★今日の画像は、引き続き『中島美樹夫さん』の水彩画集です。WCOTYに選ばれたNDロードスター、▲襦Ε泪麝ゾー屮泪張767B、サバンナ、ぅ汽丱鵐RX-7、ヅ玄┝次↓ΝЛ良寛さんの句『散る桜、残る桜も、散る桜』です。
★★広島カープが宮崎・日南の天福球場をキャンプ地としたのは1963年である。以降、カープのキャンプ地は、1軍は日南、2軍は呉二河球場となっていた。日南のキャンプ地にいた木庭教サトシに、2軍監督の野崎泰一から電話が入った。テスト生を見て欲しいという連絡だった。この時期にテスト生を見るのは珍しいが、スカウト業務のひとつである。木庭は呉にとって返した。1977年2月であった。出雲信用組合の大野豊―聞いたことのない名前である。それに、出雲信用組合に野球部などなかったはずだが・・・。
大野豊は島根の出雲商業高校を卒業後、出雲信用組合に入っている。出雲商高時代、県内では多少知られた左腕投手だった。コントロールはないが、かなりのスピードボールを投げる。監督を通して、ロッテや阪神から打診があったと耳にしたが、ただ、自身、プロで通用するとは思っていなかった。2年生の冬、野球部の先輩が三菱重工三原のマネージャーをしている関係があって、練習に参加させてもらったことがある。社会人なら務まるだろうと思っていたところ、練習についていけない。何しろ細かった。自分はプロでやれるはずがない、と。もう一つ事情があった。両親は早く離婚し、高校まで父方の姓『勝』を名乗っていた。木庭が『大野』という名の投手を知らなかったのはこのためである。母思いの大野は、地元で就職した。
信用組合には野球部はあった。ただし、軟式野球である。なかなかの強豪チームで、3年間のうち、2度国体に出場している。地元の金融機関で働き、趣味として野球を楽しむ。自ら選んだ道ではあったけれども、どこか満たされない。出雲市の北にある平田市。大野の1年後輩になる平田高校の青雲光夫という投手が阪神にテスト生として入団したことを聞いた。青雲に劣っていないと自負する大野の胸にさざ波が立った。出雲商高時代、1年生の時の監督を谷本武則という。法政大学の出身で、カープの山本一義の先輩に当たる。大野は谷本に会って気持を伝えた。谷本は未知の世界に踏み出すことを危惧したが、堅い決意を伝えると山本に連絡を取ってくれた。季節外れながらテストを受ける段取りに。
テストには遠投と50m走があると聞いていた。正月、自宅前に積もった雪を蹴散らして走り込んだものだったが、実際にはテストはなかった。遠投と50m走は一般公募の際の一次テストであって、大野の場合は投球であった。やがて全力投球に映る。キャッチャーの後ろに、小柄な人物が立ってじっと投球を見つめていた。―なんだ、勝のことだったのか―。大野の姿を見るなり、木庭は思った。
高校時代の大野は、ひ弱で、木庭は多少食指が動いたものの、強く採りたいという意欲は湧かなかった。3日目のテストが終わった後、木庭は寮の一室で若者と向かい合った。『一応、採用の方向で考えているんだが、プロは保証のない世界だ。自信はあるかい。休んでいた分、肩を壊すことだってある。先のことはわからんぞ』『ええ、覚悟はしています。どうしてもやってみたんです』。『じゃ、決まりだ。その気持を忘れるなよ。それとテスト採用だから契約金は出ないぞ。それでもいいか』『もちろんです。全くかまいません』。提示された年俸は月額で12万5千円だった。プロ野球選手の最低年俸であったが、それでも信用組合の時代より2.5倍になる。母に少し休ませてやれるかな、と大野は思った。
その後十数年、リリーフエースとして、また先発として、大野はカープ投手陣の主軸を担ってきた。1997年のシーズンは、42歳にしてリーグ防御率1位という快挙も成し遂げた。このような大投手になろうとは、当人も、また入団させたスカウトも夢想だにしていなかった。グラウンドで木庭に会えば、いつも向こうから帽子を取って挨拶してくる。そんな時、木庭はふと大野の前職を思うことがあった。入団して数年目、大野がアメリカ教育リーグから帰ってきた時のことである。球団事務所で大野と顔を合わせた木庭は、『つまらないものですが』と言われて紙袋を受け取った。中にアメリカ製の革バンドと万年筆が入っていた。
★木庭教: 1926~2008年。享年81歳。山本、水沼、三村、池谷、金城、正田、らの獲得に辣腕をふるい、また達川、高橋、川口、大野、長嶋、紀藤など埋もれていた無名選手の獲得に努力し、カープ黄金時代の礎を築いた功労者。 (参考:後藤正治著『スカウト』)
★G7の外相会議を広島で開催したことに続き、オバマ米大統領の訪問が検討されています。アメリカ国内では賛否両論が。反対の意見は、原爆投下は日本の降伏を早める手段だったという米政府の宣伝に乗ったアメリカ国民の歴史認識が。しかし、原爆投下が決定されたのは、日本が敗戦降伏を意思決定した2日後。なのになぜ原爆を投下する必要があったのか。関係者の勇み足と好奇心でしかありえません。アメリカ国民が、ナチスのユダヤ人毒殺を非難するなら、毒ガス以上の大量殺人兵器であった原子力爆弾を使った米国の歴史に恥じるべきですねえ。
★市川市の『保育園建設中止問題』、複雑ですねえ。住民が保育園の騒音が嫌だと。そして道路が狭く危険だとも。自分達も子供の頃幼稚園、保育園に通っただろうに。子供のいる家庭では通園させるだろうに。あの『死体焼却場』の住民反対運動と同じ。自分もいつか死んでお世話になるのに、自分の町には建てて欲しくないと。日本人のエゴは本当、いやらしいところまで落ちている、と感じます。
★震災地、熊本の皆さんに罹災見舞いを申し上げます。大きな余震が何度となく発生し、夜も安眠できない状態で極度の精神疲労に陥られていると。特に益城町の方々は、町事態が崩壊の淵にありますが、気持を強くもたれて復興に力を。地震のエネルギーは阪神大震災を上回るとも。それでも死者は比較にならないほど少ない状態。とりわけ地震後の火災が発生しなかったことが大きいと見られます。
★『セブン&アイ』、何たる破廉恥。経営陣がバラバラ。鈴木会長の後釜をめぐって支離滅裂。セブンイレブンも地に落ちたという図でしょうか。中味は外からは見えませんが、時として暴発するものですねえ。7日に記者会見した鈴木会長の発言も、コンビニトップを抱える企業経営者としての発言とは思えないオソマツな内容だったとの報。晩節を汚しましたねえ、鈴木さん。
★三菱自動車の『燃費改竄表示』は本当に醜いですねえ。各紙が報じるように、過去2回の『リコール隠し』にもめげずよくやります。一部では昨年11月、開発部門の部長職2人が諭旨退職になったと。開発目標が達成出来なかったためとか。さらに世の人達が忘れかけている、また知らない『嘘つき三菱自動車』の側面も。それはアメリカでの問題、『セックスハラスメント隠蔽事件』や『販売台数上乗せ虚偽事件』など。そして私が三菱自動車を『嘘つき会社』と決めつけるのは、水島製作所の年間生産台数を80万台と発表したこと。本社広報の発表は90万台、広島のマツダが100万台時代のこと。実は、公式にも非公式にも1台にカウントされない、車両価格60%以下の海外向け部品セットを台数に入れ発表し、愚かにも地元中国新聞は何も疑うことなく『水島80万台生産』と報じました。ウソの発表をする三菱も悪いが、それを見抜けないボンクラ記者の中国新聞の情けない、と思いましたねえ。すでに10数年昔のことですが、『嘘つき会社』の体質は一向に改善されていません。