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Channel: Freeman 雑記帳・広島
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『三井物産誕生の舞台裏』

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『駿河町の三野村だが、先様はもうおいでになっているかい』『はい、どうぞこちらへ』。万事心得顔で、奥座敷へ通された。すると、廊下に益田孝が出迎えていて、すぐ酒になった。益田は、大蔵大輔だった井上馨と同時に袂を連ねて官を辞職し、今では井上の興した『先収会社』の副社長をしている。まだ30歳の若さ。しかし造幣権頭に任じられ、四等出仕の官員をしていたから随分羽振りを利かしていた。

『どうだね、実業界に入った気分は』。床柱を背にした三野村は、童顔ながらきびきびした益田の様子を、それとなく観察していた。『はい、どうも儲かってしょうがありませんなあ』。若いくせに、益田は人を食ったことを言う。『そりゃ結構じゃないか』『何しろあなた、東北のコメを、一石2円で買ってきて、5、6円で売ればよいのですから、これは坊主丸儲けです』。何といってもまだ輸送が困難な時代であった。しかも、維新政府が地租を米による物納から金納に改正したため、農家はみな米を売りたがっている。ところが鉄道もトラックもない時代のことゆえ、需要の多い東京へ米を運んで行くことが出来ない。そこで益田は、横浜につながれている外国の遊休汽船に目をつけた。けれど外国船は、許可された港以外に寄港出来ない規則であった。そのため益田は一計を案じてその船を先収会社が買い取った形にして日本の国旗を掲げさせた。つまり日本船に偽装して東北の米を運ばせたのだ。それが大当たりとなって、先収会社は儲かってしょうがなかった。

『しかし、こんなことがいつまでも続くはずはありませんし、これからの日本は貿易をもっと大切にしなければなりません』『なるほど、それで、私に御用とおっしゃるのは』『実は、大先輩に商売の秘訣を御教授賜りたいと思いましてね』。益田孝は、維新後の横浜で、かつて外国商館のクラークをしていたことがある。その時代から、彼は貿易に野心を燃やしていた。『ところで、三井は貿易をなさるおつもりはないのでしょうか』『そうだね、いずれは手をつけたいと思っているが、まだまだ三井には敵が多くてね』『敵とおっしゃると、小野組ですか』『それもあるが、内外共にしなけりゃならんことが山積しておる』『しかし、小野組といいますと、随分薩摩の五代さんが肩入れなさっているようですね』『そりゃ、五代さんは顧問格だからだよ』。それは、三井の顧問が井上馨である事情とよく似ている。

益田は、佐渡相川の生まれで、父親は佐渡奉行所の役人をしていた。また、彼は幕府の騎兵隊の将校であったから、薩長閥とはなんの関係もないけれど、井上の知遇を得て、政府高官に採用された恩義があるため、今では井上のために犬馬の労を取っている。『しかし益田君、渋沢さんと違って、お宅の先生は、やはり政府にもどらなくちゃならんお人のようだね』『やはりそうお思いですか、三野村さんも』『うむ、あの方は野に咲く花で終わる人じゃなさそうだ』『そうなると、我々も考えなきゃ成りませんな』。

明治9年3月31日、大蔵省は三井に銀行設立の許可を与えた。そして、7月1日、大屋根に鯱を据え付けた三層洋館の三井為替組ハウス改め、『三井銀行新社屋』において、にぎにぎしく開業式が行われた。これに先立ち、井上から銀行を創業する三井が越後屋呉服店をやっているのはまずい、分離するよう忠告があり、三井の『三』と越後屋の『越』をとって『三越』と改めていた。今の三越百貨店である。しかし、大番頭三野村利左右衛門は、その列に出席するも叶わないほど病魔にむしばまれていた。眼を閉じると、明日の盛儀が瞼の裏に浮かんでくるようだった。―しかし、わしはもう、銀行へは行けんかも知れんな―。長いようで短かった一生、一文無しから、小栗家の中間を経て、金平糖売りに、そして越後屋との縁で銭屋に、三井が幕府からの百万両の御用金を命ぜられた窮地を救ったことから、三井入りし、小野組を退治し、今の三井に育て上げた。

『それで、物産会社の開業の方は、どうなっておるんだね』『はい、全部益田さんが取り仕切って、やはり明日、開業の運びになっております』、養子の利助が答える。利助は、物産会社の行方にまだ不安を捨てきれなかった。益田の命名した『三井物産会社』に対して、当初よりずっと慎重な態度を取ることになって、物産の経営は一切益田個人の責任ということになってしまった。しかも、資本金は一銭も出そうとせず、ただわずかに三井銀行の口座を与えて、5万円の過振り(当座貸越)を認めたというだけにとどまった。そこで益田は、『では、一切私のやり方に嘴を入れんようにして下さい』と釘をさした。つまり、三井の名を冠してはいるが、全くの外様大名、まことに水臭い間柄であった。

今こそかつての日本一の炭坑として誰知らぬ者もいない『三井三池炭坑』だが、明治の始めこれを領有する三池藩、柳川藩は金食い虫で細々とした採炭に困っていた。政府はそれを聞き入れ、合計4万1千円ばかりで鉱山を完全買収した。けれど当時、日本人はあまり石炭を使っておらず、出炭量もしれていた。ところが、伊藤博文が工部卿となった時、この石炭を輸出したらどうだろうかと考えた。『どうだ益田君、今度三井物産を興したと言うが、一つ石炭の輸出をやってみんか』『かしこまりました。では一つ実地調査をさせて下さい』。

伊藤は、この際少しでも国庫の収益を増やしたいというので、大いにサービスに努め、益田にトン当たり1円50銭という破格の値段で払い下げることにした。そうなると、三井は儲かって仕方ないから、躍起になり石炭を売るだろうと、商売人の腹を読んで。益田は、上海、香港などへ輸出の道を開き、さらにシンガポールまで足を伸ばし、石炭の輸出に力を入れた。明治11年、三井物産はロンドン、ニューヨークに支店を新設、商社として我が国第一の稼ぎ頭に出世した。三井物産は、江戸時代の越後屋、維新後の三井銀行に次ぐ、三井財閥のヒット事業に育ったのである。
  (参考: 邦光史郎著『三井王国』集英社文庫)

戦後の三井グループは、相対的に弱体化を余儀なくされました。その主な原因は帝国銀行から第一銀行が分離したことによる三井銀行が被った大きな損失。そのため三井系企業が必要とするクレジットを他財閥系銀行に入り込まれました。さらに三井グループの中核企業であった三井物産の解体も大きく影響。サントリーやIHI、サッポロビールの結集はやや遅れましたが、グループ企業には独立色の強いトヨタ自動車などもあります。  


★今日から4月。今年の冬は異常でしたねえ。3月中旬まで雪模様の天候、が20日を過ぎるとまるで5月の気候に。桜も例年より早く咲いたものもあり、遅く咲くものもありですが、一様に例年より早め。なんとも変わった気候ではあります。

★みんなの党渡辺党首が8億円借金した件。なんと、なんとか言う幹事長が、弁護士を入れ第三者機関で資金の使途を明解すると。何のためかしら。すでにDHCの吉田会長が、渡辺党首から『選挙のため5億円用立てて欲しい』とのメールを公開しているのに。真っ黒なものを、真っ白に塗り替える算段でしょうかねえ、不思議。幹事長としては、早急に党首交代をしないと、次の国政では党が持ちませんよ、本当。全く醜いですねえ、渡辺党首は。(>θ<)

★これもバカじゃなかろうか、静岡地検。あの袴田さん事件の再審決定を不服とし、裁判をやり直さないよう『即時抗告』しました。地裁が物証をねつ造の疑いがありと、科学的なそして論理的な根拠を示し、『ねつ造する必要と能力を有するのはおそらく捜査機関(警察)のほかはない』と指摘しているのに。一体何を血迷っているのか、静岡地検。最初に裁判判決を書いた裁判官でさえ、推定無罪と感じたが、先輩裁判官達に押し切られたと告白しているのに。何を証拠に。私は刑法の講義で『疑わしきは被告の益に』と教えられましたが、地検の刑法論理は違うのですねえ、まるで中国共産党絶対王朝のような『即時抗告』です。信用できませんねえ、検察、警察は、絶対に。

■今日の画像は、『閉幕した32年間の長寿番組「笑っていいとも」』と、佐伯区『向山~窓が山の縦走路』です。倒木などが多い難しい縦走路ですが、窓が山付近で憩いの森からの遊歩道に合流します。3世代の家族連れに出合いました。元気がいいのは孫たち、元気がないのが親たちでした。(^.^)

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