★広島市の平和公園には、住所氏名はあるものの引き取り手のない遺骨を納めた『原爆供養塔』がある。この供養塔の遺骨の身元調べにフリーライターの堀川恵子は東奔西走する。そのドキュメントが『原爆供養塔・忘れられた遺骨の70年』。本書は今年の『大宅壮一ノンフィクション賞』を受賞。その足跡と緻密なドキュメントは堀川の人類愛を限りなく表した書と言える。
★今日の画像は、前回に引き続き『水彩画展』の作品です。油絵にも劣らぬ迫力に感嘆。
★★『山本正夫 安芸郡中野村成岡』。納骨名簿に記された男性の名前である。事前の調べでは中野村は、現在の安芸区中野3丁目あたりであることが分った。そして成岡の地名があるので、この住所はかなり限定された地区を指している。
成岡地区に着き、近所の人に教えてもらいながら、地元に古くから住んでいる人を訪ねて行く。最初に会ったのは、平田ハツエ(90)。平田によると、終戦当時ここには、12~13件ほどしか家がなかった。自分は成岡に生まれ、成岡に嫁いだ生粋の地元の人間だけど『山本』という苗字は記憶にないと言う。弟孝行(85)が自分より詳しいと紹介された。縁側に腰をかけるとすぐ本題に入った。『山本という苗字は、昔から成岡には絶対おりません、断言します』。
また、名前違いか。しかしこの名簿が、もしかしたら後に命を落としたかも知れない少年兵達が記録して残したものかも知れないと思うと、簡単にあきらめる訳にはいかなかった。『そういえば、可能性がるとすれば・・・』。孝行の口からもれた。『実はね、戦争が終わるまでのことじゃけど、朝鮮の人達らが集まって住んどったですよ。あの人らも、当時は日本人じゃけ広島に動員で通っとりました。もし、その中に山本という人がおったら、わしらには分からんね。成岡と書いてあるからにはそれしか可能性がないわ』。被爆して亡くなったのは日本人だけではなかった。重要な事実をすっかり見過ごしていた。
納骨名簿を持って、広島市東区にある『在日本大韓民団広島地方本部』を訪ねた。対応してくれた丁基和チョンキファは、戦時中父が日本に来て、日本生まれの母との間に生まれた二世だと。昭和14年政府は、朝鮮半島の人達に新たに日本式の名前を名乗る『創氏改名』を施行した。丁は、山本の名前を見ると『100%とは言えないが、通名として十分あり得る名前ですね』と返答した。
丁が『この人は100%、いわゆる日本名で間違いない』と断言する名前の人は、5人いた。『権田基通 中座町1丁目7組』。権という字は日本名に使われやすく、基通という名前は日本人としてはかなり珍しい。韓国読みの『キトン』の当て字である可能性が高いと言う。住所の中座町という地名は、広島市内のものではない。『朱本束杓 十日市町』。朱本という苗字は通名では決して多くはないが、束杓という名前は、韓国読みで『トンビョー』と読むことが出来、男性の名前によく使われる。その外、『金南相』、『金正健』、『徳山成鍋』。その外にも100%とは言えないが、韓国人の通名らしきものが名簿にたくさん。『岡村文錫』、『中川鐘海』、『安田東春』、『山口栄吉』、『若村奏登』、『山本相順』、『金本一郎』、『金内栄三』・・・。『須田シナ』、これは中国人ではなかろうか。
当時朝鮮半島から日本に連れてこられた人々は、徴兵ではなく、よく分からないまま連れてこられた人達が多かった。例えば、朝鮮のある村で、みなが暮らしに行き詰まり、明日の米にも困るようになった時、『すぐに現金収入が得られる仕事がある』とどこからか呼びかけがかかる。男性ばかり一カ所に集められ、どこへ働きに行くのかと思ったら、いきなり着の身着のまま船に乗せられ、日本に連れてこられていた、というような話だ。日本に着いた彼らが連れて行かれる先は、山奥のダムや発電所の工事現場、造船所、そして炭鉱だった。日本人がいやがるような厳しい肉体労働ばかりだったが、日本ではわずかながらも現金収入が得られることは確かだった。だから大勢の人達が生きるため、次々と海を渡ってきた。やがて、大黒柱を失った朝鮮の家族も大枚の費用を払って、日本へ移り住むという流れが五月雨式に続いた。
丁の母も、東京・北多摩郡の工事現場の長屋で、朝鮮半島出身の両親の元で生まれた。母は、仕事を探す両親について東京、石川、高松の現場を転々とし、昭和13年に広島に移り住んだ。爆心地から900mと至近距離で被爆しながらも、奇跡的に命は取り留める。しかし戦後ずっと、後遺症に苦しんだと言う。
朝鮮半島から来た万という数の人達は、本来であれば生まれた土地で生を全うし、見知らぬ土地で原爆に会うこともなかった。日本への移住に国家による強制があろうとなかろうと、戦争が作り出した悲劇であることには変わりはない。死者は広島の原爆死没者の概数からもはじき出され、生き残った者は生き残った者で、戦後は韓国人つまり外国人と見なされ、日本国民には与えられたあらゆる保障制度からはじき出された。戦争という現場では、決断を下す者と、その結果を引き受ける者はいつも異なる。彼らの存在は記録に残されていないどころか、あまりに膨大な日本人の犠牲によって上塗りされてしまったようにさえ思えるのである。
韓国人被爆者協会が1999年に発表した数値は、広島での被爆者数は約5万人、うち死亡者は3万人とあり、かなり大雑把な印象だ。この他の数字を合わせても、推定される死亡者数は5千人から5万人と10倍の開きがあり、いずれも科学的な調査は伴っていない。しかし、決して無視出来る数字ではない。せめて死者数14万人という公式見解に、『朝鮮半島出身者は含まず』と併記されても良いのではないだろうか。
(参考: 堀川恵子著『原爆供養塔―忘れられた遺骨の70年』)
★『世界中の慰安婦像をクレーン車で撤去したい』。朝鮮半島で慰安婦狩りをしたと偽証し、日本軍による強制連行説を世界に広めた故吉田清治氏の長男が、雑誌『新潮45』9月号でジャーナリスト、大高未貴氏の取材に父の過ちを悔いている。吉田氏の作り話を執拗に垂れ流した朝日新聞の罪も重い、というか大罪である。そして、作り話がバレた後にも、朝日新聞は世界に向けその誤報の訂正キャンペーンを施していない。結果、アメリカだけでなく、オーストラリアにも慰安婦少女の像が建つ結末に。これは韓国人が海外進出している世界各地の現象になるだろう。朝日新聞は自分の冒した罪の深さを感じていないとしか思えない。大罪の犯罪人として、そしてそれを顧みないことについて、朝日新聞はメディアとしての資格失格と言える。
★南シナ海の岩礁に中国が構造物を建設し、主権主張の論拠にし始めたのが、フィリッピン国内の米軍基地撤退が行われてから。その隙を中国は狙ったのですねえ。仮に沖縄から米軍基地が撤去されると、沖縄近海は中国の漁船が何千何万艘とも押し寄せ、沖縄漁民、住民の安全が脅かされる事態になるのは明白。さあどうする翁長沖縄県知事殿。
★激動のリオオリンピックが幕を引きました。オリンピック旗の手渡し式に小池知事が和服で登場。堂々たる旗振りを。良かったですねえ、舛添旦那より相当に。当面、築地市場移転問題の解決が立ちふさがります。堂々と理にかなった形で解決して欲しいです。
★本当に野球はやってみないと分かりませんねえ。広島―巨人の3連戦。第1戦はジョンソン―マイコラス、当然ジョンソンが勝ちと。が、意外や0-1の敗戦。第2戦は、福井―菅野。どう見ても菅野には勝てそうになく。しかし分かりません、野球は。先取点を献上したカープは逆転の火ぶたを福井の2塁打から開始し、堂々と5-2と。さらに菊池、丸の本塁打を加え、結果7-3で快勝。第3戦は、九里―田口。最近の調子からすれば田口の勝ち。が、やっぱり試合はしてみなければ分かりません。結果はどう出るか、な。