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名スカウト木庭教伝①『衣笠祥雄の重いバットに驚き』

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★今日の画像は、広島の自動車メーカー・マツダが生んだ名車の水彩画の数々です。描いたのは、元マツダデザイン本部に定年まで勤務された『中島美樹夫さん』。その中島さん、車の絵を描くのは『絵を通して人の車への思い出に寄り添い、人がその思い出を糧として心を癒し、今日を、明日を元気に暮らして欲しい』と語ります。〔昭屮灰好皀好檗璽帖↓▲侫.潺螢▲蹇璽織蝓璽ーペ、世界を席巻した初代NAロードスター、ぅ泪張誓魄起こした赤いファミリア、ヅ戸饐譴良福△任后

★★東京オリンピックが開かれた年、1964年、カープのスカウト木庭教サトシは、ある日京都・平安高校のグラウンドを覗いた。京都に入ればまず平安へ、というのが習わしのようになっていた。

当時平安高校は、京都市下京区にあって、京都駅からも近い。特にお目当ての選手がいた訳ではなく、植木一智という投手(後大学を経て阪神)の名前を聞いたくらいである。この投手には木庭の食指は動かなかった。グラウンドの隅でぼんやり試合を見ていた木庭の足元に、空振りした選手のバットが手元を離れて飛んできた。それを拾った木庭は、選手に渡してやった。重たい。持った感じで250匁以上あることが分かる。高校生なら220から30匁あたりが相場であるから、かなり重たいバットを使っている選手に驚いた。

バットを手渡された高校生は、後プロ野球界に入り、山本浩二と共にカープ黄金時代の両輪を担った。通算2,543本の安打、504本の本塁打を放ち、最高殊勲選手や打点王にも輝いた。なにより『鉄人』という異名こそがこの選手の個性を言い表している。

この高校生『衣笠祥雄』は、1947年、京都市内で生まれ育っている。少年期、スポーツと言えば野球しかない時代。彼もまた、原っぱでボールを追いかけ、暗くなってようやく家路につく野球少年だった。高校野球の名門、平安高校に進んで野球熱は一層高まったが、『プロ』を意識することはなかった。3年時、平安高校は春夏ともに甲子園に出場し、共にベストエイトまで勝ち進む。自分の名前が京都新聞などで取り上げられるようになり、衣笠は初めて『プロ』というものを意識した。

夏の大会が終わってから、木庭は学校に挨拶した後、衣笠を祇園に近い料理屋に誘って面談した。衣笠は一人でやってきた。広島カープの歴史も交えながら、木庭は若い力を求めていることを語った。木庭はいかに欲しいと思う選手であっても、媚びることはしないし、口当たりのいいことも言わない。プロは実力の世界だ、なめてはいけない、頼りになるのは己の力だけだ、力があれば成績が残せる、成績を残せばカネを稼げる、カネは入ってから稼ぐものだ・・・初対面で言うのはそんな話である。

ひと区切り話が済んだところで、木庭は若者の眼を見て切り出した。『どうだい、やってみる気はあるかい』『ええ、その気持はあります。でも先に親に会って了解を取って欲しいんです』、そう高校生は答えた。ただ、プロでやるなら早く入団した方がいいというスカウトの話には納得を覚えた。広島の球団であることにこだわりはなかった。東京は遠いし、あまりに大都会だ。大阪は近すぎる。それに野村克也のいる南海などに入れば、到底レギュラーにはなれっこない。カープは自分の力が発揮出来そうな球団に思えた。

数日して、木庭は衣笠の家を訪れた。京都の町中特有の、表通りに格子がはまった小さな家である。衣笠は一人息子で、父母に母の父を加えた4人家族だった。衣笠の両親の意向は、息子の意思を尊重したいということで、スムーズに話はまとまった。契約金は手取りで1千万円。カープが高校生と交わした契約の中では過去最高だった。契約金で親に家を一軒プレゼントする孝行息子がいたものであるが、衣笠もその一人で、契約金の半分を親に渡した。『おじいちゃんにもう一部屋ある家を』と思ったのである。やがて親は、京都山科の地に新しい家を建てた。300万円もあれば十分家が建った時代である。当時の1千万円は値打ちがあった。

職務上で言えば、スカウトは選手を入団させればお役御免である。ただ、自分が入れた選手のことは後々まで気になる。試合を見ていてもまず目が行くのは入団させた選手と言う。入団して3年間、衣笠が一軍で出場した試合数は、28、32、28に止まっている。入団早々、肩の故障でつまずいたのも低迷した原因の一つだった。

高校を出てすぐの18歳。プロが何であるか、体と心をどう使うか。キャンプ地でも、練習時間はせいぜい4時間である。1日、残り20時間がある。それをそう過ごすか、誰も教えてくれなかった。そこにプロ選手として生き残れるかどうかの鍵が潜んでいるのであるが、それに気付くのはずっと後のことだった。カネがあり、時間がある。親の目はない。やりたい放題である。契約金の半分、500万円はあらかた2年で消えた。

入団して2年目のオフである。夜、寮に帰ると、すぐに顔を出せという木庭の伝言が届いていた。部屋に入ると、木庭がぽつんと座っていた。『正座せい』と言われた。いつもよりちょっと雰囲気が違う。『おい、どれにする?』と木庭が言った。紙には、地元の企業名が連ねてあった。若者は顔色を変えた。ここまで追い詰められているとは思いもしなかった。それにまた、木庭が脅しブラフをかけているとは思いもよらなかった。

監督の根本は『何のためにプロに入った?昼間2軍で野球をするためか?じゃないよな。夜、ナイターの下で野球をするためじゃないか』と叱咤した。衣笠は自分を一人前のプロ選手に育ててくれた恩人として、木庭と根本監督の名前を挙げる。衣笠がようやく1軍の戦力となるのは入団4年目である。

一つの要因が選手を作る訳ではない。プロは、素質の秀でた選手が努力することによって開花する
世界であって、その逆ではない。それが木庭の選手観であった。花が開くためには、水もいれば肥料もいる。その意味で、遠い日、木庭のブラフがなければ、2,215試合連続出場という前人未到の記録を樹立し、王と並ぶ国民栄誉賞を受賞するに至る『鉄人』は誕生しなかったかもしれない。勿論、カープの初優勝から続く黄金時代の到来はなかっただろう。まさに『偉大なり、名スカウト木庭教』ではある。

広島カープは、木庭の活躍により衣笠などを入団させ、戦力になった時期から黄金時代を迎える。そして、木庭が去った後、カープは24年間優勝なしという辛い時代を過ごすのであった。スカウトは世間から見ればそれほど重要視されていないが、チーム編成のキーポイントを握っているといっていい。私は木庭にその影を見た。

★木庭教: 1926~2008年。享年81歳。広島市出身、広島商業卒。野球部に入部するも補欠にもならかなった。1956年、30歳の時、恩師の薦めでカープに入団、スカウトを努める。衣笠、山本、水沼、三村、池谷、金城、正田、らの獲得に辣腕をふるい、また達川、高橋、川口、大野、長嶋、紀藤など埋もれていた無名選手の獲得に努力した。カープ黄金時代の礎を築いた功労者。横浜古葉元監督に招聘され、ベイスターズに。またオリックス上田監督の招聘を受け移籍。最後は日本ハムに骨を埋めた。  (参考:後藤正治著『スカウト』)

★HNKドキュメント番組『72Hours』。横浜のトンカツ屋を72間ウオッチしました。その中で登場した人、フィリピン人とのハーフの男性、妻と娘2人。25歳でビル建設などの型枠工の親方。現在6人の弟子を持ちます。11歳で来日、イジメにもあい、16歳でこの業界に入り、そのイジメをバネに見返してやろうと一生懸命努力したと。その結果が今に。弟子のほとんどはブラジル人、日本人は3日と持たないとも。精神、肉体の頑強さが今の日本の若者には欠けていると解説。本当、これでいいのか日本の若者達、ではあります。

★『遅かりし、鹿之助の外務省』、やっと国際社会に対して『慰安婦の強制連行説』を否定しました。20年前から政府が認識していたに拘わらず、外務省は事態を静観し、出来るだけ静かに通りすぎるのを待つしかないという消極的な態度に終始。結果、誤解は世界に流され、韓国などがかさにかかり、国連などでは『性奴隷』などと決めつけられました。ああ、なさけない亡国の徒、外務省ではあります。そして確信犯は、朝日新聞。外務省は今回『慰安婦が連行されたという見方が広く流布された原因は吉田清治氏が虚偽の事実を捏造して発表したためだ。そして吉田証言を事実であるかのように大きく報道した朝日新聞も事実を認め、正式に読者に謝罪した』『慰安婦20万人という数字も具体的な裏付けはない。朝日新聞は、通常の戦時動員された女子挺身隊員と慰安婦を誤って混同したと自ら認めている。「性奴隷」といった表現は事実に反する』と発表しています。

一番卑怯なのは朝日新聞であります。私は怒り心頭の境地です。この外務省のジュネーブでの国連発言の報道で、朝日新聞は発言中の『朝日新聞』という固有名詞を抜いて報道しています。卑怯なり、朝日新聞、です。一昨年10月、この慰安婦問題の誤報を社長会見で謝罪しましたが、この記者会見は『福島原発の放射能数値の誤報について』という題目であり、会見中、袖から出してきたように『20年前の慰安婦報道は間違いでした』と謝罪。この卑怯なる態度に、怒った読者が100万人、朝日新聞の購読を止めたと伝えられています。かつては読売新聞を追って900万部の発刊を誇った朝日新聞も今や600万部が風前の灯火とか。自業自得、何が『社会の公器』だよ、朝日新聞は。誤報を会見や国内新聞報道で謝罪したものの、国連、国際社会、全世界に向かって『朝日は誤報をしました。すみません』と謝罪したのか、一体何様のつもりか、朝日新聞は、と言いたくなりますねえ。(怒)

★広島市のサッカー競技場の建設地がどうやら、サッカーファン、サンフレッチェが望む旧市民球場跡ではなく、宇品公園に建設の色合いが濃くなりました。市長、県知事が強行突破発言をしていますから、その方向でしょう。一方サンフレの久保会長はあくまで旧市民球場跡地への建設を希望しており『金は集める。口も出す』と公言しています。3月には宇品建設反対のデモ行進も計画されているとか。100年先、サンフレが世界に互して『日本のレアル・マドリード』になるためにはどうしても旧市民球場跡への建設が必要だと、私も思います。カープは世界のローカルスポーツである野球、サンフレは世界の中心的スポーツであるサッカー。この違いが市長や県知事には分からないらしいです。

100年経っても、100数十カ国が参加するサッカーW杯のような広がりに、野球は追いつけないでしょうね。サンフレが誕生したのはJリーグの発足の時。マツダはホンダの撤退を横に見、さらに興業として採算が取れないからJリーグに不参加の決定をしました。ところが当時の竹下県知事が地元の強い要請であり、地元で最大限の支援をするから、と決定を覆させました。今、竹下さんが生きておられれば、その約束を実行してほしい、と膝詰めするのですがねえ。残念至極。宇品建設が『最大限の支援』なのでしょうかしら。スポーツマインドなしの市長や県知事のもとでは、サンフレの世界飛躍は難しいと言えますねえ。かつてのスポーツ王国広島はどこへ行ったのか、知ってますか松井市長、湯崎県知事殿。

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