今日の画像は、事実上の空母化が決まったヘリコプター搭載護衛艦『いずも』と、ヤクルト戦を7回1安打と好投しプロ初先発で初白星を挙げた『カープ・山口翔投手(20)』。そして春の息吹『ハナニラとスズランズイセン』です。
山口は、熊本工高出身。入団以来評価は高かった。ヤクルトの大型打者村上も熊本の九州学院高からの入団の同期生。熊本では、練習試合に、春夏の県代表試合にと競った間柄だろう。山口の投球は、直球に威力があり、7回までノーノ―ピッチング。それを破ったのが同じ熊本出身の同期生である村上。レフトへのヒットを放ち、なんとか面目を守ったが、チームはカープに冷封されて14連敗。現実は厳しくもまた楽しくもあります。これでカープの先発の穴のピースが埋まりました。生きのいい山口が投手陣の柱となってくれる日も遠くないでしょう。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
★★★メルセデス・ベンツは、1990年代半ばからその車作りの姿勢を大きく変更した。それまでの『最善か無か』というスローガンを取り下げ、全モデルを思いきりコストダウンすると同時に、Aクラスという200万円台の小型車を出したのだ。それ以外のモデルも車作りの考え方を大きく変え、ローコストで高効率・大量生産出来る設計とした。
これは当時『400万台クラブ』という言葉がまことしやかに流布しており、年間400万台以上の生産規模を持たない自動車メーカーは淘汰されると言われてたいための対策だった。要するに、質より量を選んだのだ。クライスラーとの合併で『ダイムラー・クライスラー』となったのも、その目的に即したものであった。
しかしこの試みは凶と出た。1990年代から2000年代前半にかけてデビューした車は次々と品質問題を起こしたほか、見た目の品質感も明らかに落ち、古くからのメルセデス・ベンツファンをがっかりさせてしまった。長期耐久性もひどく低下したようで、1990年代まではドイツのタクシーと言えばメルセデス・ベンツが定番だったが、近年ではメルセデス・ベンツ比率は大きく落ち込み、今や主流はVWとトヨタである。さらに、1997年に鳴り物入りでデビューした小型車Aクラスが転倒問題を起こした上に、2002年に発売されたEクラスでは全車に標準装備された先進のブレーキ・パイプ・ワイヤ・システムで不具合を頻発し、安全性にさえ疑問符がついたのである。
しかし面白いのは、ここまで商品低下や不具合が重なったにも拘わらず、この時期メルセデス・ベンツの売上はそれほど落ちなかった。それどころか、この間も販売台数は伸びているのだ。ブランドイメージはダメージを受けたものの、販売面はダメージを受けていないのだ。これは一体何故か。多くのメルセデス・ベンツユーザーは品質問題があるにも拘わらず、メルセデス・ベンツを買い続けたからである。
メルセデス・ベンツのユーザーの立場で考えてみよう。メルセデス・ベンツの品質が下がったとはいえ、それでBMWやアウディやレクサスに乗り換えるかというと、それでは自らの求める自己イメージから外れてしまう。替えることに対する心理的障壁は想像以上に高いものがある。それで結局、品質に問題があるのは分かりつつ、メルセデス・ベンツを買ってしまうのだ。
つまりブランドイメージ、ブランドアイデンティティの強さというものが、経営のミスを補ってしまったのである。さらには、カバーする価格帯レンジを下げたことで、メルセデス・ベンツに憧れを持ちつつ、それまで買えなかった層が流入し、販売を伸ばすことになった。メルセデス・ベンツは、この品質問題と商品の下方展開でブランドイメージは損なったものの、商売としては順調だったのである。(参考: 山崎明著『マツダがBMWを超える日』)
■■昔、昔、その昔、『ロッテ歌のアルバムの司会者』として一世を風靡し、日本歌謡界の発展に尽くした『司会者・玉置宏』。その玉置さんが、遺作として自分の辿った歌謡界を綴っている。昭和の昔が懐かしい。川崎市生まれ、1934年1月5日 - 2010年2月11日、享年75歳。
★★★『玉置宏の「昔の話で、ございます」 裕次郎さんとの出合い』
日活のスターを取材するのは多摩川撮影所だ。中でも石原裕次郎さんは私と同じ昭和9年生まれだったので、撮影所でも気さくに話しかけてくれた。
と言っても相手はすでに日活の看板スター。昭和31年(1956)の『太陽の季節』でデビューして以来、1年に9本という驚異的なペースで映画を撮っており、数多くのヒットを飛ばしていた。昭和32年の暮れに主演した『嵐を呼ぶ男』は、人気ジャズバンド『ビッグ・フォー』の興行権を巡る実話を元にした映画で、ジョージ川口とフランキー堺のドラム対決などの話題もうまくアレンジして盛り込み、連日超満員。映画館の扉が閉まらなくなかったという伝説さえ残した。
その時の裕さんのスタイルは肩幅の広いダブルのステージ・ユニフォーム。これは『バンドマン・スタイル』として、すぐに一般の若者にも大流行した。
だから、日活も裕さんの映画を作れば当たるのが分かっていたから、私が初めてインタビューに行った昭和34年には4~5本の映画を同時進行で撮っているという最中で、まさにハードなスケジュールの真っ直中だった。
撮影所の食堂で20分間のインタビューという約束だったが、時間通りになかなか現れない。やっと現れたと思うと、宣伝部の人が咳き込むように、『すみません、撮りが押してて5分が精一杯です』なんて言われることもしょっちゅうだった。
そのうちに、こちらも待っている時間に、弟分の和田浩二さんや、赤木圭一郎さん、宍戸錠さん、川地民夫さん、脇役で売れていた藤村有弘さんなどをインタビューしたり、撮影したりと、おかげで立ち回りがうまくなった。
後、裕さんは、映画界だけでなく歌謡界にも大旋風を巻き起こした。映画の主題歌としても歌われた、低音の、乾いたエコーの効いた『裕次郎節』は、数々のヒットを飛ばしたのだ。
昭和31年(1956)8月に初主演した2作目『狂った果実』に始まり、『俺は待ってるぜ』『錆びたナイフ』『お前にゃ俺がついている』など昭和32年の暮れまでに14曲、昭和33年には驚くことなかれ、『嵐を呼ぶ男』を皮切りに、『俺はパイロット』に至るなんと26曲もの歌を、1年間の内にレコーディングしたのだ。
私も、堀の内にあったテイチクの録音スタジオでレコーディングには何回も立ち会い、インタビューもさせてもらった。(参考: 玉置宏著『昔の話で、ございます』)
★★<『ワークマン』の国内店舗数がユニクロ超え、FCオーナーに希望者殺到の理由>国内店舗数が839店と“ユニクロ超え“を果たし、25年には1000店の目標を掲げる『ワークマン』。出店増を支えているのが、店舗の約9割に当たるフランチャイズ(FC)契約店だ。FC契約の初回継続率はほぼ100%。店の売り上げ1億2000万円の約1割がオーナーの収入になるといい、『ホワイト』フランチャイズだとオーナー希望者が殺到している。
◇国内店舗数はユニクロ超え 9割がフランチャイズ
『先に脱サラした同僚から、「ワークマン、いいぞ」と誘われて――』。そう話すのは、ワークマン足立尾久橋通り店の店長を務める武藤等さんだ。ドラッグストアの社員として働いていた武藤さんは、50歳での脱サラを考えていたころ、元同僚から、『ワークマンのオーナーをやらないか』と声をかけられた。話を聞くと、新店の立ち上げからではなく、既存店にオーナーとして入る形だった。
武藤さんは衣料品を取り扱った経験がないため、不安はあった。ただ先にオーナーになった元同僚は、武藤さんから見ると『何事も続かないタイプ』。『あいつでもできるんだったら』と、2012年にワークマンオーナーの道を選んだ。
フランチャイズ(FC)契約をめぐっては、24時間営業など、コンビニの加盟店オーナーの負担が世間の注目を集めている。そして、ワークマンの国内店舗数839店の約9割が、FC契約店である。ワークマンとコンビニの違いは、営業時間が短いこと、そして定休日があることだ。職人向けの商品が多いため、ワークマンの開店は朝7時からと比較的早いが、夜は20時に閉店する。レジ締めの作業を昼間に行うこともホワイト要因の一つ。閉店時のレジ締め作業がなく、『外に出している商品も少ないし、閉店後5分で家に帰れます』と武藤さんは笑う。これはワークマンの本社が群馬にあり、周囲に夜間金庫がなかったことの名残だというが、おかげで店長は残業とは無縁だ。その働きやすさから、店長の4分の1が女性だという。
◇口コミでオーナーになったケースが約3割
ワークマンのオーナーへの道は大きく2通りある。オーナーを募集している店舗を探して面接を受けるパターンと、現オーナーからの紹介や親族への引き継ぎなどの口コミだ。後者の比率は約3割だという。武藤さんのように元同僚から声がかかることも少なくなく、ある会社の脱サラ組が紹介に紹介を重ねた結果、その会社名を冠した『○○村』と呼ばれている地域もあるという。また、約6割のオーナーが小売業未経験者だ。
オーナーになるには、個人契約で一人1店舗。夫婦での登録が原則だ。これは店のリピーターを獲得するためであり、夫婦だと『夫のファン』『妻のファン』と顧客を分散できるからだという。職人がオーナーになることはほとんどないため、店に並んでいる商品がどういう職種の人に使われ、どういう商品が良いものなのか、今現場ではどんなニーズがあるのか、といったことは客から教わることになる。
例えば、建設現場ではニッカポッカを履くイメージが強いかもしれないが、大手ゼネコンの現場では、“ニッカポッカ禁止令”が出ているところも多い。そうした現場が近くにあると客から聞けば、それに合った商品を並べられる。『今年はハーネスをたくさん買っていくお客さんがいて、理由を聞くと、法改正でフルハーネス型の安全帯が義務付けられた現場があるとのことでした。うちでは1万5800円という高価格帯の商品なので、そうした情報は本当に貴重です』と武藤さんは話す。
職人向けの商売は、昔ながらの個人商店のような密なコミュニケーションが必要となる。客がつけば常連化しやすく、店の常連客が『いいの選んでやって』と現場に入ったばかりの新人を連れてくるようになる。最近は長年雇ったパート・アルバイト社員へ代替わりするケースも増えている。オーナーの最後の契約更新は65歳で、その後継者として店舗のオーナーを本部が探すことになるのだが、そのまま勤めていたパート社員に譲る場合は、『パート・アルバイト独立支援制度』として、加盟時の必要資金が減額されるという。
コンビニFCの代表格であるセブン-イレブンの創業は1973年。ワークマンが創業した1982年当時は『フランチャイズブーム』 の時期であった。しかし、ワークマンの場合、もともと『いせや(現・ベイシア)』の衣料部門が、大阪で売れている職人向け衣料ショップのビジネスモデルを真似して作った店舗からスタートしており、コンビニとは出自が異なる。社内の人間が加盟店になっていった経緯があり、『本部』『加盟店』というより、今でも『のれん分け』の感覚に近い。
◇ワークマンのFCの仕組みには、2つの大きな特徴がある。
まず、新規店舗は店舗用地の取得からオープンまで全て本部で行う。コンビニでもよくある、本部が土地・建物を用意するというパターンだ。開店してからオーナーが決まるまでは本部で運営する。テリトリー権(FC本部が加盟店に対して、その営業地域を特定する権利)はないものの、『人口10万人に1店舗と決めています』とフランチャイズの責任者である加盟店推進部の八田博史部長は言う。
もう一つの特徴が、契約後1年は店舗の年間売上高が6300万円に達するまで、売上高にかかわらず“固定給”がオーナーに支払われる『Bタイプ』という契約形態がある点だ。通常のAタイプの契約は、粗利益の60%を本部に上納する。Bタイプの場合、粗利益の如何にかかわらず、月50万円と歩合分が本部からオーナーに支払われる。小売業の未経験者が多くても何とかなるのは、この仕組みがあるためだ。
年間売り上げが6300万円を超えると、そこからは利益連動方式になる。現在1店舗あたりの売上高は約1億2000万円。オーナーの懐に入るのはだいたい1200万円と推定されている。
Aタイプは契約時の必要資金として、加盟金、開店手数料、研修費、保証金、開店時出資金合わせて350万円。Bタイプは開店手数料、研修費、保証金のみで150万円が必要になる。契約期間は6年間で、オーナーの年齢が65歳になるまで更新できる。再加盟料は200万円かかるが、『1回目の更新は、病気になった場合を除けばほぼ100%。脱サラ組が多いのでオーナーの平均加盟期間は10年だが、20~30年契約しているオーナーもたくさんいる』(八田部長)。なかなか“おいしい”話のようだが、実際にオーナーになるにはハードルがいくつもある。
◇オーナー選びに面接は6回 親族でも落ちるケースも
まず、自分で店舗を建てることができないため、オーナーを募集している店舗しか応募できない。土地勘がない場所では難しく、Iターンはお断りだ。1回目の面接もある程度選考した相手としか会わない。次に、オーナーの息子など親族の場合でも、本部がダメだと思えば平気で面接で落とす。オーナー次第で店の売り上げが大幅に変わるため、オーナーを選ぶまでに6回もの面接を本部の人間が行う。いい人が見つからなければ店舗は本部で運営し続けるため、いつまでたっても直営店のままになっている店舗もあるようだ。
もちろん、ワークマンのFCがずっとバラ色だったというわけではない。ワークマンが一番苦しかった2009年のリーマンショックのころは、オーナーたちも売り上げが落ちて苦労した。ただ、夫婦経営が主体で、職人の『顔なじみ』の店になっていたため、売れ行きは落ちても顧客は離れなかった。その時期に、他社を駆逐する低価格帯の維持と、PBのヒット商品を本部が作ったことで、少しずつ客足が戻ってきた。最近は『ワークマンプラス』の好調で、一般客まで来店するようになり、手持ち無沙汰の時間も減った。苦労を共にしたことがかえってオーナーと本部の関係を良好にしたという。
また、最近では本部がインターネット上で直接販売するECもオーナーの懸念材料の一つだった。そこで、あえて受け取りを店舗にすることが選べるようにECサイトを設計。受け取りを店舗で行えば、店舗で購入したのと同様、売り上げは加盟店の物になるようにした。現在では66%が店舗受け取りになっている。『「加盟店とともにワークマンは伸びている」ということを、社長になってから(土屋嘉雄)会長にはさらに厳しく言われています』と小濱英之社長も苦笑する。
『今選ぶんだったら、ワークマンのオーナーがよかっただろうね』。あるセブン-イレブンのオーナーは、記者の取材にこう漏らしたことがある。しかし、今は絶好調のワークマンでも、良い時ばかりは続かないだろう。消費環境の悪化や建築需要の減少など、不安要素は尽きない。成長期にはもてはやされたコンビニのFCも、本部の『共存共栄』との言葉が今は空虚に響く。ワークマンのFCが、オーナーから“ホワイト”だと評価されるのは、本部とオーナーの信頼関係が強固であることに他ならない。いつかこの信頼関係が揺らぐときがきたら、それはワークマンの致命傷になるだろう。
『本部はヒットを生み出し続けてくれると信じている。売れなくなる時期がきたら? そのときのために今からお金を貯めておきますよ』(武藤さん)。オーナーの期待に応え続けることができるかどうかが、ワークマンの今後の成長を左右する試金石となるだろう。
ふーん、知らなかったなあ『ワークマン』。広島市内で、一件、比治山トンネル下で店を見たことがある。なにやらがさつで、建築作業者向けグッズが並んでいる、ややむさくるしい業態だったが、これがワークマンFC店だったんだねえ。世の中色々あるなあ。セブン-イレブンも真っ青か、な。
★★<王者・カープにニューヒーロー誕生 20歳山口、強力援護の打線に感謝『カープに来て良かった』>広島が投打に渡ってヤクルトを圧倒し、ともに今季最多となる16安打13得点で完勝を収め3連勝。5月の成績を19勝4敗1分けとし、1994年8月にマークした月間最多18勝を塗り替える球団新記録を樹立した。
◇セ・リーグ 広島13―0ヤクルト ( 2019年5月30日 神宮 )
プロ初先発で7回2死までノーヒット投球。7回1安打無失点快投で文句なしの初勝利を挙げたカープ・山口翔投手(20)は敵地でのヒーローインタビューに終始笑みが絶えなかった。
祝福の声に満面笑みで『ありがとうございます!』と元気よく応じた山口は『全力でやった結果が勝ちに結びついたので、本当にとてもうれしいです』と第一声。『意識したら崩れるかなと思ったんで絶対に意識しないように心がけて頑張りました』と7回2死まで続いたノーヒット投球を振り返った。
試合前には元エースの佐々岡投手コーチから『1人1人を集中して全力で投げて来い』と声をかけられ送り出されたそうで『その通りに全力でいった結果がこうなったので、また次もこうやって頑張りたいです』と若鯉らしい初々しさをにじませた。
熊本工から2017年ドラフト2位で入団したプロ2年目。5月7日の中日戦でデビューしてから3試合にいずれもリリーフ登板し、計4回を無失点。4度目の登板で初めて巡ってきた先発も7回無失点とこれで11回連続無失点だ。
初回から140キロ台後半の速球とスライダーを駆使して快調に飛ばした。『まっすぐが自分の武器なので、そのまっすぐを見せることができたので本当に良かったです』。握りしめたウイニングボールは『もちろん自分を生んでくれたお母さんとお父さんにあげたいです』とし、どんな言葉をかけながら渡すか問われると『生んでくれてありがとう。俺やったよ!って言います』と最高のスマイルを浮かべた。
ともに今季最多の16安打13得点という打線の援護に『野手の皆さんがたくさん打ってくれたので自分は本当に投げやすかったのでカープに来て良かったなと思いました』と山口。
故郷・熊本の人たちへメッセージを、と促されると『うわ~』と声を挙げた後で『とりあえず、やったよ!って皆に言って、また次も頑張るよみたいな感じで…。頑張ります!』と最後まで初々しさ全開のニューヒーローだった。
山口は熊本出身ながら2歳から小学5年まで広島在住。緊張する初先発の舞台でも堂々と腕を振れたのは、ファンとしてテレビで見ていた永川の独特なフォームがキッカケだった。『大あっぱれだよ。秋のキャンプから期待していた投手の1人。2~3試合は任せてみようと思う』。月間19勝の球団新記録に貢献した新星を緒方監督は絶賛し、交流戦でも先発起用を明言した。
カープは、丸移籍の大穴が心配されたが、次々に新しいパワーが生まれてくる。バティスタの打棒も素晴らしい。シーズン初めには、あの外角に落ちる球を空振りし放題だったが、今は見極めるどころか、右打ちでホームランも。1回、ライトスタンドへ打ったホームランは強烈なライナー。テレビカメラも追えず、どこへ落ちたかも画面では確認できなかった。9回の2本目は、レフトへ打った瞬間ホームランと分かる打球。そして続く鈴木が絶好調。みんな見事なものだなあ。ご立派だ。
★★<ヤクルトファンの反応>ついにヤクルトは14連敗を喫した。ヤクルトファンブログでトップのアクセスがあるブログの内容。この人の心境、ヤクルトファンを代表しているのだろうねえ。カープだって、4月借金8になった時には、緒方はもう出涸らしか、と思ったもんねえ。ヤムを得ない意見ではあるなあ。可哀想だ。超自虐的ブログを見つけた。以下。
《2019.05.29 対広島10回戦/蟻地獄にハマったようだ》
ヤクルト・高橋、無念2敗… 五回途中5失点
(セ・リーグ、ヤクルト3-5広島、10回戦、5勝5敗、29日、神宮)
先発の高橋は自己最速を1キロ更新する152キロの直球を軸に勝負を挑んだが、
五回途中7安打5失点で2敗目を喫した。
3-2の五回2死一、三塁では鈴木に対し、5球連続で直球を投じた。
最後はバットをへし折りながらも左翼線へ運ばれて同点。
続く西川に勝ち越し打を浴びた。
『(五回は)投げ切りたかった。強気にいったが、切り替えられなかった』
と悔やんだ。(サンケイスポーツ)
これで13敗目だ、快調そのものである。
しかも最下位の横浜とはゲーム差なしの0.5差だ、
こんなに嬉しいことはない、最高だ。 しかも1位の広島とのゲーム差は9.5差だ、
もう今年の優勝はなくなったしAクラス入りも絶望的だ、
これは地蔵が如何に無能かが示されているし
今年から入団した大物と騒がれ高待遇で入ったバッテリーコーチの衣川が
これまた、如何に無能だったか理解できる。
特に衣川はプロの選手経験はなくアマでの活躍が認められて入団、
しかしながらこのザマだ、どうしてくれようか?
しかも交流戦が明後日の6月1日から始まる、これで小川はお陀仏だろう、
昨日も言ったことだが更に連敗を伸ばすなら
御大地蔵の首は一気に飛んでしまう、これほど喜ばしい事はない、
そして宮本がリーダーとなってヤクルトの指揮を執るのは間違いない。
なので連敗は嬉しく思え、最高じゃないかと感じてならない。
ただ懸念されるのは以前、前地蔵政権時に最下位になり、
地蔵退任が確実、そして退任発表がされると思っていたら
衣笠がなぜか退任発表の極手前で「彼(地蔵)に代わる指導者はいない」と言い始め、
続投させた苦い経験を思い出す。
だからそれを考えれば今年が最悪のシーズンであっても
地蔵続投の可能性は高い、しかも地蔵はイエスマンで
衣笠の言うことなら何でも聞く周囲がどう言おうとまさに鶴の一声である。
そうだよな、監督を退任したら、高収入が水の泡となってしまうから。
あんな寝たような顔面でもよ、上の言う事だけは必ず聞く、
ヴォーッと してんじゃねえよ! (ʘ言ʘ╬)
チコちゃんなら、 普段よりも、もっと怒り狂うだろう。
もっと深く考えたら誰でも監督なんかできる、
まさに、そう言う事になってしまうのだ。
例えばの話ではあるが 今年最下位になった挙句に地蔵続投、
最後の切り札として クソ真中がヘッドコーチなどになったら
お前はヤクルトを応援するか?
ワタシなら接待に応援なんかしない、 する訳がないと言える。
ああ……嫌な事を思ってしまった、 これで今日一日は最悪日となるだろう。
ああ、考えただけでも気持ち悪い、おぇぇぇ…
とりあえずは、この13連敗を祝し、 今日一日を良い一日にしようじゃないかよ。
しかし地蔵、クソ真中コンビ、 マジに吐きそうになってしまう、おぇぇぇ…
一応、地蔵は三年契約ではあるが、
地蔵は自らの意思で即刻退任せよと言っておく。(参考: ブログ『構造イズム』)
※この『地蔵』なるものが何者か不明である。文脈からすると小川監督を指しているが、監督の名は『淳司』である。あだ名が地蔵なのかな。
★★<電ミスで排気筒解体を延期 福島第一、クレーン届かず>政府と東京電力は、福島第一原発で、倒壊リスクのある1、2号機の排気筒の解体について、今月開始予定だった工事を2カ月延期すると明らかにした。作業用のクレーンの構造の確認を怠ったといい、汚染水対策をはじめ、今後の様々な作業にも影響が出るおそれがある。
高さ120メートルの排気筒は8年前の原発事故で外部に放射性物質を含む水蒸気を放出する『ベント(排気)』に使われた。損傷が見つかったが、周辺の線量が高く、放置されてきた。
東電は倒壊や、部品の落下を防ぐため上半分の撤去工事を20日に始める予定だった。だが直前になって、クレーンが解体のための作業用装置を計画より1.6メートル低くしかつり上げられず、排気筒の上部に届かないことが判明した。
東電は、ミスの原因を当初『計器の誤差と考えられる』と説明していたが、その後『クレーンのワイヤの巻き上げ過ぎを防ぐ安全装置の場所を、実際より高い位置にあると思い込んで計画していた。ワイヤは計画した高さまで巻き上げられなかった』と変更した。実際のクレーンの詳しい設計図を確認せず、一般的なクレーンの構造をもとに計画書を作ったためという。
本当にだらしない東電だ。こんなオソマツなことをしているから、原発事故のようなことを起こすのだ。原発事故は間違いなく人災である。私は原発事故で避難した人達への補償が満足・十分に行われていないことに腹立たしく思っている。強制的に避難させられ、解除後、元の住居に帰っても、商店はなし、隣人は帰ってこない状況で、補償金は1所帯10万円なにがしかだそうだ。一体、政府も東電も被害者への補償をどう考えているのか。全く被害者救済の気持さえない政府・東電である。
やはり、原発事故後、いったん東電は倒産させ、新しく出直す形を取らなかったのが仇となり、内部に溜まったドロドロとした垢や膿はなんらそのままの状態であはるのだ。困った東電だ。