今日の画像は、目黒に世界で5番目にオープンしたプレミアムスタバ『スターバックス リザーブ ロースタリー 東京』と、『世界遺産ベスト70 その此戮任后26 ハルシュタット オーストリア、27 イエローストーン国立公園 米国、28 ポトシ市街 ボリビア、29 タリン エストニア、30 アクロポリス ギリシャ、です。
スタバの勢い、躍進はすごいですねえ。私は全くコーヒー党ではないので、スタバの良さは全く分かりませんが。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
★★NHKの朝ドラ『まんぷく』。チキンラーメンの生みの親『安藤百福さんの妻仁子さん』を主人公にしたドラマ。フィクションの部分もだいぶある。百福さんが台湾生まれで、織物の商売で独り立ちされたこと、終戦時には不動産に手を染め、その関係で信用組合の理事長に祭り上げられたことなど、経済人、財界人としての横顔が落ちている。ここに百福さんの『私の履歴書』を参考に、『チキンラーメン、即席ラーメン、百福さん』の歴史を綴る。
★★★1960年(昭35)の夏、味の素の鈴木会長が、高槻工場にひょいとお越しになった。生産設備を興味深げにご覧になり『この商品は必ず大市場を作りますよ』と励まして下さった。気さくで商売熱心な方だった。即席めんの売れ行きがよほど気になるのか、何度も工場を訪ねて来られた。食品業界で最初に即席面の将来性に注目したのは鈴木さんではないかと思う。私の尊敬する企業家の一人である。
味の素とは鈴木さんとの縁で信頼関係が築かれ、後に『アメリカ日清』や『ニッシン・アジノモノ・アリメントス(ブラジル)』など、いくつかの事業提携を進めることが出来た。そのご子息の鈴木恭二社長に挨拶に行った時のことである。雑談で『アメリカに輸出したチキンラーメンがよく売れているらしいが、現地生産はやらないのですか』と聞かれた。『生産は出来ますが、販売ルートがないんです』と言うと『一緒にやりましょう。販売はまかせて下さい』と乗り気である。
味の素はすでに米国市場で食品の販売ルートを持っていた。私は『お願いします』と答えて、その場で出資比率を決めた。同席していた者は唖然としていた。いくらインスタントラーメンの会社だからと言って、大事な話を3分で決めていいんですか、と言いたげな顔だった。その足で三菱商事に回って先ほどの話をすると、食品本部長からすかさず『当社も一枚加わらせて下さい』と頼まれた。そこでまた、出資比率を仕切り直した。結局その日のうちに米国における3社合弁事業が内定したのである。これも当時の即席めんの勢いというものだろう。
1970年(昭45)アメリカ日清が設立された。日本生まれの即席めんが、いよいよ海外市場で真価を問われることになった。私は市場調査に大きなお金をかけることは好きではない。自分の目で見て、肌で感じることが大切だと思っている。米国で即席めんが売れるかどうかをお調査した結果を聞いた時も、私は失望した。『アメリカ人は動物性タンパク質を好むから、デンプン主体のめん類に成長性はない』と言う。『しかし65%の人が購入意欲を示したので、商品企画や販売方法次第では売れる可能性がある』。何のことやらさっぱり分からない。こんなグレーな結果しか出ない調査に合弁企業の資本金の半分も使ってしまっていたのである。
社員に聞いても『欧米人は猫舌で熱いものは食べられない』とか、『食事中に音を立てるとマナーに反するので、めんをすすることが出来ない』とか、腰の引けた話ばかりだった。私はすぐロス郊外にあるスーパーマーケットで米国向けに開発した『トップラーメン』を試食販売した。すろと消費者の反応は日本と少しも変わらない。あっという間にヌードルが出来上がるのに驚いている。フォークで器用にめんを食べ『ナイス』『グッド』『デリシャス』の連発である。
一週間後に、もう一度店頭に立った。何人もの主婦が『おいしかったよ』と言って、再度、1ダースのまとめ買いをしてくれた。再購入の動きを確認したことで、私は自信を深めた。後に、米国で発売した『カップ・オ・ヌードル』は、ビーフ、チキン、シュリンプ(えび)などの動物性スープを使い、めんの長さは日本の半分にして、猫舌でめんをすすれない米国人が食べやすいように工夫した。これは私の感覚を優先させたケースだが、普段はデータも勿論大切にしている。(参考: 2001年9月・日経新聞『私の履歴書』。07年没、享年96歳)
★★いよいよ『平成』も終わる。『昭和』はどんどん遠くなる。その昭和の歌謡界で、是非ともアップしておきたい人、『西条八十さん』。西条さんは、早稲田大の仏文の教授でありながら、童謡や校歌、歌謡曲の作詞も行って、同僚らから『堕落だ』と厳しく攻められた。なら、大衆のためだと、教授職を投げ打つ。そして作詞と仏文の研究を貫きとおし、幾多の名曲を生み出した。(「王様の馬」「かなりや」「お菓子の家」「烏の手紙」「怪我」)
『西條八十魁‐坡里劼个蝓▲螢鵐疋Δ療臍辧
映画界では次々とスター女優の主演映画が制作さえている。松竹の田中絹代、原節子、大映の京マチ子、新東宝の高峰秀子、李香蘭改め山口淑子と、まさに百花繚乱である。昭和24年に新東宝から『帰京』でデビューした香川京子も期待の新星だ。八十は新東宝宣伝部の永島一朗に紹介されて驚いた。下館にいるころ、家に出入りしていた美少女の池辺香子ではないか。
香子は終戦後、女学校の卒業間際になって、東京新聞主催のニューフェース・ノミネーションに応募した。伯父の永島が芸能界に入るのを快く思っていないので内緒にしていたが、六千人の応募の中から一位に選ばれると、永島も反対する訳にもいかず、自分の会社の専属にした方が目が届くと、新東宝に入社させたと言う。『あの香子ちゃんが香川京子か』。さらに美しくなっていたので、目を瞠った。
女優としては清楚で可憐な娘役として注目を浴びている。昭和28年1月に封切られた東映『ひめゆりの塔』では、沖縄戦線でひめゆり部隊に参加する女学生役を好演、観客の涙をさそった。今回の『暁の合唱』では主演を努め、同名の主題歌も歌う。勿論作詞は八十に依頼された。京子なら『クローバー』だと思い、歌に『白いクローバーの咲く丘に』という文句を入れた。一応、古賀に頼んでレッスンさせて、なんとか格好はつきレコーディングは無事終了したが、京子は『もう歌はこりごり』と、二度と歌うことはなかった。
映画界にもう一輪、大きく艶やかな花が咲き始めた。昭和25年度のミス・日本に選ばれた山本富士子である。28年に大映に入社し、長谷川一夫主演の『花の講道館』でデビュー、一作ごとに女優としての評価を高めている。今度は歌に挑戦と、コロンビアと契約して、デビュー曲を八十に依頼してきた。『出来れば君には高峰三枝子のような歌える女優になって欲しいな』。八十はそう言った。高峰のヒット曲『湖畔の宿』にあやかり、『湖畔の雨』とした。しかし、会社の宣伝部が題名が気に入らなかったようで、『湖水物語』というタイトルで発売された。
18歳のお年頃になったひばりはこの年、江利チエミ、雪村いずみと共に『三人娘』を結成し、東宝映画『ジャンケン娘』で競演した。歌の方でも歌舞伎座で公演したり、昨年暮には『ひばりのマドロスさん』でNHK紅白歌合戦に初出場、順調にスター街道をひた走っている。ひばりにはなぜか古賀の曲が一曲もない。古賀が万城目や上原に遠慮して作らなかったからで、八十、古賀、ひばりの『コロンビア最強トリオ』が実現したのは、松竹映画『水郷哀話・娘船頭さん』の主題歌だった。そこで八十は、彼女を菖蒲の花に見立てた。
◇『娘船頭さん』
娘十八 口紅させど わたしゃ淋しい 船頭娘
つばめ来るのに 頼りもなくて 見るはあやめの
ヨウ 花ばかり
コロンビアにはもう一輪の花、島倉千代子がいる。新曲を依頼された時、『千代子のイメージはりんどうだ』と閃いた。そして、千代子から聞いた話、優しい姉との関係を聴いた。仲の良い農家の姉妹が、姉の嫁入りを機に離ればなれになり、妹が寂しさを噛みしめている。そんな歌にしょうと決めた。
◇『りんどう峠』
りんりんりんどうの 花咲く頃サ 姉さは馬コで お嫁に行った
りんりんりんどうは 濃むらさき 姉さの小袖も 濃むらさき
ハイノ ハイノ ハイ
『姉さ』とか『馬コ』といった地方訛りを使ったのは、亡き盟友、中山晋平と組んだ新民謡の手法で、最後の『ハイノ ハイノ ハイ』は晋平が得意にしていた囃子言葉である。千代子のために書いた歌だが、同時に泉下の晋平に捧げる歌でもあった。
千代子の歌を初めて手がけた古賀が、レコーディングの時言った。『清楚な中にも色気があって、小節に独特なものがあります。将来が楽しみですよ』。古賀の眼力は確かで、島倉千代子はひばりと共に、コロンビアを支える看板歌手となる。
その年の大晦日、八十は晴子と伊豆の下田へ出かけ、夫婦水入らずの年越しをした。温泉旅館のロビーに鎮座するテレビで紅白歌合戦を見て夜を過ごす。紅白歌合戦は昭和26年の1月に第1回が放送され、初回の出場歌手は、紅白それぞれ7組だったが、昨年から大晦日の夜放送されるようになって、出場歌手の数も増えている。 (参考: 吉川潮著『流行歌・西條八十物語』)
★★<広がるクラフトウイスキー>全国で小規模なウイスキー蒸留所の設立が相次いでいる。サントリーなど大手の製品に比べ、少量生産品は『クラフト』と呼ばれ、蒸留やたる貯蔵を経て数年後の本格出荷を目指す。ハイボール人気で国内消費が増え、日本製は国際品評会で入賞の常連。英スコットランド、米国などと並び世界五大ウイスキーと称されるジャパニーズのブームに、新たな味わいが届きそうだ。
昨年12月、氷点下の北海道厚岸町。『堅展実業』(東京)の蒸留所で『たる詰め』が行われた。たるは『パンチョン』と呼ばれる大型タイプで、日本に植生する『ミズナラ製』。お香に似た香りのウイスキーに仕上がるのが特徴だ。
スコットランドのアイラ島産のスモーキーな風味の製品作りが目標。アイラに似て、冷涼、温潤で海に近い厚岸を選び、2016年に開設した。既に1,200個のたるが成熟庫で長い眠りにつく。『日本はもの作りに真摯。その伝統を守り、小規模でも常に高品質にしたい』と意気込む。
大吟醸日本酒ブームにウイスキーブーム。時代は刻々と新しいページをめくって行くねえ。
★★<セブン『東大阪の乱』 正念場の24時間営業>セブン―イレブン・ジャパンが誇る24時間営業のビジネスモデルを巡り、東大阪市に店を構えるセブンイレブンの加盟店主(オーナー)が異を唱えて立ち上がった。2月から自らの判断で、深夜の人手不足を理由に時短営業を始めた。ネット上ではオーナーの行動に理解を示す書き込みも多い。業界筋では「東大阪の乱」と呼ばれているらしい。
社会インフラともいわれるコンビニエンスストア。なかでも最大手のセブンの存在感は半端ない。24時間営業は(1)消費者のための利便性(2)店舗運営の効率性(3)深夜に明かりが灯っていることの安全性や社会性――などの特徴がある。どれも立派な取り組みで、コンビニ業界は長年、その優位性を磨き上げてきた。しかし、みんなのために『よかれ』でやっていることがいくつも積み重なり、結果的に店員の負担が増え、そこに人材不足も重なると店舗運営がうまくいかなくなってきた。合成の誤謬だ。これが24時間営業そのものを脅かし始めた。
セブンに突きつけられているのは『持続可能な社会』という今日的なキーワードにどう対応できるかだ。24時間営業を前提としたビジネスモデルでは弁当やおにぎりなども24時間体制で製造する。そうした商品を配送するのも24時間を前提とした物流網だ。緻密なサプライチェーンがあってこそ店舗で品切れを起こすことなく売り上げも利益も確保できる。客の入りが少ない深夜でも営業をし続けるのは品ぞろえの管理や配送商品の受け取りなどの業務が日中に比べて円滑にできるからだ。また、年中開いているという安心感が日中の売り上げを上向かせる。
セブンが今回の『東大阪の乱』について神経をとがらせているのは『アリの一穴』になりかねないとみているからだろう。それはコンビニがフランチャイズビジネスであることが背景にある。小売業や飲食業のフランチャイズビジネスは同じ看板を掲げる以上、営業時間や品ぞろえ、サービスは統一しないとブランドの維持は難しくなる。だから個々のオーナーとの契約は例外を極力つくらないようにする。同社は加盟店に対して一糸乱れぬ店舗運営を求める。例外をつくれば、本部とすべての加盟店との対等の関係が崩れるからだ。
『あの店のフランチャイズ契約とうちの契約が違うのは、どういうことか』と不満が出るのは明白だ。だからセブンにしてみたら例外を設けるのには消極的で、24時間営業は死守しないといけない。実は今から30年ほど前に、セブンは世間から厳しい視線にさらされたことがある。それは多頻度小口配送への批判だった。コンビニが大量出店を続けていた時代。店舗に商品を届けるトラックについて噛みつかれたのだ。やはり当時もバブル期で人手不足が顕著だった。同時に環境意識の高まりでコンビニの配送トラックは環境によくないし、非効率だと世間の目には映った。
しかし、それは全くの誤解だった。1台のトラックの中に様々な分類の商品を積み、積載率を高めた。例えば牛乳メーカーはそれぞれのトラックで各店舗に配送していた時代もあったが、それを複数のメーカーの牛乳を1台のトラックに積み込むようにした。従来では考えられなかった呉越同舟の配送方法を共同配送と呼んでいた。1970年代前半にセブンが誕生したときに1日1店舗に70台のトラックがやってきたが、90年ごろには12台までに減っていた。今では共同配送はいろいろな業界で標準となっている。当時、セブンはこうした取り組みを積極的に開示して世間の理解を求めた。コンビニの多頻度小口配送の騒動は約2年で沈静化した。
さて、今回の問題。人手不足による店舗運営が円滑に行かない事態は数年前からわかっていた。生産性を上げるために店舗内作業の自動化、消費期限が長く廃棄ロスを抑える食品の開発の加速はその背景にある。そして世論に押される形で営業時間短縮の実験に着手。24時間営業の是非を検証する。日本でコンビニが誕生して40年超。経済成長、人口増が見込めた時代からビジネスモデルの核となる24時間営業とそれを支えるフランチャイズ契約の根幹は変わっていない。
実験でも24時間営業は譲れない一線だろう。ただ、共同配送が革新的な取り組みであることを世間に納得してもらったように24時間営業の必要性をどれだけ世間とオーナーに納得させることができるのか。セブンはこれまでも様々なイノベーションによって店舗運営を効率化すると同時に、消費者の支持を集めてきた。合成の誤謬を解きほぐすイノベーションをつくり上げることで「持続可能な社会」の一員に踏みとどまれるはずだ。(参考: 日経新聞 田中陽編集委員筆)
まあ、昨今の『人手不足』は、構造的な日本特有の人口減に伴う『国民不足』なんだねえ。オーナーからすれば、本当にたまったものではないというのが本音ではなかろうか。アルバイトに穴が空けば、オーナー自身が店頭に経つしかない。かつてオーナーの独白を読んだが、ひどいときには睡眠3時間だと。まさに非人道的だ。さらにはセブン-イレブンがオーナー協会との対話を拒否していることだ。
ひょっとして、100円ショップがコンビニに乗り出したら、どんな工夫と知恵を出すだろうかな。面白いなあ。
★★<『ザ・デストロイヤーさん死去』 覆面レスラー、日米で活躍 >覆面のプロレスラー『ザ・デストロイヤー』として日米で活躍したリチャード・ベイヤーさんが3月7日、米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で死去した。88歳だった。息子のカートさんがフェイスブックで明らかにした。詳しい死因は明らかにされていない。
1963年に初訪日。『足4の字固め』の得意技で知られ、東京で行われた力道山との試合のテレビ中継は視聴率64%を記録するなど、日本に空前のプロレスブームを巻き起こした。引退後は日米のスポーツ交流に貢献し、東日本大震災の被災者支援にも取り組んだ。
まあ、人はすべからく必ず死ぬ。首相だって、大統領だって、必ず死を迎える。まさに『散る桜 残る桜も 散る桜(良寛)』だなあ。ご冥福をお祈りします。 合掌