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『チキンラーメン生みの親「安藤百福伝③」 「単葉機で大坂から東京まで飛ぶ」』

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今日の画像は、西條八十が留学し、勉学に励んだ『ソルボンヌ大学』と、海外音楽アーティスト『興行収入ランキング◆戞6位 イーグルス、7位 ジャスティン・ティンバーレイク、8位 ロジャー・ウォーターズ、9位 U2、10位 ローリング・ストーンズ。ローリング・ストーンも息が長いですねえ。右下をクリックすると、大きな画が見られます。


★★現在放映中のNHKの朝ドラ『まんぷく』。チキンラーメンの生みの親『安藤百福さんの妻仁子さん』を主人公にしたドラマ。フィクションの部分もだいぶある。百福さんが台湾生まれで、織物の商売で独り立ちされたこと、また戦後土地を買い大きく儲け、その結果信用組合の理事長に祭り上げられたことなどが省かれている。ここに百福さんの『私の履歴書』を参考に、『チキンラーメン、即席ラーメン』の歴史を綴る。


★★★(NHK朝ドラ『まんぷく』の主人公の実像)台北市で始めた『メリヤス商売』は大成功だった。日本内地からいくら製品を仕入れても、間に合わなかった。そこで、翌年の1933年(昭8)に、大阪・船場のすぐ隣り、堺筋の唐物町2丁目(現在の久太郎町1丁目辺り)に『日東商会』を設立して、問屋業務を始めた。

取引先は和歌山、大阪、東京などのメリヤスメーカーで、私はどこへでも足を運び、作り方を勉強した。綿、毛、絹の素材の特徴や、20番手、30番手と言った糸の太さなどを覚えた。私の扱うのは特注品ばかりなので、糸の太さはこれ、編み方はこうと、いちいち注文をつけた。そのせいか、商品の評判は良かった。

こうなると、だんだん欲が出てくる。どうせやるなら、日本一のメーカーと組まなければ面白くない。その頃日本一のメリヤス業者と言えば『丸松』だった。老舗である。旧阪神北海老江駅近くにあった本社工場を訪問した。貿易部長の田附さんと商談したが、話がなかなか通じない。私は特注品を買いたいので、交渉がどうしても技術的な話になる。技術にうとい田附部長は手に負えなくなって、生産の責任者を呼んでくれた。

これが私に幸いした。現れたのが50年配の藤村工場長で、20代の私と妙に気が合った。それから後、話が弾むとご自宅までお邪魔して、食事をご馳走になるような親しい関係になった。藤村さんには面白い体験をさせてもらった。『飛行機で東京まで行ってみないか』と誘われたのである。その頃飛行機はまだ珍しく、私も乗ったことはなかった。八尾空港に行くと、チャーター機は翼が布張りの単葉機である。叩くとボンボンと音がする。これで東京まで行けるのかと心細くなった。


富士山の上空を飛んだ。操縦士が、振り返って『操縦してみますか』と言う。自動車免許も持たない私が操縦桿を握った。突然揺れが激しくなり、急上昇、急降下を始めた。藤村さんが青い顔をしている。私は愉快この上ない。東京まで2時間半で着いた。戦後、富士山周辺で旅客機が墜落し、乱気流の激しい場所であることを知った。若かったとは言え、恐ろしいことをしたものである。勿論、丸松との取引は成功した。

同じ頃、私は京都の立命館大学専門学部経済科に通うことにした。夜間である。社員は十数人に増えて出張も多く、結構忙しかった。学生のアルバイトとは逆で、社長が学校に通っているという格好である。決して熱心な学生ではなかったのに、後に立命大から『名誉経営学博士号』をいただいた。理由は『戦後のベンチャービジネスの卓越した成果』とのことだが、気恥ずかしい思いである。

メリヤス以外にも、いろいろな事業に手を染めた。例えば、近江絹糸(現オーミケンシ)の社長だった夏川さんらと相談して蚕糸事業を始めたことがある。ヒントになったのはひまし油である。本来は下剤だが、当時は飛行機の潤滑油に使われ、旺盛な需要があった。蚕は普通桑の葉で飼うが、私が実験してみると、ヒマの葉も食べることが分かった。少し繭が黄色みを帯びるけど、成長が早い。

そこで、私がヒマを栽培し、その実からひまし油を取る。一方、繭は夏川さんの会社で糸にし、福井県にある酒伊繊維工業が織物にする。それを三井物産が売る。そんな計画だった。資本金は50万円で盛大にスタートした。一石二鳥、三鳥を狙うまことに優れたアイディアだと思ったのだが、戦局が悪化したため中止せざるを得なかった。(参考: 2001年9月・日経新聞『私の履歴書』。07年没、享年96歳)


★★いよいよ『平成』も終わる。『昭和』はどんどん遠くなる。その昭和の歌謡界で、是非ともアップしておきたい人、『西条八十さん』。西条さんは、早稲田大の仏文の教授でありながら、童謡や校歌、歌謡曲の作詞も行って、同僚らから『堕落だ』と厳しく攻められた。なら、と大衆のためだと、教授職を投げ打つ。そして作詞と仏文の研究を貫きとおし、幾多の名曲を生み出した。(「アラその瞬間よ」、「この太陽」、「女給の唄」、「侍ニッポン」、「ルンペン節」)


◇『西條八十 「東京行進曲」が大ヒット』
次女慧子が疫痢にかかり急逝した。八十の悲しみは胸につかえ、悲しみに暮れた。この悲しみからの脱却のため、早稲田の同輩からフランス留学を勧められる。四十日という長旅の末、マルセイユに到着。鉄道でパリへ。住まいはブローニュの森の入り口にある、リュクサンブールの下宿に落ち着いた。ソルボンヌ大学の古典文学部の聴講生として週2回大学へ通い、授業のない日は家庭教師にフランス語をレッスンしてもらった。

ホームシック気味の八十を慰めてくれたのは柳沢一家である。外交官だけあって柳沢宅は八十の下宿より恵まれており、妻と6歳になる和子と共に暮らしていた。下宿の近所なので、しょっちゅう出かけては夫人の手料理をご馳走になった。嫩子フタバコと同じ年の和子は、八十を『おじさん』と呼んでなついた。

フランス留学から帰国して1年が過ぎた。早稲田大学に復帰した八十は、仏文科助教授に任命され、フランス語、仏文学、近代詩、近代劇などの講義を受け持った。2年間、フランスで勉学に励んだことは大きな励みになった。そこで得た知識と教養は、己を高めるのみでなく、母校に恩返しをするため、引いては仏文学界のためになると信じている。八十が日本を留守にしている間、国内ではいろいろなことがあった。大正14年1月に日ソ条約が締結され、5月には治安維持法が施行され、普通選挙が成立した。7月には日本で最初のラジオ放送が始まっており、八十も帰国後に初めて放送を聞いた。西條家では留学中に男の子が生まれ、『八束ヤツカ』と名付けた。嫩子は豊島師範付属中学校に通っており、生意気な口をきく女の子になっていて、八十を驚かせた。


昭和2年の春、庭に真っ赤な椿が咲き乱れている。その日、家を訪れたのは映画会社日活の宣伝部長、樋口正美で、八十の詩友、日夏幸之助の従兄弟に当たる。『今度うちで「椿姫」を原作にした映画を制作することになりました。そこで主題歌を先生に作詞していただきたいのです』。『椿姫』は『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』を書いた大デュマの息子、小デュマで、娼婦の純情をテーマにしたフランス文学の傑作である。関東大震災の夜、避難した上野公園でハーモニカの旋律を聞き、『いつかは、大衆のために歌を書こう』と決心したが、映画主題歌も大衆歌の一つであろう。それに小デュマの作品とあれば不足はない。八十は快諾した。

◇『椿姫の唄』
 椿は赤し、恋ゆえに、巴里の都の春の灯に
 おごれば若き風流男ミヤビノの 瞳は燃えぬ、わななきぬ

それから1年後のこと。川口松太郎、直木三十五らによって発刊された大衆文芸誌『クラク』から流行歌の作詞を依頼された。後に流行作家となる川口が『現代の盛り場風俗をテーマに書いて下さい』と頼んできた。八十は『今こそ大衆のための歌を作るべし』という天の声を聞いたように感じた。東京の盛り場で、一番好きな場所は銀座である。フランスから帰国して3年ぶりに見た銀座は、大震災から見事復興して、以前にも増して盛っていた。そこで歌の題名を『当世銀座節』とし、銀座の風俗を読み込んだ。


◇『当世銀座節』
 銀座銀座と 通う奴は馬鹿よ 帯の幅ほど ある道を
セーラーズボンに 引き眉毛 イートン断髪クロップ うれしいね

『クラク』の編集部は最初から詞と曲の同時掲載を売り物にするつもりで、作曲を中山晋平に頼んだ。その翌日、なんと晋平が西條家を訪ねた。しかもカステラの手土産持参である。八十が晋平に曲を付けてもらうのはこれが初めてではない。童謡の『肩たたき』に曲付けしてもらったことがある。一番、二番、三番と少しづつメロディを変える職人芸に八十はいたく感心した。『肩たたき』は翌年にレコード化され、全国の子供達に歌われた。

『クラク』の昭和3年4月号に歌詞と曲が同時掲載されると、晋平が所属する日本ビクターからレコード化の話が持ち込まれた。30円の作詞料だったが、高いのか安いのか相場が分からない。サラリーマンの月給が40円から60円なので、そう悪くはないのだろう。レコードはソプラノ歌手、佐藤千夜子によって吹き込まれ、7月に発売された。

『当世銀座節』のレコードが売れ始めた頃、八十は詩友の堀口大学、日夏幸之助と共同編集で、詩誌『パンテオン』を創刊した。自宅でその編集作業に追われているところへ、晋平がやってきた。『今、浅草の「カジノ・フォーリー」で、踊り子が「当世銀座節」を踊っているという噂を聞きましてね。歌が流行っている証拠ですよ。これから一緒に見に行きませんか』『それは面白い。お付き合いしましょう』。堀口と日夏を置いたまま、八十は晋平と円タクで浅草に向かい、劇場に入った。大勢の踊り子が華やかな衣装で登場、見事なラインダンスを始めた。そのうち、巨漢の男が出てきて歌い出した。惜しみなく脚線美を見せる踊り子達と男は不釣り合いで、しかも踊りがぎこちない。一人だけ浮いている男性歌手の名は、三島一声といった。その後もレコードは売れ続けた。

八十と晋平のコンビは『当世銀座節』に続いて、『マノン・レスコオの唄』を発表、第三弾が『東京行進曲』の映画主題歌だった。これが前2作を上回る大ヒットとなり、映画は浅草富士館と上野みやこ座で封切られ、連日の大入り満員、早速続編が決まった。八十としては、日活の樋口宣伝部長に対して顔が立った。銀座や新宿のカフェでは競って『東京行進曲』のレコードを流した。


『東京行進曲』は、25万枚も売れるレコード史上空前のヒット曲となった。しかし、詩壇ではそのことが問題になっていた。『西條は堕落した』『商業主義に詩人の魂を売り渡した』のと批判する者がいる。八十に敵意を抱く白秋一派ならともかく、詩誌『未来』の同人だった花村英伍までが批判的な文章を書いたのには驚いた。花村は八十が詩作を怠けていた時期、励ましてくれた詩友である。『砂金』を出した出版した頃から疎遠になっていたが、恨みを買った覚えはない。『花村がそんなことを書くなんて』。フランスから帰国したばかりの柳沢も首を傾げた。

八十は様々な批判を柳に風と受け流した。『シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか』の歌詞について、小田急のお偉方が『うちの電車を男女の駆け落ちに使うような悪い印象を与えた』と怒っていると聞いた時も、『歌が流行ると色んなことがあるもんだ』と笑ってすませた。ただ、音楽評論家の伊庭孝が、ラジオを通じて『東京行進曲』を攻撃した内容は聞き捨てならなかった。愛する東京をあまりに退廃的に描いたのが不当であるとして『江戸っ子の面汚し』と激しく罵倒したのだ。

江戸っ子の面汚しと言われて黙っている訳にはいかない。読売新聞に、『伊庭孝氏に与ふ―「東京行進曲」と僕』と言う反論を書いた。『僕の東京行進曲が流行しそれが癪にさわるならそれを好んで歌う大衆を責めるがいい。その意味で僕に何かと言うのは見当違いであろう。なお伊庭氏は「十年前に、かなりや、の童謡を書いた西條氏が・・・」云々と論じて、東京行進曲の歌詞を野卑だと罵られそうだが、僕は自分がこの二つの歌詞を製作した態度に一つも矛盾を感じていない。時の言葉と言うものは、その詩が扱う素材によって自ずからなる変化を執る。その変化さえ自然ならそこに上品も下品もない、「かなりや」は純真な児童に精神的な糧として与えた抒情詩だ。「東京行進曲」は不合理に膨張した経済生活の下に乱舞している浮華な現代の首都人の生活のジャズ的風刺詩だ。之を同一水平面に置いて批評する馬鹿もあるまい』。以上のように反撃して一矢を報いた。詩壇の批判をよそに、『東京行進曲』は日本中で流行った。 (参考: 吉川潮著『流行歌・西條八十物語』)


★★<『地下アイドル』増殖中>事務所のプロデュースを受けず、アイドルを自称する女性達。地下のライブハウスを活動の舞台とすることから『地下アイドル』とも呼ばれ、東日本大震災の後、にわかに増え始めたと言う。毎夜どこかで開かれるライブにはコアなファンが集まり、声援を送る。

東京・四谷にある雑居ビル。2018年の年末、地下のライブハウスは異様な雰囲気に包まれた。スポットライトと大音響の音楽の中で『アイドル』達が踊り、客を煽る。この日、広いとはいえないステージに立ったのは11組。自前の衣装、オリジナルの振り付けで持ち時間20分を全力で使い切る。

時折絶叫調の声援が起きる客席の年齢層は幅広く、50代とおぼしき男性の姿も見えた。Tシャツ姿で汗だくになりながらペンライトを振り続けている。ライブ終了後、2人組のユニット『ランパーエル』の兎乃ウノ結衣さんと美羽えりさんがファンと談笑しながら、グッズを売っていた。ともに20代だが、実年齢は非公開。岐阜県出身の兎乃さんは、秘書の仕事をしながらライブを続ける。自宅は6畳の1K。マットレスに小さなテーブルとテレビがあるだけ。ここで美羽さんと2人、ステージの練習をする。

経済学者でアイドル研究家でもある田中上武大教授は『東日本大震災の後に、地下アイドルが一気に増えた。会いにいける~をコンセプトに掲げたAKB48が売れた影響が大きい』と話す。『会いに行ける』から『自分にもあなれる』と思考を広げる人が出て来たと。音楽ソフトを使えば、作曲は簡単、SNSでライブも配信出来る。お金をかけずにアイドルを自称出来る環境も裾野の拡大につながった。


手作りのパフォーマンスは勿論粗削り。スターダムを夢見る人からアイドルを趣味として楽しむ人まで混在し、歌やダンスのレベルにはかなりの差がある。でも兎乃さんは『トップを目指す。地下アイドルとは呼ばれたくない』と張り切る。

四谷のライブ会場で会った男性ファンは『距離が近い分、自分がプロデュースして育てている気分になれる』。『本業は地下アイドルの追っかけ』と話す大手化学メーカー勤務の男性(37)は、『完璧じゃないところがいい』と魅力を語る。会社は窮屈、ライブが発散の場だ。未完成な彼女達がどう成長するのか見守りたい―。ファンを引き付けるのはそんな心理か。『この中にきっと原石がいる』。男性は一緒に撮った100枚近い写真を見ながら、そう話していた。

かつて、社会を映すように少数のアイドルが流行を作り、若者らは熱狂した。地下劇場を足掛かりにする女性達と、自分だけのアイドルを探すファンの関係は『大衆』が失われた『個』の時代の断面とも言える。


★★<路面電車の復権 広島市年間4千万人利用>市街地の道路上に敷いた軌道を走る『路面電車』が復権しつつある。モータリーゼーションが進んだ昭和の時代に『邪魔者』扱いを受けて廃止が相次いだが、平成の終盤になり、街中に人を呼び込むインフラとして再評価されたからだ。全国にある19事業者の2017年度の乗客数は12年度に比べて5%増えた。

増えたのは17事業者。24%と伸び率トップだったのが富山市の『富山地方鉄道』の市内電車だ。JR富山駅から南側に広がる中心部を運行する3系統がある。17年度は524万人が利用した。5年で100万人以上、上乗せした。15年3月、北陸新幹線の長野~金沢間が開業。途中の富山駅にも首都圏との鉄道アクセスが改善し、集客力が高まったのが理由だ。新幹線の開通と同時に共用が始まり、観光客らの利便性が向上した。

09年、市が軌道を整備し、冨山地鉄が車両の運行を行う『上下分離方式』で中心市街地の環状線が復活。ガラス美術館や図書館などが入り、市街地再開発の象徴とされる複合施設『TOYAMAキラリ』にあえて駐車場を設けなかった。次の一手は、20年春の路面電車の『南北接続』だ。富山駅を挟んで北にある富山ライトレールのレールと接続する。北側から乗り換えなしに中心街に行けるようになる。『コンパクトシティ政策の一つの到達点』を話す。


『広島電鉄』の市内線は17年度の乗客数が3,910万人と全国の路面電車で断トツ。5年間で130万人上乗せした。乗り降りしやすさの取り組みが進化している。例えば、1999年に運行を始めた独シーメンス製の新型車両『グリーンムーバー』。床の高さは33cmと『超低床車』で、路面電車の印象をガラリと変えた。

18年5月からワンマン運転が可能な低床車『グリーンムーバーレックス』に限定し、交通系ICカードを使えば全ての扉で乗降出来るようにした。乗降を分散すれば停車時間が短縮され、ダイヤの乱れを防ぐ。3月には本社前の電停を改良して空調施設を整えた待合い室を新設した。『高齢者から市内中心部に移動する手段として選ばれるためにはどうすれば良いか』―椋田社長は高齢者の利用増加に力を注ぐ。郊外の戸建て住宅から高齢者が市内中心部に移り住む動きが顕著であり、今後も高齢者が増え続けるためだ。

24年度をめどにJR広島駅の駅ビルを建て替えるのに連動して、広島電鉄の電停も地上から高架に上がる。JRの改札がある2階で乗り換えが出来るようになり、動線がフラットになる。

17年度の乗車人員が1,109万人と、平成以降で最多となったのが『熊本市電』。大きなヘッドランプの旧式な車両が行き交い、観光の魅力を高める。熊本地震からの復興にも貢献する存在だ。JRの駅が熊本城や中心街から離れていることもあり、観光客にとっても2系統の路線は貴重な移動手段だ。1951年から走るレトロ車両や独製低床車なども観光の目玉だ。年末年始はLEDで飾り付けた車両も走り、街の賑わいに一役買っている。


★★< トヨタ自動車の春闘の労使交渉>トヨタ自動車は、今春闘の労使協議会を20日、愛知県豊田市の本社で開いた。組合側は同じ働きをする従業員でも採用形態や職種、学歴によって昇進、待遇に格差が生じているとして改善を求めた。豊田章男社長は『努力し続ける人を応援する会社にしたい。自分たちだけではどうにもできないことを率直に会社にぶつけてほしい』と要請した。

協議会には経営側から豊田社長ら約120人、組合側はトヨタ自動車労働組合の西野勝義委員長ら約230人が出席した。非正規を含む従業員が働きやすい環境を整えて『全員活躍」』をと。

しっかし驚いたねえ、春闘の交渉を『団体交渉』と呼ばずに穏やかな話し合いの意味が強い『労使協議会』と呼ぶとは。まあ、それはいいとして、出席者の数。労使合計350人だよ。信じられん。なんでこんな大勢が一同に会するのだろうか。もうセレモニー以外の何物でもないねえ。交渉の実態は水面下で行われ、じわりメディアなどの推測記事が追認されるという次第か。これが日本を代表する企業と組合の形なのかなあ。UAWの皆さん、よくよく日本式労使関係の片鱗を見てくださいね。最初から力と力でぶつかるのではなく、お話し合いで、上品に、相手の立場を尊重して物事を進めるのが日本式。もちろん、スト権確立など到底頭にはありませんよ。


★★<カープ・堂林、生き残りへ沖縄ラスト4戦『アピールするしかない』>カープの沖縄2次キャンプは21日から最終クールに突入。堂林翔太内野手(27)は、1軍生き残りと定位置奪取への可能性を求め、沖縄でのラスト対外4試合に挑む。3年ぶりのサード再挑戦で注目を集める今春。先行する最右翼の安部はインフルエンザのため療養中。打って守って従来の固定観念を覆し、好機を最大限生かす構えだ。
 
19日は沖縄キャンプ第1クールの最終日。予定されたロッテとの練習試合は開始直前に降った豪雨のため、グラウンド整備をする間もなく中止となった。アピールの場を失った出場予定選手は軒並み残念そう。9番・サードとコールされた堂林もその1人だ。

16年以来のサード再挑戦に燃える今春。送球面にはまだ課題を残すものの、昨秋から取り組む改造フォームでコンスタントに快音を響かせ、打撃面では従来の固定観念を覆しつつある。前日18日、初の対外試合となった韓国・KIA戦(コザしんきん)が好例だ。『3打席目は、もう思い切りやってやろうと思った。今までだとズルズルいってしまいがちだったけど、いろいろな修正方法があるので切り替えられた』。

第1打席はボール球の低めカーブに空振り三振。2打席目は初球の直球に詰まり、遊ゴロに倒れた。堂林の典型的な凡退パターン。だが、3打席目には修正し、初球をバックスクリーンへ運んだ。推定飛距離130m。見事な当たりだった。


『投手側に流れていた体を、思い切って残す意識だった。失敗しても、今はダメな原因がわかるし、こうすれば…もわかる』。昨季までサードを守った西川が今春から外野と一塁、二遊間のバックアップに専念。三塁の定位置争いは、安部との一騎打ちの様相を呈している。ただ、安部には17年に出場123試合で打率.310をマークした実績があり、療養中といえども最右翼に違いない。

『レギュラーを目指してやっているけど、安部さんの方が全然上だと思う。練習してアピールするしかない』。そのためにも、キャンプ最終クールに組まれる対外4試合が重要だ。1軍生き残りは濃厚でも、首脳陣に定位置奪取の可能性を感じさせ、3月戦線につなげたい沖縄でのラスト4番勝負。再起したプリンスの背を春の暖かな風が押している。

まあ、正念場だねえ、堂林くんも。野村監督に目をかけられ、一時カープのプリンスの冠をもらったものの、伸び悩んだ。鈴木が入団した頃は、堂林が教え役だったが、今は鈴木が教え役。東京から連れて来た元アナのかみさんのためにも1億円プレーヤーにならなきゃねえ。『残された時間は、ない。死んだつもりでガンバレ、堂林!』。


★★<富士通、2度目の希望退職2,850人>富士通が総務や経理など国内の事務部門をスリム化する一環で、『2,850人が3月末』で早期退職する。国内従業員の3%に達する。事務部門の3割に当たる5千人を営業などに配置転換する計画を打ち出していたが、異動が難しい人には退職金を割り増すなどの制度を活用するとしていた。計画の6割近くの人が会社を去る選択をしたことになり、2013年に半導体事業の再編などで2,400人が希望退職して以来の大規模な人員削減となる。

今回の希望退職は昨年12月~今年1月に、定年後の再雇用者を含む45歳以上の正社員を対象に募集。対象者全員と面談し、応募の意向などを尋ねたと言う。退職金の加算部分など関連費用461億円を今期決算に計上する。

富士通は半導体やPCなどの事業を売却し、主力のITシステム事業に注力する戦略を進めてきたが、利益水準は経営目標を下回っていると言う。

まあ、川崎でのことで、求人のひっ迫にも助けられ東京の人材市場で再就職は比較的容易いとは思えるが、定年まで働けると思っていた人達には不幸なことだねえ。しかも2度目とは。あれもこれも、世界の変化のスピードが格段に早くなっていることに起因するのだろうねえ。そして、勿論経営者の責任も。企業は事業の変革を求めるが、社員は今のままの仕事が続けたいと思う、すれ違いギャップだろうねえ。不幸だ。しかし、今や、『一生一社』の時代は終わったのだろうねえ。個人としても会社にもたれるのではなく、積極的にキャリアを積む姿勢が肝要だな。


★★<地銀波乱、エリート行員流出 入行時の志かなわず >『夜、空いている日に会えないか?』。1月中旬、都内の情報技術(IT)企業で働く20代男性に1本の電話がかかってきた。声の主は静岡県の地方銀行に勤めている元同僚。転職の相談だった。

電話を受けた20代男性は同じ地銀から転職した。『地方企業の問題にもっと向き合いたかった』。転職の理由をこう振り返る。地銀に勤めたのは約3年。事業承継を円滑に進め、中小企業を再生させたい――。こんな理想を抱いて銀行に入ったが、待ち受けていたのは厳しい残業規制。思うように仕事ができず、当初の志は実現が難しくなっていった。『退職した時、すでに同期の2割が辞めていた』。背中を向けた仲間の多くは公務員やコンサルタントに転身した。

銀行員の転職が活発になっている。リクルートキャリアによると地銀を含めた銀行員の転職者数は、2008年9月のリーマン・ショック直後の09年度と比べて17年度は4.55倍に増えた。全職種の平均(2.64倍)を大幅に上回っている。かつて転職者の5割は同じ金融業界で同業他社を転々とすることが多かったが、近年は3割どまり。代わりにコンサルティングや建設・不動産業界などが受け皿として存在感を増す。

人材サービスのビズリーチでも、地銀や信金から採用に関する問い合わせがこの2年間で5倍に急増した。全国銀行協会によると、地銀の行員は18年3月末時点で約17万4千人と統計で遡れる01年と比べて17%減った。行員減は経営のスリム化につながる一方、営業力そのものをそぎかねない。ここ1~2年で目立ってきたのは、地銀の東京支店で活躍しているエース級の転職だ。東京支店は収益を支える越境融資や有価証券の運用にあたる戦略的な部隊。だが、東京で働くうちにそのまま転職してしまう行員が増えているという。『物理的に動きやすい東京で働くうちに転職に気持ちが傾きやすくなる』。リクルートキャリアで転職支援を手がける福元崇之マネジャーは地銀マンの転職事情を明かした。


『お客様第一。そんな銀行の建前と本音が腹に落ちなかった』。フィンテックベンチャーのトランザックスの武井恭子さんは群馬銀行の出身。就職氷河期の00年に入行した。行員時代は総合職として大企業から中小企業まで融資の営業に駆け巡った。『企業に担保がなくて貸せなかった。決まりだから』。苦い思い出を振り返る。いまは電子債権を担保に中小企業の資金調達を支援する『POファイナンス』を手がける。地銀にいれば一定の年収を維持できた可能性は高いというが『しゃくし定規な仕事ばかりでは楽しみがない』。

『来たるべき海外進出に備える』。臨床検査薬メーカー、セロテック(札幌市)の廻谷隆行社長は18年6月、ポルトガルへ飛んだ。目指すのは臨床検査薬の直接輸出。同国を足掛かりに欧州へのビジネス展開を描くが、商機はあると確信できた。北海道から遠く離れたポルトガルでの視察。地元の北洋銀行に相談すると、人材紹介会社のサイエスト(東京)を通じて海外進出の専門家を派遣してくれた。北洋銀行によるコンサル業務は1年あまりで約20件。小渡信洋・ソリューション部副部長は『本業での資金需要も出てきた』と手応えをつかむ。

金融庁は地元の中小企業へのコンサルティングを含めた金融仲介機能の発揮を地銀に求める。例えば、中小企業による海外進出や販路開拓は各国・地域の法律や商慣習が壁となる。海外に拠点を抱える地銀もあるが、小所帯で支援に限界がある。意欲の高い中小企業を支えていくには、外部の優秀な人材の有効活用で人材難を補完するといった知恵が求められている。

私が転職した企業では、地元大手銀行と取引していた。その企業はIT使用の端くれ。銀行員は融資案件に社長から説明は受けたが、IT用語などが頻繁に出てきて、またビジネス構造も理解しがたい、らしかった。支店に帰り、融資稟議を書くにつけ、分からないことが多い。で、私のところに電話をしてきて説明を求めた。書類、パンフなどが入った大きく思いカバンを持って、顧客訪問。融資は担保万能の時代から企業力の評価へと移りつつあったが、その企業力を書類に上げるのはなかなか大変なのだ。あの時、銀行員には同情したねえ。あの頃からだな、地銀の没落が始まったのは。

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