得点をアシストしたのが、左サイドから相手の急所を突いた片野坂であった。弱冠22歳の若手とドイツで揉まれて帰国した32歳のベテランとの意志が自然にシンクロしていた。両者ともに今西のリクルートによって入団した選手であるが、これはまさに当時のサンフレッチェの組織としての強さを象徴する得点シーンであった。やがて片野坂と言えば、大胆不敵なオーバーラップと相手陣形が整う前に放り込む速いクロスが代名詞になっていくが、どのように判断して攻撃参加をしていったのか。
『それは予測してのアクションです。まず見るのは味方がどのようにボールを持っているのか、そして、相手のディフェンス陣が自分のマークをどのようにしているか。対峙する敵の右サイドバックはもちろんですが、その奥の選手のポジショニングも確認して、パスが来たらどこにスペースができるか、二手三手先を読んで動いていました。あの頃はまだ20歳そこそこで自分のことで精一杯でしたけど、チームを勝たせるためには何ができるか、それを徹底的に考えていました』。1993年はJリーグ開幕イヤーであると同時に、マツダSC東洋からコツコツと努力を続けてきた片野坂の萌芽の年でもあった。(参考: 集英社刊『育将』)
(片野坂知宏)
1971年4月18日、鹿児島県生まれ。鹿児島実業高から、1990年マツダSCに入団。マツダSC東洋を経て、サンフレッチェ広島に発足時から加入し、サイドバックとして活躍。1994年の第1ステージ優勝にも貢献した。1995年柏レイソルに移籍。大分トリニータ-ガンバ大阪-ベガルタ仙台-大分トリニータとチームを変わり、2003年現役引退した。引退後は大分トリニータのスタッフとなり、スカウトなども経験。その後、指導者として大分Uー15コーチ、ガンバ大阪コーチ(サテライト監督を兼任)、サンフレッチェ広島コーチ、再びガンバに戻ってヘッドコーチに。今年より、J3大分トリニータ監督に就任。
★★<福岡空港民営化>国内空港旅客数で4位の福岡空港が民営化された。市の中心部に近い利便性を生かし、2048年度に路線数で現在の2倍の100路線、旅客数で1.5倍の3,500万人を目指す。
『たくさんの外国人旅行者の訪問を待っている』。運営を担う特別目的会社『福岡国際空港FIAC』の永竿社長は、12年ぶりの復活となるマレーシア・クアラルンプールと結ぶ直行便就航式典でこう歓迎した。
FIACは運営事業者に選ばれた西日本鉄道や九州電力など地元中心の企業連合が出資した。新設した営業本部の社員が海外の商談会に参加を始め、訪日客の増加を追い風にアジアからの距離の近さをアピール。航空会社から徴収する着陸料の割引制度も導入し、就航を呼びかける。
しかし、米デルタが今年5月にホノルル線を廃止して撤退後、欧米と結ぶ定期便は米ユナイテッドのグアム線、フィンランド航空のヘルシンキ線だけとなる。これまでに米西部ポートランドや、オランダ・アムステルダムと結ぶ路線も撤退した。『福岡は欧米で知名度が低い』のに加え、三大都市より経済規模も小さいためビジネス客を安定的に獲得しにくいのも弱点となっている。
福岡空港は滑走路が1本だけで、離着陸の混雑が慢性化しているのも障壁。FIACは旅客ターミナルビルを拡張するなど受け入れ能力拡大を急ぐが、25年に2本目の滑走路の運用を始めるまでは眼界があろう。
FIACは運営権の対価として30年間で計4,460億円を国に支払う契約を結んでおり、旅客ターミナルの免税店充実、ホテルの誘致といった収益性向上策が問われている。西鉄は、空港と九州の観光地などを結ぶ高速バスを現在の2倍、26路線に広げる計画だ。
一方、民営化で先行した関西空港は昨年の台風21号で被災して一時閉鎖に追い込まれ、情報発信や避難誘導が後手に回った。FIACに対しても『航空業界の素人が目立ち、心配だ』(航空大手)との声が強い。
それでも広島に比べれば、先行している福岡である。広島では、『福岡に追いつき追い越せ』などという元気な声は聞こえない。もう沈黙である。本当に広島の国際線航空はプアーである。乗り継ぎではあるが、欧州へのフライトをチェックするとまあ、4万円は福岡に比べて高い。広島県はただただ、中国地方のトップとして波静かにたたずむだけなのだろうか。心配だ。
★★<『日本製鉄』誕生◆簔羚颪竜瓩瓩鳳犬匿憩楡重瓦建設に協力した『上海宝山製鉄所』の高炉に1985年、火が灯った。当時最新鋭の設備を誇る製鉄所だった。この製鉄所を抱える宝鋼集団と武漢鋼鉄が2016年に経営統合し、粗鋼生産量が年6千万トンを超す『宝武鋼鉄』が誕生。新日鉄住金を上回り、世界2位に浮上した。
中国では中央政府の主導で国営企業同士の再編が進む。今や中国は世界の粗鋼の半分を生産し、粗鋼生産量の世界トップ10のうち5社を中国が占める。橋本日本製鉄社長は台頭する中国勢について『今後ますます怖くなるし、厳しい競争が待っている』と警戒感を隠さない。
中国は00年代に大型の製鉄所を次々と建設。作りすぎた鉄を国内でさばけず、輸出に回したために鋼材価格が下落し、世界中が『鉄冷え』に苦しんだ。中国政府が16年から過剰設備の削減に乗り出して市況は回復しているが、足元では鉄冷え再来の懸念が強まっている。米中貿易摩擦による中国経済の減速が鮮明になってきたためだ。
人口減が進む日本国内の需要の伸びも見込めない。近年は保護主義が台頭し、需要が伸びる新興国では、輸入に頼らずに国内で生産する『自国産化』を目指す動きが活発だ。頼みの新興国市場を開発するには現地生産に協力する姿勢も求められる。鉄鋼業は『大きな構造変化への対応が求められている』と橋本社長。今月1日、新社長は『作る力を鍛え、メガトレンドをとらえ、鉄を極める』という方針を掲げた。
世界70カ国で延べ3万件の特許を持つ日本製鉄は『鉄のデパート』と称される。深海の水圧にも耐えられる合金製の油井管の世界シェアは80%。米トランプ政権が発動した鉄鋼関税の対象になっても輸出量は減らなかった。品質の高さは折り紙付きだ。『樹脂と鉄を張り合わせ、複合素材を作る研究も始めている』(幹部)。
1月中旬、東京有明で開かれた自動車関連技術の展覧会『オートモティブ ワールド』の会場には新日鉄住金の進藤社長の姿があった。今回が初出展。薄くて強い鋼材『ハイテン』を多用し、一般的な車と比べて30%軽量化を実現した車体を展示し、鉄だけでも軽い車を作れることをアピールした。ただ、中国勢の技術革新が目覚ましく、『技術力の差は詰まってきている』と話す。
設備の老朽化が進み、生産現場のトラブルも相次ぐ。18年下期の粗鋼生産量は想定より80万トンの減産となりそうで、安定生産を支える『作る力』の強化も急務だ。韓国人の元徴用工への損害賠償を新日鉄住金に命じられ、火種もくすぶる。令和への改元の年に船出した『日本製鉄』の行く手は波高し、だ。橋本社長の舵取りが問われている。
アメリカなどを見ると、鉄鋼産業のようなオールド産業は途上国へ移管しているのが現状だ。日本のような先進国で鉄鋼産業が存在すること自体が不思議なのだ。経営者はよく頑張っていると言える。その先は、旧来の『鉄鋼産業』ではなく『先進鉄鋼産業』の姿がおぼろげながら見える。
★★<レア車、『マツダアテンザのオープン仕様』 が東京都心に! 乗ってる女性は『上白石萌音』>マツダの新世代フラッグシップモデルといえば『アテンザ』。4ドアセダンとステーションワゴンがあるアテンザには、実はオープンモデルが存在する。『意外とレア車』といわれているこのオープン版アテンザが、東京・丸の内に姿を現した。現場は『丸の内交通安全パレード』『交通安全のつどい』という行進。丸の内警察署と丸の内交通安全協会が主催するこのパレードに、丸の内署管内に東京本社を置くマツダが、オープン版アテンザで参加した。
マツダ内では『アテンザパレードカー』と呼ぶこのオープン版アテンザ。屋根をばっさりとカットし、Bピラー部分からブラックのロールバーが架かっている。パレードカーというだけあって、大相撲優勝パレードと同じイメージで、後席は高い着座位置のシートがつく。『後席部分は、実は荷室扱いなのでツーシーター。2人乗り』とマツダ関係者は明かす。『ほかに特別なチューニングはしてない。クルマ自体はもともそ広島本社に保管してあるので、東京ではあまり見かけないかも』とも。後席シートとトランクの間は、プラ樹脂製のカバーがぴったりと接合されていて、前から後ろまで連続した流れをキープしている。
そして赤いアテンザパレードカーには、多くのカメラがむけられた。後席に乗って手をふるのは、『上白石萌音』。ドラマ『陸王』(TBS系)で宮沢紘一(役所広司)の娘役や、NHK大河ドラマ『西郷どん』で西郷従道(錦戸亮)の妻を演じた彼女が、一日警察署長を務めたということで、丸の内仲通りのランチタイムはいつも以上に多くの人でごった返した。
★★<飛行機代6万円の恩人見つかった 沖縄の高校生、地元紙通じ>見知らぬ僕に飛行機代をくれた男性。身元が分かってよかった-。那覇市の高校2年、崎元颯馬さん(17)は、帰郷途中でなくした現金6万円をくれたのに連絡先を確認できずに別れた男性を、地元紙を通じて捜した。記事を知って申し出たのは、埼玉県の医師、猪野屋博さん(68)。『お礼の言葉を、直接伝えられる』。崎元さんは胸をなでおろしている。
崎元さんは4月24日朝、伯父の葬儀に参列するため地元の沖縄県・与那国島へ帰ることになった。ところが、モノレールで終点の那覇空港駅に着いたところで、往復の航空運賃が入った財布をなくしたことに気付く。『何も考えられずパニックになった』。車両内で途方に暮れ、頭を抱えた。
『どうしたの』。声を掛けてきた男性に事情を話した。折り返し運行でドアが閉まる間際、男性は『降りなさい』と促し6万円を差し出した。
崎元さんは予約便に間に合ったものの、男性の氏名や連絡先を聞きそびれたことを悔やんだ。在籍する沖縄県立沖縄工業高の先生に相談し、すがる思いで地元紙に体験を取り上げてもらった。
猪野屋さんは『だまされたんだよ』と言っていた同僚から5月10日朝、インターネット上に掲載された記事を教えられ、すぐに崎元さんの高校へ電話した。『少年の話を信じてよかった。那覇市出身でもあり、世話になった沖縄に恩返ししたいと思った』と振り返る。
財布は乗車駅で見つかり、現金も手付かずで戻ってきた。『感謝を忘れず、困っている人に手を差し伸べられるようになりたい』と、涙をにじませた崎元さん。今月下旬、那覇市を訪れる予定の猪野屋さんと再会する。感謝の思いを告げて、手作りの贈り物を渡すと決めている。
世知辛い世の中の今どき、本当に珍しい『美談』だねえ。さぞかし崎元さんも猪野屋さんも、本当に心から信頼しあえる間柄になりそうだねえ。とっても嬉しい話だ。私はこの話をテレビ報道で知ったが、那覇空港には再就職した会社の仕事の関係で5年間で30往復くらいしてとても親近感がある。モノレールにも何回か乗った。本当に嬉しい話ではある。
★★<栃ノ心復調>大相撲夏場所、2日目。『強いなあ』。桟敷席からため息が漏れた。大関復帰を目指す栃ノ心が連日の完勝だ。力をつけてきた大栄翔のツッパリにびくともせず、右四つに組み止めて難なくつり出し。『帰っておいしいご飯が食べれるね』ちお笑った。
1年前の夏場所で大関昇進を決めた後、試練が続いた。右足親指を痛めて名古屋場所を途中休場すると、今年の初場所前には右太ももを肉離れ。かど番で迎えた春場所千秋楽、貴景勝に完敗して負け越し、在位5場所で大関から陥落した。
今場所、10勝すれば復帰出来る。体調は久々に良さそうだ。場所前から精力的に稽古を積み、軽い調整に終始する力士が大い場所中も連日、部屋の関取衆と胸を合わせる。猛稽古で鳴らした二子山部屋出身の高田川審判長(元関脇安芸乃島)は話す。『力士は年90日の本場所をどう過ごすかで差がつく。調整に充てているようでは長く一線では取れない』。
『目指すは2桁勝利?』と聞かれた栃ノ心は『一日一番が目標だよ』とにやり。うすぶく本人をよそに稽古相手の碧山は太鼓判を押した。『栃ノ心は自信が戻ってきたみたい。俺達は誰よりも稽古しているから大丈夫』と。復帰して欲しいねえ、栃ノ心。大関陥落した力士が、ここのところ復帰した例が見られないから。ガンバレ、栃ノ心。
3日目の昨日も白星。どうやら、このままいくと大関に復帰の線が濃くなるねえ。いいことだねえ、ジョージア万歳だ。
★★<カープ・アドゥワ誠が頼もしい。先発でも際立つクイックとクセ球>日曜日初の完投勝利を収めたアドゥアの評価がウナギ登りだ。
マウンドでも、マウンドを降りても、飄々とした立ち居振る舞いが何より頼もしい。広島を上昇気流に乗せた先発陣の一角を務める20歳、アドゥワ誠には、良い意味で若々しさが感じられない。5月12日、DeNA打線を相手にプロ初完投で先発初勝利を手にした。9回。最後の打者を途中交代の上本崇司のナイスキャッチで打ち取っても派手なガッツポーズもなく、感情を表に出すこともなかった。
◇無四球完投の110球に、アドゥワの真骨頂が見えた。
立ち上がりからストライク先行のピッチングで、9回まで三者凡退は2度。ほとんどの回で走者を背負ったが、動じない。5回、伊藤光にソロを浴びても、引きずらない。この強心臓ぶりは高卒2年目の昨季の経験が生きている。中継ぎとして一軍にフル帯同した。ロングリリーフとして劣勢の展開で、僅差でリードしていた場面でもマウンドに上がった。状況を問わず投げた53試合が、若き右腕の血肉となった。
『どこに投げたら打たれるとか、自分でも考えて投げられるようになってきている』。まだ3連打以上は浴びていない。何よりそこで学んだことは逃げてはいけないこと、そして逃げられないことだった。強心臓ぶりがさらに発揮されるのが、走者を置いた場面である。この日の6回、1死から宮崎敏郎、筒香嘉智に浴びた連打は実に8イニングぶりだった。今季浴びた本塁打はいずれもソロ。計31回で連打を浴びた回数はこの日を含めて4度だけ。3連打以上はまだ打たれていない。
恵まれた体格を見事に使いこなす。ナイジェリア人の父と元バレーボール選手の日本人の母を持つ。入団直後の体力測定では下半身の筋力やジャンプ力で、ほかの新人選手を圧倒した。オフの自主トレでチームメートと汗を流したサッカーでも巧みなボールコントロールを見せるなど、運動能力が高い。
◇クイックが独特で間合いが……。
身長196センチで手足も長い。手足が長い投手の中には自分の体をうまく操作できない選手もいる。だが、アドゥワはクイックタイム1秒1台。けん制も早く、フィールディング技術にも長けている。二軍では水本勝己監督が『ほかの投手に見本にしろ』と言っているほどの完成度だ。素早いけん制で走者を塁上にくぎ付けにし、犠打の処理でも常に二塁送球を狙った動きを見せた。投球以外の技術が安定しているからか、走者を背負っても落ちつているように見える。
今季、走者がいないときの被打率は.217。十分低い数字だが、走者を置いた状況では.137にまでなる。さらに得点圏に進めれば、被打率1割を切るのだ(.087)。先発に転向した4月23日から登板4試合で3度のクオリティースタートを達成する安定ぶりだ。他球団スコアラーは『クイックの間合いが独特で、打者がタイミングを取りづらい』という。それでも本人は『間合いはいろいろやっていますが、すべてサインなので』と飄々としている。
◇プロ入り後、打者の手元で動く球に。
チーム内の評価、他球団の警戒が高まっても、まだ高卒3年目の20歳である。本人が一番、自分の立ち位置を理解している。『先を考えて投げられる投手ではない。1人1人を抑える気持ちで。とにかく低めに投げることを意識しています』。自分自身を過大評価しない。マウンド上で意識することは至ってシンプルで『低めに投げること』である。両サイドに投げ分けるほどの精密さはないと割り切っている。真ん中低めを狙うことで必然的に両サイドに散らばる……だからこそ、思い切り腕を振ることができるのだ。
腕を振ることで最大の持ち味である、真っすぐが動くという“癖”が良い方向に出る。松山聖陵時代まできれいなフォーシームだったが、プロ入り後に打者の手元で球が動くようになった。長身をたたみながら振る右腕が出てくるタイミングが遅いフォームも加わり、打者を幻惑する。オフの肉体強化の成果もあり、直球の平均球速が約2キロ上がったという。
さらにブレーキの効いたチェンジアップで前後の幅を使い、精度が増したスライダーで横の幅も使えるようになった。カーブもある。『先発アドゥワ』は、昨年までの『中継ぎアドゥワ』とは違う。
◇先発転向が広島のリターンに。
広島は開幕直後こそつまづいたが、ようやく安定した戦いができている。アドゥワが初めて先発で登板した4月23日以降にチームは白星を積み重ね、初勝利の5月12日に開幕戦で勝って以来の貯金生活に入った。アドゥワの台頭が先発陣の窮地を救い、チームに安定感をもたらしているのだ。開幕直後、大瀬良大地と床田寛樹の両輪に頼りっぱなしだった状況から、復調の気配を見せるクリス・ジョンソンに、アドゥワも加わった。
新戦力の台頭を待っていたのは緒方孝市監督である。開幕からリーグ4連覇のためには『新しい力が必要になる。そのためには多少のリスクがあっても我慢しないといけないときもある』と話していた。昨季のロングリリーフから今季は先発に配置転換。ある意味、それもリスクだったかもしれないが、結果的に大きなリターンを生んだ。もちろん、この先も順調に成長曲線を描けるとは限らない。先発としてシーズンを積み重ねていくことは初体験であり、他球団も攻略しようと対策を練ってくるだろう。それでもそんな厳しい戦いをも自分の血肉とするだけの心技体を備えていることを実証してきた。どんな困難が訪れても、変わらずに飄々と立ち向かっていくに違いない。
頼もしい評価と声援だねえ。アドゥアがこのまま成長すると、他の先輩投手陣は顔面蒼白になるだろうなあ。あの藪田君、今どうしているかしらなあ。一番悔しいのは今村だろうなあ。同級で、同郷の大瀬良が先発完投型に成長し、20歳のアドゥアが先輩連中を追い越しつつあるのだから。勝負の世界は厳しい。アドゥア、早く1億円プレーヤーになって親孝行しなよ、な。
★★<カープ首位をキャッチアップ>と、昨夜、カープはヤクルトに9-4で逆転勝ち、貯金2として、首位巨人とのゲーム差を2とした。あの負け試合が8試合まで行った時には、今年はもうだめと思ったが、さすがカープ、自力はある。が、昨夜も野村は不安定。ちょっと心配だねえ。球に切れがないのと、コントロールが今一歩で、苦し紛れにストライクを取りに行った球を打たれている。どう改善するか、佐々岡御大の腕にかかっているねえ。しかし、救援陣がすごかった。そして野間君もすごかった。やっと本来のカープが戻ってきたねえ。
今日の中国スポーツ新聞は売れるだろうねえ。