<広島学を30回、毎日更新アップします>
★今日の画像は、五輪フィギュアスケート男子で『66年ぶりに連覇を成し遂げた、羽生結弦』と、『銀に輝いた宇野昌麿、銅のフェルナンデス』、羽生竜王、広瀬8段を破り、朝日杯将棋戦に優勝して中学生初の『6段に昇格した藤井棋士』。そして広島市内の雪模様です。羽生は、最後のプレーヤー・宇野が終わり結果が掲示された時、感涙にむせました。ケガからの復帰、そして金連続取得。技術面以上に精神面が大切だったろうと推察します。見事国民の声援に応えた結弦君、さらなる今後の活躍を期待します。宇野君も大躍進だねえ、が楽しみだ。今時の若者は中々やるじゃないかえ。広島の雪景色は今年のものではなく、昨年1月のもの。広島は12月から寒かったが、今季は山沿いを除き雪は積もりませんでした。日本海側の皆様にお見舞申し上げます。
★★★ハワイは今でこそ日本人にとって最も手軽な海外リゾートになっているが、少なくとも40年前までは『夢にまでみた外国』『あこがれの地』であった。そのハワイに153人の日本人が初めて移民したのは、明治維新直前の慶応4年(1968)5月である。目的はもちろん出稼ぎで、具体的にはサトウキビ農園の仕事である。それは非常に厳しくつらい。最初のうちはハワイ原住民がそうした仕事に携わっていた。だが、19世紀半ば頃からハワイを訪れるようになった欧米人は、文明の利器と共に、麻疹(はしか)や結核、天然痘などの伝染病、また梅毒なども持ち込んできた。原住民にはそうした病気に対する免疫がなかったから、罹患すれば簡単に命を落としてしまう。その結果、イギリスからクックが初めてハワイにやってきた1778年に30万人近かった原住民の人口が1890年には4万人まで激減していた。そのため、サトウキビ農園での労働力不足は深刻を極めるようになる。最初は中国人でその穴を埋めていた。1882年には、サトウキビ農園で働く者の半数は中国人であったと言う。
しかし、中国人の場合、最初はそうした苦しい労働に従事していても、数年のうちお金を蓄え、それを元手にみずからサトウキビ栽培を始めるケースが少なくない。また、あとからやってくる中国人移民を相手に金融業や商店、サービス業を営み始める者もいた。そのため、農園経営者達はいつも未熟な新参者を相手にすることになり、作業効率はなかなか上がらなかった。アメリカ本土でもそれ以前から、金の採掘、鉄道の建設、農園での労働など、様々な分野で中国人が働いていたが、事情は同じであった。そのため、本土では早くから、中国人の移民を制限しようと言う動きがあり、1898年には中国人移民の排斥法が成立、完全にストップしてしまったのである。
明治14年(1881)にはハワイ国王からカラカウア国王が来日し、同国への移民を要請したこともあり、同19年、日希渡航条約が発効し、国が音頭を取ってハワイへの移民団を組織する『官約移民』というのはこの年からだが、正式の官約移民は、前年1月に出発している。しかし同26年(1893)にハワイ王国が滅び、官約移民も同27年をもって廃止になった。以後、ハワイへの移民は、神戸、広島、熊本などに設立された民間の移民会社が取り扱うようになる。
アメリカの事情で、移民会社を通じての移民は中断されたものの、明治34年(1901)からは、個々人の意志による自由移民が再開された。以後、日米紳士協定により移民がほとんど禁止される同41年まで、毎年1万人から2万5千人がハワイに渡って行った。大正7年(1918)には、総人口の4割、11万人に達し、昭和20年の終戦までその水準を保っていた。
現在ハワイには、アメリカ50州で最も多く日系人が暮らしている。州人口の24.5%、30万人、4人に1人は日系人である。一番多いのは広島県から渡って行った人である。明治18年から27年まで続いた官約移民で29万人の日本人がハワイに移民しているが、このうち11万人余、38%が広島県出身で、これと肩を並べているのが山口県の10万余である。その後の移民会社による移民、また自由移民でも広島県出身者は多かった。
一方日本人の移民で最大の国は、ブラジルである。このブラジルにも広島県から多くの人が移民している。明治41年(1908)から昭和12年(1937)までの30年間で移民総数は18万人余、そのうち1万人余が広島県人であった。移民といて渡った日本人の子孫は、現在150万人ほどいるとされ、ブラジルは世界最大の日系人居住国となっている。
これらハワイ、アメリカ西部、南米を始め、アジア、オセアニアなど、海外に移民した人の数を都道府県別に見ると、第1位が広島県で、9万人余、2位が熊本県の6万人余、3位が沖縄県で5万人余、4位が福岡県の4万人余、そして5位が山口県で4万人余となっている。それ以外では、日本が併合した韓国にも、広島県から農民、漁民を中心に多くの人が移民しており、昭和17年(1942)の時点で、韓国には4万人余りの広島県出身者が存在していた。けだし、ものおじせず海外で活躍する広島人は、まさに日本の海外先兵であったのだろうか。 (参考:岩中祥史著『広島学』)
★<官の統帥・大久保利通>薩摩の藩父と言われる『島津久光』が、彼の好まない東京の新政府から押し付けられるようにして『左大臣』に任ぜられたのは、明治7年4月27日のことである。島津久光は左大臣に就任した翌月、三条実美の屋敷に岩倉右大臣と共に集まり25条の提言をした。『服装を先王(孝明天皇)の時代に戻せ』『太陽暦を太陰暦に戻せ』『洋風の兵制をもとに戻せ』、と言った内容で、三条も岩倉も閉口し、参議達の衆議に付す、と言うことで久光を一旦引き取らせ、後日、書面をもって返答した。その返答はことごとく久光の意に反した。久光は就任して1ヵ月で現政府に失望し、辞める気になった。彼は返答をもらった後、病であるという名目をかまえ、以後、参朝しなかった。
10月になって、板垣退助が三条太政大臣への弾劾を行った。この弾劾は、久光もやったし、親王有栖川宮も行った。大久保は、貴族代表である有栖川からも、保守代表の代表である旧主島津久光からも、また在野民権家の板垣退助からも、極端な形で忌避されたと言ってよかった。孤立無援である。
この時代、官という要塞の中に、栄耀と名誉と金銭とそして権力が詰まっていた。それらは官が独占しており、官以外には存在しないと言っていい。官に仕えることはそれらの全てを、多寡は別にして手に入れることであり、長州人はこの官を守り、官の機能を良くし、さらに長州系の若い後進を官に収容することに躍起になっていた。
薩摩では、西郷が台閣にあったころ、『芋づる』と、当時言われたように、薩摩人が大量に官に入り、さらに芋蔓式に郷党の後進を官に引き込むという風があって、非薩摩人の憤慨を買ったが、西郷が下野して以来その風は少なくなった。大久保にはその癖はなかった。彼は薩摩閥の代表として太政官に出た男だが、むしろ自分は官の総帥であるという自己認識を持ち、藩閥にかかわらずに人材を登用した。この点も、彼が薩摩人から嫌われたところと言っていい。ともかく、大久保が日本国の上下の世論に動じなかったのは、官の威力を信じたからであった。更に、官に正統性を持たせるために『天皇』を引きつけておくということを、この事態の最中でも、寸刻も忘れていない。(参考;司馬遼太郎著『飛ぶが如く』)
★<神戸新聞>川崎正蔵の憤りは尋常ではなかった。正蔵を激怒させたのは、当時兵庫県下随一の日刊紙『神戸又新ユウシン新聞』の記事だった。『政府は失政に失政を重ねて、当初の期待は地に落ちたり。取り返しつかばお慰みなり』と、川崎造船所松方孝次郎の父が首相を務める『松方正義内閣』を罵倒し続けたからだ。この新聞社は、明治24年、発行元の『五州社』が経営難に陥った時、川崎家が出資して窮状を救った新聞である。正蔵は腹心、渡辺尚を送り込んでいたが、川崎造船を松方正義の3男に全権委任したことで、渡辺は正蔵を恨んでいたきらいがあった。
そこで、正蔵は孝次郎と養子の芳太郎を私邸に呼んで対策を練った。孝次郎が正蔵と孝太郎に諮った一計が『神戸新聞』の発刊であった。神戸新聞の創刊は明治31年2月11日。又新からスカウトした岩崎虚を主幹に招いた。経営は川崎家が前面に出るのは不都合と、川崎家出入りの穀物問屋、石井源兵衛を社主代理とした。が、これでは大きな成果は得られいと、創刊1周年を機に、正蔵は松方孝次郎に新聞社の経営も託した。
明治33年(1900)、あの伊藤博文でさえ一目置くという大物知事『服部一三』が兵庫県知事に就任した。神戸港築港を急務とする兵庫県、神戸市にとっては、願ってもない中央政府に顔の利く男であった。孝次郎は万感の感動を覚えながら、服部知事の就任を祝った。孝次郎の最初の留学先、『ラトガーズ大学』で先輩であった服部と出会ったのは15年前だった。神戸港築港は、神戸市案と孝次郎達の財界案の対立となったが、服部の提案は両案をも凌ぐ桟橋と鉄道を引き入れる積極案であった。これを服部は首相桂太郎と内務、大蔵両大臣に意見書を提出、政府はこの案に沿って鉄道工事を開始し、神戸港築港への槌音を立てた。
神戸新聞の2代目社長となった、松方孝次郎の経営は、その後順調に部数を伸ばし、現在の神戸新聞へとバトンを繋いでいる。
★<リーフの電池寿命>以前からこのブログでも問題を提起しているが『EVの電池性能』、国沢光宏のブログが『リーグの電池寿命、予想より悪い』と。以下。
メディアは正しい情報を伝えるのが役割である。されど新型リーフの記事を読むと、電池寿命について触れているケース無し。単に『良い』という評価を伝えるのみ。厳しいこと書いたら日産との関係が怪しくなってしまう。知らんぷりするのは得策かも知れない。
リーフのセグメント表示、サポーターの方からの情報によれば、セグメント1個欠けで85%、2個欠けになれば78.75%だと言う。日産の説明だと電池の経年劣化は1年で1.5%、使用した劣化が1万キロ当たり1%と言うものだった。従って5年・5万キロなら、7.5%+5%で12.5%、本来なら1セグも欠けないハズなのに、セグ欠けが当たり前である。
鶴亀算をすると、5年で2個欠けは14万キロ近く走らなければならない。けれど2個欠け状態すら、5万キロくらいしか走っていないリーフでも多発してる。また保証される4個欠けは66.25%にまで劣化しなければならない。現在中古車で出回っている初期型前期型リーフの場合、3個欠け~4個欠けの間だから、おそらく70%辺りだと考えてよかろう。
実際の劣化は、経年が1年当たり2~2.5%、走行1万キロ当たり1.5%と言うイメージか。5年5万キロだと80%前後。セグ1個か2個欠けということだと思う。しかし初期型前期のリーフユーザーに対する対策は必要だと考える。放置したらゴミになってしまう。せめて2011年当時のコメントにある『将来は適正な価格で電池交換出来るように考えてます』くらい守って欲しい。電池のリサイクルを行えば、不可能ではないと考える。
まだ、電気自動車は発展途上にあると言えるな。まだ、拙者のようなビンボー人は、ガソリンの中古で十分だと言うことが判った。
★<スケート・スキー>平昌五輪を見ていて、つくづく思うのは、スケート・スキー競技で世に出るためには、親の資力がものを言うんだねえ。特にスケートは、海外留学や専門コーチなど本当に気の遠くなるような修行が必要で、それに伴う費用も半端ではなさそう。野球やサッカーは、腕前が上げればチームが引っ張ってくれ、チームには専門のコーチがいるから、それはそれでいいのだが。これたの種目にも各界からの支援やCM出演などあるが、それは一流プレーヤーになってからのこと。本当にここまでに達し、この世界でトップになる人の両親はすごい努力家だと思う。尊敬するねえ。
★<ラーメンベスト10>旅行雑誌による、『全国ラーメンベスト10』が発表された。なんと、広島県の尾道ラーメンが入選。近くにも新しい店が出来たな。一度食べなければならない、な。熊本ラーメンがサッポロラーメンを抜いているのは、特筆に値するね。
ヾ鄲進蕁璽瓮鵝癖‥膰)
熊本ラーメン
サッポロラーメン
で鄲織蕁璽瓮
ズ缶逎蕁璽瓮鵝米別攜)
ο族了灰蕁璽瓮
Р窪ラーメン(東京都)
徳島ラーメン
富山ブラック
尾道ラーメン <Travel Note>
★<鉄人・新井貴浩>プロ野球で『鉄人』と言えば、カープ一筋で2215試合連続出場を果たした『衣笠祥雄』、カープと阪神で1492試合連続フルイニング出場を果たした『金本知憲』をイメージする人が多い。が、筆者が思うに、先月41歳になったばかりの『新井貴浩』もまた『鉄人』の領域に近づいているのではないか。そもそもカープという球団で、大学出身の選手が20年目のプレーをするのは初めてのことである。
その20年目シーズンに向けて練習を開始した初日、彼はトレーニングジムで重さ230キロのハーベルを10回、スロットで担ぎ、2年前出した自己記録に並んだ。ジムでは『MVPを取った16年よりも体の状態はいい。入団以来一番でしょう』と太鼓判を押す。筆者が彼を『鉄人』と呼びたい理由がここにある。昨季は首脳陣の配慮もあって、インターバルを取りながらの出場になった。それでも彼は、100試合に出場し、243打数、71安打、0.292、9本塁打、48打点をマークした。どこから見ても40歳に到達してからの成績としては申し分なかった。
今季もまた同じような役割が期待されている。チームの主砲にベテランの控えがいるというのは、かなり贅沢な話である。ただ、その裏を返せば今季新井が大活躍するようなチームでは底上げが出来ていないということになる。新井がベンチで大声を出している光景こそが、カープの強さを象徴する。(迫勝則筆『カープの独り言』)
★<阿倍首相が羽生に祝福>阿倍首相が、昨夜私邸から平昌五輪のフィギュア男子で金メダルを獲得した『羽生結弦選手』に電話で祝福した。『日本人みんなが興奮して感動したと思うし、けがを乗り越えてというのはまさに新しい伝説が出来た』と称えた。羽生選手は謝意を示し、『非常に重みのある勝利になった』と答えた。首相は『スケートリンクに最初立った時に、王者の風格があって大丈夫だなと思った』としながらも、演技の後半にはテレビの前で手にしたミカンを握りつぶしそうになったと紹介。首相が『ああいう時にベストを出せるのはすごい集中力だ』と称賛すると、羽生選手は『もっとベストは出せたと思う。もうちょっと頑張ります』と答え、3月にイタリアで開催される世界選手権に向けて調整する意向を示した。
首相はこれに先立ち、私邸前で記者団に2位に入った宇野昌麿選手につても『若い宇野選手も頑張って銀メダル。どきどきしながら手に汗を握る演技でしたが、本当に感動しました』と語った。スポーツの素晴らしさは、その結果だけではなく、それを観戦している全ての人達に感動と勇気を与えたことであり、また子供達に夢と希望を与えたことだと思う。