広島市内で人気のある食堂『むさし本通店』と、『世界遺産供戮任后6 クラクフ歴史地区 ポーランド、7 サナア旧市街 イエメン、8 ブリッゲン ノルウェー、9 州立恐竜公園 カナダ、10 ルーネンバーグ カナダ。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
『むさし』は、広島市の戦後の青果市場で朝早くから働く人にと、浮田さんと言う方のおかみさんが『むすび』を作って提供したことから始まりました。これが人気を呼びビジネスに結びついたもの。もとはと言えば、親切心から出た行動ではありましたが、神様が見ていたんだねえその善意を。現在郊外店やマツダスタジアム店などを加え計10店のチェーン店の人気店になっています。今はしゃぶしゃぶなどの和料理に領域を広げ、繁盛もして。無心の努力の成果だねえ。
★★NHKの朝ドラ『まんぷく』。チキンラーメンの生みの親『安藤百福さんの妻仁子さん』を主人公にしたドラマ。フィクションの部分もだいぶある。百福さんが台湾生まれで、織物の商売で独り立ちされたこと、終戦時には不動産に手を染め、その関係で信用組合の理事長に祭り上げられたことなど、経済人、財界人としての横顔が落ちている。ここに百福さんの『私の履歴書』を参考に、『チキンラーメン、即席ラーメン、百福さん』の歴史を綴る。
★★『チキンラーメン』の需要は、ある日突然爆発した。倉庫跡の小さな工場では1日、6千ケースを生産するのがやっとで、商品は全然足りなかった。すでに厚生省が粉食を奨励する時代ではなくなっていたが『日本人にはパンだけではなく、めんを』と言う私の思いが現実になりつつあった。戦後すぐ、即席めんの研究を勧めてくれた国立栄養研究所の有本所長に、ある時ふと思い立って商品の栄養分析を依頼した。
実はその頃、チキンラーメンは地鶏を香辛料と一緒に丸ごと圧力がまで煮詰めてとった濃厚なスープを使っていた。やがて、チキンラーメンを食べると精がつくという評判が立った。ご婦人からは肌につやが出て来たといった内容の手紙が相次いだ。これは何かあるぞとひらめいて、分析を依頼したのである。
すると、トサカや肋骨のガラから、様々な栄養成分が抽出されていることが分かった。まだ日本人の栄養状態が完全でなかった時代なので、厚生省はチキンラーメンを『妊婦の健康食品』として推奨し、関西一円の保健所に商品が展示されることになった。有本さんの分析結果によって、思いもよらない付加価値が与えられたのである。また、ビタミンB1、B2を添加した商品は1960年(昭35)に厚生省から『特殊栄養食品』の認可を受けた。
同じ頃、田川工場に三菱商事大阪支社の左南穀肥部長が訪ねて来るようになった。チキンラーメンがよく売れると聞いて、三菱商事に販売させてほしいと言うのだ。商社に販売を委託すれば、それに対応する生産体制が必要になる。こんな小さなラーメン屋が日本一の総合商社と組んでやっていけるのか。私は迷った。
左南さんは、毎日午後3時になるとやって来て、出来上がったばかりのチキンラーメンを食べて帰った。私を説得に来ているのか、ラーメンを食べに来ているのかわからない。私はその頃すでに、本格工場を建設するため高槻市に1万5千屬療效呂鯒磴ぁ建設に取りかかっていた。一方で、全国的な流通システムを確立する必要に迫られていた。思案の末、三菱商事に販売をお願いする決意を固めた。
三菱商事の役員会では『三菱商事ともあろうものが、なぜラーメンまでやる必要があるのか』と言う異論が出て、決定は難航した。当時の穀肥では、穀物や肥料などの大きな取引が中心で、加工食品は扱っていなかったのである。左南さんは社内調整に相当苦労されたらしい。結局、原料の小麦粉を三菱商事から仕入れることなどにして、取引が成立した。当時の藤野社長の決断だった。取引条件は私の方針通り、こちらの支払は3ヵ月の手形で、あちらからの受取は現金だった。よくぞ承知していただいたものである。
私は早速パッケージに『発売元・三菱商事』と印刷して、総合商社の知名度を利用させてもらった。これが大きな信用に繋がった。三菱商事に続いて東京食品、伊藤忠商事とも同じ契約を結んだ。この3社を特約代理店と呼び、その下に特約卸店が全国3千店に達した。こうして日清食品の販売を支えていただける強力な流通組織が出来上がったのである。
当時の三菱商事のキャッチフレーズは『ラーメンからミサイルまで』だった。私は内心、不満だった。人間にとって食が一番大事ではないか。ラーメンはミサイルと違って平和的で、よほど人類に貢献している。せめて『ミサイルからラーメンまで』にしてほしかった。(参考: 2001年9月・日経新聞『私の履歴書』。07年没、享年96歳)
★★いよいよ『平成』も終わる。『昭和』はどんどん遠くなる。その昭和の歌謡界で、是非ともアップしておきたい人、『西条八十さん』。西条さんは、早稲田大の仏文の教授でありながら、童謡や校歌、歌謡曲の作詞も行って、同僚らから『堕落だ』と厳しく攻められた。なら、大衆のためだと、教授職を投げ打つ。そして作詞と仏文の研究を貫きとおし、幾多の名曲を生み出した。(「娘十九はまだ純情よ」「ゲイシャ・ワルツ」「丘は花ざかり」「伊豆の佐太郎」「ひめゆりの塔」)
『西條八十 トンコ節、世間を席捲。芸者ワルツ、大ホームラン』
昭和25年、イギリスの詩人、フレーザー夫妻が来日し、大隈講堂で囲む会が開かれた。フレーザーは答辞の中で、『かなりや』が英訳され、ロンドン・マーキュリーに掲載されたと報告した。八十は自分の詩がイギリス人に読まれたことを誇りに思った。
昭和26年が明けても景気は右肩上がりで、花柳界は活気を呈している。八十は神楽坂、新橋、赤坂などへよく出かけた。その夜もコロンビアの招きで赤坂の待合いで遊んだ。『青い山脈』の大成功によって、宣伝部長から文芸部長に昇進した伊藤が言った。『実は「トンコ節」を書き直していただきたいのです』。『トンコ節』は2年前に書いた歌である。『月が出た出た月が出た』の『炭坑節』にヒントを得て、タンコウをトンコに変えた現代的な歌詞に古賀が曲を付け、楠木繁夫と久保幸江のデュエットでレコードになった。
◇『トンコ節 2番』
あなたのくれた 帯留めの 達磨の模様が ちょいと気にかかる
さんざ遊んで 転がして あとでアッサリ つぶす気か
ネー トンコ トンコ
楠木は戦前ヒットを飛ばした歌手だが、ライバル社へ移籍した。そのせいでキャンペーンが打てず、レコードの売れ行きがピタリと止まった。そこで、楠木に代わり、新人の加藤雅夫を起用し、再録音することに決めたと。手前勝手な依頼だが、ひばりの歌が続けて大当たりしたことで機嫌が良い。酒が入っていたこともあって、『いいよ』と気安く請け負った。『2番はいい文句だから、そのまま1番にして、2番以降を書き足せばいいだろう』。こういう時は仕事が速い。酒、肴がのったテーブルに、カバンから名前入り原稿用紙を取り出し、すらすらっと書いた。
◇『新トンコ節』
おもいざらしならそのままで 洗った杯ゃちょいと水くさい
もとまごころあるならば つけておくれよ 口紅を
ネー トンコ トンコ
上もゆくゆく下もゆく 上も泣く泣く下も泣く
君は省線 僕はバス つらい別れのガード下
ネー トンコ トンコ
『うまいもんだ。先生は名人ですね』。伊東が感服した。『ほんと、面白いわ。上もゆくゆく下もゆく、ですって』。芸者達の嬌声を聞いて、八十は照れながら杯を干した。『新トンコ節』がヒットし、日本中で『ネー トンコ トンコ』と歌われている最中、西條家にも慶事があった。東大理学部の大学院に進んだ八束が結婚したのだ。相手は外交官、久保田貫一郎の長女紀子で、八束自身が選んだ伴侶である。学者肌の八束は結婚披露宴も行わず、東京ステーションホテルで両家の親兄弟と食事をするだけで済ませた。八十としては不満だったが、嬉しいことに変わりはない。食事会が済んだ後、紀子に握手を求めた。
『トンコ節』のヒットに気を良くしたコロンビアは次の企画を練った。例によって料亭であるが、今夜は赤坂でなく神楽坂である。『いいのかい。「トンコ節」の歌詞が問題になっているそうじゃないか』。問題のパートとは、『上もゆくゆく下もゆく 上も泣く泣く下でも泣くよ』で、卑猥な意味にも受け取れると、有識者や女性議員の批判を浴びている。そのため、開局したばかりの民間放送では放送禁止にする動きがあるらしい。『ですから、もう一曲きわどいのを作って、世の有識者共をギャフンと言わせてやりましょうよ』『そんなことしていいのかね』『いいんです。それについて、思いついたことがありまして』。伊藤は洋楽レコードの話を始めた。輸入盤で最も流行っているのは、ドリス・デイの『テネシー・ワルツ』だと言う。『それで、ジャパニーズ・ワルツを作ったらヒットするに違いないと思いましてね。日本の代表と言えば、外人はフジヤマ、ゲイシャと並べるでしょう。そこで「ゲイシャ・ワルツ」という歌が出来ませんか』『ゲイシャ・ワルツか。それは面白そうだ』『それをはん子に歌わせたいのです』。
はん子とは、伊藤が見出した芸者出身の歌手、神楽坂はん子のことである。伊藤から、『彼女が歌う「アリラン」が素晴らしい』と言われ、聴いてみたことがある。はん子の歌う『アリラン』は確かに心にしみた。話してみると、江戸っ子と言うだけあって、竹を割ったような気性だ。八十はすっかりはん子が気に入り、『この妓を売り出すために、古賀と三味線歌謡を書こうじゃないか』と約束した。それがデビュー曲の『こんな私じゃなかったに』だったが、ヒットしなかった。そこで伊藤は、『ゲイシャ・ワルツ』をはん子に歌わせたいのだろう。早速翌日から仕事にかかった。『トンコ節』の歌詞が卑猥だと批判されたのを逆手に取って『これなだどうだ』とばかり、洒落心たっぷりに書く。
◇『芸者ワルツ』
あなたのリードで 島田もゆれる チークダンスの なやましさ
乱れるすそも はずかしうれし 芸者ワルツは 思い出ワルツ
空には三日月 お座敷帰り 恋に重たい 舞い扇
逢わなきゃよかった 今夜のあなた これが苦労の はじめでしょうか
『あなたのリードで島田もゆれる』のだから性行為を連想させる。しかし、すぐ『チークダンス』と事実と述べているのだから文句も付けられまい。一番、二番、三番、四番と次々に歌詞が湧いてくる。乗ってるともう止まらない。八番、九番、十番、下足札ではないが、どんどん出て来る。十番まで書いた原稿を渡すと、さすがの伊藤も目を丸くした。古賀がまた興に乗って、浮き浮きするようなメロディを付けた。レコーディングの時から部員の評判が良く、『ヒット間違いなし』と言われたが、予想通り、全国の温泉街、歓楽街で歌われ、ヒットどころか大ホームランになった。
このブームを取り上げた新聞記事の中で、古賀は八十についてこんなコメントを寄せた。『希代の才人です。女心のやるせなさを表現して、これほど心憎い歌詞を作れる人は他にいません。特に花柳界の女の気持をつかむことにおいては日本一です。だから、この歌がヒットしたのだと思います』。 (参考: 吉川潮著『流行歌・西條八十物語』)
★★<日本の絵本が中国で桁外れに売れる背景>1,000万部迫るシリーズも、巨大な潜在市場に。日本の出版市場は2018年も縮小し、書籍・雑誌の推定販売金額は1兆2921億円(出版科学研究所調べ)となり、1997年に前年を割って以来、21年間にわたってマイナスが続いている。その背景には、メディアの多様化や人口の減少など構造的な問題があるため、今後もすぐに市場が拡大に転じることは考えにくい。
そのような中で今、海外市場が注目されている。なかでも、巨大な人口を抱え、日本とは文化的にも経済的にも密接な関係を持つ中国市場の存在感が出版業界で高まっているのだ。
◇『トットちゃん』中国で1,000万部突破
2017年、日本でも800万部を超えて戦後最大のベストセラーとなっている黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』の中国版発行部数が、日本を上回る1,000万部を突破したというニュースが流れた。また、いま中国で最も売れるフィクションの作家は東野圭吾だという報告もある。たしかに、中国では多くの書店が入り口付近の平台で東野作品の中国版を大々的に展開している。
中国で日本出版物の翻訳版を刊行する出版社は多い。日本の出版社などによる主要な現地法人は、大手出版社の講談社が設立した講談社(北京)文化有限公司、KADOKAWAが中国大手出版グループと合弁で設立した広州天聞角川動漫、児童書最大手のポプラ社が設立した北京蒲蒲蘭文化発展有限公司(以下、蒲蒲蘭=ぷぷらん)、大手取次の日本出版販売が設立した北京書錦縁諮詢有限公司など多数ある。
また、『窓ぎわのトットちゃん』の中国版を出し、山岡荘八『徳川家康』中国版を累計300万部販売したのをはじめ、東野圭吾や村上春樹など日本のベストセラー作家の作品を数多く刊行する新経典文化股份有限公司といった現地民間出版社の存在も大きい。このうち、ポプラ社が2004年に北京で設立した蒲蒲蘭は、設立以来10年ほどは赤字続きだったが、ここ数年、絵本の市場が急拡大したことで売上高を急速に伸ばし、2016年には年間売上高が1億元(約17億円)を超えたという。
ポプラ社・長谷川均社長は冗談交じりで『蒲蒲蘭はここ数年で日本のポプラ社の売り上げを抜くだろう』と、中国での成長に目を見張る。宮西達也さんの『ティラノサウルスシリーズ』は累計800万部、10年以上前に刊行された『くまくんのあかちゃんえほん』(ささき ようこ)に至っては累計1,000万部に達する売れ行きだ。それほど、このところの中国児童書市場の拡大は著しい。
◇児童書は2ケタ成長、書籍市場の4分の1占める
中国国務院の発表によると、2017年の中国書籍市場は約803億元(約1兆3000億円)だが、児童書はこのところ毎年2ケタの成長を続け、書籍市場でジャンル中最も大きい約25%を占めるに至っている。近年の著しい経済成長で経済力をつけた中間層が沿岸部から徐々に内陸部にも拡大し、『一人っ子政策』への反省などから子どもの情操教育に熱心な親が増えていることが、児童書市場拡大の直接的な要因といわれている。
しかし、ポプラ社が北京に蒲蒲蘭を設立した当時の中国には、子ども向けの創作絵本の市場はほとんどなく、『絵本』という言葉すら存在しなかったという。そんな状況下で蒲蒲蘭は、当時外国資本に開放されたばかりの出版物小売業の免許を取得し、北京で絵本専門店『蒲蒲欄絵本館』を開設。続いて出版物卸業の免許も取得し、日本や欧米の翻訳作品を中心に絵本を刊行してきた。いまでは中国各地に同社とは“ゆかり”のない『絵本館』を冠した店舗や施設、建物などが数千カ所もあるという。『絵本』という言葉は市民権を獲得し、多くの現地出版社も絵本に参入している。
可能性に満ちているように見える中国の出版市場だが、この国ならではのリスクもある。まず、中国で出版は許可制で、いまも出版は外国資本はおろか地元民間資本にも開放されていない。政府機関が割り当てた『書号(ISBN・国際標準図書番号のこと)』がなければ出版物を発行することはできず、『書号』が割り当てられるのは584社の国営出版社だけなのだ。多くの日本の出版社は中国の出版社に版権を売るだけにとどまっており、蒲蒲蘭をはじめとした外資法人や、新経典のような民間出版社も、国営出版社から『書号』を買って出版している。ただし、それでも実質的に出版物の7割は、こうした民間出版社が刊行しているという話もある。
◇中国当局の規制で求められる『忖度』
こうした規制の多くが、法律や政令といった正式な文言として明示されないため、出版関係者に『忖度』を求められるというのも、対応を難しくさせている。ただ、規制がある中でも、需要のあるコンテンツは市場で広がり続けている。蒲蒲蘭の創業当初から現地責任者を務め、中国で『絵本』文化を広めた立役者とも言える石川郁子さんは、『中国には「規制があれば対策がある」という言葉があります。われわれも絶えず規制を乗り越えながらやってきました』と話す。
実際、蒲蒲蘭は2018年に松岡達英さんの新作『変成了青蛙』(かえるになった)を日本語からの翻訳ではなく最初から中国語の書籍として発売した。もともと松岡氏は、日本でもミリオンセラーになった『ぴょーん』をはじめ、他社も含めると30タイトル以上が刊行される人気作家だが、オリジナルで出すことで、版権輸入より許可されやすいというメリットもある。
海賊版についても、ホームページなどで読者に無許諾版を手に取らないよう啓発する一方で、「絶対に許さない」という姿勢で、摘発への協力や訴訟も辞さないという。まさに、リスクをとって規制や障害をかいくぐりながらビジネスを続けてきた結果が、いまの成長に結びついているということだ。実際に世界中で翻訳版が出ている村上春樹作品などを数多く手がける文芸出版大手の新潮社ですら、海外への版権輸出を扱う専門部署ができたのは、ほんの10年ほど前のことだ。
そのほか海外からは、フランス38社、イギリス19社、アメリカ13社、オーストラリア10社、韓国8社、イタリア8社、スペイン7社などが出展。なかでもイギリスの出版業界は中国を「最重要地域」に位置づけ、政府が中小出版社の出展に補助金を出して支援したという。
◇国内で売れ行き止まった本が売れ筋に
中国には出版に対する規制や、広大な国土ゆえの流通の難しさなど、出版を行ううえでのリスクはあるものの、日本の出版社にとって無視できない市場であることは間違いない。しかも、日本で売れ行きが落ち着いたロングセラーが新刊として売れている。
実際、いまの日本で大人気のポプラ社『かいけつゾロリ』は、まだ中国ではそれほど売れていない。日本でもこの作品は、当初、いわゆる『絵本』らしくない、マンガのようだと、親からはあまり歓迎されなかったが、いまや『子どもが欲しがる児童書1』として刊行開始から30年を超えるベストセラーになった。おそらく今後、中国でも子どもが作品を選ぶ時代が来れば、受け入れられる作品の幅がさらに広がる可能性もある。
こうした道を切り拓いていくことは、日本の出版社が持つ資産(コンテンツ)が、海外で新たな価値を生み出すという経済的な効果とともに、両国間で文化や価値観を共有することにもつながるであろう。それは、翻訳本を数多く受け入れてきた日本人こそが実感していることでもある。
★★<女性宮司活躍す>佐賀県大町町の『福母八幡宮』は、9世紀創建の歴史ある神社。2017年12月、石段の両端にLEDの優しい明かりが初めて灯り、古色を帯びた神域を照らした。『神社として地域に貢献したい』と願う宮司『佐藤美波さん(27)』の発案だ。
費用はインターネットで資金を集めるクラウドファンディングCFでまかなった。古来時と人をつないできた神社に、新たな結びの力を持つインターネットを取り入れる。平成生まれの女性宮司による挑戦が始まっている。
炭坑で栄えた大町町は、1950年頃に人口2万3千人を超え、小学校は50年代後半、児童数4千人のマンモス校になった。炭坑が69年に閉山し現在の人口は6,500人まで減少。商店街はシャッター通りと化した。
佐藤さんはこの町で生まれた。母方は代々神職を努める『社家』。祖父も神職だが、郵便局勤めだったこともあり、宮司は隣町の宮司が兼務していた。両親は特に神社と関わりを持たず、佐藤さんが神職を意識したのは七五三の時。普段と異なる祖父の姿に憧れを抱いた。『神職独特の緊張感がたまらなかった』と言う。
やがて思春期が訪れ、自分の存在にまつわる悩みを抱く。なぜ生まれてきたか、何のために生きるか。眠れないほど考え続けていたある日、母が洗い物をしながら軽い口調で言った。『神社を継ぐためじゃないの』。佐藤さんの目から鱗が落ちた。そうか、私はそのために生まれてきたのか。
神職の資格を取るために國學院大学神道文化部へ。4年生の時、祖母が亡くなった。福母八幡宮の運営事務を一手に引き受け、真面目にこつこつと働いてきた祖母だった。
『あなたのことがたくさん、出てくるのよ』。母の言葉で祖母が残した10年日記を開いた。書かれていたのは、佐藤さんが神職になり東京から戻ってくることの待ち遠しさ。『パッと見ただけでいっぱいありました』。神社を継いで欲しいと言葉に出さなかったが、気持は分かっていた。それでも直筆の文字を目にして涙が溢れそうになり、日記をパタリと閉じた。
将来を見越し、大学では過疎地の神社について学んだ佐藤さんだが、新たな何かを打ち出すのは大変だった。そんな折、大学のゼミの藤本教授から『こんなやり方もある』と示されたのがCF。CFを始めるに際し、複数のSNSに参加した。情報を積極的に発信、社務所を使ったヨガ教室も開くと、参拝者は増えた。
女性宮司は全国で700人強。平成の30年間で倍以上になったが、男性宮司の10分の1以下だ。しかも佐藤さんはまだ20代。恩師藤本教授は『社会人としての経験の浅さやさまざまなしがらみ、少子高齢化といった社会的課題もあるが、困難を一つずつ乗り越えながら進んでほしい』とエールを送る。
神職1年目の祭事や社務所の棟上げ式で、奉仕する佐藤さんの周りをチョウが舞った。不思議な出来事だった。周囲は言った。『あれはきっとおばあちゃんよ』。祖母の願いは胸にともり、宮司は自分で41代目。未来志向の佐藤さんだが、先人がどれだけの覚悟を持ってここまでつないできたのだろう、と思う。
社務所の電話は携帯に転送するようにした。自宅でも渋谷でも、佐藤さんは応える。『はい、福母八幡宮です』と。
★★<チキンラーメン、売り上げ最高=『朝ドラ』後押し―還暦でも元気>日清食品は、世界初の即席麺『チキンラーメン』の2018年の売上高が過去最高になったと発表した。同社創業者、故安藤百福氏によるチキンラーメン開発の苦労話を紹介するNHK連続テレビ小説『まんぷく』が放送されており、改めて商品が注目された。
売上高が過去最高を塗り替えるのは、麺に卵を入れるくぼみを付けた03年度以来15年ぶり。具体的な売上高は非公表。日清がチキンラーメンを1958年に発売して以来、昨年8月で60年が経過した。『還暦』を迎えたロングセラー商品が意気軒高なのは異例だ。