《演劇を目指してキャリアをスタート。途中でミュージカルに興味を持ち、ピアノもほとんど弾けないのに作曲家を志望。芥川也寸志、三木トリローなどに師事。野坂昭如と組んでラジオCM曲を500曲も作曲。永六輔との出会いが活躍の舞台を大きく広げた。さがらなおみ、ピンキーとキラーズ、由紀さおり、いしだあゆみなどを育てた。初ミュージカル『見上げてごらん空の星を』は有名。好きになった女性とは結婚しなければならないと信じ、3回離婚、4回も結婚する。日本のミュージカルの興隆に寄与し、活躍した。総作曲数1万5千曲とも言われる、大作曲家。62歳の若さで没した。》
★今日の画像は、羽田~都心を結ぶ赤い京急電車の『広島路面電車ラッピング広告』、今年も50キロの大渋滞が予想されるGWの『鳴門大橋の大渋滞(16年の画像)』。そして、広島駅からマツダスタジアムの『マツスタロードに掲示されたカープ選手名鑑2』です。いよいよGW。私は連休など観光地などが大渋滞する時期に旅することはあほらしく、自宅周辺でじっとしてます。(@_@)
★★★同じ年の10月のある日。『泥の中のルビー』というミュージカルを作曲してくれという依頼を、大阪労音から受けた。魔力に取りつかれたボクは、二つ返事で引き受けた。主演は宮城まり子、市村俊幸の二人に劇団青年座が総出演するとのことだ。作詞を岩谷時子さんが担当すると言う。ボクのあこがれの恋人に会える期待で、胸をときめかせた。
岩谷時子サンと初めて会った夜、ボクは彼女の澄んだ美しい柔和なまなざしが忘れられなくて、一晩中、なかなか寝付かれなかった。一見、小学校の先生風の清楚な風情の中に、情熱的なキビシイ芸術家の目が光っていた。このミュージカルでは、たった2曲ほどしか岩谷んさの詩に作曲出来なかったのが、とても残念だった。でも、この時の出会いが『夜明けの歌』『恋の季節』『いいじゃないの幸せならば』と多くのヒット曲を生み出す。ボクに取っては歴史的な出会いだったのだ。
『お時さん、今度どうしても夜明けをテーマにした曲を作りたいのだけど・・・』『夜明けはいいですね。美しいですね』。夜明けの歌のメロディーが、岩谷サンに手渡され、数日後に詩が出来上がって来た。もともとこの歌は、NHKの『霧淡く』という、テレビミュージカルの主題メロディであった。昭和37年に、ジェリー伊藤と、デビュー間もない金井克子と、長谷川明男らの出演したテレビ・ミュージカルのために、このメロディを作曲したのだが、なぜかこのメロディが心に残って、いつかすばらしい曲に作り直したいと密かに考えていた。
やがて、長谷川明男、坂本九主演のNTVのドラマのサブテーマとして、劇中の主人公が作曲した歌として『夜明けのうた』が出来上がった。放送された後の反響がとても大きかったので、坂本九によって直にレコーディングされた。昭和39年の春のことだった。同じ年の8月に同じ歌を岸洋子が吹込み、そして9月にダークダックスが吹き込んだ。あれよ、あれよという間にヒットして、その年のレコード大賞の歌唱賞を受賞してしまった。夢のような出来事で、ボク自身もまったく信じられない状態だった。とにかボクと岩谷時子サンの初めての大ヒット曲が誕生した。とても嬉しかった。(参考: いずみたく著『新ドレミファ交友録』)
★<追悼衣笠祥雄>★★東京オリンピックが開かれた年、1964年、カープのスカウト木庭教サトシは、ある日京都・平安高校のグラウンドを覗いた。京都に入ればまず平安へ、というのが習わしのようになっていた。
当時平安高校は、京都市下京区にあって、京都駅からも近い。特にお目当ての選手がいた訳ではなく、植木一智という投手(後大学を経て阪神)の名前を聞いたくらいである。この投手には木庭の食指は動かなかった。グラウンドの隅でぼんやり試合を見ていた木庭の足元に、空振りした選手のバットが手元を離れて飛んできた。それを拾った木庭は、選手に渡してやった。重たい。持った感じで250匁以上あることが分かる。高校生なら220から30匁あたりが相場であるから、かなり重たいバットを使っている選手に驚いた。
バットを手渡された高校生は、後プロ野球界に入り、山本浩二と共にカープ黄金時代の両輪を担った。通算2,543本の安打、504本の本塁打を放ち、最高殊勲選手や打点王にも輝いた。なにより『鉄人』という異名こそがこの選手の個性を言い表している。
この高校生『衣笠祥雄』は、1947年、京都市内で生まれ育っている。少年期、スポーツと言えば野球しかない時代。彼もまた、原っぱでボールを追いかけ、暗くなってようやく家路につく野球少年だった。高校野球の名門、平安高校に進んで野球熱は一層高まったが、『プロ』を意識することはなかった。3年時、平安高校は春夏ともに甲子園に出場し、共にベストエイトまで勝ち進む。自分の名前が京都新聞などで取り上げられるようになり、衣笠は初めて『プロ』というものを意識した。
夏の大会が終わってから、木庭は学校に挨拶した後、衣笠を祇園に近い料理屋に誘って面談した。衣笠は一人でやってきた。広島カープの歴史も交えながら、木庭は若い力を求めていることを語った。木庭はいかに欲しいと思う選手であっても、媚びることはしないし、口当たりのいいことも言わない。プロは実力の世界だ、なめてはいけない、頼りになるのは己の力だけだ、力があれば成績が残せる、成績を残せばカネを稼げる、カネは入ってから稼ぐものだ・・・初対面で言うのはそんな話である。
ひと区切り話が済んだところで、木庭は若者の眼を見て切り出した。『どうだい、やってみる気はあるかい』『ええ、その気持はあります。でも先に親に会って了解を取って欲しいんです』、そう高校生は答えた。ただ、プロでやるなら早く入団した方がいいというスカウトの話には納得を覚えた。広島の球団であることにこだわりはなかった。東京は遠いし、あまりに大都会だ。大阪は近すぎる。それに野村克也のいる南海などに入れば、到底レギュラーにはなれっこない。カープは自分の力が発揮出来そうな球団に思えた。
数日して、木庭は衣笠の家を訪れた。京都の町中特有の、表通りに格子がはまった小さな家である。衣笠は一人息子で、父母に母の父を加えた4人家族だった。衣笠の両親の意向は、息子の意思を尊重したいということで、スムーズに話はまとまった。契約金は手取りで1千万円。カープが高校生と交わした契約の中では過去最高だった。契約金で親に家を一軒プレゼントする孝行息子がいたものであるが、衣笠もその一人で、契約金の半分を親に渡した。『おじいちゃんにもう一部屋ある家を』と思ったのである。やがて親は、京都山科の地に新しい家を建てた。300万円もあれば十分家が建った時代である。当時の1千万円は値打ちがあった。
職務上で言えば、スカウトは選手を入団させればお役御免である。ただ、自分が入れた選手のことは後々まで気になる。試合を見ていてもまず目が行くのは入団させた選手と言う。入団して3年間、衣笠が一軍で出場した試合数は、28、32、28に止まっている。入団早々、肩の故障でつまずいたのも低迷した原因の一つだった。
高校を出てすぐの18歳。プロが何であるか、体と心をどう使うか。キャンプ地でも、練習時間はせいぜい4時間である。1日、残り20時間がある。それをそう過ごすか、誰も教えてくれなかった。そこにプロ選手として生き残れるかどうかの鍵が潜んでいるのであるが、それに気付くのはずっと後のことだった。カネがあり、時間がある。親の目はない。やりたい放題である。契約金の半分、500万円はあらかた2年で消えた。
入団して2年目のオフである。夜、寮に帰ると、すぐに顔を出せという木庭の伝言が届いていた。部屋に入ると、木庭がぽつんと座っていた。『正座せい』と言われた。いつもよりちょっと雰囲気が違う。『おい、どれにする?』と木庭が言った。紙には、地元の企業名が連ねてあった。若者は顔色を変えた。ここまで追い詰められているとは思いもしなかった。それにまた、木庭が脅しブラフをかけているとは思いもよらなかった。
監督の根本は『何のためにプロに入った?昼間2軍で野球をするためか?じゃないよな。夜、ナイターの下で野球をするためじゃないか』と叱咤した。衣笠は自分を一人前のプロ選手に育ててくれた恩人として、木庭と根本監督の名前を挙げる。衣笠がようやく1軍の戦力となるのは入団4年目である。
一つの要因が選手を作る訳ではない。プロは、素質の秀でた選手が努力することによって開花する
世界であって、その逆ではない。それが木庭の選手観であった。花が開くためには、水もいれば肥料もいる。その意味で、遠い日、木庭のブラフがなければ、2,215試合連続出場という前人未到の記録を樹立し、王と並ぶ国民栄誉賞を受賞するに至る『鉄人』は誕生しなかったかもしれない。勿論、カープの初優勝から続く黄金時代の到来はなかっただろう。まさに『偉大なり、名スカウト木庭教』ではある。
広島カープは、木庭の活躍により衣笠などを入団させ、戦力になった時期から黄金時代を迎える。そして、木庭が去った後、カープは24年間優勝なしという辛い時代を過ごすのであった。スカウトは世間から見ればそれほど重要視されていないが、チーム編成のキーポイントを握っているといっていい。私は木庭にその影を見た。
★木庭教: 1926~2008年。享年81歳。広島市出身、広島商業卒。野球部に入部するも補欠にもならかなった。1956年、30歳の時、恩師の薦めでカープに入団、スカウトを努める。衣笠、山本、水沼、三村、池谷、金城、正田、らの獲得に辣腕をふるい、また達川、高橋、川口、大野、長嶋、紀藤など埋もれていた無名選手の獲得に努力した。カープ黄金時代の礎を築いた功労者。横浜古葉元監督に招聘され、ベイスターズに。またオリックス上田監督の招聘を受け移籍。最後は日本ハムに骨を埋めた。 (参考:後藤正治著『スカウト』)
★<有働由美子、マツコと同じ事務所に所属>3月末でNHKを退社した人気アナ『有働由美子』が、マツコが所属する『ナチュラルエイト』に所属したことが分かった。有働は『当初は一人でやっていこうと感じでいたが、仕事を続けるにあたり、人生や仕事を相談できるパートナーとして、かねて私生活の面でも親交のあった事務所にお世話になった。よろしくお願い申し上げます』とコメントしている。どんな活動を展開するか、楽しみではある。
★<尾道脱走受刑者>今治の大井造船作業所から受刑者(27)が脱走して20日を過ぎた。潜伏先とされる尾道市向島で捜査に投入された警察官は延べ1万3千人以上。脱走直後に島内で相次いだ窃盗被害の発生は途絶えており、すでに海を渡って本州に逃げた可能性も浮上している。赤外線カメラ搭載のヘリを使った上空からの探査も開始した。まあ、人騒がせな脱走ではある。いつも気になるが、このような大捜査にかり出された警察官には手当が付く。費用も膨大なものになっているだろうなあ。この面からの発表は今だ聞いたことがないが。
★<巨人63年ぶりの20得点>巨人の25日の中日戦、20-4の大勝となり、中日の森監督に『バスケットをやってるんか』と怒られた中日ナイン。しかし勝った巨人は、20得点は、なんと63年ぶりのことだそうだ。楽天はまだ20得点以上を記録したことがないが、楽天を除いた11球団のうち10球団は80年以降に20点以上を挙げており、巨人が最も20点から遠ざかっていたということになる。打線が昨年と様変わりしつつあることは事実。さあ、優勝争いに組み込んで来るかな、巨人は。
★<テレ朝女性コメント>財務省が福田前次官のセクハラ行為を認定したことを受け、被害を受けたテレビ朝日の女性記者がコメントを出した。『福田前次官がセクハラ行為を認められていないことは残念ですが、財務省が事実を認定して謝罪されたことは、深く受け止めています。ハラスメント被害が繰り返されたり、被害を訴えることに高い壁がある社会であってほしくない』とのコメントをテレ朝を通じて発表した。けだし、当然の内容ではある。財務省は、積極的に認定したというより、政局の波瀾を収めるため、麻生大臣がしぶしぶ応じたというのが真相だろう。こまったじゃじゃ馬、麻生太郎だ。社会正義について全く理解していない人物が閣僚たる阿倍政権は、3流内閣だな。
謝罪の記者会見に臨んだ矢野官房長は、調査を委託した財務省の顧問弁護士が福田前次官に3回の聞き取り調査をしたことなどを説明し、時間がかかったことについて『財務省の調査で事実関係を明らかにするのは難しい面があった』と釈明した。そして『財務省として責任を持って調査を行いぎりぎりの認定としてセクハラ行為があったと事実認定した』と。だが、公明党の山口代表は『遅きに失したと言わざるを得ない。厳しく反省して出直してもらいたい』と批判した。
また、自民党の石破元幹事長は、『時代とずれている。福田さんが「今の時代ってそんな時代なのかな」とコメントしていたが、今の時代はそうなんだ。税金をいただき、それを使う計画を作る財務省において、そうなのかねということだ。「言葉遊び」という発言を聞いた時には愕然とした。言葉遊びなら許されるんかいと言うことであり、政治、行政に携わる者は身を正していかなければいけない。危機管理の初動も非常にまずかった』と辛口コメント。けだし当然の発言であり、麻生ぼっちゃんの頭の中が明治時代なのだ。
★<朝鮮半島非核化へ>初めて韓国で開かれた南北首脳会談。両首脳は融和姿勢を世界にアピールし、『核のない朝鮮半島』や平和体制の実現で合意した。だが、その具体化は6月初旬までに行われる見通しの『米朝首脳会談』に委ねられた。また、北朝鮮が核廃棄を約束しながら履行を破った前回の例もあり、今だこの合意が全面的に世界から信頼を受けているとは言い難い。ただ、その不信感を払拭するが如く、南北朝鮮の首脳は笑みを振りまき、融和の姿勢を示した。拉致問題は一切ふれられていない。
また、年内に『休戦状態』にある朝鮮戦争の終戦宣言をすると表明。南北首脳会談の定例化で合意し、文大統領は今年秋に平壌を訪れる。文大統領は『北朝鮮がまず行った核凍結措置はとても重要な意味がある』と協調した。金正恩委員長は『合意が必ず履行出来るよう努力する。徹底履行して行くことで南北の関係を改善する』と述べたものの、非核化や平和協定には直接言及しなかった。『核凍結』の表現が、北朝鮮の核保有の現状維持をも意味し、完全非核化のニュアンスとずれている点に懸念が残る。
朝鮮半島が南北に分かれてから70年、11年ぶりに開かれた首脳改題では、和解と核のない半島を目指す意思が確認された。祖国の歩み寄りを日本で見守っていた半島出身者の人達には、喜びが広がった。一方で、拉致問題への言及がなかったことに被害者家族からは落胆の声があがった。