《演劇を目指してキャリアをスタート。途中でミュージカルに興味を持ち、ピアノもほとんど弾けないのに作曲家を志望。芥川也寸志、三木トリローなどに師事。野坂昭如と組んでラジオCM曲を500曲も作曲。永六輔との出会いが活躍の舞台を大きく広げた。さがらなおみ、ピンキーとキラーズ、由紀さおり、いしだあゆみなどを育てた。初ミュージカル『見上げてごらん空の星を』は有名。好きになった女性とは結婚しなければならないと信じ、3回離婚、4回も結婚する。日本のミュージカルの興隆に寄与し、活躍した。総作曲数1万5千曲とも言われる、大作曲家。62歳の若さで没した。》
★今日の画像は、宇都宮市古賀志の小学校運動所のまん中に鎮座する枝垂れの『孝子桜』、そして私のホームコース『牛田山縦走路の緑機戮任后若葉から濃い緑の世界へ、季節は駆け足で駆け抜けます。
毎週1回、この牛田山をピストン縦走します。夏のアルプストレッキングに備えて。今夏は、スイスアルプス、アイガーのある『ベルナーオーバーランド』で2週間の避暑とトレッキング三昧に。フライトは、福岡発チューリッヒまでの往復を『キャセイパシフィック』で、オープンジョーとストップオーバーを入れ、72,800円。香港のキャリアで、ひさしぶりに香港にストップオーバーし、香港の山歩きにもトライ、です。
『孝子桜』は樹齢450年と言われ、この地の子供達に、『孝子桜』伝説が伝えらえて来た。『孝子桜』の花を咲かせるため、子供が神様にお願いし、自分達が桜の面倒を見て咲かせることが出来たというシナリオ。現在は、『孝子桜まつり』が例年行われ、子供代表がこの伝説をさらに下の子供達に伝える儀式を執り行っています付近には、枝垂れの大木があちこちにある地域。その代表、素晴らしき『孝子桜』です。右下をクリックすると、大きな画が見られます。
★★★石田良子という一人の平凡な少女がボクの家に寄宿していた。寄宿、つまり居候だ。歌が少しばかりうまくて可愛いのだが、人間嫌いで、不愛想な女の子だった。15歳の時に家に来て、学校に通いながら、あちこちのバンドでジャズを歌わせてもらっていた。東宝の松岡社長と、ボクの電通の友人の紹介でボクの家で勉強を始めて、事務所にも出入りして、歌を習っていた。
ある電機メーカーで可愛いCMガールを募集していると聞いて、そのオーディションに連れて行った。ところが、話をしているうちにこの娘は面白そうだというので、テレビの1時間ドラマの役がついて出演することになってしまった。森繁久弥サン主演の『七人の孫』というドラマの、一番小さい孫をその娘に演じさせようと言うのだ。
名付け親を永六輔に頼んで、急いで勉強を始めさせた。『いしだあゆみ』が誕生した。ドラマが始まると、『あゆみ』の放埒ホウラツな演技はベテラン森繁をはじめ、他の演技者を食って評判になり、一躍テレビのアイドルになってしまった。レコードも発売され、17歳の彼女は、スター街道をばく進しだしたように思えた。しかし、彼女自身好きな歌が、いっこう思うように歌えず、もうちょっとというところで足踏みしている感じだった。『あゆみ、歌なんていうものは人間次第だよ。19か20になって、人間が出来上がると同時に、いい歌がきっと歌えるよ』。ボクは何回となく彼女を励まし、慰めた。
プロ根性のある娘で、苦しい辛い仕事も、決してイヤと言わない娘だ。『先生、あたしは忙しいのが好きなんです。暇だとじっとしていられないんです』。そして頑張り通した彼女は、ボクが予言した通り、20歳の春に『ブルーライト ヨコハマ』で大ヒットを飛ばした。そして正月に家に遊びに来た彼女は、『あたしやっぱり歌が好きだから、一生歌っていたい。先生よろしくね』と可愛い顔で笑っていた。
15歳の頃の無愛想な少女の面影は全くなく、デビュー当時新聞週刊誌、テレビの記者達の間で、『あんなんに無愛想で、オレ達の質問にまともに答えないスターは初めてだ』と噂された『あゆみ』はいなかった。とてもステキに、一人前の女になった『いしだあゆみ』を感じて、ボクは嬉しかった。そして現在、彼女は歌よりもドラマで大活躍している。(参考: いずみたく著『新ドレミファ交友録』)
★<ジャパネットたかた・自社ビルを建てる>ラジオ通販事業の拡大と共に、膨大な注文や配送などのさばき方が深刻な問題になってきた。1本だけだった臨時回線を2本、4本と増やし、12本、24本にしても電話は鳴りっぱなしだった。なにしろ、普通のカメラ店がいきなり市場の大きい通販の会社になったものだから、専用倉庫もなく、店のあちこちに商品が山のように積み上げられ、足の踏み場もなかった。
もはや限界、近代的な社屋がないとどうにもならない。すぐ私は動いて、幹線道路に近く配送にも便利な土地を見つけた。だが、社屋を建てるとなると土地代を含めて数億円はかかる。まだラジオ通販を始めたばかりのちっぽけな店が、数億円の融資をどうやったら受けられるのか。そればっかりを思案していた。佐世保市内のなじみのスナックで弟の武にそのことを話していると、ママがカウンターから身を乗り出して、『明ちゃん、お隣にちょうど銀行の支店長さんがいらっしゃるわよ』と囁いた。
驚いて首を巡らせると、穏やかそうな男性が座っていた。名刺には『十八銀行佐世保駅前支店長』とあった。仕事の話をしながら、『支店長、5億円くらい融資をしてもらえませんか』とお願いした。初対面で5億円の融資依頼とは、支店長もさぞビックリされたことだろう。私は翌朝、支店長を訪ねてみた。すると酒の上の話ではなくて、本当に5億円を融資してくれた。それを資金に1994年(平6)5月に完成したのが、大塔第一ビルだ。
もう一つの悩みは会社のブランドだった。放送エリアが広がる度に『通販九州』『通販中国』など地域名を付けていたが、煩わしいことこの上ない。『もう限界だ。全国通しの名前を考えよう』。93年、福岡のグラフィックデザイナー、平松さんを訪ねた。平松さんは『それならジャパンネットはどうですか』と提案してきた。『ジャパンネット。いいじゃないですか。ついでにジャパネットにしましょうか』。そして後にたかたを付けて『ジャパネットたかた』が誕生した。これがその後社名になる。
事業展開を視覚的に表すため、日本列島をモチーフにしたロゴマークも作ってもらった。歌もあったほうがいい。作曲家の恒見コウヘイさんにお願いした。90年にラジオ通販を始める前の年商は3億円に届かなかった。新社屋が出来た年にちょうどラジオ通販の全国放送網が完成し、43億円に増えた私の頭の中で『テレビショッピング』という文字がちらつき始めた。(参考:『私の履歴書・高田明』)
★<北朝鮮に核を放棄する意思はない>4月20日を境に、一部では北朝鮮が本当に核を放棄するのではないかとの期待、憶測も出始めている。この点は、今後の展開を注視しなければならず、断定的なことは言えない。
ただ、歴史的に見ても、北朝鮮が核兵器の開発や攻撃能力の保有を完全に放棄することは想定しづらい。なぜなら、金独裁政権にとって核兵器の保有こそが体制維持のための必須手段に他ならないからだ。
金日成、正日の時代も北朝鮮は非核化を宣言した。しかし、いずれも国際社会との協約が順守されることはなく、秘密裏に北朝鮮は核攻撃能力を開発してきた。その延長線上に、今日の金正恩委員長があるわけだ。リビアのカダフィ政権は不可逆的に放棄したが、それは内戦に欧米が軍事介入を行う余地を作った。もしリビアが核を保有し続けていれば、状況はかなり違った殿見方も出来る。
北朝鮮が同じ轍を踏むことはないだろう。地下や山中に場所を移して、核兵器の開発が続けられる可能性はある。一部では、すでに北朝鮮が運用可能なミサイル発射技術を確立したとの指摘もある。そう考えると、対話は体制を立て直す時間かせぎに過ぎないと言える。
今後、米国の役割が一段と重要になる。米朝の首脳会談で北朝鮮が最終的かつ不可逆的な核放棄の意思を示さなかった場合、トランプ大統領が会談の席を立つことも想定される。それは、交渉を一段と困難にし、朝鮮半島情勢の緊迫化を高めるだろう。中間選挙を控える中でトランプ大統領は強硬姿勢を示すことで有権者の支持を得たいのだ。(参考:真壁昭夫法政大学院教授筆『北朝鮮が豹変した理由』)
★<柳瀬唯夫のWHのトラウマ>『東芝がウエスティングハウスWHを買収した2006年は日本のエネルギー政策が大きく変わった節目となった。政官民が結びつきを強めた「2006年体制」とでも呼ぶべき、新しい原子力ルネサンス体制が構築されたのであった。WHを高値づかみした東芝を原子力産業の救世主に見立てたのが当時、経産省資源エネルギー庁で原子力政策課長の要職にあった「柳瀬唯夫」だった。東芝も、そして特に三菱重工は律儀なほどにエネ庁のもとにWHの買収交渉の経過報告を欠かさなかった。
「経産省は、日本勢で買え、買え」とうるさかった(東芝の担当役員)、「エネ庁はGEに持って行かれるのを恐れていて「絶対にせり落とせ」という感じだった(三菱重工の関係者)。両者の背後にはエネ庁の存在があった。実は柳瀬が経済産業政策局の政策企画官から04年6月に原子力政策課長に着任したとき、経産省の電力政策、とりわけ原子力政策は大揺れだった。そのトラウマが、本来は温厚で飄々とした彼をして極端な原発礼賛派に変えてしまったと見られる。
柳瀬が原子力政策課長に着任した当時、経産省の事務方トップである村田成二事務次官は、潤沢な資金によって政治家やマスコミ篭絡し、欧州で特に進んだ電力自由化の日本への導入に徹底的に抵抗するなどエネルギー政策を歪める電力業界を苦々しく思っていた。東電からすると村田はいつも喧嘩腰だった。そんな時に米GEに勤務していた技術者が、東電の福島第一原発の機器にひび割れがあったにも拘わらず、それがないように意図的に編集したビデオを作らされた旨、内部告発したのだった。これに端を発し、東電の原発データ改ざん問題が判明。村田は東電に厳しい姿勢を示し、南直哉社長から経団連会長を務めた平岩外四相談役まで歴代4首脳を退陣に追い込んだ。東電からすると「村田さんにやられた。行き着くところまで行ってしまった」という全面降伏であり、組織内に村田への怨念が残った。
村田の前任の広瀬勝貞次官は、02年5月、荒木会長や南社長、勝俣副社長と極秘会談し、六ヶ所村の再処理工場の撤退についておおむね合意しており、後任の村田はこれに取り組もうとしたが、荒木や南が引責辞任した後とあって東電の態度は硬化していた。正攻法が封じられる中、村田が選んだのは、「裏技」だった。エネ庁の電力市場整備課や原子力政策課で核燃への問題意識を育んだ若手6人が遊撃隊として核燃凍結を求めて決起した。再処理工場が稼働すると、原発とは比べものにならないほどの高濃度に汚染された放射性廃棄物が発生する上、建設費や運営費に19兆円以上のコストがかさむことを指摘した「19兆円の請求書」と題した資料を作成。
これを「品のよい怪文書」として与野党の議員やマスコミに持ちこみ、世論を喚起することによって核燃凍結の関心を高めることを試みた。が、「くれぐれも内密に」と説明した経済紙の論説委員が電事連に内通したと見られ、エネ庁は自民党電力族や電力業界、立地県の青森県などから猛烈な反撃に遭い、結局、彼ら遊撃隊の多くは任務をハズされ、閑職に追いやられ、経産省を去った者もいた。この時村田は、前線に送り込んだ彼ら少年兵を助けなかった。以来村田はこの時のことをあまり語りたがらない。電力業界にスキャンダルを握られ、沈黙を強いられているとも噂される。
その一部始終を担当課長として目撃した柳瀬は、電力業界の政治的パワーの強烈さにおののき、電力業界との協調、原子力村との平和共存路線に舵を切る。そして東芝のWH買収の半年後の06年8月に出来上がったのが「原子力立国計画」だった。この「計画」の中で原発メーカーの海外進出方針が明記され、政府としての支援、公的金融の活用、二国間協定の締結など原発輸出の枠組みが固められた。アンチ東電・核燃料凍結という村田時代の「電力左派」の政策が、思い切り右旋回した内容となったのである。
柳瀬からすると、WHを買収してくれた東芝は愛ウい会社である。それに対して三菱重工は「競り負けて、一体何をやっているんだ」となる。こうして経産省が主導して東芝と東電の二人三脚による原発輸出政策が進められて行くことになった。この路線は、柳瀬の副官とも呼ぶべき香山弘文、さらに柳瀬の後に原子力政策課長に就いた高橋泰三達によってさらに強固なものとされて行く。
そして、福島原発事故後。かつて原子力政策課長だった柳瀬唯夫が「原子力立国計画」を掲げ、民主党政権下で一気に拍車がかかった原発輸出は、東電の福島原発爆発によって一転して先行きが危ぶまれるようになった。なすすべもなく原発を相次いで爆発させてしまった東電が、原発の運転や安全管理を指導するというのもブラックジョークとしか受け取られないだろう。
原発推進に舵を切っていたドイツのメルケル政権は一転して脱原発法を制定し、こうした動きが先進国に広がりそうだった。独シーメンスは原発事業撤退を表明し、東芝の本家に当たるGEも「原発を経済的に正当化するのは非常に難しい」と発言。2012年10月には、WHに20%出資してくれているショー・グループがWH株の買い取りを東芝に請求し、東芝は1,250億円を払い込まざるを得なかった。ショーも、もはや原発の時代は去ったと認識し、WHから逃げたのである』。(参考:大鹿靖明著『東芝の悲劇』)
そうか、『東芝の悲劇』を演出、助演したのは『柳瀬唯夫』だったのか。後に首相補佐官となる。そして加計学園獣医学部問題では『記憶の限りでは、愛媛県や今治市の方にお会いしたことはありません』と断言し、政局を炎上させた張本人だ。柳瀬が、この東芝のWH買収にお手伝い、推進役を果たしていたのだ。『加計問題』でも、当然主役、助演を演じていたのだろう。阿倍首相の『柳瀬氏は国会に呼ばれれば、しっかりと誠実にお答えする。知っているすべて明らかにしてもらいたい』との国会答弁を受け、やっと国会証人喚問に応ずることになった。野党は、しっかり勉強して、佐川元理財局長の喚問のような、無様な格好だけは避けて欲しい。東芝事件関与前科1犯の柳瀬を許すな、よ。
★<カープ登録選手>カープ藪田が2軍落ち、一緒に磯村も。そして上がってきたのが、投手の長井、捕手の坂倉。長井が上がったことで、16年ドラフトは全員1軍を経験したことになる。中村祐の冷静な力投が見せる中、16ドラ連中の台頭が期待されるねえ。一歩先に出ているアドゥワと並び、投手陣の柱に育って欲しい。
★<サンフレ2-0清水>昨夜のJ1、サンフレは清水に2-0と完勝。得点はパトリックと柏。いずれも技ありのシュートだった。サンフレはこれで10勝1分1敗、勝点31と、2位FC東京に8点差の堂々の首位。今回サンフレは開幕12戦目で10勝を挙げたが、これはJ1の最速新記録、96年の横浜Fの最速タイ記録に並ぶものだそうだ。
W杯の関係で、相変らず週2試合消化のスケジュールが続く。次節は、6日(日)、ホームで神戸を迎える。神戸は現在16位だが、今節FC東京と0-0のドローといい試合をしている。油断ならぬ相手だ。