■毎日新聞記者。1967年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒、同大学院政治学研究科修士課程終了。96年、毎日新聞社入社、現在学芸部記者。日本の近現代史の研究を自らのテーマとしている。毎日新聞に連載した『戦艦大和シリーズ』で疋田圭一郎賞を受賞。
新聞も週刊誌もテレビも、記者達は最新の情報を追いかけ、日々起きる新しい出来事に忙殺される。栗原さんは、そうした大手マスコミの軽佻浮薄な編集現場に背を向ける記者である。追いかけるのは、今眼前で起きていることではなく、70年も前の話。戦艦大和、シベリア抑留、東京大空襲、2.26事件・・・。過去に起こした過ちを、ところ変えて照射する。歴史は教養の源泉である、と言う。
僕はもともと歴史少年だったんですよ。歴史学者になりたかった。ところが大学院にいて思ったのは、歴史で食べていくのは難しい、と。オーバードクターの走りの時代でしたから。結果、新聞記者しかなかったんです。
毎日に入って、地方回り、整理部を回りましたが、歴史への関心は捨てませんでした。そして入社後10年、2005年に毎日の紙面で戦後60年企画というのがあって、戦争物の取材・執筆が可能になったんです。この企画で大和の沖縄海戦から生き残った人の話を聞いたんです。これが第二の導火線でしたね。それから大和とシベリア抑留を、連載で書いて。
戦艦大和は沖縄特攻に出撃したものの、全く合理性のない作戦に従事さされて、わずか2時間の戦闘で日本側は4,000人が死亡。対する米軍の被害は10機・12人。沖縄特攻の直接的な戦果はこれだけなんですよ。まるで鉄板に卵を投げつけたような戦いでした。そもそも海軍は、米国に勝てる訳がないと分かっていたのに戦争に踏み切った。それまで米国を仮想敵国として軍備増強してきたので、ノーと言えない立場に追い込まれてしまっていたのですね。
ソ連参戦後の関東軍の参謀や司令官達は、『どうぞ日本人を勝手に使ってください』という趣旨のことをソ連側に持ちかけている。政府・官僚は戦後補償に議論が起きると、『パンドラの箱をぐっと締める』と言いだし、30年後に政権交代しても抵抗してやりたがらない。この国の為政者や官僚機構は結局、国民を守ることは後回しにするんです。それぞれの組織、それぞれの秩序が優先されるんです。自分たちの省益が最優先。それで国民には我慢しろ、あきらめろという。受忍論です。原発事故だって、そのような展開になっています。
僕は、新聞記者はもっと書くべきだと思います。『これは』という仕事は確実に本にすべきです。僕自身2冊目の『シベリア抑留』以来は100%そういう意識です。
えらく不人気だった民主党政権ですが、僕は結構評価してるんです。こと戦後処理では画期的でしたよ。硫黄党の遺骨収集も一気に進んで、それまで1年に50柱くらいだったのが、1年で800柱まで飛躍しました。シベリア特法もそうです。『戦後処理は解決済み』という、従来の政府方針を覆したのですから。同じように国が補償を拒否し続けている、空襲被害者への補償にも影響は必至ですから。それぐらい画期的なんです。
大日本帝国の戦争によってたくさんの未完の悲劇が生まれました。これからもその悲劇のありようを一つひとつ、明らかにしていきたいですね。
★北アルプス、立山・大日岳、天狗平・弥陀が原を3日間歩きました。1日目はややぐずついた天気ですが、2日目からは素晴らしい快晴に。立山連山の縦走から見渡す周辺のアルプスの山々、みごとでした。また湿原の花々、池塘にも癒されました。また来年のアルプスを目指し、毎週里山歩きが欠かせません。(^.^)
★J・F・ケネディ大統領が存命の時、記者会見で女性記者が質問。『ベトナムでは、派遣されたアメリカ軍兵士の間に死傷者が増えている。一方、平穏なドイツに派遣された兵士達は、家族同伴で快適な生活を楽しんでいる。大統領はこれを不公平だとは思わないのか』と。難しい質問に、場内は一瞬緊迫しましたが、ケネディはためらう様子もなく、口を開くと、ただひと言。『Life is not fair.(人生とは不公平なものだ)』。これには居並ぶ記者達も二の句が告げなかったそうです。その翌年、ケネディ大統領はダラスで暗殺されました。この悲報を東京に打電した日本人記者は、あの会見での『人生とは不公平なものだ』という言葉が頭から離れなかったそうです。
★J1浦和レッズが冴えません。第2ステージに入ってから、1勝2分2敗の勝点5で、なんと14位。何が起こっているのか浦和。浦和にはサンフレから計6人も移籍。李、石原、柏木、槙野、森脇、西川。反対にサンフレは、ドウグラス、柏、柴崎、林などで彼らが抜けた後をきちっと穴埋め。若手の浅野、野津田らの台頭もあり、第2ステージ5連勝で勝点15のトップ。年間勝点でも浦和を凌ぐ49点でトップ。まあ災い転じて福となすサンフレ、ではあります。しかし早く作って欲しいですねえ、広島のサッカー専用球場、松井市長殿。出来れば旧市民球場跡に。サンフレ100年の計を応援して欲しいです。広島から世界のビッグクラブを輩出するためにも。
★ 今日の画像は、立山・大日岳のスナップです。
31日、1日目は、奥大日の手前で霧と小雨で撤退。
歩行距離8キロ程度。
露を帯びた綿毛に変わりつつあったチングルマを見 当たり年と言われるコバイケソウの群生を見たり、縦走する家族と仲良くなったり、雷鳥を見つけたり、残雪のある2,500mの尾根歩きはそれなりに、花に恵まれた楽しい歩きでもありました。
急に霧が舞い上がって、周囲が一瞬にしてブラインドになる体験はまた素晴らしいもので。
2日目は快晴。歩行距離17キロ程度。
雷鳥沢から右斜めに一ノ越へ向け、神の道を登ります。
室堂から登る本道に比べ、極端に人が少なく、草原に花、大石、小石、小川渡りなど変化に富む道筋。6時半に雷鳥沢を出発。
太陽が稜線から顔を出し、満開の白山イチゲを照らします◆
神の道から一ノ越を経て、小学生、中学生の団体に後ろから押し上げられるように、標高差300mの岩場を一気に登ります。見下ろすと、中央に谷になっている雷鳥沢と、遠景に大日連山が映えます。
そして、頂上には有料拝観の雄山神社3,003mがぁ
拝観。o(^-^)o
雄山から大汝山3,015mを経て、富士ノ折立2,999m付近から雄山を振り返りますァ
富士ノ折立から別山までは、見たところ一直線の縦走路に見えますが、歩いてみるとコブが結構あり、50~150mの標高差が。
別山2,874mに登り、北峰2,880から雄大な剣2,989mを。
まさに美しさ抜群。
西に歩き別山乗越から見る剣も、カールもきれいで、また見事でしたΑ
ここから、雷鳥沢2,300mに下山。
標高差400mの、つづら折れ。
ヘルメットを背にした剣登りの男女が、多く登ってきます。
大変な急登で、出合う人達に同情心が沸きます。
私は、別山乗越で、ビニールに残雪をほおりこみ、時折口に入れ、乾きと暑さを凌ぎました。
登って来る人、何人かに分けてあげたら、大層喜ばれました。
下りも生半可ではなく、石がごろごろした川道です。
途中で、残雪の中を100m程度尻スキー。
快調でした。(笑)
3日目。歩行距離11キロ程度。
室堂まで登り返し、天狗平、弥陀が原、標高差500mを下ります。
途中獅子ケ鼻岩があるので、別のルートを予定していましたが、大日岳で出合った女性が、私でも登ってきたのに、男性だったら大丈夫と背中を押してくれ、この旧道を。
湿原は木道で、まあ緩やかに。
池塘や大日連山を見ながら、ここで初めてタテヤマリンドウに出合いますЛ─
花は直径1堕戞△箸討眈さくて可愛い花です。
ところがどっこい、獅子ケ鼻岩はBSで見た以上の難物。
岩肌には水がしたたり、滑りやすそう。
いきなり鎖の連続。
縦に、横に、と。
一息つき、終わりかと思うと、また次が。
谷底に下り、川を渡り、やれやれと思っていたら、また細い足場に長い鎖。
都合20本位鎖があったのではないかと思います。
谷を抜け、ラムサール条約登録湿地・弥陀が原に。
と、前から小学生を連れた家族連れが。
この谷を渡るのか、と聞くと、すでに3回登っていると。
恐れ入りました。
このような子供が将来の登山家になるのでしょうねえ。
毎週続けた里山歩きが、このアルプス歩きに向けた鍛錬であっただけに、その成果が試された歩きでした。
また来夏のアルプスに向け、里山歩きを続けます。(@_@)
★原爆の日、終戦記念日を迎え、あちこちで戦争反省・反対の記事や映像が出されています。私が一番気になっているのは、広島市の被爆記念碑の言葉。『繰り返しません、過ちは』とあります。まるで日本人が原爆を落としたかのような反省文。書くなら『(アメリカに)繰り替えさせません、過ちは』のはず。そしてこの戦争は日本軍部が全て悪いと日本国民はそう懺悔しています。戦争は一国で出来るものではなく、相手国が必要です。日露戦争後、『出る杭』だった日本をどう押さえつけるか、とアメリカでは『オレンジ計画』なる研究が行われ、世界恐慌と共に、日本をABC包囲網で囲み、孤立させたのです。真珠湾に日本空軍が爆撃を開始した時、その知らせを受けたルーズベルト大統領は『ついに来たか』と机を叩いて喜んだそうです。
戦後GHQは厳しい言論統制を行い、無防備で非戦闘員の市民を東京空襲で一夜にして10万人殺戮したことや、原爆を投下し20万人を一気に死に至らしめたことを、さらには戦闘力もない地方の都市にも焼夷弾を雨のごとく落とし、焼き散らかした原因を日本軍部に押しつけました。。戦後GHQの実施した『罪意識扶植計画WGIP』により、これらの戦略は、さもポツダム宣言の受諾を早めるために米軍が行ったことだったこと、戦争を始めたのは日本軍部の独走である、として、その後NHKを初めとする日本の全メディアは太平洋戦争の原因は日本軍部にあり、と洗脳されてしまったのです。
理由は、これらの行為は一般国民を無差別に殺害することの禁止を定めた1899年に締結された『ハーグ条約違反』なのですね。そしてアメリカは日米講和条約の中に、『戦争中の米ハーグ条約違反に以後、異議を唱えない』という条項も入っています。まるで、イラクに『大量殺人兵器がある』ことを錦の御旗にし、イラクに侵攻したブッシュ米軍のごとき詭弁なのです。日本人は巧妙にアメリカ軍GHQに洗脳されました。忘れていけないのは、欧米のごとく戦争三昧の歴史を送った国々の外交力は、明治維新以降富国強兵一筋に突き進んだ日本の外交力を数倍大幅に上回る『悪知恵』の持ち主の国々だったのです。そのことに日本は思いもせず、唯単に神国武道精神さえあれば勝てると、とことん最後のところまで突き進んだ哀れと無知に無念の涙を流します。