世界のオザワ。喉頭癌を克服し、舞台にカムバック。あの『サイトウキネンコンサート』も継続します。が、小澤征爾が『指揮者になった不思議な理由』は、あまり知られていません。
戦時中、上の克己兄貴にアコーディオンを教わっていた僕は、だんだん物足りなくなった。ある日講堂医で、小学校担任の青木先生が弾いている時に『触ってもいいよ』と言って、隣に座らせてくれた。初めてピアノに触れたのはその時だ。なんてきれいな音なんだろうとドキドキした。5年生の秋には学芸会でベートーベンの『エリーゼのために』を弾く。初めて人前で演奏した。
中学は家からは2時間半もかかったが、おふくろが成城学園に決めた。入学は1948年4月。ピアノの豊増先生に弟子入りしたのもその頃だ。成城学園に入ってしばらくすると、同級の松尾君(新日鐵釜石の松尾雄治の叔父)に誘われてラグビーを始め、たちまち夢中になった。豊増先生のピアノのレッスンある日は、泥まみれの格好でお宅へ通う。ほかの弟子達はリストやショパンを弾いていたが、僕がやらされたのは何故かバッハばかり。うんと課題があって、必死で練習した。あの頃はピアニストになるつもりだった。
うちは本当に貧乏で、成城の学費を滞納するのもしょっちゅう。家計を支えたのはおふくろの内職だ。おふくろは『ピアノを弾いているんだから、指は大切にしないといけない』と言って、ラグビーを禁止した。それからは練習が終わると成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間達に預け、何食わぬ顔で帰った。
おふくろは内職で忙しいから気がつかない。が、とうとうバレた。あれは中学3年になる直前だったと思う。成蹊との試合で両手の人差し指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながった。入院するはめに。
両親と兄貴達には叱られ、弟にはあきられた。退院後、情けない姿で豊増先生のお宅へ行った。『もうピアノは続けられなくなりました』。そう言うしかなかった。『音楽や止めるのか』。黙っていたら、先生が口を開いた。『「指揮者」というのがあるよ』。初めて聞く職業だった。 (参考: 日本経済新聞コラム『私の履歴書』)
ピアノとラグビー。妙な組み合わせですが、征爾少年には両方とも魅力だったのでしょうねえ。私も高校1年の時、テニスとブラスバンドを掛け持ち。テニス部から進退を迫られ、ブラスバンドを選びました。その後音楽少年、青年、成年、老人として人生の伴侶に音楽を携えたのは幸せでした。
★アイススケート・シングル。何と『羽生結弦(19)』が、史上最高点の『101.45』を出しました。パイプの平野の銀に続くサプライズです。プレーはよどみなく、しなやかで、その上端正であり、力みが全然感じられない、まさにミスなし完璧のもの。こんな素晴らしいプレーを見せてくれ、ソチ・ジャパンを奮い立たせる演技を見せた羽生に感謝ですねえ。まさに神業、素晴らしい日本の若者ではあります。
★大阪府高石市の『府立スポーツセンターのリンク』。老朽化し、修繕費が3億円必要で、財源がなく廃却の運命に。と、なんと匿名で『1億3千万円』寄付する人が現れ、逆転で存続が決まりました。匿名の方は、まさか金の亡者・ユニクロの柳井社長ではないでしょうねえ。(@_@)
★銀座4丁目角にある『サッポロ銀座ビル』が建て替えられます。現在地上10階、地下4階を、地上12階、地下2階に。サッポロ銀座ビルが4丁目角にあったかなあ、と思いめぐらしました。ご承知のように、4丁目交差点角は、三越、和光、三愛、日産ギャラリーがあるのですね。サッポロのビルはこの日産ギャラリーがあるビルのことだそうです。知りませんでしたねえ、こんな一等地にサッポロのビルがあるとは。
もっとも、この南、元松坂屋があった南角に『サッポロライオンズ』があって、確か『ライオン銀山七丁目ビル』。各階に趣向の違ったビアホールがあります。東京へ出張の多かった時期、よくここの5階、バンド・コーラスが出演するホールに出かけたものです。さすが東京で、準プロが多く、楽器も声も素晴らしいものでした。
ビール最下位サッポロですが、銀座に2つもビルを持ち、恵比寿ガーデンの地主さんですから、そんじょそこらの新興企業ではとても及びませんねえ。ちなみにサッポロライオンズは全国に100店程あるチェーンです。
■今日の画像は、『世界の小澤征爾』と、男子シングルで『史上最高点を出した、羽生結弦のプレー』です。日本人に勇気と希望を与えてくれた、まさに神業のプレーです。