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Channel: Freeman 雑記帳・広島
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『槍ヶ岳を開山した「播隆上人」、新田次郎著「槍ヶ岳開山」』

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尾張藩家老・犬山城城主成瀬正寿は播隆を前にこう述べた。『世に僧は多いが、安逸をむさぼる僧や権門に媚びて栄達を計ろうとする者ばかりで、たよりになる僧は一人もいない。貴僧は浄土宗だそうだが、徳川家の庇護を受けた浄土宗の坊主も、在家も、法然の教えを取り違えているようだ。貴僧は、ただ念仏を唱えるだけでは極楽へは行けぬ、一心不乱の境地になって念仏を唱えないと極楽へは行けぬ。一心不乱になるために山に登る。困難に立ち向かう。一心不乱とは自分の力だけで求めるとの出来る境地だと説いていそうだが、誠にもっともだと思う』。犬山藩の尾張藩からの独立を目指して活動を続け、槍ヶ岳登頂への装備品、鎖などの寄進を申し出ている成瀬は、こう播隆に語った。

『余はそちに槍ヶ岳の頂上に立って一心不乱になって犬山藩独立の念願をして貰いたいのじゃ。鎖がほしいなら鎖を進ぜよう、もし、余が生存中に、犬山藩独立がかなったならば、犬山に貴僧が望む通りの寺を建てて進ぜる』。成瀬正寿が犬山藩独立の願いを槍ヶ岳に懸ける気持ちは、そのまま播隆がおはまとの再会を槍ヶ岳山頂に懸ける気持ちに通じていた。

天保5年1834、槍の穂への登攀路の手がかり、足がかりが、岩を削って作られた。随所に、善の網を懸けさせるべき、鉄釘が打ち込まれ、釘の頭につけた鉄の輪に善の綱が懸けられた。綱は十カ所に懸けられ、延べの長さ70間に達した。

天保9年になっても播隆は足を引きずりながら行脚を続けていた。名古屋の慈誓寺、熱田の円福寺、知多郡の善導寺と彼の説教の旅は続いた。播隆は生きるための念仏を論じながら、一心不乱に生きようとすることと、一心不乱に山に登ることが同じであると、話を槍ヶ岳開山に持っていくことがあった。『山を登ることは人間が一心不乱になれることです。一心不乱になって念仏が唱えられる場所が登山なのです。悟りに近づくことなのです。悟りとは何事にも心が動かされなくことです。死を恐れなくなることです。我々は凶年の山をまだまた登らなければならないでしょう。一心不乱に登ることです。決して、凶年に負けてはいけません。登るのです』。播隆が寺に杖をとどめると、彼の法話を聞くためにおびただしい人が集まってきた。生きる念仏は、この世をあきらめかけていた人々に力を与えた。一心不乱に生きようとする人たちこそ極楽へ行けるのだという播隆の話は、彼らを納得させ、奮起させた。

8月に入って大暴風が山を襲った。足場が破壊されて仕事は2、3日も後戻りしなければならなかったが、その暴風の後、すばらしい晴天が7日ほど続いた。『今だ、今のうちにやらないと雪が降るぞ』。中田又重郎と穂苅嘉平は声をからして叫んでいた。雪が降ったら来年に持ち越しである。そうはさせたくないと思う心の底には播隆の健康があった。播隆が今までの播隆でないことを二人はよく分かっていた。槍の穂に合掌したままの姿勢で立っている播隆の足下に死の影があった。二人には播隆が死の影を踏んで立っているように見えた。天保11年8月13日1840年、工事は完了した。槍ヶ岳の完全開山は成されたのである。

商人として成功し、金満家であり、播隆の得度、修行、開山を助けた弥三郎は播隆のそばに座りなおして、播隆の顔をのぞき込んだ。播隆の眼に感情が動いた。喜びの表情とはいかなかったが、彼が今、何を見て、それに話しかけようとしていることだけは確かであった。播隆が富山での一揆の折、誤って死に至らせた妻、おはま、という言葉が断片的に聞こえた。播隆は死に臨んで、おはまと話しているのだなと弥三郎は思った。

弥三郎はもむ何も言わなかった。人を呼びに立とうともしなかった。このまま静かに、播隆を死なせてやりたいと思った。播隆が、もし聞く耳を持っていたならば、おはまに似た柏厳尼と弟子の徳念が、弥三郎をたよって、鳥羽へやってきたことを告げてやりたかった。あの二人を還俗させ、夫婦にしてやるのだということを播隆に告げたかったが、それはもう言っても無駄なことであった。播隆の入寂は天保11年10月21日1840年、未明であった。 (参考: 新田次郎著『槍ヶ岳開山』)

本書の著者新田次郎は、『槍ヶ岳は播隆上人と中田又重郎によって140年前に初登攀がなされているにもかかわらず、播隆上人のことを知っている人は意外に少ない。数年前の夏のこと、槍ヶ岳登山中の若い人に槍ヶ岳に初登攀したのは誰かと聞いたら、3人はウェストンと答えた』と。まさに『播隆上人』についてはほとんど知られていないのが実態ですね。剣岳に初登攀した人が、この頂上に、鉄製のさびた剣を発見したそうです。神武の昔から、高い山は『聖山』として敬われ、また修行の場ともなった歴史があります。この槍ヶ岳に江戸の時代、わらじをはいてよじ登り、万人の幸せを祈った播隆上人には本当尊敬以外何ものもありません。(^.*)

★小泉進次郎衆議院議員の発言が話題を呼んでいます。舛添都知事候補について、『一番、自民党が苦しい時に、「自民党の歴史的使命は終わった」と言って出て行った方。応援する大儀はない』とばっさり。これには自民党内でも納得の人たちが多いでしょうねえ。さあどうなる、舛添X細川、です。

★読売新聞会長、ナベツネが、なんと特定秘密保護法施行に向けて準備をする『情報保全諮問会議』の座長に就任だと。これほど不適切な人事はないでしょうねえ。魂を自民党に売り渡し、ジャーナリズム精神を放棄し、しかも87歳の高齢。身体検査はしたのか、と問いたくなりますよ。おいおい、○○症の兆候はないのか、いかにお仲間・お友達だとはいえ、しっかり医師の診断を受けさすべきだよ、阿倍首相殿。

★人気の大相撲『遠藤』。昨日は高安の鋭い突きをいなし、突き落としで4勝1敗と好成績街道を驀進中。いい星を残して、前頭上位に昇格を期待します。横綱・大関陣の沈滞で、不振気味の大相撲ですから。(*.^)

★今日は19回目の『神戸大震災日』です。あの朝、5時46分、大きな揺れと共に私は飛び起きました。この日は、年頭記者会見の日で、社長以下関係役員は午前中東京で、夜広島で会見の予定。会社に出ると同時に、東京に連絡し、列車をキャンセル、飛行機に切り替えの依頼をした覚えがあります。2月14日に、大阪へ出張があり、新幹線は不通故、広島空港から関空に飛び、時間の合間をみて、三宮まで被災地の見舞いに出かけました。村山首相の無策で、6,000人超の人がなくなりました。建物の下敷きになり、命がありながら、焼け死んだ人たちが多く。無念の災害でした。 合掌

■今日の画像は、『フランスのオランド大統領と女優のガイエさんの密会を報じる芸能誌クローザー』と、『神戸震災後の神戸の模様』です。なんと、オランドさんはすでに実質婚の女性がいて、この密会。二股膏薬ですねえ。記者会見では、この件についてはノーコメントで押し通しました、すごい。震災の画像は、(靴織咼襦↓橋脚を補強した高速道路、7梗个靴織咼觀押↓な遒靴浸圧椶修瓦Α↓シ梗个靴真生与景好咼襦↓甲子園付近の崩落した家屋、です。(^.^)  
  (昨日のアップからのアクセス件数は、392件でした)



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