歴史ドラマの勉強で、書き出す前も書き出してからも、あちこちに取材に出かけた。その中で、もっとも印象的に残ったのは安土城址と、近江八幡の町である。近江八幡を商業都市として作り上げたのは、豊臣秀次である。
子供がいなかった秀吉により、秀吉の姉の子であった秀次は、豊臣の跡継ぎとして育てられ、あちこちに人質に出された後、わずか18歳にして近江43万石の領主に。秀次は『摂政関白』をもじって『殺生関白』と言われ、刀の切れ味を試すために、罪なき人を殺したとか、身の程知らずな地位を得て有頂天になり、極悪非道な行いをして秀吉に嫌われたという説もあるが、近江八幡の整然とした町並みを見た私は、この治世はバカ殿に出来ることではないと、心の底から思った。
秀次はもともと百姓の倅であり、武闘派というより文学派であったらしい。源氏物語の写本をさせたりもしているのだから、戦いに適した町よりも、商業都市として近江八幡を発展させようと考えたのではなかろうか。本能寺の変の後、さびれ始めた安土城下から有力な商人を集め、琵琶湖を往来する商船を寄港させるため、全長6舛留寝呂鮑遒辰討い襦この運河を見れば、秀次が頭のいい殿様であったことは、否めない。
今はもう八幡城はないが、石垣が残っており、ロープウェイで城跡まで上がることが出来る。琵琶湖と城下が一望出来るこの城跡に立つと、ここに城を築いて希望に燃えていたであろう秀次の気持ちが分かるような気がした。それにしても、昔の土木技術は凄い。あちこちに残る城の石垣ひとつを見ても、何百年を経てもビクともしない石の積み方、その角度は、ピラミッドと同じような計算の上になりたっている。
秀次の土木事業も経済政策も見事だが、八幡城が出来てわずか数年で、秀次は秀吉により、切腹させられている。茶々の産んだ子が、本当に秀吉の種であったかどうかは分からないが、年老いてから、娘のような女に、孫のような子を産ませて有頂天になった秀吉にとって、秀次は邪魔な存在になってゆく。
近江八幡を取材で訪れてから、私は自分の描くドラマでは、秀次を優秀な殿様として描きたいと思った。秀吉に認められたいがためにも必死で働き、それが故に排訴された悲劇の人として描きたいと思った。八幡の町を歩けば、きっと誰もが分かるだろう。秀次の優秀さと悲運の訳が。
(参考:大石静著『ニッポンの横顔』 中央公論社刊)
大石さんが書き残したように、私もこの安土城址と近江八幡はとても好きです。安土城址の大手門からの登城道を歩くと、この道を信長も秀吉も、家康も歩いたのかと感動を覚えます。そして水郷の名にふさわしい、運河のそばに続く八幡堀を歩くと、いにしえの秀次の思いが伝わってくるようです。そういえば、メンソレータムの『近江兄弟社』もこの地にありますね。(^.*)
★ザック・ジャパン、コンフェデレイションカップ、残念ながら決勝トーナメント進出はなりませんでしたね。2試合目のイタリア戦。出足は好調で2-0とリードしたものの、ミスを連発で逆転され、一時は同点としたものの、3-4で敗退。まあ、こうミスを連発すると勝てる試合も勝てませんよねえ。W杯予選終盤から、調子が悪かったザック・ジャパン。どうやってまき直すか。本田だのみからどう脱却するか。課題は沢山あります。
これに比べ、ブラジル、絶好調。2戦目のメキシコ戦も2-0で完勝。特にスピードとテクニックのあるFWネイマールの活躍が素晴らしいですねえ。2点ともネイマールがらみ。さらに2ゴールありましたが、これはオフサイド。プレーのスピード感が日本の倍くらいの早さ。見事としか言いようがありません。
★今日、広島地方はなんと『洪水注意報』。最近目にしたことのない予報です。だって、広島市はこの40年くらい洪水に遭ったことがないのです。太田川放水路が出来てから、市内の川の流れに余裕が出来て、大雨の時にはこの放水路に水を流しますので、他の5つの川が洪水の危険になることはないのですね。それでも気象台は洪水注意報を。ある一定以上の降雨の時出すのでしょうが、恐れ入りました、『洪水注意報』です。この雨で水不足が後退しますので、それはそれでいいのですがねえ。(^.*)
■今日の画像は、三重県伊勢市での『幕末に起きた民衆騒動「ええじゃないか」を再現する「式年遷宮でええじゃないか豊橋!大行脚」』と、『ミニバラ』『シロヤマブキ』です。『ええじゃないか』は、幕末の騒然とした世の中で忽然と勃発した民衆運動のようですが、いいですねえ、言葉の響きが。(^.^)
(昨日のアップからのアクセス件数は、897件で、過去最高874件を抜きました。過去の
最高記録は、昨年11月23日の『ホンダ小型ジェット、いよいよ来年デビュー』でした)