《演劇を目指してキャリアをスタート。途中でミュージカルに興味を持ち、ピアノもほとんど弾けないのに作曲家を志望。芥川也寸志、三木トリローなどに師事。野坂昭如と組んでラジオCM曲を500曲も作曲。永六輔との出会いが活躍の舞台を大きく広げた。さがらなおみ、ピンキーとキラーズ、由紀さおり、いしだあゆみなどを育てた。初ミュージカル『見上げてごらん空の星を』は有名。好きになった女性とは結婚しなければならないと信じ、3回離婚、4回も結婚する。日本のミュージカルの興隆に寄与し、活躍した。総作曲数1万5千曲とも言われる、大作曲家。62歳の若さで没した。》
★今日の画像は、東大の食堂から廃棄された『宇佐美圭司さんの作品』と、山口県防府市で行われた『100基みこし祭り』。100基が参加するみこし祭りは、ギネスに登録される予定。そして、春の花、ミモザ(フサアカシア)、ボケ、ヤマブキ、昨日に続き白いハナモモ、です。春去りぬ、です。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
『宇佐美圭司さんの作品』は東大が依頼して出来上がった作品。食堂の改装に伴い、廃棄してしまったようだ。画の価値を知らなかった食堂関係者の責任だろうが、それにしてもまずい行動だねえ、東大たるものが。
★★★その頃、ボクはM子という女性と結婚していて、すでに3年目であった。M子は以前、レコード歌手で、ボクと放送局の仕事で知り合って、急速にボク達は近づき、知り合ってからアッという間に結婚してしまった。彼女は、商業レコード歌手という前身からか、すべて音楽はお金に通じていると思いこんでいたのか、ボクのミュージカルに対しての活動、そして会社経営に至るまで、意見が合わなくなってしまった。終わり頃にはボクの作品に対しての意見まで違ってきて、いろいろと仕事に口を挟む結果になってしまった。ボクもわがままだったかも知れないが、ミュージカルやその他の自分の芸術について干渉されることに、耐えられなかったのだ。昭和40年の春、ボクは気持を整理したい一心でヨーロッパの旅に出た。
パリの空港にはボクより先に旅立った、永六輔がボクの着くのを待っていた。2人でパリの街を歩いていて、前を横切った観光バスの窓に、赤ん坊を抱いた中村八大が座っているのを見かけた。『八チャン!』。思わず呼びかけたボク達に、八チャンはニッと白い歯を見せて笑った。
『上を向いて歩こう』『こんにちは赤ちゃん』を大ヒットさせた彼は、当時1年間アメリカで生活していた。そして、パリへ家族と遊びに来ている時に、偶然ボク達とバッタリ出会ったのだ。あのモダンな曲を作曲する八チャンと、パリの街で赤ん坊を抱いた八チャンのイメージが重なると、今でもなんだか顔がほころんでしまう。
ところで、パリ、ロンドンとヨーロッパの劇場やナイトクラブを見て歩いたボクと永六輔は、日本に帰ってから『にほんのうた』の仕事に取りかかった。前に上演した『灯台の灯のように』の中に、『どこにあるんだろう、日本の歌』というショー・ナンバーがあった。ボクと永六輔の二人は、このショー・ナンバー作りに夢中になった。このショー・ナンバーの発展として、日本中の歌を作ろうというのが永六輔の提案だった。
日本全国で50曲以上、1年に12曲ずつ、4年で完成させようという大計画である。デューク・エイセスが全部の曲を歌い、4枚のLPにそれぞれを収録する。そして、ボク達は日本全国を歩き回って作曲するのである。
とにかく実行すること。とにかく続けること。この二つを合い言葉に仕事は始まった。いろいろなエピソードがあるが、この昭和40-年に始まった思いつきの仕事は、丁度4年後の44年7月に、全国の歌を52曲作曲して仕事を終えた。沖縄に全員で旅行して取材した時が、一番印象が深かった。ある洞穴の中で、最後まで戦った少年達の御霊がただよう中で、案内ガールが『みなさん、海ゆかば、を歌いましょう』と言った。戦死した少年達にとって『海ゆかば』を歌うことが供養になるのか。悲しさと苦しさと、腹立たしさが一緒になって、ボクは外に出た。
ここはどこだ いまはいつだ なみだは かわいたのか
ここはどこだ いまはいつだ いくさは おわったのか
ここはどこだ きみはだれだ なかまは どこへいった
ここはどこだ きみはだれだ にほんは どこへいった (永六輔詩)
永六輔からこの時、この詩を渡されて、ボクはこの歌こそ、この時期に皆に歌ってもらいたいと、心から願った。この日本の歌の中から、『いい湯だな』『女一人』などのヒット曲も生まれた。(参考: いずみたく著『新ドレミファ交友録』)
★<ラミレス野球伝>私が野球と出会ったのは、5歳の時『人数が足りないから』と駆り出されたのがきっかけだ。ベネズエラの貧しい地域で育った私達の野球は、牛乳パックがグローブ、箒がバット、敗れたソックスを丸めてボールだった。その後、リトルリーグに誘われ、野球一筋の人生を歩んだ。でも、まさか自分が日本プロ野球の監督になるなど、当時は夢にも思わなかった。
そもそもヤクルトの誘いに応じて、26歳で米国のメジャーからやってきた時、日本滞在は1年で終え、すぐに米国に戻るつもりだった。当時、私はすでに結婚しており、フロリダに家を購入したばかり。『1年間日本でプレーすれば、家のローンも払える』という私の説得で、妻も日本に来た。それが、日本での生活や日本野球に慣れるにつれ『もう1年ここでやりたい』と思うようになった。
日夜、野球の研究にいそしみ、2007年、右打者、また外国人として日本初の年間200安打を達成した。日本での安打数も千本を超えていた。その時芽生えたのが、『いずれ日本のプロ野球の監督をやりたい』という次なる意欲だった。メジャーからの誘いもその理由で断った。
ところが当時、日本で監督をやりたいと言うと、『えっ』とか、『難しいでしょう』という反応ばかり。しかし、自分の中でこの夢を追い続け、DeNAの監督に就いた。一番肝心なのはコーチとの信頼関係、意思疎通。これがうまくいけば大体問題は解決だ。監督としてやりがいを感じるのは、日々学ぶことがあることだ。私にとって『野球』とは何か。日本では『私の人生です』と語る人が多い。
人生は、引退したり、コーチや監督を辞めた時点で、終わる訳ではない。私にとって野球とは『情熱パッション』であり、『欲望デザイアー』だ。『よりうまくなりたい』とか、『一歩でも上のステージへ』という意味だ。昨シーズンのCSや日本シリーズの采配には手応えがあった。あのレベルの野球をシーズンを通して続けられれば、優勝は必ず見えてくると思う。(参考:アレックス・ラミレス筆『日本のプロ野球の監督になって』)
★<J2甲府吉田監督解任>J2甲府の吉田監督(43)が、成績不振により退任し、後任にJ2山口などを率いた経験のある上野展裕(52)が後任に決まった。6年ぶりのJ2となった甲府は、今季開幕から苦しみ、2勝5引分4敗の勝点11で、22チーム中16位と低迷している。
4月28日の千葉戦でも終了間際に失点して1-1のドロー。開幕から5試合未勝利は、J2に参入した1999年に並ぶクラブワーストタイとなった。千葉戦後、幹部が話し合い、指揮2年目だった吉田監督の交代を決断したと言う。
後任は上野、現役時代はJ1広島などでプレーし、2009年には、現在J2の金沢の監督に就任。初年度で地域リーグからJFLに昇格させた。また14年に山口の指揮を取ると、こちらも初年度でJFLからJ3への昇格を導き、昇格元年VでチームをJ2に導いた。まさに『昇格請負人』とも称される人物だ。
今季、J1からJ2に降格したチーム全体の成績が芳しくない。普通、降格3チームのうち1チームは必ず1年でJ1に復帰するトップの成績を残すが、今季は無残だ。大宮が13位、新潟が14位、甲府が16位と、中位以下の成績。ずるずるとJ2慣れし、J1復帰が夢のまた夢になっている、京都や千葉などの轍を踏みたくないという、甲府首脳陣の意志の表れであろう。サンフレ出身上野監督、同じサンフレ出身でJ2首位を走る大分の片野坂監督に負けるな!
★<ビリオネア誕生の軌跡>ビリオネア=10億ドル=1,070億円持ちの、大富豪。現代版大富豪の軌跡は、どのようなシナリオだったのだろうか。運だけでこれほどの大富豪にはなれない、なあ。
【エドゥアルド・サベリン=1年】エドゥアルド・サベリンは、2004年にマーク・ザッカーグと共にフェイスブックを創業したものの、1年後にこの会社を追い出された。サベリンのドラマチックな物語は映画『ソーシャル・ネットワーク』に描かれている。フェイスブックには1年もいなかったが、サベリンはこの会社の株式を保有。その価値は2010年までに10億ドルを超えた。現在、サベリンの資産は90億ドル=9,630億円を超える。
【エヴァン・シュピーゲルとボビー・マーフィー=3年】写真が消えてしまう写真共有アプリを思いついたエヴァン・シュピーゲルとボビー・マーフィーは、2011年に『スナップチャット』を創業した。14年までに、両者が保有していた株式の価値は10億ドル=1,070億円を超えた。1年後、フォーブス長者番付に、20代にして名を連ねた。
【ショーン・パーカー=1年半】ショーン・パーカーは、音楽共有サイトの先駆け、『ナップスター』の共同創業者だが、パーカーをビリオネアにしたのは、わずかな期間だがフェイスブックの社長を務めたこと。2004年から1年強、努めた。しかし彼はフェイスブックの株式を7千万株近く保有していた。パーカーは、フェイスブックが12年に上場する前に、350万株を売却し、着実にビリオネアの仲間入りを果たした。
【ピエール・オミダイア=3年】ピエール・オミダイアは1995年、28歳でオークションサイト『イーベイ』を立ち上げた。初めて売れた商品は壊れたレーザーポインター。3年後、イーベイは1株18ドルで上場。3ヵ月経たないうちに、株価は300ドルに達した。オミダイアはビリオネアになった。
【ジェフ・ベゾス=6年】1993年、投資銀行に勤めていたジェフ・ベゾスは、オンライン書店『アマゾン・ドット・コム』を創業した。6年後の1999年、ベゾスは100億ドルの資産でフォーブスの長者番付に登場した。ベゾスの資産は2000年代半ばに打撃を受けたものの、今では1,000億ドル=10兆7千億円を超えた。ベゾスは今、世界一の大富豪であるばかりか、歴史上、最もリッチな人物だ。
【ジェイ・ウォーカー=1年】最も短期間でビリオネアになったのは、ジェイ・ウォーカーかも知れない。ウォーカーは、オンライン旅行代理店『プライスライン・ドット・コム』を立ち上げた1年後の1998年にビリオネアの仲間入りをしている。その1年後に同社がITバブルの崩壊で大打撃を受けたため、彼はビリオネアの座を退き、会社を去っている。1年後にこの会社の株をたった4億ドル強で売却している。
こうしてながめてくると、ため息が出る。100億円あれば、日本では大富豪と言われるが、アメリカでは一ケタ上の1,000億円が最低必要なのだ。しかもその富豪が今はほとんどITで稼いでいる。石油と鉄で巨万の富を得たロックフェラー、自動車で大金持ちになったフォード。今や時代は確実に、軽く短い期間に成果の上がるビジネスが儲かる時代になっているんだねえ。すごい!
★<3週間、脱獄犯やっと捕まる>今治の造船刑務所から脱走した男性刑務者が、3週間ぶりに広島市内で逮捕された。テレビの映像から見ると、逮捕されたのは南区の段原小学校の裏手のようだ。マツダスタジアムがすぐ近くの場所。ネットカフェの従業員から通報があり逮捕に至ったと。向島から尾道には24日に泳いで渡ったと。
捜査員述べ1万5千人を動員しての大逮捕劇、やっと終止符だ。が、向島の人々は大変な迷惑を被った。法務省、いかに謝罪するのか。行動で表してほしいね。逃走犯は、『刑務所内の人間関係に疲れた』と言っているとか。刑務所の中は、それこそ有象無象の集まりだから、一般常識が通用しないのだろうなあ。それもこれも、あんたが犯罪を犯した結末、自己責任なんだよな。所持金は、盗んだのであろうが2万円持っていた。
★<危険な下村元文化相発言『メディアは日本を潰す』>財務省福田前次官退任問題にからみ、講演会での発言を撤回した自民党の下村元文化相が同じ講演の中で、『日本のメディアは日本国家をつぶすために存在しているのかと、最近つくづく思う』と語っていたことが分かった。発言は、共産党が公表した音声データに記録されていた。下村元文科相は、阿倍首相が提起した改憲案に批判的なメディアの姿勢に触れた後でこの発言をした。
自民党の竹下総務会長は、『政治家の発言は気をつけないといけない。メディアの一番重要な仕事は権力に対するチェックだ』と指摘。公明党の山口代表は、『そうした発言は慎むべきだ』と批判した。
セクハラ問題では被害者女性に対し『ある意味で犯罪』と発言し、撤回して、謝罪していた。こんな訳の分からんのが文科相だったんだねえ。もう、もうろくじじい、を通り越し、明治の抑圧的政治家、また戦前の軍部独裁政権の輩に成り下がっているとしか思えない。自民党よしかりせよ。曲がりなりにも政権政党なんだから、な。
★<東大名画を廃棄>東京大学安田講堂前の地下食堂に飾られていた著名画家の大作が、3月末の施設改修に伴い、廃棄されていたことが分かった。2012年に亡くなった『宇佐美圭司さん』の作品で、宇佐美さんの作品には数百万円の値をつけるものもあり、専門家は『絵の価値を知らなかったのではないか』と指摘している。
宇佐美さんは武蔵野美術大教授、京都市立芸術大教授などを歴任し、芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞。さまざまなポーズの人型を円環状に繰り返し描く知的な画風で知られている。1972年の『ベネチア・ビエンナーレ』では日本代表を務めるなど内外で活躍した。廃棄された絵は、77年に大学から依頼されて制作したものだった。