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ジャーナリストの魂⑪『告発!「ジャーナリズムを放棄したナベツネ読売新聞」』

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『世の中を自分の思う方向に持っていこうと思っても力がなきゃ出来ないんだ。俺には幸いか不幸か一千万部ある。一千万部の力で総理を動かせる。小淵首相とは毎週のように電話で話すし、小沢一郎ともやっている。政党勢力だって、自自連立だって思うままだし、所得税や法人税の引き下げだって、読売新聞が一年前に書いた通りになる。こんなうれしいことはないわね。これで不満足だったらバチが当たるわ』。(魚住昭著『渡邊恒雄 メディアと権力』)

ここには、ギネスブックが認定する『世界一の大部数』を誇る新聞を圧力にして、政治を牛耳る野心を実現した人物『渡邊恒雄』の満足感をうかがうことが出来ても、ジャーナリズム精神はひとかけらも感じられません。彼の非凡な能力は、日本のジャーナリズムの質の向上と新聞界の恥部と言われてきた押し紙など販売制度の改革のために、発揮すべきではなかったか、と惜しまれます。大連立工作が新聞人倫理にもとることは明白なのに、厳しい批判が起きなかった日本のジャーナリズムの現状はまた大きな問題です。

ジャーナリストが政界の内部に取り込まれ、権力者と同じ視点に立ってしまう例は今なお少なくありません。政治家と一体化した記者としては、NHK会長を努めた島桂次の場合も顕著な例です。『シマゲジ風雲録』には、政界インサイダーになり、それを背景にNHKのトップに上り詰めた『自慢話』があまた書かれています。

権力とジャーナリズムが距離をおくのは、歴史上自由主義ジャーナリズムの鉄則となってきました。特にアメリカでは、ジャーナリズムの第一の役割を『権力監視のウォッチ・ドッグ番犬』と規定し、権力との結びつきを最大の禁忌としています。報道陣は常に記録者であり、歴史のステージに上がる人間ではありません。ワシントン・ポストの記者ハンドブックの倫理基準の項には、ニクソン大統領を失脚させたウォーターゲート事件報道当時のベンジャミン・C・ブラッドリー編集主幹が『部外での活動や仕事の多くは独立した新聞の本来の仕事とは両立しがたい。政府との結びつきは最も好ましくない』と書いています。

日本新聞協会の新聞倫理綱領は『知る権利』について、『あらゆる権力から独立したメディアが存在し初めて保障される。新聞はそれに最もふさわしい担い手であり続けたい』と宣言しています。さらに『新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追求である』と規定し、記録者が歴史のステージに上がることを戒めています。また『新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力から干渉を排除するとともに、利用されないよう自戒しなければならない』としています。

2000年に出来たこの新聞倫理綱領は、渡邊読売新聞社長・主筆が1999年6月に新聞協会の会長に就任してから、その要請で改定したものです。『自由と責任』『正確と公正』『独立と寛容』『人権の尊重』『品質と節度』の5項目を挙げ、国際的に遜色のない現代ジャーナリズム倫理の諸原則を確立しました。2000年10月の新聞大会で挨拶した渡邊会長は、『歴史に残る立派な文章です。世界の新聞界にとって模範となるものだと誇れるものであり、同時に新聞以外のマスコミ倫理にとっても重要な私心になりうるものであると確信します』と述べています。

しかしこの新聞倫理綱領は、制定を推進した当の責任者によって踏みにじられます。それは2007年7月の参院選で野党・民主党が大勝し、自民・公明の連立与党が過半数を割った事態から起きました。いわゆる『ねじれ国会』です。9月には阿倍晋三首相が政権を投げ出して福田康夫政権が誕生。渡邊恒雄主筆が、中曽根康弘・森善朗元首相らに根回ししたあと主導して、福田首相と小沢一郎民主党党首殿会談が2回行われました。しかし、結局は民主党内部の強い反発で失敗に終わりました。このねじれ現象に政治的危機感を抱いた渡邊の暗躍の結末です。

個人としてのジャーナリストの政治的危機感が、永田町の権力者達と一体化するのは自由です。だが、ジャーナリストを自認する者が、政治に直接介入して政界再編を誘導する当事者になることは、ジャーナリズムの放棄になります。非当事者原則は、ジャーナリスト活動の全ての出発点であり、権力を監視すべき役割を担う者が権力作りに加担しては、ジャーナリストとは呼べません。よって、ここに遅まきながら『ジャーナリズムを放棄したナベツネ読売新聞』として告発します。しかしなぜか、読売新聞が日本一、世界一の発行部数を誇るトップジャーナリズムなんですよねえ、不思議。
 (参考: 原寿雄著『ジャーナリズムの可能性』 岩波新書刊)

★社会記事の読売から政治記事の読売にナベツネは紙面改革をしました。その始めが、東京本社では『新宿暴力団と警察の癒着』調査報道や『第五福竜丸被爆』特ダネ報道、大阪本社では社会面に『窓』『戦争』のコラム投書欄を設け、読者と密着した記事を掲載し、読売を背負って立っていた社会部の撲滅です。あまりに読売東京が検察ネタをすっぱ抜くことが多く、業を煮やした検察がガセネタを流し、情報源を特定しようと罠をかけました。それが『宇都宮徳馬代議士、買春業者からワイロ受け取る』の報。偽情報に読売の社会部記者が引っかかったという訳。宇都宮さんは名誉毀損で告訴、記者は逮捕。社会面トップに取り消し記事が載り、社会部は完敗します。社会部長以下が処分を受け、記者は懲戒休職に。

事件中ナベツネが宇都宮代議士宅に出入りしていたことが露見し、ナベツネが社会部を陥れたと怨みを買います。社として、この対策上ナベツネをワシントン支局長に飛ばします。その後、ナベツネは読売新聞を朝日・毎日を凌駕する上質紙にするため『差別と戦争は品位を落とす』と社会面記事の刷新を図ります。大阪読売黒田デスクの提案で『窓』『戦争』の読者交流コラムを設置し、自らも筆を取った坂田元大阪読売社会部長も、東京読売の動きに節を曲げ、社長の立場から黒田社会部長を左遷。黒田はそんな読売に見切りをつけ、退社しフリージャーナリストとなります。黒田に共鳴していた大谷昭宏も同道。黒田はその後癌で死没、大谷はその意志を引き継ぎ、今もコラムやJステーションでの解説者として活躍しています。

黒田と大谷が退社したのは、ナベツネが東京読売の副社長になった62年1月でした。ナベツネの意を忖度した、大阪読売の坂田社長が、自らも賛成しスタートした『窓』『戦争』の旗を降ろし、黒田、大谷を切ったのです。恐ろしきメディアの内部抗争。ナベツネは『私の履歴書』の中で、『黒田が退社した裏には私の意向があったなどと言う人物が現れたが、当時は読売新聞社がグループ本社制をとる前で大阪本社は資本、人事とも独立した別会社だった。私が人事に介入する余地などはない。彼の退社の真相を知ったのは、かなり時間のたってのことだった。ただ私は其れを明らかにする立場にない』と逃げています。実態は、ナベツネの意を忖度した坂田大阪読売社長の一人舞台だったのでしょうが、それにしてもこの坂田、男ではないねえ。旗印を右左に使い分け、社内人事を乗り切った典型的サラリーマンであり、ジャーナリストの魂のかけらも持っていない、と断言出来ます。

★ナベツネは、宇都宮徳馬事件の時の行動を、日経『私の履歴書』でこう弁解しています。

宇都宮さんとは東大新人会のころからつきあいがあり、私達夫婦の媒酌人でもあった。彼の名前が新聞で報じられた直後から『あんな金持ちが業者からはした金をもらうはずがない』と思っていたし、人柄からしても汚職とは無縁のはずだった。私は事件の最中、何度か宇都宮さんを自宅に訪ねて話を聞いた。もちろん彼は無実を訴える。私は信じた。

ところが組織の誇りと自信を失うかどうかの瀬戸際に立たされて焦る社会部にとっては、私が宇都宮さんと組んで裏で何かやっているように映ったのだろう。彼らは私に対する憎悪さえ隠さなくなった。会社ですれ違った、担当記者は『渡邊、貴様殺してやる』と凄んだが、私に恨まれる理由は何もなかった。しかしこの事件以来、社会部は何かにつけて私を目の敵にするようになった。その決着がつくまでには長い歳月を要した。

『私の履歴書』では、穏やかな筆の運びが目につきます。が、ナベツネは読売の牽引車は政治部であり、社会部など鈍くさい連中に社のリーダーシップが採れるとは思っていませんでした。そして次々と社会部の主軸を左遷させ、ナベツネ一家の隆盛に突き進むのです。(魚住昭著『渡邊恒雄―メディアと権力と』)

★面白いのは、プロ野球選手会との抗争で、ナベツネは古田選手会会長がオーナー会議との会談を要望していることに対し、『たかが選手が』と失言。その後に、『いい選手もいるが』、と付け加えましたが、報道は『たかが選手が』が一人歩き。この記事は完全なはめ込みで、朝日系のスポニチの記者にやられた、と後悔しています。取材の秘訣は、相手が一番油断している時にインタビューする、とは私が親しくしていた記者の話です。この場合、新宿のホテルの会合で、いっぱい機嫌で出てきたナベツネに、朝日系列のスポニチの記者が取材したものです。本心が出ていますねえ。

★ナベツネが社長の座を意識したのは、論説委員長に就任した1980年頃と、私の履歴書には書いています。が、魚住昭著『メディアと権力』の取材では、入社当時、親友と東京新聞、読売新聞を同時に受け、2人とも合格。ゼミの教授が、読売なんてボロ会社、いくなら東京、との発言に親友が先に手を挙げ、ナベツネが読売になったと。そして、朝毎を受けなかったのは、トップになるとしたら、三流の読売の方が階段が少ないからと述べています。入社時からトップを目指していたことに間違いはなく、私の履歴書での記述は、ナベツネの野望をオブラートに包むものでしかありません。

★それでも、ナベツネは我が家族について、あとがきでこう述べて、父親らしい、夫らしい人間ナベツネの側面を見せています。『私は今、病妻と一人息子夫婦、孫娘一人に囲まれ、夢に見た三世代同居の幸福に満たされている。認知症という病の妻篤子の病状は、徐々に好転している。先日も突然、「藤十郎の恋」のあらすじをしゃべって驚かされた。発病の前にもっと可愛がり、観光や芝居見物をさせてやったりしておけば良かった。それでも、今となっては篤子がいるから我が家は天国だ』。

★大正12年に読売新聞を10万円で買い取り、当時5万部だった発行部数を終戦時には200万部に持っていた、正力松太郎とナベツネを比べるとその器の違いが大きくわかります。正力はありとあらゆるアイディアを紙面に織り込む一方、巨人軍を作り、日本に初めてプロ野球を導入するなどの天才的なプロモーターぶりを遺憾なく発揮しました。また正力は『赤いネコでも白いネコでもネズミをとるのはいいネコ』と、共産党出身の記者たちを死ぬまで使い切りました。が、ナベツネは、左翼的記者の粛清の粛清に血道をあげ、自己の栄達を達成しようとしてきたチープで寒々しい軌跡しか残っていません。ナベツネには人を辟易させ、軽蔑心を内心起こさせる卑小な悪党の臭いはあっても、正力のようにあえて人々の憎悪の標準に我が身をさらしながら、最後はその人々さえ魅了してしまう巨悪の底光りはありません。所詮小悪党なんでしょうねえ。

★敏腕社会部記者本田靖春(後退社)のナベツネ評。『僕はその頃、僕らの不幸は最も優秀な経営者をボスとしていただいていることだと、いつも思っていた。正力さんは天才的事業家だけど新聞をチラシ広告と同じくりにしか考えていなかった。務台さんも「販売の神様」であってジャーナリストじゃない。その後を受けた渡邊さんもジャーナリストと言うより政界の人間ですよね。だから読売でジャーナリストであろうとすると、必ず上とぶつかることになった』。まさに読売新聞の体質を簡潔に表現しています。

★今日の画像は、立山の美人花たち気任后’鮨Д織謄筌泪螢鵐疋Α↓▲潺筌泪螢鵐疋Α↓ウサギギク、ぅ灰丱ぅ吋愁Δ侶伽検並臚戞法↓ゥぅ錺張瓮サ、Ε魯サンイチゲ、Д乾璽鵐織船丱福↓┘ぅ錺ぅ船腑Α↓ニッコウキスゲ、ミヤマキンバイ。白色のタテヤマリンドウに会えたのが一番嬉しかったです。O(^-^)o

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