慶喜は立ち上がり、はかまの絹ずれの音をさわさわと立てながら、春獄の待つ書院に渡った。春獄の用件はむろん分かっている。自分に将軍職を押しつけるためにさらに三押しも四押しもするつもりであろう。慶喜は上座に座った。春獄は下座にいる。すぐ膝をすすめ、早速でござるがまだ後決意がつきませぬか、と、例の鳥が歌うようななまぬるみのある声音で言った。
『無理です』。なにもかにも無理です。今日の将軍職は何人がおやりになっても無理でしょう。こういう幕府ではやってゆけない、と、慶喜は鋭い論理を展開した。『無理とは?』『考えてもみよ、政体が古すぎる。たれがやってもうまくゆかぬ』と、慶喜は言った。戦国を終熄せしめた家康の体制が今だに続いている。この秩序は300年の古物である。これをもって今日、列強を相手にし、列強から流れ込んでくる新規なものに対処しようと言うのが無理である。新しい現実には新しい秩序が必要であると、主張した。
春獄は聞き上手である。つい慶喜は引き込まれ、多弁になった。『旗本の制度など、これは何事であろう』と、ひどく危険なことに触れた。300年の無為徒食、今日の銃を使った調練をもボイコットし、幕府の仏式歩兵大隊も砲兵も民庶の間から新規に徴募せねばならない。幕府のみならず、いななる国の政府と言えども、数万の有閑人を抱え、かつそれとは別個に数万人の新徴兵を抱えねばならぬというようなことでは一日も財政が持たぬ。それだけでつぶれる。つまり、今幕府は旗本に食いつぶされようとしている。
『なるほど』。春獄はさすがに応答に当惑した。怜悧な春獄は慶喜の言おうとしているところがよく分かる。幕府自ら自己革命を起こし、封建制を撤廃し、ヨーロッパ風の、たとえばナポレオン三世治下のボナパルチズムのような中央集権を確立する以外、徳川家を救う道はないと言うのであろう。とすれば、三百諸侯も、消滅せざるを得ない。『困ったことを言う』と、春獄は思った。春獄も、越前福井32万石の大名なのである。
さらに慶喜は『もはや滅亡すると決まった徳川なれば、将軍は此方より選ぶにあらず』と言った。将軍は武力によって興り、形式的にも実質的にも諸侯会盟による擁立によってその盟主たる位置を得る。家康がそうである。時移り、将軍の武力が萎えれば、諸侯はそれを盟主として立て続けゆく義務がない。織田信長が足利将軍を捨てた例がそれを語っている。改めて諸侯は盟主を選ぶべきであろう。
『えっ、諸侯が将軍を』。春獄はさすがに驚いた。慶喜はうなずき、当然三百諸侯のことごとくをその相談の選挙のために招集する、と言った。選挙権保持者が、相互で選挙人を選ぶということであろう。これによって選ばれた将軍は、すでに家茂までの将軍ではなく、大統領という概念に近い。ナポレオン三世は、クーデターを起こし、その後国民投票750万票を得て任期10年の大統領に選出されたことがある。慶喜の脳裏には、そのことが浮かびつつあるのではあるまいか。
慶喜は『将軍職は継がぬが、徳川宗家は継ぐ』という奇妙な論理を使った。慶喜の論理では、徳川宗家は私的な存在である。例え徳川幕府が滅びようとも、家系は別であり、先祖の祭祀をするために継がねばならぬ。将軍職は公的なものである。切り離して考えたい、というひどく分析性に富んだ理論を駆使した。これを聞いた謹直な会津藩主松平容保でさえ、つぶやいた。『春獄殿の申されしごとく、あの人はねじあげの酒飲みかもしれませぬな』と。
慶喜は、明治の代になってからは、静岡に蟄居するがごとく、決して表舞台に出ようとしなかったばかりか、旧臣にも会うことを拒み通した。明治31年慶喜62歳の折、ようやく爵位受賞のため皇居に参内。4年後に公爵を授けられて。慶喜は大正2年、77歳の11月、肺炎を患い逝去しました。徳川将軍15代の中で、家康をのければ、傑出して将軍としての意志を表じ、歴史の素早い回転の中に身を置いた将軍はいない。
(参考: 司馬遼太郎著『最後の将軍』 文春文庫刊)
明治維新は世に名高い『無血革命である』との高い評価が世界にあります。が、そこには日本人の英知が横断的にこの政権交代の舞台を覆い尽くしたのでしょう。江戸幕府最後の将軍『徳川慶喜』は、水戸家から一橋家へ養子出入り、将軍家茂の死をもって新将軍につきます。幕末の時代を書いた小説には慶喜を『臆病将軍、小心将軍、逃げ回り将軍』と評する作家連もいますが、司馬遼太郎に言わせると、薩長の革命軍に対し、慶喜の対応が突出して優れていたからこそ、国論を二分し、日本を列強の植民地にされるつけいる機を与えなかったのだと、論じます。もっとも、戊辰戦争という東北地方を中心にした戦乱や、維新後の萩の乱、佐賀の乱、陣風連の乱、そして西南の役のような士族の反乱はありましたが。日本の近代化は、単に薩長のみが果たしたのではなく、日本全体の英知がそれを成し遂げさせた、と解説しているように見えます、司馬遼太郎の論は。
司馬遼太郎著は好きです。文章が練れているというか、読者をその歴史的物語の傍観者として酔わす魔術があります。大村益次郎を書いた『花神』、遼太郎版太閤記『新史太閤記』、山之内一豊を書いた『功名が辻』は、ひときわ好きな作品で、何回も読み直しています。
今、1千兆円の借財を持つ日本国の再建に、はたして慶喜の論のような、私心を超越した救済国論が勃興するでしょうかしら。阿倍晋三にその志があるや否や。それが今私の大きな心配事でもあります。プライベイトとは言いながら、夏休み10日間をゴルフ三昧で過ごしたことや、来年度予算概算要求においても、何ら阿倍首相にその気概を感じないからです。
<司馬遼太郎「あとがき」より>
この作品は、別冊文藝春秋に分載した。当初の予定は、連載でなく1回で終わる予定であった。が、最初の120枚を書いても書き終わることが出来ず、結局その次の号に、更に次にと、書きつなぐことによってようやく終わった。慶喜が将軍であった期間はわずか2年たらずでしかなかった。であるのにこれほど多くの言葉が彼のために必要だったとは、当初気がつかなかった。それでもなお今、書き足りなかった思いがかすかに残っているのは、どうしたことだろうか。筆力の不足ということもさることながら、徳川慶喜という私のこの対象には、素材そのものが酒精度の高い、人を酩酊させるものを持っているがためのように思える。そうとしか思いようがない。
★『話せば理解し合えるという関係は難しい韓国人』。島根県主催の『竹島問題を考える講座』が行われ、松江市の県職員会館で開かれ、昨秋に活動を始めた県の『竹島問題研究会』の3期目に参加している原田環・県立広島大名誉教授(朝鮮近現代史)が『韓国のナショナリズムと竹島』と題して講演しました。原田さんは、東日本大震災の直後、韓国では募金活動が盛んだったが、約20日後、日本の文部科学省が竹島を日本領とした中学校教科書の検定合格を公表したことで反感が広がり、竹島の実効支配強化や2012年夏の大統領上陸に至った、と指摘。『韓国では竹島は反日運動の象徴で、独立と同時に「奪回した」と認識されている』と語。
そして原田さんは、竹島問題の背景には、近年の経済発展に加え、日本に対する古くからの文化的な優越意識『小中華思想』が根深くあると分析。『自国の愛国心は強く主張するが、日本の愛国心は「右翼的」と批判する』と述べ、『話せば理解し合えるという関係は難しい』としました。
まったく同感。いにしえの文化伝来の祖として、日本を見下したいのでしょう。が、そうは問屋が卸しませんね。ノーベル賞受賞者数、日本18人、韓国0人。この事実を受け止めなければ、韓国の文化的、国家的進歩はないでしょう。日本が威張る訳ではありませんが、今の韓国の国家の骨組みはすべて日本が作り上げたと言っても過言ではありません。反発する韓国の人達の感情は分からないではありませんが、なら、法律、裁判など全て自国流に、自国語で書き直したらどうですか。そして、日本の企業と技術提携など一切禁止にしたらどうでしょう。自国の独自技術で発展してこそ、韓国の真の独立があるのではないでしょうかねえ。
★新入幕『遠藤』。昨日も白星を重ね、2勝1敗。土俵際が強いですねえ。押された時のしのぎが素晴らしいです。カープ、劇的に石原のサヨナラホームランで、4年ぶりの7連勝に。中日が負けてくれたので、3位の座が急に近くなりました。昨日投げた大竹は、いつもの表情と違いました。真剣そのもの、自分がやらなければならないという使命感に溢れて。広島は16年ぶりのAクラスに沸いています。(*.^)
★詐欺の新手は次々と新商品を開発しますねえ。今回は『国債』。韓国で、偽造の日本国債200兆円分を所持する韓国人2人を逮捕。2人は、日本人から受け取ったと主張。64歳の男性に一部を売りつけよう年、警察に相談したことから事件が発覚。しかし200兆円とはまたすごいですねえ。政府予算の2年分ですから。
★今日から2日、広島を留守にしますので、ブログのアップは休みます。
■今日の画像は、大豪雨『大阪淀川に落ちた小学生を飛び込み助けた、中国人留学生厳俊さん』と、『アジサイの美』です。日本に滞在する中国人の人達のニュースは、悪い内容が多いですが、この留学生が自分を忘れ、淀川に飛び込み、小学生を助けたことは、改めて中国人もいろいろ、千差万別を意識させました。ありがとう、厳俊さん! (昨日のアップからのアクセス件数は、424件でした)